おおさか佳巨 街頭演説のブログ

減価する地域通貨ですべての改革

平和党は何のためにあるのか5 保守政党乱立時代

2005年06月19日 10時07分06秒 | Weblog




傑作(0)
2005/6/4(土) 午前 10:21 | 平和党ブログ | 歴史




平和党http://www.heiwatou.jp

吉田内閣では憲法改正が行われ、現在の議院内閣制、男女二十歳以上の選挙権の仕組みが確立する。憲法改正後、ただちに総選挙が行われると、単独で過半数に達する政党はなく、日本社会党が第一党となったことから、社会党・民主党(旧日本進歩党)・国民協同党(日本協同党と国民党が合併)による三党連立政権が誕生する。吉田茂の自由党は、社会党左派とは連立政権を組めないとして下野した。

新憲法下で初めて内閣総理大臣となった社会党委員長・片山哲は民主党総裁・芦田均を副総理にすえ、国民協同党最高委員長・三木武夫とともに新政府をつくるが、社会党の左派と右派の対立が続き、内閣は崩壊、変わって、与党第二党である民主党総裁の芦田副総理が内閣を組閣する。

芦田内閣は、彼自身無実であった帝人疑獄事件によって失脚する。ふたたび自由党総裁・吉田茂が登場する。吉田は、民主党を離党した民主クラブと合併し、民主自由党を結成し、第2次吉田内閣をつくる。

民主党は国民協同党と合併し、国民民主党を結成、その後、重光葵総裁率いる改進党となる。

吉田茂の民主自由党はさらに、民主党の連立派を切り崩し、自由党と改称して、第3次、第4次吉田内閣として続く。鳩山一郎の公職追放が解除されると、吉田は鳩山との約束を履行せず、総理・総裁の座にいすわったため、自由党は吉田自由党と鳩山自由党に分裂した。鳩山自由党は、結局吉田総裁の下の自由党に納まり、第5次吉田内閣となるが、自由党鳩山派は再び飛び出して、重光葵の改進党と合同し、日本民主党を結成する。

日本民主党は単独過半数には及ばないものの、第一党として第1次鳩山内閣を作る。総選挙後の第2次鳩山内閣でも過半数には及ばなかった。それゆえ鳩山民主党と、吉田自由党の保守政党同士の合併が必要となってきた。

保守合同が模索されはじめたころ、社会党も分裂していた右派と左派が合併し、日本社会党が一本でまとまったころ、保守側も日本民主党は自由党との合併をし、自由民主党を結成する。これが今日の自由民主党であり、この自民党と社会党の二大政党時代が一九五五年になされ、以後、五五年体制が始まる。

いずれの政権も経済優先政策をとった。それは、敗戦によって、身も心も朽ちていたこの時代にとっては切実な問題であり、それが不可欠な政策であった。



超つづく



最新の画像もっと見る

コメントを投稿