「お金」を人と自然に優しいものに変える方法:減価通貨による地域エコ経済システム運営
国家と言うものはどのようにしてできあがるか。
実はこれは簡単なものであります。
「うち国家です」と言えばよい。
ただ、それまで支配していた権力政府は、それを武力で持って鎮圧するのである。
「そんなものは許さない。非合法である。わが国は法治国家である。」と言い出す。
いや独立したい・・・と言って暴れる・・・テロ活動を始める。政府はそれを警察権力や軍事を用いて排除しようとする。
だけれどもその権力政府は、いかにしてその権力の座にあるか。。
実は、彼らもテロや武力革命によってその権力を得ているのである。
権力政府は、独立しようとしている者たちをテロ活動家として非難するが、彼らもまたテロからスタートさせて、今日では権力政府側の論理によって「合法化」された軍隊と警察を持っているのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/26307739.html
こちらで紹介したように、警察とは国家権力を維持するために存在するのであって、市民の治安を守るのは国家の威信を守るためであります。
第二次世界大戦終了後、国連加盟国とはどのような基準においてなされたか。
その当時に、「国家である」と何の定義もなしに、なんとはなしに、思われている夢想の「国家」が加盟したのである。
国家とは、自然の法則に基づかない、人間が勝手に解釈して作られたものである。
空を飛びまわる渡り鳥や、大海洋を移動している魚たちにとっては、人間が勝手に決めた国境線など全く無関係に存在している。大気も水も土もしかりだ。
台風が動くのに、「あ、こっからはフィリピンだ、韓国だ、日本だ」などという意識はない。
これに惑わされているのは、近代西洋を常識とした現代人類だけである。
では、なぜこれに惑わされるのか。
独立しようとする地域・民族・宗派を鎮圧する必要性とは何か。
それは権力の維持であるが、権力の維持とは、「民から富を収奪する」あるいは「その地からの天然資源を我がものとする」ところから始まってきている。
なぜ縄文時代や、狩猟採集民族に、戦争というものがないのか。彼らにとっての武力とは、人間同士が殺しあうことではなくて、狩りをしたり、山を登ったり、川を下ったり、自然に対しての克服に向けられている。彼らにとっての勇ましさとは、他人をなきものにするのではなく、自然の万物を尊び、己の肉体を研磨し、仲間同士の調和を図るところにある。
現代ではこれらを原始的と呼び、他人から収奪するシステムで殺りく行為をなすことを進歩と呼んでいるようである。これがゆえ、近代国家論が肯定される。
平和党はここにメスをいれようとしている。すなわち資源の争奪、国民からの徴税、こうしたものがなければ救われる。そのためには経済制度を改める必要がある。
お金というものは、商品そのものよりも力を持っている。だからお金の力をモノに劣らせることでこれは解決する。だが、現在のところ、この当たり前のことに対して、疑問を持つものが多く存在する。彼らと多く討論してきたが、彼らの共通性とは、これまでの経済学に縛られているために、どうしても、平和党の提唱する自然主義経済が理解できないのある。
こういう人たちに対して、われわれは切り刻むのではなくて、己の重心を崩し、相手の攻撃をそのまま流れおとさせる必要がある。
流れは必ず、資本主義崩壊に行きつくのは自明の理であって、この資本主義に対して真っ向から否定すると、自然主義経済は実現不可能なものとなる。
我々の政治活動とは、この新たな政策を切り開くことにある。未開拓のことをするには、以前から存在するものとの合流が必要だ。
狩猟採集をやめて農耕民族になると、富が貯蓄できる。富が貯蓄できるということは、実際に労働せずに他の労働の収穫をもらうことができる。さらに泥棒が発生する。その泥棒から身を守るために、生産に携わらない「武器をもった用心棒」なり武士が必要となってくる。以上が今日までの流れであり、ここから流れ全体の方向を徐々に転換させる必要がある。
今までの社会システムはストック経済が生み出したものである。したがって世界の民族紛争・独立運動は資源の争奪・民の搾取からいかに自立するかということから、争いが生まれている。
ようはこの要因を取り除き、フローこそが価値を持つ社会システムを作り、そしてそれこそが「企業優先の拝金主義」から「地域優先の調和主義」にとってかわるものであり、その最終兵器が自然主義経済だ。
具体的には、我が党賛助党員による『「減価する通貨」が導く近代超克への道』ブログで、"「お金」を人と自然に優しいものに変える方法:減価通貨による地域エコ経済システム運営"として提示された。
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/fa76fe260b42462bee53973113151764
地方自治によって大きな変わり目を今後作り出すだろう。
http://heiwatou.web.fc2.com
実はこれは簡単なものであります。
「うち国家です」と言えばよい。
ただ、それまで支配していた権力政府は、それを武力で持って鎮圧するのである。
「そんなものは許さない。非合法である。わが国は法治国家である。」と言い出す。
いや独立したい・・・と言って暴れる・・・テロ活動を始める。政府はそれを警察権力や軍事を用いて排除しようとする。
だけれどもその権力政府は、いかにしてその権力の座にあるか。。
実は、彼らもテロや武力革命によってその権力を得ているのである。
権力政府は、独立しようとしている者たちをテロ活動家として非難するが、彼らもまたテロからスタートさせて、今日では権力政府側の論理によって「合法化」された軍隊と警察を持っているのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/heiwaparty/26307739.html
こちらで紹介したように、警察とは国家権力を維持するために存在するのであって、市民の治安を守るのは国家の威信を守るためであります。
第二次世界大戦終了後、国連加盟国とはどのような基準においてなされたか。
その当時に、「国家である」と何の定義もなしに、なんとはなしに、思われている夢想の「国家」が加盟したのである。
国家とは、自然の法則に基づかない、人間が勝手に解釈して作られたものである。
空を飛びまわる渡り鳥や、大海洋を移動している魚たちにとっては、人間が勝手に決めた国境線など全く無関係に存在している。大気も水も土もしかりだ。
台風が動くのに、「あ、こっからはフィリピンだ、韓国だ、日本だ」などという意識はない。
これに惑わされているのは、近代西洋を常識とした現代人類だけである。
では、なぜこれに惑わされるのか。
独立しようとする地域・民族・宗派を鎮圧する必要性とは何か。
それは権力の維持であるが、権力の維持とは、「民から富を収奪する」あるいは「その地からの天然資源を我がものとする」ところから始まってきている。
なぜ縄文時代や、狩猟採集民族に、戦争というものがないのか。彼らにとっての武力とは、人間同士が殺しあうことではなくて、狩りをしたり、山を登ったり、川を下ったり、自然に対しての克服に向けられている。彼らにとっての勇ましさとは、他人をなきものにするのではなく、自然の万物を尊び、己の肉体を研磨し、仲間同士の調和を図るところにある。
現代ではこれらを原始的と呼び、他人から収奪するシステムで殺りく行為をなすことを進歩と呼んでいるようである。これがゆえ、近代国家論が肯定される。
平和党はここにメスをいれようとしている。すなわち資源の争奪、国民からの徴税、こうしたものがなければ救われる。そのためには経済制度を改める必要がある。
お金というものは、商品そのものよりも力を持っている。だからお金の力をモノに劣らせることでこれは解決する。だが、現在のところ、この当たり前のことに対して、疑問を持つものが多く存在する。彼らと多く討論してきたが、彼らの共通性とは、これまでの経済学に縛られているために、どうしても、平和党の提唱する自然主義経済が理解できないのある。
こういう人たちに対して、われわれは切り刻むのではなくて、己の重心を崩し、相手の攻撃をそのまま流れおとさせる必要がある。
