おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

金属の依存は国防を危うくする

2007年10月31日 23時41分31秒 | 外務
ただっぴろい部屋で暖房をつけると、ほとんどきかない。
きかせるためには、大容量での暖房が必要になるが、限りなくただっぴろい場合は、その暖房では対応できない場合がある。

この対策としては、一つ一つを仕切り、それぞれに暖房装置をつける・・・これが大容量の暖房を全体にひとつ作るよりは効率のいい方法ではなかろうか。

世界がグローバルになってくると、こうした対策が必要だと思う。

これら一つ一つの仕切り内では、それぞれの自給自足が図られると、他の場所からの侵略、自然からの災害に備えられる。

最も自給自足が可能な組織、それは軍隊であり、日本では自衛隊である。彼らは隊員の食糧・栄養を管理できる。火をおこし水をひける、建築物を仮設できる、衣服も自分で修理する・・・などなど。

このようなサバイバルというのは、キャンプなどを経験すると身に付く。こうしたものは防災用品の使用と密接にかかわっている。

ところが、日本の安全保障は食料とエネルギーを自給することについて完全に無視しているといっていい。これが国家の安全保障の最も重要なポイントであるのに、さきに紹介した中川昭一元自民党政調会長なども「エネルギーは他国に頼る」としている。舛添要一厚生労働大臣なども同じ意見だ。だから国際社会の中で物事を逆らってはならない。日本の個性を出してはならない。大国の意思決定に異論を挟まず、へえこらと自衛隊を海外に送り出すことになる。自国の防衛をせずに、米国の言うなりに動くことが国際社会では自国の間接的防衛だなどと大きな勘違いをしている。これが日本を滅亡に導くことになろう。

「金さえ払えば自然万物はすべて調達できる」ただし、自然万物は他国から調達する。だからイラクにでも、アフガニスタンにでも自衛隊を派遣して媚を売っておけというものだ。日本は国際金融上強くなることが求められる。毎年経済成長を続けなければならない。株の世界に没頭し、いつ襲いかかるかわからない火の粉を避け、他国に負けてはならない。ここでの価値観とは、数字上のお金だけである。こうして、モノのありがたさを忘れ、自然の恵みを忘れていくことになる。自然を克服する精神も忘れられ、形式的な「国際貢献」こそが武勇と勘違いした人々を生み出す。これは守銭奴に屈服した不名誉なことをしている愚かなニセ武士道だ。

日本で石油の輸入が中断された場合、約二年ほどのストックはあるとのことだが、その後はどうするのかについて考えられていないのではないか。

食料が完全自給できない、エネルギーは完全自給できない・・・と、考えるのは、現代の西洋近代を常識とした価値観から物事を考えるとそのように結論づけられるのであって、サバイバル状況下では、そのような規定の価値観を一気に頭からはずして、生き残るための知恵を振り絞ることになる。

海外に輸入されるものに依存してしまう社会は、危機管理上、きわめて不利な状況に追い込まれる。石油もそうだが金属資源においてもそうだ。

江戸時代以前にも金属は使用されている。武士なら刀剣、女性ならかんざし、鍋など。いろいろと思いだしてみると、熱に対応するものや刃物として用いるものが多い。

ところが現代では、耐久性などの観点から安易に金属を使おうとする傾向が多いのではなかろうか。木材などでも利用可能なものが金属資源に依存している。金属はさびて使えなくなるが、木材は廃棄になれば土に戻すことができる。この点から考えて、もっと金属はここぞというところで活用すべきであり、安易に使うのは国際金融上、日本が力を持ってきたからで、サバイバル状況下では危機管理対策として考えておかなければならない点ではなかろうか。

戦時中は鍋でもやかんでも、金属類はすべて戦争に使うように国民は協力した。こんにちでは金属のリサイクルなど金にはならなくなったが、中国の経済発展により、町中の鉄柱などを盗んで売るという犯罪も多発してきた。現在、日本国内にある金属は、他国から運ばれてきたものばかりで、今後これらの金属は日本の資源として使いまわす必要がある。

金属を溶接するときにふと思ったのは、大坂家の血筋のこと。
私から六代前までは会津藩の武士であったそうだが、明治維新から皆、農家を経て大工になっている。太平洋戦争に出兵した私の祖父の代から溶接工になった。戦時中は飛行機の技師であり、戦後は金属工場での労働者。ただしいまだ健在の祖父の兄貴の家系はいまだに木材加工の大工である。

あとはパレートの法則にしたがい、東京で商業に携わっている。
まさに士農工商をワンランクずつ階段を下っている。

現代社会では工業イコール金属みたいなところがある。さきごろ東金市図書館で中学校の教科書が並べられているのをみた。「技術・家庭」の技術の教科書を見てみると、ほとんど木材加工についての知識習得ばかりで、技術実践がないように感じた。自分が中学生の時は、木材加工で本棚や折り畳み椅子をつくり、金属加工をやって、機械でエンジンの仕組みを知り、電気でラジオをつくり、そして栽培をやったと記憶している。

ところが、現代の技術科は、インターネットの部分が大きくなったり、産業社会全体の技術を見渡しているための学問となってしまっているようで、教育現場はどうなっているのかは知らないが、実践が少なくなっているのではなかろうかと思った。

その場に身近にある天然資源は木材であり、竹である。金属は必要なものではあるが、あまりこれに頼るといざというときに使えない技術になるのではないかと・・・金曜日の朝に金属のことを考えた。

平和の絵本より!「優しい巨人」

2007年10月21日 22時35分55秒 | 外務
紙芝居のように見れますので是非ご覧になって下さい。
http://www.j15.org/Picturebook-Giant/index.html

テロとの戦い?テロリストとは誰なのか?誰もが成りえる存在です。

爆破テロ?誰がやったの?アルカイダ?誰が決めたの?・・・・・・

空爆で一般市民を巻き込むことが平和への道?絶対に違うでしょう。

この絵本のラストシーン「怒っている人は悪人ではない」そうですよね?