流れは必ず、資本主義崩壊に行きつくのは自明の理であって、この資本主義に対して真っ向から否定すると、自然主義経済は実現不可能なものとなる。
我々の政治活動とは、この新たな政策を切り開くことにある。未開拓のことをするには、以前から存在するものとの合流が必要だ。
狩猟採集をやめて農耕民族になると、富が貯蓄できる。富が貯蓄できるということは、実際に労働せずに他の労働の収穫をもらうことができる。さらに泥棒が発生する。その泥棒から身を守るために、生産に携わらない「武器をもった用心棒」なり武士が必要となってくる。以上が今日までの流れであり、ここから流れ全体の方向を徐々に転換させる必要がある。
今までの社会システムはストック経済が生み出したものである。したがって世界の民族紛争・独立運動は資源の争奪・民の搾取からいかに自立するかということから、争いが生まれている。
ようはこの要因を取り除き、フローこそが価値を持つ社会システムを作り、そしてそれこそが「企業優先の拝金主義」から「地域優先の調和主義」にとってかわるものであり、その最終兵器が自然主義経済だ。
具体的には、我が党賛助党員による『「減価する通貨」が導く近代超克への道』ブログで、"「お金」を人と自然に優しいものに変える方法:減価通貨による地域エコ経済システム運営"として提示された。
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/fa76fe260b42462bee53973113151764
地方自治によって大きな変わり目を今後作り出すだろう。
http://heiwatou.web.fc2.com
世界平和のためには、地球上の人たちが手をつなぎあって、「世界政府が必要」であり、「地球連邦政府」という一つの中央機関を提唱されることが多い。
ようするにその一つの圧倒的に強い権力機関が、「戦争を起こさせないで平和を保つ」というわけだ。
これに逆らうようなテロリスト集団が出てくれば、彼らは警察力として彼ら犯罪者を取り締まるのだろう。
でも、これは今行われている戦争と寸分違わないのではないか。
また、このような中央政府機関というのは、米国政府がやっていることとなんら変わらないだろう。
つまりは、一つの価値観を他に押し付ける「戦争の要因」をまき散らすことをしているのであって、彼らの空想は世界平和どころではない。
さらに、世界から貧困層をなくすために、協同組合主義や社会主義のように、富の再分配をその強大な中央権力によっておこなおうとするものが多い。
だが、これはお金の仕組みを知らない愚かな方法である。自然主義経済はこれとは全く異なるのだが、その目的は一緒だ。
東側社会が崩壊した現代でも、このような妄想がなぜいまだにこのような政治思想が現存するのだろうか。
なぜこういう発想がつねに出てくるのかというと、「Aという政治思想・方法あるいは権力者」が間違っているのであり、Aを壊滅させ、私の考えを地球上の人間が採用すれば間違いなく、平和と安定が訪れる・・・・・・・と思っているからだろう。
なぜ今後、平和党の考え方が選ばれるかというと、上記見てきたように、「今までのもの」を廃止し、「新たなもの」にとって変えようというわけではないからだ。
ようするに付け足すのであって、さらなる多様性を高めるということだ。
右でもないし、左でもないものは、重心がつねに移動し、一定ではないのでつかみどころがないのである。
平和党は重心がどこにあるのかわからない。だから愛国主義者からも市民運動家からも、「平和党のスタンスがはっきりわからない」と言ってくるのである。
重心を持つ者は、簡単に崩される。
ようするにその一つの圧倒的に強い権力機関が、「戦争を起こさせないで平和を保つ」というわけだ。
これに逆らうようなテロリスト集団が出てくれば、彼らは警察力として彼ら犯罪者を取り締まるのだろう。
でも、これは今行われている戦争と寸分違わないのではないか。
また、このような中央政府機関というのは、米国政府がやっていることとなんら変わらないだろう。
つまりは、一つの価値観を他に押し付ける「戦争の要因」をまき散らすことをしているのであって、彼らの空想は世界平和どころではない。
さらに、世界から貧困層をなくすために、協同組合主義や社会主義のように、富の再分配をその強大な中央権力によっておこなおうとするものが多い。
だが、これはお金の仕組みを知らない愚かな方法である。自然主義経済はこれとは全く異なるのだが、その目的は一緒だ。
東側社会が崩壊した現代でも、このような妄想がなぜいまだにこのような政治思想が現存するのだろうか。
なぜこういう発想がつねに出てくるのかというと、「Aという政治思想・方法あるいは権力者」が間違っているのであり、Aを壊滅させ、私の考えを地球上の人間が採用すれば間違いなく、平和と安定が訪れる・・・・・・・と思っているからだろう。
なぜ今後、平和党の考え方が選ばれるかというと、上記見てきたように、「今までのもの」を廃止し、「新たなもの」にとって変えようというわけではないからだ。
ようするに付け足すのであって、さらなる多様性を高めるということだ。
右でもないし、左でもないものは、重心がつねに移動し、一定ではないのでつかみどころがないのである。
平和党は重心がどこにあるのかわからない。だから愛国主義者からも市民運動家からも、「平和党のスタンスがはっきりわからない」と言ってくるのである。
重心を持つ者は、簡単に崩される。
松下政経塾出身の政治家の論調には目を覆うものがある。
かつては松下政経塾出身などと言っても誰もわからずに、泡沫候補となっているものも多かったが昨今ではブランド化してきた。
彼らは一つのテーゼを立てている。それは民間での競争が素晴らしく、公務員による悪効率を改正すること。他にもたくさんあるが、だいたいこのようなことと見ていい。これ自体は正しいことだと思うが、そこから先がない。つまりは、単なる微調整改革しか提案できていないところにある。それは彼らが資本主義者だからである。また軍事的にも旧来のものの使い回しとの感じはぬぐえない。
創設者の松下幸之助氏は、無税国家を唱えた。これは平和党の政策にも合致するが、松下案は「永遠の経済成長」を前提としているため、国家が蓄えた貯蓄から利子収入を得て、それを財源としている。このあたりは、今日において全く実現性が不可能であるといっていい。永遠の経済成長はありえないということが、次第に判明していくからであり、すでに国家は破たん寸前の財政赤字をかかえている。これは資本主義に限界があるということを示している。いずれ爆発せざるをえない。ちなみに平和党の案はむしろこの逆によって無税国家を作ろうとしている。
なによりも松下氏は、官僚出身者、代議士秘書出身者、政党職員出身者など、政治家になるには限られた職業から出されており、それを打破するために政治家・経営者を養成する塾を作ったという。それには松下グループが巨額の財を投げうっており、それによって塾生は食わせてもらっているのである。なんでも月に30万円弱が支給されるのだとか。入塾には条件があって、大学を卒業していること、そして難関なる試験等を突破したものにのみ許されるのだそうだ。まさにエリートを集めた学校といってよい。
丁稚奉公から苦労してたたきあがった人が成功すると、自分のような苦労は大事だとする反面、もっと簡単にストレートに上がる方法はないだろうかと、愛情からこうしたものが生まれたのだろうが、それがあだとなっているような気がする。
元衆議院議員・徳田虎雄自由連合代表の話であるが、これは3度も聞いたから実際の話だと思うが(と言ってもいつも同じ話しかしない人だ)、徳田氏は松下政経塾に講師として立ったことがある。彼もまた貧乏人からはいあがってきた政治家であり、強引なるむちゃくちゃな努力によって、医療界に喧嘩を売り、政界に喧嘩を売ってきた人である。詳しくは、自由連合HPに載せられている私が書いた自由連合党史をごらんいただきたい。http://www.jiyuren.or.jp/
この講師にたったときに、塾生に対してこのような批判をしたという。
「君たちは毎月お金をもらって政治家になるための勉強をしている。実際に社会に出て政治家になるのとでは全く意識が違ってくるだろう」と。