人は誰でも怒るんです。


2008年アメリカ大統領立候補者 ロン・ポール

テロとの戦いが間違えであったこと、連邦準備制度の廃止などを訴えています。
http://video.google.com/videoplay?docid=1094521977173934414&hl=en
 

ミャンマーの僧侶も、市民デモも、また同じ。


作業着と政治家

2007年10月13日 04時07分43秒 | 内閣
東国原英夫宮崎県知事は作業着を着ているのでそれが評判ですが、もともとは石原慎太郎東京都知事が毎週金曜日に作業着を着ていたのを真似たのだと思います。また、こういう服を着ることによって現場の気持ちがわかるかのように装うのには最適かも知れません。

私は16歳の時に建築現場の仕事で、なんかのはずみで設計技師の人の作業着を汚してしまったことがありました。彼は怒り心頭でした。まあ、この人の場合は特別なんでしょうけど、たいして汚してもいないんですが、一張羅を汚されたくらい怒っていました。

設計だとか、監督だとかに携わる人は、一応作業着を着ているが、ドロ仕事に直接たずさわらないわけで、ブルーカラーを装ったホワイトカラーなんだと思いました。

汚さない作業着など着てカッコつけるくらいならばスーツを着ていたっていいじゃないかと思うわけです。

政治家が自分の選挙用のパンフレットのために、作業着を着て現場を視察とかよくやっていますね。全く写真用です。その撮影現場とかにも政治家のスタッフとして見たことありますけど、ほとんどの政治家は現場なんてみていない。そこを見たということを有権者に見てほしい・・・というためにやっているのがほとんど。全くアホくさくてしょうがない。撮影したところは見たことないけど、内情はよくわかっていますが、とくに今、参議院東京選挙区でやっている民主党の人。あなたです。

逆に、作業着を汚すような現場からたたきあがって政治家になった人。最も有名なのは田中角栄でしょう。近年では、練馬のY田K一元衆議院議員とか、自殺した大田区の新井将敬氏とかですね。こういう人たちはたたきあがって、金銭面や利権の面でいろいろと国民にとって不都合なことをします。現代ではこういう政治家自体が悪いのではなくて、お金の仕組み自体にその原因があるのだと思いますが、いずれにしても、よかあないでしょう。

そんな中、汚す作業着を着た政治家を見つけました。利権にも関係ありません。

それはキューバの革命家チェ・ゲバラです。現職の閣僚時代に休日に農作業と道路工事などの各種公共事業で仕事をしています。平日は政治家として、工業大臣(共産国家なので大臣とは言いませんが)、国立銀行総裁をつとめ、土日は社会主義国家としての生産性向上のために工場などで労働に従事しています。

そもそもは労働意欲が低い国家であるために働きだしたと思いますが、社会主義国家で労働意欲を高めるのは至難の業でしょう。したがって彼の労力はその効果を発揮したとは言えませんが、その肉体をもって示した政治家であるともいえましょう。

自然主義経済からすれば、この社会主義経済は資本主義と同様に生産性を高めなければならず、工業中心の経済のため過酷な生産労働が必要となります。だから、このこと自体、自然主義経済は否定するのですが、彼のなしたことは評価に値すると思います。

彼はそもそもカストロ議長とともに武力闘争で革命を成功させた人物です。したがって机に座っていることに向いていないのでしょう。また、ソ連に刃向ったことによって、キューバを追われ、また他国へ行ってゲリラ活動を続け、やがて処刑されます。

真に社会主義国家建設を目指すのであれば、ソビエト連邦への服従に対して反抗するというのは、最もな論理ですが、それをすぐに行動に移してしまった。だから失脚することになったと思います。今にしてみれば、キューバの上にはソ連など存在せず、うまいことやっていけてますから、時間の問題だったのにとも思います。

このように上で支配している大権力者の悪に対して逆らい、失脚した経験を二度、三度、私も政治活動の中でも、企業活動の中でもやっていますから、非常に気持ちはよくわかります。

えーとなんの話だったか。作業着の話ですね。まあそんなわけです。そのまんま東と石原慎太郎は作業着を着るなということです。着るなら現場で働けと。
でも、こんな人に手伝ってもらっても、かえって足手まといかも。政務に専念してくださいませ。

なぜ作業着の話を思い出したかというと、石原都知事が作業着を着ているから。

なぜ石原都知事を思い出したかというと、今朝の夢に出てきた。



スターウォーズに出てくるこいつ。名前なんというのか知らないが、この2名がヘリコプターに乗って、石原都知事を拉致っていき、殺すというもの。そんときはスーツだったような気がする。

ありえる話だ。

八年前は石原慎太郎知事推薦で私は立候補させていただきましたが、このような夢を見てしまいました。ご勘弁を。

戦後レジームとはなにか

2007年10月13日 04時04分00秒 | 法務
安倍前首相の言う戦後レジーム体制からの脱却というのは、おおまかにいって戦前レジームにすべしということでしょう。

私からすると、そのこと自体が戦後レジームだと思います。
すなわち、右翼と左翼が口汚くののしりあう、つねに決まったパターン。同じ内容で戦後60年以上、同じ議論をしていることがまさしく戦後レジームだと思います。

彼らの討論はまさにどうどうめぐりであり、何の進歩発展も生み出さない。これら旧式の議論に対して、圧倒的多数の国民は関心を示していないでしょう。関心を示すのは、これらに興味を持って学んでいる人のみです。

この対立に対して中道をとれ・・・というのが私の意見ではありません。

もっと根本的なところに目を向けるべきというのが私の意見です。

たとえば、国民の中では数少ない・・少数派ですが、安倍内閣を支持している人がたがある。

彼らは「安倍内閣は憲法改正、教育基本法改正などで一定の道筋をつけた」として評価しています。

憲法は改正されずにこのままずるずるとひきずると思います。もしも改憲されるとしたならば、それは民主党政権の時でしょう。自民党が野党になったとき、自民党は議案に対しての賛成体質が身についているために憲法改正が発議される可能性があります。これは細川政権のときもそうですし、全国の自治体で自民党が野党になっているところの事例をみれば、自民党は野党であっても責任を持とうとするために、このようなことが予想されます。

次に教育基本法の改正ですが、これがいったい何になったのでしょうか。各法が改正されても、いまだ問題教師は増加傾向にあります。法律という制度ばかりを安倍政権では議論し、実態に即していないために、絵にかいた餅になることでしょう。

なぜ問題教師は、このような法改正後も多発するのかといえば、人間の質が変わってきているからです。戦前のように尊敬される教師を法制度で作ろうと思っても、安倍政権を支えてきた典型的な旧来右派の枠組みでは、それまで支配してきた旧来左派・日教組に対してのアンチテーゼがメインパワーとなっているために、たんなる恨み返しでしかない。だから堂々巡りが法改正で実践されているだけで左右両派の応酬合戦でしかなく、国民生活からは大きくかけ離れています。こうして日の丸・君が代をめぐっても、歌わないだの、掲揚しろだのともめ事がおきます。

教師の質、人間の質が変わってきている。これは、社会が精神的な向上よりも、物質的な部分に目がいくようになったからだと思います。形だけ変えても誰もついていかないでしょう。

経済優先社会となって、精神よりも物質に目がいくようになった。わいせつ教師などが増えるのは、生徒を精神的な人間として見ないで、肉体的な物質としてみるようになったからです。それには児童生徒の生育が早くなったというものもあるかもしれないが、それは二次的なものであると思います。どのような状況だろうと、物質に目が向いていく社会をこれまでに作ってきたからです。

それは拝金社会が作り出した世の中です。だから、当然に援交をして何が悪いと思う子供が出てくるでしょう。

教員免許の更新制度を作ることや、もろもろの諸制度改革では何も変わりません。社会が新たなる価値観をもって、方向性を示さない限り無理です。その方向性とは、経済成長であると、今まで通りの価値観を示してきたのが自民党政権であり、それにとってかわろうとする民主党政権でしょう。ここにはなんの解決策もないのです。というよりも不可能です。

それから地域のコミュニティが希薄となっているのも挙げられます。これは都市ばかりでなく郊外や農村地域でも表れている。全国一色の店舗、全国一色の風景、全国一色の情報、こうしたものに起因しています。

お金というものは北海道から沖縄まで全国共通で、この力というものが日本全体を支配しています。これは今に始まったことではないが、この資本主義が最大に猛威をふるっているのが現代です。ありもしない架空の富によって社会構造が変わってきている。これが原因であり、これが社会から心をなくさせた結果なのです。そしてこれが戦後レジームです。

自然主義経済によって、地域のコミュニティが復活します。今まではすべてが職業化されていたが、これが地域化に変わります。教育は教師がするものというのは、専門職化が原因です。そのため地域での監視がなくなります。みなが地元ではなく都市部へ行って企業で働きます。会社と自宅の往復となる。このため、地域のことがわからなくなり、関心がなくなります。ここから、すべてがお金で解決できるということが始まります。

「ボランティア」などとわざわざ言うようになったのは昨今です。これはあきらかに、そうしたものがなくなったから使われるようになった言葉です。

消防団員というものも減少傾向にある。そもそもは職業としての消防署よりも、消防団のほうが主流だったはずであり、もっと昔をいえば、警察も民間でやっていた。これをすべて税金で解決しようとするようになった。こうしたところに教育問題の源が隠されているのです。

ただ資本主義のまま、地域コミュニティを活性化させたり、地方を潤わせようと思っても、利権政治や、談合、汚職、官官接待などが生まれるだけであり、逆効果です。なぜならば、お金はいつでもモノよりも強いからです。そこで必要なのが自然主義経済といえるでしょう。これこそが真の戦後レジームからの脱却だと思います。

ゴア氏のノーベル平和賞に疑問を持つ

2007年10月13日 04時03分03秒 | 財務金融
ノーベル平和賞はゴア元米副大統領がとったとのことで、はたして、それでいいのかなとも思います。

ゴア氏のしたことは、地球環境問題を指摘し、それを世界の人々に感化させたということですが、明確な問題解決にはつながっていません。

地球温暖化などの問題は、経済システムが大いに関係しており、この構造の大転換を政策として作り出したならば、それはノーベル賞をとってもいいと思いますが、ゴア氏のしたことはまさしく地球にとって不都合なことを述べたにすぎない。対策について提示はしているものの、それは画期的なものとは言えないでしょう。

自然主義経済を地球の人々が知ることを願います。

軍事から生まれた技術開発

2007年10月13日 04時02分17秒 | 外務
このような意見があります。

ミサイル防衛計画は、その推進にも維持にも莫大な費用が必要である。しかし、それに見合った迎撃効果が得られるか疑わしく、ミサイル防衛における最大の問題でもある100%の撃墜率の達成は、極端に難しい。反面、ミサイル防衛をすり抜けるような核ミサイルを開発することもまた容易である。したがって、このような計画はコストパフォーマンスに見合わず、他の防衛手段を模索するべきである。

・・・と。

軍事のコストパフォーマンスとはなんなのか。
軍事はすべて経済的には非生産活動であり、消費のみの国策です。
これによって直接生産を作り出すことはない。

軍隊を所持している時点で、経済的なものなど考えていないというのが実情のはず。

であるのならば、この指摘は全く間違っているといえます。

では次に撃墜率ですが、いかなる科学技術においても、当初から100パーセント達成することなどは無理であり、これらは段階を経て着実に進むものであるとも考えられます。

MDをすりぬけるようなものが開発されたならば、さらにそれをすり抜けることを開発していくのが技術競争です。現に迎撃率は向上してきています。

軍事は経済的非生産活動であると述べましたが、このインターネットにしても、ミサイルから発案されたロケット・人工衛星にしても、すべて軍事開発から生まれています。

同じようにモータースポーツでの技術競争も、その時点ではなんの経済的貢献もなされていないが、数年経つと市販の自動車にも応用することは日常茶飯事であり、長期的な視点に立てば役に立っているとも思えます。

とくに戦争をやめるためには、こうしたコストは必要不可欠でしょう。そのコストを避けたいというのであれば、戦争の本質的問題である「富の蓄積」について、自然主義経済でメスを入れなければなりません。

話がバラバラ・・・でもそれでいい

2007年10月08日 17時32分37秒 | Weblog
北方領土というのは、衆議院北海道7区に含まれるのだそうだ。日本漁船がロシア国境警備艇に銃撃され乗組員1人が死亡したことを受け、麻生太郎外務大臣は、ロシアのガルージン駐日臨時代理大使に「到底容認できない」と強く抗議した。北方領土は、その歴史的経緯から考えても日本国の領土である。尖閣諸島もまた、日本国の領土である。これがあるからこそ、国際紛争の要因にもなっている。

こういう事件がおきてくると、国境とはいったいなんなのかということをいつも考えさせられる。北方領土も尖閣諸島も、近代以前・明治維新前から日本人が住んでいるということで国際常識の面からすると、日本の領土といえる。樺太、朝鮮半島、台湾が日本の領土であったのは、戦争で勝ち進んできたからであり、第二次世界大戦に敗北した日本は、それを返還した。しかしながら、台湾に関しては、清国がいらないといったから日本が得たということもある。