すると、とある塾生は「先生、私たちは確かに塾からお金を支給されていますが、昼間は松下電器の営業に行かされたり、農家の人たちと一緒になって農作業も手伝っています。そしてその夜に自分の政策課題の研究に打ち込む。こうした苦労をしています」と言うわけだ。
徳田氏いわく、「どんなに形式的に苦労してみても、政治家を目指しながら、自分の食いぶちも確保するということは人の何倍もしなければならず、また精神的にも休まるものではないから、根本的に違うのだ」ということであったと思う。
一字一句は違うかもしれないが、だいたいこのような内容だったと記憶している。ようは松下政経塾というところは、エリートのテクノクラート養成学校ということであって、こうしたところからは維新の革命児みたいな人間は出てこないだろうと私なんかは思う。お坊ちゃまのわがまま勝手な政策しか出てこない。だから、人よりも我は苦労してきたのだと言いふらしている。あの知事もそう、あの市長もそうだ。
おそらく松下氏は、現代の吉田松陰となるべく、現代の松下村塾を作ろうとしたのだろう。ちょっと以前までは、松下村塾と松下政経塾を間違えている人があったが、最近はようやく認知されたようであるが、実は全く逆だ。松下政経塾は松下村塾とは似ても似つかない。松下政経塾は萩明倫館に相当するのではないか。教えている内容も、教わっている塾生の特徴も実に似ている。
武士としてのエリートを育てる明倫館の発想は明治維新によって打ち砕かれ、塾を名乗りながら全く体裁を整えていない、貧弱なる学校であった松下村塾から、伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎らを輩出している。
これはなぜかといえば実に簡単なこと。ようするに時代の変革期というのは、わけのわからんところから出てくるのであって、誰も相手にしないような、それでも素朴であり、あるいはそれを条件として熱意ある改革者を生み出す土壌を作り出すのだと思う。
ところが、今、改革を言う人間はみな明倫館のようなものを目指して、それで満足している。守旧派は旧永田町病にとりつかれ、若き政治家は新永田町病にとりつかれている。新永田町病の発信源は主に松下政経塾である。
学校を作りたいと言っていたある若い市議会議員がいた。「でも、それは無理だろうな。学校法人の認可をとらなければいけないし、お金もかかる。土地も得なくてはならない」などなど・・・・、ようするに、学校という建物、学校という地位、などが先立っており、信念がない。
信念さえあれば、建物などどうでもいい。松下村塾はまさにそのようなところであったという。授業時間などもあってないようなもの。勝手に塾生が集まって、いろいろ話をしたり、研究をしたり、自由にやっていたとのことだ。しかも、この松下村塾が実質的に運営されたのは3年もなかったという。貧しくても、食べ物もみんなで持ち寄って、学んでいたとのことらしい。
家にたくさんお金があるから学校に行けるとか、お金がもらえるような現代の松下政経塾とは、その条件は比べ物にもならない。かえってお金などないほうが原動力になる。地位も名誉もそうだろう。形式ばかりにこだわっている政治論議もまた、現代政治の停滞を促進しているだけである。既存の常識をいくつ知っているからと自慢したところで生まれるものは何もない。彼らは人と異なるのを恐れているだけだ。こうした恐れを克服し、根性のみによって、社会の変革は可能なのだと思う。
かつては松下政経塾出身などと言っても誰もわからずに、泡沫候補となっているものも多かったが昨今ではブランド化してきた。
彼らは一つのテーゼを立てている。それは民間での競争が素晴らしく、公務員による悪効率を改正すること。他にもたくさんあるが、だいたいこのようなことと見ていい。これ自体は正しいことだと思うが、そこから先がない。つまりは、単なる微調整改革しか提案できていないところにある。それは彼らが資本主義者だからである。また軍事的にも旧来のものの使い回しとの感じはぬぐえない。
創設者の松下幸之助氏は、無税国家を唱えた。これは平和党の政策にも合致するが、松下案は「永遠の経済成長」を前提としているため、国家が蓄えた貯蓄から利子収入を得て、それを財源としている。このあたりは、今日において全く実現性が不可能であるといっていい。永遠の経済成長はありえないということが、次第に判明していくからであり、すでに国家は破たん寸前の財政赤字をかかえている。これは資本主義に限界があるということを示している。いずれ爆発せざるをえない。ちなみに平和党の案はむしろこの逆によって無税国家を作ろうとしている。
なによりも松下氏は、官僚出身者、代議士秘書出身者、政党職員出身者など、政治家になるには限られた職業から出されており、それを打破するために政治家・経営者を養成する塾を作ったという。それには松下グループが巨額の財を投げうっており、それによって塾生は食わせてもらっているのである。なんでも月に30万円弱が支給されるのだとか。入塾には条件があって、大学を卒業していること、そして難関なる試験等を突破したものにのみ許されるのだそうだ。まさにエリートを集めた学校といってよい。
丁稚奉公から苦労してたたきあがった人が成功すると、自分のような苦労は大事だとする反面、もっと簡単にストレートに上がる方法はないだろうかと、愛情からこうしたものが生まれたのだろうが、それがあだとなっているような気がする。
元衆議院議員・徳田虎雄自由連合代表の話であるが、これは3度も聞いたから実際の話だと思うが(と言ってもいつも同じ話しかしない人だ)、徳田氏は松下政経塾に講師として立ったことがある。彼もまた貧乏人からはいあがってきた政治家であり、強引なるむちゃくちゃな努力によって、医療界に喧嘩を売り、政界に喧嘩を売ってきた人である。詳しくは、自由連合HPに載せられている私が書いた自由連合党史をごらんいただきたい。http://www.jiyuren.or.jp/
この講師にたったときに、塾生に対してこのような批判をしたという。
「君たちは毎月お金をもらって政治家になるための勉強をしている。実際に社会に出て政治家になるのとでは全く意識が違ってくるだろう」と。
すると、とある塾生は「先生、私たちは確かに塾からお金を支給されていますが、昼間は松下電器の営業に行かされたり、農家の人たちと一緒になって農作業も手伝っています。そしてその夜に自分の政策課題の研究に打ち込む。こうした苦労をしています」と言うわけだ。
徳田氏いわく、「どんなに形式的に苦労してみても、政治家を目指しながら、自分の食いぶちも確保するということは人の何倍もしなければならず、また精神的にも休まるものではないから、根本的に違うのだ」ということであったと思う。
一字一句は違うかもしれないが、だいたいこのような内容だったと記憶している。ようは松下政経塾というところは、エリートのテクノクラート養成学校ということであって、こうしたところからは維新の革命児みたいな人間は出てこないだろうと私なんかは思う。お坊ちゃまのわがまま勝手な政策しか出てこない。だから、人よりも我は苦労してきたのだと言いふらしている。あの知事もそう、あの市長もそうだ。
おそらく松下氏は、現代の吉田松陰となるべく、現代の松下村塾を作ろうとしたのだろう。ちょっと以前までは、松下村塾と松下政経塾を間違えている人があったが、最近はようやく認知されたようであるが、実は全く逆だ。松下政経塾は松下村塾とは似ても似つかない。松下政経塾は萩明倫館に相当するのではないか。教えている内容も、教わっている塾生の特徴も実に似ている。
武士としてのエリートを育てる明倫館の発想は明治維新によって打ち砕かれ、塾を名乗りながら全く体裁を整えていない、貧弱なる学校であった松下村塾から、伊藤博文、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎らを輩出している。
これはなぜかといえば実に簡単なこと。ようするに時代の変革期というのは、わけのわからんところから出てくるのであって、誰も相手にしないような、それでも素朴であり、あるいはそれを条件として熱意ある改革者を生み出す土壌を作り出すのだと思う。
ところが、今、改革を言う人間はみな明倫館のようなものを目指して、それで満足している。守旧派は旧永田町病にとりつかれ、若き政治家は新永田町病にとりつかれている。新永田町病の発信源は主に松下政経塾である。