では、北海道はどうか。江戸時代に蝦夷地が開拓されるが、それまではアイヌ民族の領土といってよい。
では、そのアイヌの人々はどうしているかというと、今では少数民族になっている。北米大陸はヨーロッパ人が侵略してできたのが、アメリカ合衆国である。ここでのインディアンはアイヌ人と同じ立場である。つまりは北海道自体が日本ではないということも言えなくもない。

また、一説によると縄文時代以前までにさかのぼっていくと、日本列島は北から南までアイヌ人が住んでいたが、中国大陸・朝鮮半島からやってきた人々に、北へ追いやられたというのもある。
人類の歴史から見ると、現代の領土紛争・領海紛争は、近代国家という歴史的な一瞬の正当性で考えすぎている。

北方領土の場合は、日本人が住んでいたから、故郷としての思い入れもある。竹島の場合は、とても住めるような環境にはないが、それでも国土として主張しなくてはならないということになるのは、領海の問題だ。すなわち、魚をとるという利権である。尖閣諸島の場合は石油資源である。人間はこうした経済的な問題に束縛を受けるのである。

戦争の要因は、宗教の場合を除いて、経済的なものにある。ここにメスを入れずして、反戦や反核を叫んでみても何の意味もなさない。では、ここでなぜそんなに多くの魚をとらなければならないかということを考えなければならない。ここに泳いでいる魚は、自分が日本の領海にいるかロシアの領海にいるかなどと考えているわけではない。自然は人為にまさるのである。だが、人間は今までの決められたことに縛られる。その漁師さんは、魚を腹いっぱい食べたくてわざわざ遠くまで船を出しているわけではない。その魚介類を売って、日本銀行券を得る事によって生活を安定させたいのである。

現代は飽食の時代。大量に残飯が排出され、それを処理するのにもお金を必要とし、廃棄物処理の産業が成り立ち、それがまた循環する。

つまり、世の中はお金を循環させる事が目的となっている。そのための環境破壊もいとわないし、国際紛争がおきようとも、お金がなければ生きていけないというただそれだけのことから始まっている。
平和党は戦争をなくすために、武力の放棄を提唱しない。
お金の放棄を提唱する。

そこで実現すべきが自然主義経済なのである。自然主義経済実現後に、国家に武力が必要なのかどうか、はたまた国家そのものが必要なのかどうかを考えればよい。とにかく、現代の全ての政策課題はお金に起因している。

先週、青森・六ヶ所村の原発に反対する人々の映画会・パネルディスカッションがあり、それに参加したが、これも原子力という恐怖をいくら喧伝してもまったく意味はなく、お金のありかたに問題があり、経済的活動から始まってきている。ここにスポットをあてるべきである。

先月末は、山梨・山中湖で食料自給率を上げようというイベントにも参加した。だが、やっていることは、大量の残飯を出して赤字を出して、産業廃棄物をたくさん出しただけだ。これもまたお金に起因している。

お金というものは、蓄えていくと減らない。だがモノは減ったり腐ったりする。お金は政府以外は発行できないから、モノをたくさんとってきて早くお金に換えようとする。自然主義経済を行えば、遠方までいって漁獲量を無理に増やさなくても、経済生活が成り立つ。自然循環型社会を形成できるからである。これは江戸時代にモデルがある。

江戸は100~150万人の人口を有する世界最大の都市であった。当時、どの世界でも百万人都市をつくることができなかったのは、近代以前の都市は廃棄物によって汚染されるからせいぜい十万人程度である。江戸はそれができたのは、極めて精巧なリサイクルシステムができているからである。

中心過密部に政治機構、商人がいてその人々の糞尿が、売買され中心過密部の周縁である田畑に利用され、中心部は食糧自給がなされていた。また、不要なゴミはありえず、すべてが利潤となる経済活動にまわされた。川の水は山から下り、田畑に水を注ぎ、町の人はその水を飲み、下流では排水し、その排水は江戸(東京)湾に注ぐ。現代と違って、合成洗剤も有害な化学物質もないわけだから、東京湾の海水が富栄養化になるといっても、この時代の富栄養化は魚のえさになる。遠方の魚もみなえさを目当てに東京湾に集まってくる。だから東京湾でも鯨がとれたわけだ。その魚を江戸前としてみなが食べ、サイクルができていたのである。これを全国の各地に築いていく。これこそが平和の活動である。

現代人の価値観からすると文字がまずはあることが人間の進歩であると考えがちですが、もしかしてここに落とし穴があるかもしれません。

つまり別の方法で記録・伝達方法があったということも考えられます。我々は今の現代の尺度で古代を分析しようとするからわからないことがいっぱい出てくるということもおそらくあるでしょう。古代エジプトの科学技術が現代で解明できないのと同じように。

だから、これまでアイヌや琉球を馬鹿にしてきた発想というのは大いに間違っている可能性は非常に高いと思います。

http://blogs.yahoo.co.jp/sun3sin/46592981.html

この方の考えによりますれば、アイヌや琉球こそが、真の大和民族ではないかということです。

私は今の政治・経済は、「考えられる範囲内」でしか考えられていないから、どうにもならなくなってきているのだと思います。

どの人も口を開けば、政治評論というのはありきたりなことを言っていますね。だいたいみなまで聞かなくてもわかるようなことを延々と繰り返しています。

それで、なんであの記事をここに掲げたかというと、ここには今までにない発想があります。

例えば、今、宇宙からとんでもないデカい隕石が落ちてきて、現代文明が滅んだとします。地球環境問題で滅んだとしてでもいいです。とにかく世の中が「北斗の拳」みたいなこととなったとします。

それで何百年後か、何千年後かに文明がまた発達したと。

そのときには石油も使わずに飛行機を飛ばす事ができたとしましょう。例えば、地球の磁力を使ってとか。

そのときに現代文明で遺跡となってしまった飛行機を発見した人が、石油で空を飛ぶということ自体が、その未来人には全く理解できないでしょう。いったいこれはなんのために存在したものなのだろうと考えることもあります。

ましてその未来の時代に翼を持って飛ぶということ自体が存在しなければ、さらにわからなくなります。

我々はインターネットを使っていますが、こういう電子のものは、電力を通さねば見ることができませんね。だから未来において、違う方法でエネルギーを使っていたならば、これらの遺跡となるべき情報は消えていくでしょう。

だからアイヌや琉球の残された遺跡をみて、我々は今そのような判断をしているかもしれません。

そしてこれらの文化というものは低いものだと差別されて、消えてしまったものが多くあるはずです。

「じゃあ、オマエ、石油を使わない飛行機って何だ!翼がなくてどうやって飛ぶんだ」「地球の磁力をどうやって利用するんだ」とほとんどの人が言うでしょう。だからこういう人には発想力の限界があるのだと私は考えます。

「仮に」の話ができない人というのは、「北朝鮮が攻めてきたらどうするんだ」との質問に対しては、「いや、絶対にそんなことはない」で終わらせようとしてしまうのです。

これは未来の予測についてもそうだし、過去の分析についても同じです。

例えば私などは足元にも及ばないくらい奇抜な発想を持っている経営者がいます。私はその人のことを知っているのですが、政党に書かれると彼は嫌な事もあるだろうから名前は言いませんが、彼の企画というものは、私でも「わけのわからんことを言っているな」と思うわけです。しかし、その商売というのはあたるんです。

なぜかというと、彼自身がそれを絶対に実現可能だと思っているし、人の役に立つことになっているし、自然の摂理にもかなっていることだからです。その商売の方法というのを言いたいのですが、彼にとってはみんなにマネされると嫌がるだろうから言えませんが、とにかく「そんなもんは無理だろう」と誰もが思うようなことです。だからみんなやらないのです。とくに現実を知りすぎているとなおいっそうでしょう。

そして奇抜な発想をもって成功する人の共通性というのは、必ず打ち破るものの本質とは何かを熟知しているわけです。つまり、何が常識で、自分は今どのようなことでこの常識を打ち破ろうとしているのかを知っているわけです。

みんなに喜んでもらえる事というのが、既存のものではすでに出尽くしてしまって、もはや限界に達しているときには、こういうアイデアマンが活躍します。

しかし、みんな自分のことしか考えていない人が多いので、どうしてもありきたりな発想しか出てこない。こういう人というのは、常識を知りすぎていて、物事はできないと決めてかかる人です。それから、常識を知っているふりをしていて、実はまだほとんど把握できていない人からも生まれません。とくに、おごった人、自分はこれだけ勉強している。これだけいろいろなことを知っていると思っている人にはできません。

なぜなら人間がこの世の中で知ることのできるというのは、実に限定された小さな内容だけだからです。だからいくら大きな国際情勢を知っていても、そんなものは海岸の石ころ一つ程度にしかすぎないのです。

だからあの記事を読んで「何を馬鹿なことを!?」と思う人は多くいるでしょう。そう考えれば、そこで物事は終わります。あれは事実ではないかもしれないが、あれを事実だとして物事を考えてみると、生まれるものというのが多くあるのです。つまり、今後、人の世に役立つ事が。

ないと言い切ってしまえばそれで終わりだし、そんなことはテレビみながらでも誰でもが言えます。しかしそれでは何も生まれません。

私はこうしたことから物事は新たに発見されていくのだと思います。こいうふうに抽象的に聞いてみると、「ああ、そうだな。柔軟な考えが必要だな」と思う人は多いですが、いざ実際に具体的なものをみてみたりするとやはり首をかしげてしまう人が多いものです。でも、それを達成するための目的とはなんなのかをしっかり持っている場合は必ずできます。


革新右翼との対話

2007年10月08日 17時23分47秒 | 財務金融
226事件は統制派によるカウンタークーデターでした。処刑された北一輝と西田税は冤罪です。その真相は最近出版された『盗聴226事件』という本で明らかにされています。皇道派と北一輝は思想的には別物です。もしも皇道派が北一輝の思想を本当に理解していたならば、北一輝を殺していたかもしれません。何故ならば北一輝には尊皇精神がないからです。

右翼は天皇位に就く者に対して自分たちが望むような思想と態度を押し付けます。右翼を馬鹿にして自分は中道だと信じて疑わない人たちは天皇陛下の思想を自分と同化します。たまたま昭和天皇と今上天皇がリベラリストであったために、天皇陛下の思想と同化することが危険であると認識されてきませんでした。

例えば『昭和天皇は靖国神社にA級戦犯が合祀されていることに不快感を示されたのだから、右翼は靖国神社に参拝するべきではない。靖国神社に参拝することは不敬だ』というような思想は天皇という職種ではなく昭和天皇個人を神格化していることになります。昭和天皇がリベラリストだからそのことに気がつかないだけです。天皇機関説では天皇は機関であって個人ではないので、天皇は自由意志よりも国民が何を自分に対して望んでいるかを重んじなければなりません。

世論が右翼的であろうが左翼的であろうが、天皇は黙ってそれに従うのが天皇機関説です。天皇という位を神格化しているのが右翼で、天皇陛下個人を神格化しているのが中道派です。だから戦前の右翼が天皇機関説を唱えた美濃部達吉を攻撃したのは本末転倒でした。

これは天皇を政治的権威として扱うから生じる問題です。文化的権威としてのみ扱えば解決します。右翼は天皇をキングでありポープであると位置づけます。中道派はキングとしてのみ位置づけます、革新右翼の私はポープとしてのみ位置づけます。私に言わせれば江戸時代以前の日本では将軍がキングで天皇はポープでした。これを現代風にアレンジすれば神道の国教化と共和制への移行ということになります。ところがこの思想は日本では極右的であるとして馬鹿にされます。

中道派がいうところの皇室制度の偏狭さとはポープの部分です。彼らは皇室の欧州的なキング化を目標にしています。そして皇太子夫婦のそれを志向しています。だから彼らは相性がよいのです。もうじき王党派と彼らの間で深刻な対立が起きるでしょう。

2007/4/26(木) 午後 4:42 [ 蔵信芳樹 ]


右翼は自らの思想を押し付け、中道は陛下個人の思想を自分と同化しようとする。この場合、あなたはどちらを支持しますか。でもそうすると右翼は王であり教皇と位置付け、中道は王のみであるというのは説明は逆ではないですか。教皇は教えるというよりも文化の象徴的側面のほうが強いという意味ですかね。それから、キングとポープ、そしてさらに加えてエンペラーについての定義についてもお願いします。

2007/4/26(木) 午後 5:23 [ 大坂佳巨 ]