学校を作りたいと言っていたある若い市議会議員がいた。「でも、それは無理だろうな。学校法人の認可をとらなければいけないし、お金もかかる。土地も得なくてはならない」などなど・・・・、ようするに、学校という建物、学校という地位、などが先立っており、信念がない。
信念さえあれば、建物などどうでもいい。松下村塾はまさにそのようなところであったという。授業時間などもあってないようなもの。勝手に塾生が集まって、いろいろ話をしたり、研究をしたり、自由にやっていたとのことだ。しかも、この松下村塾が実質的に運営されたのは3年もなかったという。貧しくても、食べ物もみんなで持ち寄って、学んでいたとのことらしい。
家にたくさんお金があるから学校に行けるとか、お金がもらえるような現代の松下政経塾とは、その条件は比べ物にもならない。かえってお金などないほうが原動力になる。地位も名誉もそうだろう。形式ばかりにこだわっている政治論議もまた、現代政治の停滞を促進しているだけである。既存の常識をいくつ知っているからと自慢したところで生まれるものは何もない。彼らは人と異なるのを恐れているだけだ。こうした恐れを克服し、根性のみによって、社会の変革は可能なのだと思う。
これまで幾度もサーカーの社会サイクル理論を拝借して、どのように日本や世界が変革していくのかということを述べてきました。
日本史における社会サイクル試論
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/japansocialcycle.htm
上記は吉見道夫氏によるサーカーの見方です。
豪族・武人・軍人・冒険家政権→
知識人・宗教家・文化人政権→
経済人・銀行家・大企業政権→
奴隷・農民・労役者・消費者の反乱
を経てまた武人政権になっていきます。
現在は経済人政権が末期にさしかかり、腐敗が見え始め、次の政権にとって代わろうとする時代です。これらは、格差社会の貧困層、地方経済で貧しくなっている人々、零細企業社長で首をくくらざるをえなくなった人、高齢者で年金や介護が受けられない人々が不満を募らせ、そして彼ら守銭奴支配は終焉に向かいます。
次に出てくるのは武人政権ですが、
「えーっ、また日本は軍事大国になるの」と言う不安をもった方々も多くおられると思います。しかし、今度はそうはなりません。
なぜならば平和党が提唱している自然主義経済が実現されることによって、領土の拡大・領海の拡大には意味がなくなるからです。自然主義経済は自然の恵みを直接享受されることによって最も効率の高い仕組みです。プラス利子たるお金を介すると不利な仕組みになっています。したがって資源の争奪は無意味であり、もしも戦争を起こすとするならば、この要因はなくなります。
だけれども武人政権は歴史のサイクルなので必ずきます。武人は、偉大なる冒険家です。己の肉体を使用して、今までに人がしてこなかったものに挑戦します。
この時代の当初は、強者が弱者を保護する傾向にあり、女性が尊ばれ、家族が重視され、地域共同体によって心豊かな社会をつくることができます。
それまでの経済優先社会による倫理の崩壊、社会無秩序がすべて洗い流されます。今回は自然主義経済によって、富の支配が終わり、架空の富と架空の負が消滅するので、犯罪も激減するでしょう。
今度の武人政権はアイデンティティとして、それまでの大日本帝国軍人や、織田・豊臣・徳川武家政権、あるいは大和時代の豪族支配と、その根本的な本質部分では、同じですが、現代においては、あらわれ方がかなり違うようになります。つまり人間同士で殺しあったりしない武人政権だろうということです。
それは防犯・防災を政府によるのではなく、民間によってなされる社会であり、その財源が自然主義経済による地域共同体運営となるということです。すなわち武民統制です。これについては今後詳しく書いていきます。
武民統制の本質は、自然の猛威に立ち向かい、それを適正に管理し、人間との共生を図ることです。経済よりも学問よりも優先される世の中になります。
こうしたところに価値観を置く政権時代であり、これをなしとげるのは、武人のアイデンティティを持っている人です。現在の経済人・守銭奴支配社会の中で、奴隷・労働者・市民運動などで不満を抱きながら生きている人々によってなされるとのことです。
現在、イラク戦争やアフガンのテロ報復支援を支持している方々がおりますが、これをなしているのは、守銭奴政権の自民党が、武のためではなく、金のためになしていることです。このところが非常に重要です。すなわち革命は、武人によってなされますが、守銭奴支配の配下にいる武人ではなく、格差社会の犠牲となっている武人によってなされるということです。したがって、自民党政権の軍事政策を支持している政治勢力は、今後消えていきます。こういうものを支持している人々は、なぜ現政権がイラクやアフガンに自衛隊を派遣するのかについて、その本質的部分を知らずに「誤った武士道」の考えを持っているからです。拝金主義の片棒を担がされていることに気づくか気付かないかは非常に重要なポイントになってきます。
イラク戦争、あるいはアフガニスタンにおけるタリバン征伐、または北朝鮮拉致問題など、軍事において積極的に国際貢献すべしとか、国防力を強くさせよとの論調が、小泉政権以降、日の目を浴びています。たしかに危機管理法制も以前よりは確立されつつあります。ただ、ナショナリズムに走った場合、これは時代の新たなるものにはなりえないでしょう。
中国や朝鮮半島に対して過剰に反応する人々も大勢います。ところが、彼らのほとんどは武人のアイデンティティを持っていません。いずれも守銭奴政権支配に寄生し生きている人ばかりです。そして彼らは経済優先の権力者たちの手の中で踊らされていることについて全く自覚がありません。
そもそもの武人というものは、あるいは武力というものは、他のものに暴力を与えないために存在しているのであって、本来あった武士道というのは、やたらに自分を強くみせることではなくて、武力をもってして秩序を作り出すということをしてきています。
ところが、弱い人間に限って、武器をふりかざしたり、他人に見せたりしようとします。
たとえば核兵器を保有することによって安心するという考え方は、武人精神の欠如から生まれてくるものです。ただし弱きことは悪いことではありませんので、もしも核保有によって日本国民が安心して国家の安全保障がなされるのであればそのようにしたほうがいいと思います。
喧嘩の強い人間は、そうそう簡単には拳に訴えることはしません。喧嘩の弱い口先だけの人間に限って、政治的には軍拡思考を持ちたがります。
本物の武人か、偽物の武人かを見分ける力が必要になってきます。現在、イラク戦争やらテロ特措法やらを支持している人々は、まず偽物とみて間違いないでしょう。もちろんフセインやタリバンを正義とする考えが武人としての正しいことだ・・というわけではないことは説明するまでもありません。
北朝鮮が核保有をみせびらかしたり、中国の軍事予算を毎年毎年増加させているのは、己の弱い心を武器によって強く見せることによって安心したいのです。
日本国内でいえば、中国や朝鮮半島を恐れているから、彼らの国のやることに過敏に反応してしまう人もあるのです。
逆にこのようなタイプと正反対の政治家、それを心得ている人は、北朝鮮拉致問題でも解決できるでしょう。ただし、ほとんどの自称武人の政治家たちにはそれができません。もしもできるのであれば、彼らは守銭奴支配の手先にはなっていないからです。
だから、こうした軍拡思考を語るほとんど多くの政治家にはその性根がすわっていないために、よく逃げ出します。安倍前首相はまさにそのタイプでありましたから、彼は全く武人のアイデンティティはなく、単なるみせかけだけの人であり、彼の実態は守銭奴に操作された下級武人であったか、もしくは単なる労役者であったということです。
守銭奴支配であぐらをかいている人々は、タカ派と称している政治家が自分たちのコントロール下に置いており、それら政治家が自分たちのイデオロギーによって国が動いていると勝手に思い込んでいるのをいいことに、しめしめと思っています。金儲けに軍事力が使われているのに、それに気づかず、これこそが武士道だぐらい勘違いしていますが、彼らは明らかに守銭奴たちの手の上で踊らされているのです。