右翼が天皇陛下に思想を押し付けるのは天皇陛下がリベラリストだからです。もしも天皇陛下がナショナリストであったならば、右翼が天皇陛下に同調し、逆にリベラリストが天皇陛下に対して思想を押し付けようとするでしょう。したがって本質的には思想の押し付けか同調かという選択ではなく、ナショナリズムかリベラリズムかの選択です。私はナショナリズムを選びます。

キングは政治的権威、すなわち国家元首のことです。ポープは文化的権威のことで、宗教的権威はこの中に含まれます。エンペラーは絶対君主という意味ではなく、キングであり、なおかつポープでもあることです。

国家元首の定義は国家における最高責任者です。責任も権限もない現在の天皇を国家元首とするのは無理があります。天皇を国家元首にするには天皇に政治的権限を与えなければなりません。そしてもちろん責任を負わなければなりません。立憲君主制とは君主に一切の政治的権力を持たさないということではなく、法律で権限を規制することです。

日本国憲法は天皇の政治的地位をあいまいにしています。もしも実態に即した定義づけをするならばそれは名誉元首です。これは江戸時代以前どころか大日本帝国期においてもそうでしたし、現在もそうなのです。大日本帝国憲法には天皇は絶対君主として定義されていましたが、実際はそうではありませんでした。

では立憲君主制だったかといえば必ずしもそうではなかった。昭和天皇においてはそういう要素もあったけど、基本的にはほとんど名誉元首と言ってよいと思います。立憲君主制に基づくならば、天皇は第二次世界大戦の敗戦責任を取るべきです。何故ならば立憲君主国における国家元首は国王だからです。

私は天皇の政治的位置づけを明確にするべきだと主張しています。それはつまるところ名誉元首と規定せよということです。そうである以上、国家元首はどうするのかとなりますから、大統領が必要になってきます。そこで有名無実な象徴大統領制を導入すれば天皇の権威も保たれるでしょう。

2007/4/26(木) 午後 7:45 [ 蔵信芳樹 ]


私はポープはそのとおりだと思いますが、キングは軍人的権威、軍事力による成果の権威であると思います。政治的権威というのは、抽象的なものです。政治的権威は、こうした制覇した権威と、おっしゃられた文化的権威と、経済的権威とあると思います。エンペラーというのは、それらを超越的にとらえたものではないかと。 で、キングとエンペラーの違いというのは、その信頼されている年月だと思います。野蛮な行為によって権力を掌握し、それを子々孫々で維持していくと、そのうちにお坊ちゃま化するということです。

天皇を国家元首にするには天皇に政治的権限を与えなければいけないというのは、私はそう思いませんね。例えば、お父さんが働いて家にお金を入れて、みんながお父さんの言うことを聞くと。だけど、おじいちゃんが生きている場合、日本であるとやはり表札ではおじいちゃんが一番、上だし、お父さんは妻や子どもに対する扱い方とおじいちゃんに対しては違うでしょう。この場合、おじいちゃんは政治的権限はないけれども権威はあります。これが天皇であってもいいと思います。


それに国家元首というのも、西洋こそが普通の国という発想から基づいています。だから西洋の連合国が国家元首と考えている人たちに、わが国の元首はこの方です・・・というのは、いいけれども、わが国においては天皇は独自のものがあると言ったっていいと思います。国際社会にあわせていかねばならないという意識からこういうものが生まれたのだと思います。国際社会をしらない封建時代までは、そんなこと考えていなかったわけですから。だから元首に政治的権限はなくてもいいと思います。

現在の天皇の政治的権限とは衆議院の解散とか、法律の公布とか、形式的なものがありますよね。天皇の歴史というのは、鎌倉時代からほぼずっとそういうものに近いと思いますよ。


タイでクーデターがありましたよね。あれは王様の権威が働いたと思います。つまり、国王に政治的権限が通常時に備わっていたら非常事態に機能しなくなる可能性があります。あのとき、非常事態であったから国王が首相を任命したのです。それはふだんから国王が文化的に認められていたからできたことです。したがって選挙がなくても国民は合意しやすい。憲法がなくても、このように機能するわけです。憲法は紙切れだからモノを申しません。

所詮、憲法を解釈するのは人間であります。9条を守りながら世界征服のための侵略戦争をすることは人間の屁理屈の都合でいくらでもできます。だからその人の都合でいかようにもとれます。でも天皇という政治的権限が少なくて、でも偉い・・・と普段から常設されている場合には、タイクーデターのようにうまくいくと思います。

だから平和党は天皇を名誉元首として位置付けよと言っているわけです。これは国外向けのためと私は認識しています。そして天皇と大統領が並立しているのはおかしいと誰もが考えるわけですが、王国と共和国のどちらかでなければいけないというのは、神様が決めたわけじゃないですから、別にあってもいいと思います。ただそうすると、フランスやドイツのように、大統領の下に首相がいるのかとか、アメリカのように大統領が首相も兼ねているような行政とするのかとかありますけどね。それについてはどちらがいいと思いますか。

2007/4/27(金) 午前 1:32 [ 大坂佳巨 ]


ドイツやイタリアのような象徴大統領制か、内閣総理大臣を役割はそのままで、大統領に改称するか。議院内閣制のほうが日本人の国民性にはあっていると思います。大統領を国民投票で選ぶとなると右か左かの選択になりますから平和党的にはよろしくないのでしょ?

2007/4/29(日) 午後 8:26 [ 蔵信芳樹 ]

日本には天皇がいるのに、独伊のような象徴大統領制度はいらないでしょう。独伊は戦後の反省からこのような方法をとっているのだと思います。大臣というのは、王様に仕えるという意味ですから、大統領制度にするならば当然、国民の直接投票によるのが望ましいでしょう。平和党は国家の重大案件は国民投票にして諮るべしとしています。

2007/4/30(月) 午前 3:07 [ 大坂佳巨 ]




それでは名誉元首ではなくて国家元首ではないですか?天皇陛下が名誉元首だとすると、国家元首は誰になりますか?総選挙に全国区を設けてれば事実上の首相公選制になります。

2007/4/30(月) 午後 3:44 [ 蔵信芳樹 ]


名誉元首が天皇で国家元首が大統領でいいんじゃないですか。総選挙を全国区でやってトップ当選した人が大統領もしくは首相公選で選ばれた内閣総理大臣ということですか。そういえば、誰だったか「市議会議員選挙でトップ当選した候補者が議長になるんだ」とかわけわからんこと言っていた人がいたなあ。

2007/5/1(火) 午前 6:57 [ 大坂佳巨 ]