ただし現職の自衛官などは、「文民統制」ということで動かされていますので何一つ悪くはありません。彼らが政府の決定に従うことは当然のことでしょう。
実際に支配しているのは改憲や教育基本法改正などという勇ましいイデオロギーなどではなくて、お金を多く持つ人々の力です。武力の好きな人は脳味噌が劣っている人が多いと思われて、まんまとはめられているのです。
そしてまた武人思考の人ばかりでなく、知識人思考の人々も、この守銭奴政権に奉仕しようとします。グローバリズムがどれだけ優れているかを説き、そのためには国際社会に貢献することが重要だと述べます。竹中平蔵氏をはじめとする人々です。これらの経済学が優れていることを説きます。
新開発された製品がいかに優れているかを学術上、説きます。彼らも守銭奴支配下の武人同様に、踊らされいて、経済優先社会の中では、守銭奴に重宝されるしもべとなっています。
現在、テロ特措法が言われています。インド洋における給油活動をもしもここで中断したならば、国際的な信用をなくすからというのがその最大の理由です。国際的な信用をなくしてはならないのは、日本が石油資源を中東に依存しているからであり、米国によって経済支配を受けているからです。
日本の自衛隊が海外に出ていく理由は、湾岸戦争以来のトラウマであり、単に国際金融資本の支配下として、そしてまた国内的には、文化よりも軍事よりも、経済というものが強いからこそ起きてくる問題です。
したがって、政府に従っている武人・軍人は、すべて守銭奴の手先ということです。
武人・軍人は、金の損得を考えずに、ただそこに山があるから登るんだという冒険心と武勇心を持っています。レーサーはなぜトップを目指すか。それは単に「速く走りたいから」です。その動機はそこにあるだけです。経済人の場合は、すべてを貯蓄のために物事を動かそうとします。経済人支配の当初は人々の幸福のために行われますが、末期にさしかかると、己の私利私欲に徹します。
現状の国際軍事情勢における日本の選択はすべて経済が動機として動いており、武人・軍人が主体となって動いているものではありません。
自衛隊は文民統制によってなされています。これは知識人支配時代のようにも見えますが、文官統制ならば知識人時代でしょう。
しかし、現行の制度は文民統制です。文民統制というのは、政治家にその権限があるということです。政治家は、現代では多額を要する選挙を乗り越えなければならず、いずれの政治家も多額のお金によって動かされています。そのお金がないと政治活動ができないために、経済人のいうとおりに動かざるを得なくなります。
したがって利権政治に走るか、それとも自由な市場経済を提唱して新たに生まれる利権勢力によって支配されるかどちらかです。
これは防衛大臣の立場もそうですし、総理大臣もそうですし、国会全体もそうです。
だからテロ特措法に賛同するということは、国際金融資本の、あるいは経済優先社会の中で踊らされた愚かな人々ということです。ところが、軍事積極派の人々は、これを何か勘違いして、武勇心を持って、国民はこれに賛同すべしと思っているのです。
したがって、あの4サイクルの政権変遷工程では、次の時代は武人支配の政権になりますが、現在の守銭奴支配の中で、自衛隊の軍事行動を支持している人というのは、そのきたるべき政権側にはつくことはできせん。経済人・守銭奴支配時代が奴隷・労役者などの反乱によって打ち砕かれたときに、同時に消されていくことになるでしょう。
守銭奴支配下にいない武人精神をもっている人、守銭奴支配下にいない知識人精神をもっている人たちによって改革がなされます。彼らは現在、いずれも、奴隷的な経済立場におかれています。こんにちでは労役者、ワーキングプアー層、ネットカフェ難民の方々に相当します。彼らの不満が頂点に達し、格差社会が谷底まで行った時に、選挙という方法によって大変革がなされるでしょう。
本当に武人精神を持っている方々が目覚めてくれることを望みます。
http://heiwatou.web.fc2.com
日本史における社会サイクル試論
http://www12.ocn.ne.jp/~kitsumi/member/mitsuki/japansocialcycle.htm
上記は吉見道夫氏によるサーカーの見方です。
豪族・武人・軍人・冒険家政権→
知識人・宗教家・文化人政権→
経済人・銀行家・大企業政権→
奴隷・農民・労役者・消費者の反乱
を経てまた武人政権になっていきます。
現在は経済人政権が末期にさしかかり、腐敗が見え始め、次の政権にとって代わろうとする時代です。これらは、格差社会の貧困層、地方経済で貧しくなっている人々、零細企業社長で首をくくらざるをえなくなった人、高齢者で年金や介護が受けられない人々が不満を募らせ、そして彼ら守銭奴支配は終焉に向かいます。
次に出てくるのは武人政権ですが、
「えーっ、また日本は軍事大国になるの」と言う不安をもった方々も多くおられると思います。しかし、今度はそうはなりません。
なぜならば平和党が提唱している自然主義経済が実現されることによって、領土の拡大・領海の拡大には意味がなくなるからです。自然主義経済は自然の恵みを直接享受されることによって最も効率の高い仕組みです。プラス利子たるお金を介すると不利な仕組みになっています。したがって資源の争奪は無意味であり、もしも戦争を起こすとするならば、この要因はなくなります。
だけれども武人政権は歴史のサイクルなので必ずきます。武人は、偉大なる冒険家です。己の肉体を使用して、今までに人がしてこなかったものに挑戦します。
この時代の当初は、強者が弱者を保護する傾向にあり、女性が尊ばれ、家族が重視され、地域共同体によって心豊かな社会をつくることができます。
それまでの経済優先社会による倫理の崩壊、社会無秩序がすべて洗い流されます。今回は自然主義経済によって、富の支配が終わり、架空の富と架空の負が消滅するので、犯罪も激減するでしょう。
今度の武人政権はアイデンティティとして、それまでの大日本帝国軍人や、織田・豊臣・徳川武家政権、あるいは大和時代の豪族支配と、その根本的な本質部分では、同じですが、現代においては、あらわれ方がかなり違うようになります。つまり人間同士で殺しあったりしない武人政権だろうということです。
それは防犯・防災を政府によるのではなく、民間によってなされる社会であり、その財源が自然主義経済による地域共同体運営となるということです。すなわち武民統制です。これについては今後詳しく書いていきます。
武民統制の本質は、自然の猛威に立ち向かい、それを適正に管理し、人間との共生を図ることです。経済よりも学問よりも優先される世の中になります。
こうしたところに価値観を置く政権時代であり、これをなしとげるのは、武人のアイデンティティを持っている人です。現在の経済人・守銭奴支配社会の中で、奴隷・労働者・市民運動などで不満を抱きながら生きている人々によってなされるとのことです。
現在、イラク戦争やアフガンのテロ報復支援を支持している方々がおりますが、これをなしているのは、守銭奴政権の自民党が、武のためではなく、金のためになしていることです。このところが非常に重要です。すなわち革命は、武人によってなされますが、守銭奴支配の配下にいる武人ではなく、格差社会の犠牲となっている武人によってなされるということです。したがって、自民党政権の軍事政策を支持している政治勢力は、今後消えていきます。こういうものを支持している人々は、なぜ現政権がイラクやアフガンに自衛隊を派遣するのかについて、その本質的部分を知らずに「誤った武士道」の考えを持っているからです。拝金主義の片棒を担がされていることに気づくか気付かないかは非常に重要なポイントになってきます。
イラク戦争、あるいはアフガニスタンにおけるタリバン征伐、または北朝鮮拉致問題など、軍事において積極的に国際貢献すべしとか、国防力を強くさせよとの論調が、小泉政権以降、日の目を浴びています。たしかに危機管理法制も以前よりは確立されつつあります。ただ、ナショナリズムに走った場合、これは時代の新たなるものにはなりえないでしょう。
中国や朝鮮半島に対して過剰に反応する人々も大勢います。ところが、彼らのほとんどは武人のアイデンティティを持っていません。いずれも守銭奴政権支配に寄生し生きている人ばかりです。そして彼らは経済優先の権力者たちの手の中で踊らされていることについて全く自覚がありません。
そもそもの武人というものは、あるいは武力というものは、他のものに暴力を与えないために存在しているのであって、本来あった武士道というのは、やたらに自分を強くみせることではなくて、武力をもってして秩序を作り出すということをしてきています。
ところが、弱い人間に限って、武器をふりかざしたり、他人に見せたりしようとします。
たとえば核兵器を保有することによって安心するという考え方は、武人精神の欠如から生まれてくるものです。ただし弱きことは悪いことではありませんので、もしも核保有によって日本国民が安心して国家の安全保障がなされるのであればそのようにしたほうがいいと思います。
喧嘩の強い人間は、そうそう簡単には拳に訴えることはしません。喧嘩の弱い口先だけの人間に限って、政治的には軍拡思考を持ちたがります。
本物の武人か、偽物の武人かを見分ける力が必要になってきます。現在、イラク戦争やらテロ特措法やらを支持している人々は、まず偽物とみて間違いないでしょう。もちろんフセインやタリバンを正義とする考えが武人としての正しいことだ・・というわけではないことは説明するまでもありません。
北朝鮮が核保有をみせびらかしたり、中国の軍事予算を毎年毎年増加させているのは、己の弱い心を武器によって強く見せることによって安心したいのです。
日本国内でいえば、中国や朝鮮半島を恐れているから、彼らの国のやることに過敏に反応してしまう人もあるのです。
逆にこのようなタイプと正反対の政治家、それを心得ている人は、北朝鮮拉致問題でも解決できるでしょう。ただし、ほとんどの自称武人の政治家たちにはそれができません。もしもできるのであれば、彼らは守銭奴支配の手先にはなっていないからです。
だから、こうした軍拡思考を語るほとんど多くの政治家にはその性根がすわっていないために、よく逃げ出します。安倍前首相はまさにそのタイプでありましたから、彼は全く武人のアイデンティティはなく、単なるみせかけだけの人であり、彼の実態は守銭奴に操作された下級武人であったか、もしくは単なる労役者であったということです。
守銭奴支配であぐらをかいている人々は、タカ派と称している政治家が自分たちのコントロール下に置いており、それら政治家が自分たちのイデオロギーによって国が動いていると勝手に思い込んでいるのをいいことに、しめしめと思っています。金儲けに軍事力が使われているのに、それに気づかず、これこそが武士道だぐらい勘違いしていますが、彼らは明らかに守銭奴たちの手の上で踊らされているのです。
ただし現職の自衛官などは、「文民統制」ということで動かされていますので何一つ悪くはありません。彼らが政府の決定に従うことは当然のことでしょう。
実際に支配しているのは改憲や教育基本法改正などという勇ましいイデオロギーなどではなくて、お金を多く持つ人々の力です。武力の好きな人は脳味噌が劣っている人が多いと思われて、まんまとはめられているのです。
そしてまた武人思考の人ばかりでなく、知識人思考の人々も、この守銭奴政権に奉仕しようとします。グローバリズムがどれだけ優れているかを説き、そのためには国際社会に貢献することが重要だと述べます。竹中平蔵氏をはじめとする人々です。これらの経済学が優れていることを説きます。
新開発された製品がいかに優れているかを学術上、説きます。彼らも守銭奴支配下の武人同様に、踊らされいて、経済優先社会の中では、守銭奴に重宝されるしもべとなっています。
現在、テロ特措法が言われています。インド洋における給油活動をもしもここで中断したならば、国際的な信用をなくすからというのがその最大の理由です。国際的な信用をなくしてはならないのは、日本が石油資源を中東に依存しているからであり、米国によって経済支配を受けているからです。
日本の自衛隊が海外に出ていく理由は、湾岸戦争以来のトラウマであり、単に国際金融資本の支配下として、そしてまた国内的には、文化よりも軍事よりも、経済というものが強いからこそ起きてくる問題です。
したがって、政府に従っている武人・軍人は、すべて守銭奴の手先ということです。
武人・軍人は、金の損得を考えずに、ただそこに山があるから登るんだという冒険心と武勇心を持っています。レーサーはなぜトップを目指すか。それは単に「速く走りたいから」です。その動機はそこにあるだけです。経済人の場合は、すべてを貯蓄のために物事を動かそうとします。経済人支配の当初は人々の幸福のために行われますが、末期にさしかかると、己の私利私欲に徹します。
現状の国際軍事情勢における日本の選択はすべて経済が動機として動いており、武人・軍人が主体となって動いているものではありません。
自衛隊は文民統制によってなされています。これは知識人支配時代のようにも見えますが、文官統制ならば知識人時代でしょう。
しかし、現行の制度は文民統制です。文民統制というのは、政治家にその権限があるということです。政治家は、現代では多額を要する選挙を乗り越えなければならず、いずれの政治家も多額のお金によって動かされています。そのお金がないと政治活動ができないために、経済人のいうとおりに動かざるを得なくなります。
したがって利権政治に走るか、それとも自由な市場経済を提唱して新たに生まれる利権勢力によって支配されるかどちらかです。
これは防衛大臣の立場もそうですし、総理大臣もそうですし、国会全体もそうです。
だからテロ特措法に賛同するということは、国際金融資本の、あるいは経済優先社会の中で踊らされた愚かな人々ということです。ところが、軍事積極派の人々は、これを何か勘違いして、武勇心を持って、国民はこれに賛同すべしと思っているのです。
したがって、あの4サイクルの政権変遷工程では、次の時代は武人支配の政権になりますが、現在の守銭奴支配の中で、自衛隊の軍事行動を支持している人というのは、そのきたるべき政権側にはつくことはできせん。経済人・守銭奴支配時代が奴隷・労役者などの反乱によって打ち砕かれたときに、同時に消されていくことになるでしょう。
守銭奴支配下にいない武人精神をもっている人、守銭奴支配下にいない知識人精神をもっている人たちによって改革がなされます。彼らは現在、いずれも、奴隷的な経済立場におかれています。こんにちでは労役者、ワーキングプアー層、ネットカフェ難民の方々に相当します。彼らの不満が頂点に達し、格差社会が谷底まで行った時に、選挙という方法によって大変革がなされるでしょう。
本当に武人精神を持っている方々が目覚めてくれることを望みます。
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★マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1790年の発言)★
「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」
-お金の仕組み-
ロスチャイルド一族が世界を支配していると言っても、ほとんどの人は「そんなバカな」とか「くだらない陰謀論だ」と思うことでしょう。
その原因は、ほとんどの人が“おカネのことを知らない”ためだと思います。
「おカネのことぐらい知ってるよ」と思われることでしょう。
しかし、本当におカネの仕組みを理解している人は、この世にほとんどいないのが実状です。
その原因は、ほとんどの人が“おカネのことを知らない”ためだと思います。
「おカネのことぐらい知ってるよ」と思われることでしょう。
しかし、本当におカネの仕組みを理解している人は、この世にほとんどいないのが実状です。
★紙幣の起源★
かつて、おカネは金・銀・銅などの金属でした。
おカネの量は、どれだけ金(銀・銅)が発見されるかにかかっていました。そして、交換価値の尺度となる、重量や純度が一定の鋳貨(コイン)は、権威と信用のある国王(政府)が造る権利を持っていました。
貨幣発行権とは、つまり「誰にどれだけおカネを分配するか」を決める権利です。
自分がそれを決められる権利を持った時のことを想像してみてください。どれだけ大きな権力を持つことができるか、想像できるでしょう。