ただそれだと、例えば得票数一位は小泉純一郎なんだけど、議席数は民主党のほうが多いというようなことが起こりえますね。そういう場合は民主党が政権を取って、民主党の中の得票数第一位が内閣総理大臣になって、小泉純一郎が象徴大統領をやるか、衆議院議長をやるというアイデアがあります。

2007/5/1(火) 午後 2:56 [ 蔵信芳樹 ]



そもそも総選挙を全国区にしていいのかということがありますよね。定数300にしても、立候補者は1,000人以上になるでしょう。そこから一人選ぶのですか。


国会での第一党から首班候補を出さなければいけないということもないと思います。戦前は第2党から出すこともあったし、外国では今でもあるでしょう。上位当選者が議長になるというのは馬鹿げていると思いますよ。議長なんて議決権が可否同数の時以外は議決権がないわけですから、やりたくない人もいるでしょう。それに議員経験の浅い人間が議長になったって、議会の中で調整役としてのものがなければいけないわけだから、何もできないでしょう。

だから封建時代までの朝廷と幕府のように、京都御所に皇居を移転して、江戸城を復活させた大統領府を作ればいいと思います。大統領は任期七年で公選により指名され天皇に任命される。内閣制度は廃止し、天皇の下に右大臣・左大臣などを置き、宮内庁としての公務をするのみ。というのはどうでしょうか。

2007/5/1(火) 午後 3:47 [ 大坂佳巨 ]



全国区と比例区の併用。まず予備選挙をやって、人気のないのは比例区に回る。衆議院議長は三権の長の一人だから、本来ならばそれなりの権力を持ってなきゃならないのに、そうなってない。これは制度が悪い。発議権を与えるのはどうか?例えば平和党所属の国会議員は1人しかいないから、発議権はないけど、議長が認めれば発議できるというシステム。

右大臣・左大臣は宗教的な行事を司るのですか?現在の米国みたいに大統領と議会第一党が別々になったために政権がレイムダック化した場合はどうしましょうか?そういう場合のみ内閣総理大臣をおいて、大統領を有名無実化するとか?

2007/5/2(水) 午前 2:01 [ 蔵信芳樹 ]


党内で予備選挙をやって、勝った人が全国区に立候補し、負けた人は比例区で立候補するということですか。

立法機関というのは、議員全体で意思を表示するわけです。だから内閣や裁判所のような長とは違うでしょう。議会の最終的な決定について、運営するのが仕事だと思います。ただし発議権については、それはよいと思います。何十人以上いないと法案の提出権が与えられないなどとしているのは、日本くらいのものです。

そうですねぇ、大臣の役割は儀式的なことになるでしょうね。

大統領と議会第1党が違うというのは、日本では地方議会でたまにあるでしょう。だから首相はいらないんじゃないですか。カナダの場合ですと、州知事がいて、州議会から選ばれた州首相がいるみたいですけど、あまり機能的ではないと思います。

2007/5/2(水) 午後 3:43 [ 大坂佳巨 ]

大統領と議会第一党が別政党の場合、あるいは議院内閣制において第二党から首相を出した場合、三権の長の一人としての衆議院議長が俄然意味を持ってきますね。ある意味、これこそが三権分立の理想なのかもしれません。


小選挙区では、一部の顔の売れた候補者以外は、事実上、自民党か民主党かの、政党で選びます。しかし、政党で選ぶのならば、比例区があるじゃないかと思うのです。私が主張しているのは党内予備選挙ではありません。なんちゃって候補者を振り落とすと共に、本選挙全国区で当選確実な候補を見極め、予備選挙の得票数を比例名簿順位の参考にします。あるいは全国区を予備選挙ではなく、一次選挙として、二次選挙を比例区で行うという方法もありえるかと。

2007/5/2(水) 午後 7:24 [ 蔵信芳樹 ]


そうすると三権分立はうまくいくかもしれませんね。しかし、果たして三権分立というものが本当にいいものかどうかとも疑ってみる必要はあります。もともと東洋では政治家と官僚を区別するような文化はなかったからです。

おそらくドイツの小選挙区比例代表併用性のことを言っておられるのかもしれませんが、現行の日本の選挙制度ですら、四回もやっているのに、まだわからない人は多いわけですから、複雑にするのはどうかと思いますよ。選挙制度というのは、政治をやっている側だけが詳しくて、国民一般にはよくわからないというのが現状だと思います。一般国民が候補者を選択するのだから、もっとわかりやすい方法がいいと思います。

2007/5/3(木) 午後 0:19 [ 大坂佳巨 ]


保守政治の在り方

2007年10月07日 09時31分00秒 | Weblog
現在のナショナリズムが、伝統的価値観、即ちこれが保守思想だと彼らが思っているものは、明治維新以降の洋式天皇スタイルを指しているといっても間違いはないでしょう。武士時代に顕在していた天皇の伝統スタイルを破壊したものを保守と呼んでいるようです。即ち京都時代の天皇ではなくて、江戸城が皇居になってからのものを指しているようです。

つまり日本の歴史とは明治からであり、そこからの伝統を守ろうという意味で使われているといっていいでしょう。だから江戸時代の武士道の考え方と、明治以降の武士道について開きがあるのです。しかし自称保守主義者たちは、我こそは倭時代からの日本の伝統を守っているのだと大きな勘違いをしています。

日本の気候・風土に適していた和服をやめ、洋服を着、建物も木造からレンガやコンクリートに変えていきました。エネルギーもバイオから石油へ転換を図ったわけです。

そればかりではなく、人間が自然と調和してきた江戸時代までの経済システム。こうした仏教式輪廻のごとくの自然循環システムをなくして、キリスト教式の一直線の環境システム。廃棄されたらそれが積みあがるような環境汚染社会ができています。

八百万の神々、たくさんの神様がいて、それら全てを認める宗教である神道が江戸時代までは、循環と和の発想にあったと思いますが、現在のナショナリストは、他の考えを排除することとなっています。これはまさに一神教のような考えを取り入れてしまっているため、元来の大和思想ではなくなってきているということです。

西洋のナショナリズムは多様性を認めないというのは、わかりますが、日本の場合、わが国の伝統スタイルからすれば、多様性を認めるというのが我々の遺伝子の中にはあるのだと思います。