貨幣発行権とは、つまり「誰にどれだけおカネを分配するか」を決める権利です。
自分がそれを決められる権利を持った時のことを想像してみてください。どれだけ大きな権力を持つことができるか、想像できるでしょう。
人々は取引きの時に、その対価に相当する鋳貨を支払っていました。
なかでも、最も価値の高いおカネは金貨でした。
なかでも、最も価値の高いおカネは金貨でした。
当時のお金持ちは、金貨を空き巣や強盗から守るために、立派な金庫を持つ金細工師や両替商に、そのおカネを預けていました。
仮に、この金庫を持つ金細工師をGさんとします。Gさんは、金貨と引き換えに預り証を渡し、保管のための手数料をもらっていました。
仮に、この金庫を持つ金細工師をGさんとします。Gさんは、金貨と引き換えに預り証を渡し、保管のための手数料をもらっていました。
金貨を預けていたお金持ちのAさんは、何かを購入するときにGさんに預り証を渡し、引き出した金貨で支払いをします。
その代金を受け取ったBさんも、空き巣や強盗に入られると困るので、やはり金庫を持つGさんに金貨を預け、預り証を受け取ります。
それならば、わざわざAさんはGさんから金貨を引き出さなくても、直接Bさんに預り証を渡せば、結果的には同じ事になります。
次第に人々は金貨を使って取引きするより、預り証を使って決済する方が便利で安全であることに気づき、その預り証が通貨(紙幣)の役割を持つことになります。
その代金を受け取ったBさんも、空き巣や強盗に入られると困るので、やはり金庫を持つGさんに金貨を預け、預り証を受け取ります。
それならば、わざわざAさんはGさんから金貨を引き出さなくても、直接Bさんに預り証を渡せば、結果的には同じ事になります。
次第に人々は金貨を使って取引きするより、預り証を使って決済する方が便利で安全であることに気づき、その預り証が通貨(紙幣)の役割を持つことになります。
★銀行業の秘密★
こうして人々が紙幣で取引きし始めると、Gさんの金庫の中にある金貨は眠ったままになります。
「もし預金者全員が一度に金貨を引き出しに来なければ、この金貨を担保に紙幣を発行してもよいのではないか」そう考えた狡賢いGさんは、お金に困っている人に紙幣を貸出し、その貸出し料として利子を受け取るというビジネスを始めたのです。
こうして近代式の銀行業が始まりました。この時から、おカネは銀行から融資を受けた時に創られる(=信用創造)ようになったのです。
よく考えてみれば、預かっている金貨はGさんのおカネではありませんし、勝手にそれを元手として貸し出しているのですから、これは横領であり、詐欺的行為です。しかし、その方法は秘密裏にされていたために批難されることはありませんでした。
ただ、ごくたまに困ったことが起きました。何らかの理由で顧客が多額の預り証を持ち込んできて、預けていた大量の金貨の返却を求めるときです。
実際ある金貨以上の紙幣を発行しているわけですから、顧客の求めに応じられません。
そういう時には、同業者が秘密の連係プレーで協力し、金貨を融通し合いました。銀行家たちの手から一時的に離れた金貨も、結局は廻り回って銀行家たちに帰ってくるのですから心配ありません。
このような大掛かりな詐欺的行為がバレないためにも、銀行業者の秘密性はさらに高まりました。
こうして近代式の銀行業が始まりました。この時から、おカネは銀行から融資を受けた時に創られる(=信用創造)ようになったのです。
よく考えてみれば、預かっている金貨はGさんのおカネではありませんし、勝手にそれを元手として貸し出しているのですから、これは横領であり、詐欺的行為です。しかし、その方法は秘密裏にされていたために批難されることはありませんでした。
ただ、ごくたまに困ったことが起きました。何らかの理由で顧客が多額の預り証を持ち込んできて、預けていた大量の金貨の返却を求めるときです。
実際ある金貨以上の紙幣を発行しているわけですから、顧客の求めに応じられません。
そういう時には、同業者が秘密の連係プレーで協力し、金貨を融通し合いました。銀行家たちの手から一時的に離れた金貨も、結局は廻り回って銀行家たちに帰ってくるのですから心配ありません。
このような大掛かりな詐欺的行為がバレないためにも、銀行業者の秘密性はさらに高まりました。
★国家を奴隷に★
かくして銀行家カルテルは物質的な金に囚われることなく自らおカネを創り出し、それを誰にどれだけ分配するか決める権限を持ったのです。
このようにおカネの主流が、銀行が発券する紙幣に変わっていくと、これまでのように国家がお金をコントロールすることができなくなりました。
ヨーロッパの君主たちは、お人好しにも、銀行家は大量の金を持っているのだと信じたのです。そして、国家がおカネを必要とし、しかし税収をもう上げられないとなると、銀行家から借りるしかないとなりました。
このようにおカネの主流が、銀行が発券する紙幣に変わっていくと、これまでのように国家がお金をコントロールすることができなくなりました。
ヨーロッパの君主たちは、お人好しにも、銀行家は大量の金を持っているのだと信じたのです。そして、国家がおカネを必要とし、しかし税収をもう上げられないとなると、銀行家から借りるしかないとなりました。
「借りる者は貸す人の奴隷となる」(旧約聖書)
こうして次々と“国家に対して貸付ける”ことによって、ロスチャイルド家は絶大な影響力を手に入れるようになったのです。
1815年、ロスチャイルド家はイングランド銀行を支配下に置き、英国の通貨発行権と管理権を手中に収めました。
1913年には米国に連邦準備制度(FRB)を設立し、米国の通貨発行権と管理権を手中に収めています。
21世紀初頭、ロスチャイルド家が中央銀行の所有権を持っていない国は、全世界でアフガニスタン、イラク、イラン、北朝鮮、スーダン、キューバ、リビアの七ヵ国だけでした。その後、アフガニスタンそしてイラクに対する米国の侵攻により、現在では残り僅か五ヵ国のみになっています。
1913年には米国に連邦準備制度(FRB)を設立し、米国の通貨発行権と管理権を手中に収めています。
21世紀初頭、ロスチャイルド家が中央銀行の所有権を持っていない国は、全世界でアフガニスタン、イラク、イラン、北朝鮮、スーダン、キューバ、リビアの七ヵ国だけでした。その後、アフガニスタンそしてイラクに対する米国の侵攻により、現在では残り僅か五ヵ国のみになっています。
香取神宮
http://local.yahoo.co.jp/static/place/a112/5872.html
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祭神とする。家内安全、産業指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されている。また、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名。
武の神として崇められ、海上自衛隊では「かとり」と称する練習艦があって、この香取神宮にあやかっています。
なぜ武の神とされるようになったか。飯篠家直(1387年(元中4年)- 1488年(長享2年))は日本武道の源流の一つである天真正伝香取神道流の創始者です。下総の豪族である千葉氏(千葉県の名前の由来)に仕えていましたが、千葉氏は戦国時代に滅亡。家直は関東を離れ京都で足利義満に仕えた後、再び関東に戻り兵法を広めます。
その真髄を求めるために日夜、香取神宮で神仏に祈り、修行を重ねた結果、神の天恵を受けて技を悟ったとされます。そして香取神道流を編み出しました。
剣術の世界では、これと同じような話があります。
陰流(かげりゅう)も、室町時代に愛洲久忠が創始した剣術の流派で、兵法三大源流の一つですが、自分が主導権を握らず、相手の出方の前、あるいは相手が出た後にいかに対処するかという方法を用います。10年の修行を積んだのち、鵜戸神宮(宮崎県日向市)の岩窟でクモの姿をした神に開眼したというものです。
武人が修行のすえ、知識人・宗教家の本家たる神社仏閣にて、悟りを開くということは伝説によく出てきます。
いつの時代においても、誰が政権を執っていても、それらは神仏思想によるイデオロギーがそれぞれにあるということです。経済人支配の時代にはそうした神仏思想がないときもありますが、そのときは資本主義なり社会主義なりというイデオロギーに基づいているということにおいて、神仏を信仰しているのと変わらないでしょう。つまり表面上、直接的に宗教家が前面に出て政権をとる時代もあるが、その時代以外の場合においても、武人・経済人の時代であってもなんらかの宗教・真理・哲学が作用しているということです。
このへんがうまく伝わっていないようなので、この例を出してみました。
自分は16歳から21歳まで、バイクやら車を乗り回し、F1レーサになれると勘違いしていましたが、しかしながらモータースポーツというものは、かなりの部分、マシンに影響されます。低速コーナーでのコーナリングはドライバー・ライダーの技術によるところが大きいが、それとても、四輪の場合は二輪よりもマシンの力が大きい。ホームストレートとバックストレートの二つでは、ドライバーが頑張れることができるのは、いかにコーナー出口からのアクセル全開を早くできるかということと、第一コーナーでの突っ込みのブレーキングをいかに遅らせるかというだけであり、直線そのものの走行はメカニックの腕にかかっています。
だから困難から打開しようにも、マシンの問題で悩んでいる場合、レーサー側はなんともしがたいものがあります。
そこで以後、私が注目するようになったのは競輪でありました。公営ギャンブルには、競馬・競輪・競艇・オートレースとあるが、このうち競馬は馬の体調や強さにかかっており、騎手にすべて責任があるわけではない。モーターボートとオートバイはエンジンに影響される。だが、競輪の場合はそのギヤ比などの選択などがあるにしても、全くといっていいほど人力です。さらに当時、政治の世界に入って行った私としては、競輪選手のラインの組み方が実に政治的に動いていると見えました。肉体を屈指しながらも、地域による人間関係がそこで動いているなと考え、江戸川区にいたときは松戸、千葉へ、横浜にいたときは花月園、川崎、平塚たまに小田原へ、田無にいたときは立川、京王閣、西武園へ、中野に戻ってからは新橋へなどに通っていました。車券の成績はトータルでプラスになっています。ほとんど買わずに見ていることが多く、間違いないときだけ買っていましたので、実に着実に生活費をかせいでおりました。
競輪と政治とは、たとえるならば、不人気の森内閣で森喜朗選手を先行させ、その番手からまくりをうったのが小泉純一郎選手であり、小泉マークが安倍晋三選手であったが、安倍選手は千切れ、その四番手を回っていた福田康夫選手が前に出てきた・・・という清和会ライン。これは競輪と政治が似ているところであります。競輪のゲストによく出ていた中村敦夫氏を親しく感じ、政治の世界に入る理由でもありました。
ただ自分で自転車こいでバンクを走ったことはありません。もはや金のかかるスポーツなどやる気がなかったからです。競技用自転車はかなりの値段がします。
けれども、武道やスポーツに限らず、何かの壁にぶちあたり、蓄えていた能力を短期間で一気に開花させるということはよくあることです。心理学では頓悟と言っているそうです。辞書には、何もしなくても神仏から授けられるようなことが書いてありましたが、それまでに大きな努力があったものと心理学ではみているようです。
http://local.yahoo.co.jp/static/place/a112/5872.html
経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祭神とする。家内安全、産業指導の神、海上守護、心願成就、縁結、安産の神として深く信仰されている。また、その武徳は平和・外交の祖神として、勝運、交通 安全、災難除けの神としても有名。
武の神として崇められ、海上自衛隊では「かとり」と称する練習艦があって、この香取神宮にあやかっています。
なぜ武の神とされるようになったか。飯篠家直(1387年(元中4年)- 1488年(長享2年))は日本武道の源流の一つである天真正伝香取神道流の創始者です。下総の豪族である千葉氏(千葉県の名前の由来)に仕えていましたが、千葉氏は戦国時代に滅亡。家直は関東を離れ京都で足利義満に仕えた後、再び関東に戻り兵法を広めます。
その真髄を求めるために日夜、香取神宮で神仏に祈り、修行を重ねた結果、神の天恵を受けて技を悟ったとされます。そして香取神道流を編み出しました。
剣術の世界では、これと同じような話があります。
陰流(かげりゅう)も、室町時代に愛洲久忠が創始した剣術の流派で、兵法三大源流の一つですが、自分が主導権を握らず、相手の出方の前、あるいは相手が出た後にいかに対処するかという方法を用います。10年の修行を積んだのち、鵜戸神宮(宮崎県日向市)の岩窟でクモの姿をした神に開眼したというものです。
武人が修行のすえ、知識人・宗教家の本家たる神社仏閣にて、悟りを開くということは伝説によく出てきます。
いつの時代においても、誰が政権を執っていても、それらは神仏思想によるイデオロギーがそれぞれにあるということです。経済人支配の時代にはそうした神仏思想がないときもありますが、そのときは資本主義なり社会主義なりというイデオロギーに基づいているということにおいて、神仏を信仰しているのと変わらないでしょう。つまり表面上、直接的に宗教家が前面に出て政権をとる時代もあるが、その時代以外の場合においても、武人・経済人の時代であってもなんらかの宗教・真理・哲学が作用しているということです。
このへんがうまく伝わっていないようなので、この例を出してみました。
自分は16歳から21歳まで、バイクやら車を乗り回し、F1レーサになれると勘違いしていましたが、しかしながらモータースポーツというものは、かなりの部分、マシンに影響されます。低速コーナーでのコーナリングはドライバー・ライダーの技術によるところが大きいが、それとても、四輪の場合は二輪よりもマシンの力が大きい。ホームストレートとバックストレートの二つでは、ドライバーが頑張れることができるのは、いかにコーナー出口からのアクセル全開を早くできるかということと、第一コーナーでの突っ込みのブレーキングをいかに遅らせるかというだけであり、直線そのものの走行はメカニックの腕にかかっています。
だから困難から打開しようにも、マシンの問題で悩んでいる場合、レーサー側はなんともしがたいものがあります。
そこで以後、私が注目するようになったのは競輪でありました。公営ギャンブルには、競馬・競輪・競艇・オートレースとあるが、このうち競馬は馬の体調や強さにかかっており、騎手にすべて責任があるわけではない。モーターボートとオートバイはエンジンに影響される。だが、競輪の場合はそのギヤ比などの選択などがあるにしても、全くといっていいほど人力です。さらに当時、政治の世界に入って行った私としては、競輪選手のラインの組み方が実に政治的に動いていると見えました。肉体を屈指しながらも、地域による人間関係がそこで動いているなと考え、江戸川区にいたときは松戸、千葉へ、横浜にいたときは花月園、川崎、平塚たまに小田原へ、田無にいたときは立川、京王閣、西武園へ、中野に戻ってからは新橋へなどに通っていました。車券の成績はトータルでプラスになっています。ほとんど買わずに見ていることが多く、間違いないときだけ買っていましたので、実に着実に生活費をかせいでおりました。
競輪と政治とは、たとえるならば、不人気の森内閣で森喜朗選手を先行させ、その番手からまくりをうったのが小泉純一郎選手であり、小泉マークが安倍晋三選手であったが、安倍選手は千切れ、その四番手を回っていた福田康夫選手が前に出てきた・・・という清和会ライン。これは競輪と政治が似ているところであります。競輪のゲストによく出ていた中村敦夫氏を親しく感じ、政治の世界に入る理由でもありました。
ただ自分で自転車こいでバンクを走ったことはありません。もはや金のかかるスポーツなどやる気がなかったからです。競技用自転車はかなりの値段がします。
けれども、武道やスポーツに限らず、何かの壁にぶちあたり、蓄えていた能力を短期間で一気に開花させるということはよくあることです。心理学では頓悟と言っているそうです。辞書には、何もしなくても神仏から授けられるようなことが書いてありましたが、それまでに大きな努力があったものと心理学ではみているようです。