したがって現在の日本のナショナリストは、保守にあらず、伝統を守らず、ということが言えるのではないかと思います。

私には江戸時代が決して、停滞している時代とは思えないのです。

勿論、その後の西洋文明を取り入れたことも停滞ではないと思います。しかし、現代においてはこれが停滞しているのだと思います。

今世紀はアジアの時代とはよく言われますが、それは西洋式の経済文明をアジアがやるからだとの意味で使われています。

しかしながら私は、日本であるのならば、江戸時代までに国民が持っていたアイデンティティを呼び起こすべきだと思います。そしてこれこそが保守のあるべき姿であり、これから日本が進むべき方向であると、私は考えます。


保守主義を名乗るものは、神社神道を尊ぶが、彼らの行動自体は、神道の教義とは大きくかけ離れたものとなっています。その教義とはなにかというと、キリスト教のように聖書があるわけではないですね。まさにこの時点で、揉め事を起こさぬことになっているのです。だけれども彼らは、まるで聖書があるかの如く民族主義等を議論しています。

その地域の神社さんは、その地域に住む全員を信徒だとしています。これが理由で日本の宗教信者の総数が日本の人口の倍以上になってしまうわけです。

神社は住民全てを信徒だと考えるという、この時点で西洋とは大きく違う宗教認識があります。共産党議員は、参議院本会議場で天皇陛下に対して敬わぬ態度をします。しかし、選挙のためではあるが、地元の祭りに参加してきます。これこそが神道が求めているものなのでしょう。

日本という国は、その主張がなんであれ政治団体そのものを嫌う風土があります。宗教団体においても同じです。これが日本人として正常なのだと思います。そういうものを嫌いながら、結局は必要だから、選択するのですが、日本人は自民党という、改憲のために作った政党なのに改憲せず、反共のために作った政党なのに社会主義政策を実施するという無イデオロギー政党を支持してきたわけです。

だから今の自民党のあり方は、英米式二大政党制度を取り入れたために、本来の日本人たる政党とはいいがたくなってきているのです。だから安倍晋三前首相というのは、自称保守ではあるが、小泉純一郎元首相に次ぐ保守破壊型政治家なのです。ここで福田康夫内閣というのができました。これは若干、かつての自民党に帰ってきたものになるような気がします。


では同じく保守政党を名乗る民主党はどうかというと、とにかく自民党の逆の政策にしよう、あるいは国民投票法案の問題でも、なんか条件つけて反対しようという、これも保守破壊型政党なのです。


そして彼ら保守二大政党の掲げる経済政策というものは、いずれも自然調和型のものについては二の次という考えを持っています。つまり経済とは別枠でいつも環境問題を論じています。だからそこに一貫性がないのです。あるいは環境問題を財政で解決させようという考えもあります。環境税を財源にして、そのお金で環境問題をとりはかろうとする。自然の問題もお金で解決できると考えています。ここが保守ではないというポイントです。

それともう一つ。
日本には「気」という発想があります。それが波動を発して・・・などと聞くのも嫌な人がいるでしょう。これらを嫌う人たちの中には保守主義を名乗っている人が多くいます。便所を掃除したら商売が上手くいくとも言われています。

現代の科学で考えたならば、こういうものは否定されます。すでに科学で証明されていると言っている人はいますが、それを否定している科学者もいます。

針灸・漢方というものは、やっと世界保健機構で認めるようになりましたが、それは結果から考えて彼らが認めるようになったのです。でも彼らの認識はまだハッキリとしていないところがあって、このツボはこれに効くということをいまだ確定しておりません。

日本の自称保守という人たちは、こういうものを認めない傾向が強いです。それは彼らが舶来こそ正しいものだという考えが内在しているからです。西洋科学に依存しているからです。しかし、自覚がないために自分は保守だと勘違いしているのです。自称保守主義者たちの言う国家論とは、大和時代から考えられているクニの発想ではなくて、西洋の政治学を持ち込んだものを国家と彼らは呼びます。

日本人がもともと持っていた自然と共存する多くの智慧。こうしたものよりも、征服型西洋科学の方が正しいと思っていますので、日本古来の伝統を実は否定しているのです。白人と並ぶことが尊いことだと思っている。だから日本はアジアにいながら、アジアを見下す態度をする人が多いのです。だからこれらは保守主義とは到底いいがたい。

とくに西洋発祥の資本主義経済あるいは社会主義経済というのは、自然界の法則に全く逆行した造りになっています。であるのに、資本主義経済を肯定しながら、彼らは靖国神社を称えるという大きな矛盾行為をしているのです。

したがって平和党は、経済が自然界の法則により近くなるように、通貨が時間とともに減価する制度を提唱しているわけです。そしてその市場で取引されるものも、自然万物を尊ぶ仕組みが用意されているのです。そこでは江戸時代の循環型システムの近未来版がなされるわけです。

当初は和洋折衷できたものが、まさにオールフローリング時代を迎えようとしています。西洋一辺倒です。これを日本式の多様性を認めるものに戻したほうがいいということです。そしてその主軸が、明治維新のときに忘れ去られた多くのものです。

自称保守主義者は、いずれも日本国伝統の中の一つの考え方ではあるが、非常に狭いごく一部のところだけを取り立てているわけです。だから全体を指していない。山の中にこういう木もあっていいが、あくまでも木であって森ではないということです。

とくに小沢一郎民主党代表の言う「普通の国」とは、地球上でみたらごく少ない西洋資本主義を発達させた「先進国」・・・・を指しています。竹村健一氏の言う「世界の常識・日本の非常識」というのも、まさに「世界の常識イコール西洋近代国家の常識」ということです。自然と調和した自給自足の生活を送っているような国は普通の国ではないということです。

平和党は、現代の資本主義によって達成された科学技術を維持しながら、自然主義経済によって、民間の力によって食料とエネルギーを完全自給することを説いています。

今世紀における時代の変革とは、こうした超保守経済を達成する事です。これを温故知新からとって温故保守とでも言うべきものを実践したいと思います。それが真のアジア時代だと呼ばれるようになるでしょう。

減価する貨幣が改革をなす

2007年10月04日 20時40分03秒 | 財務金融
貨幣がため込まれることにおいて格差社会、そして国際紛争はおきる。
これを改革するのは、減価する通貨制度であり、これが自然と調和する経済システムを作るものである。
偽資本主義からの脱却を。


http://vision.ameba.jp/watch.do;jsessionid=83F9D8C78571016CD4943288BDE517B9?movie=566211




続編 坂本龍一 地域通貨の希望
http://vision.ameba.jp/watch.do?movie=566233