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平和党は何のためにあるのか7 連立政権時代にみる各党の低迷

2005年06月19日 12時27分52秒 | Weblog






平和党http://www.heiwatou.jp

92年に竹下派は、小渕派と羽田派に分裂。小渕派にはパペットの小渕恵三が会長で、橋本龍太郎、梶山静六がおり、羽田派はパペットが羽田孜で実権は小沢一郎、その補佐に渡部恒三、長老役に奥田敬和がいて、竹下派七奉行は三名と四名に分かれた。

田中派以来、竹下派は最大派閥を占めてきたがそれが分裂によって崩れた。羽田派は政治改革ができなかった自民党を見限り、派閥まるごと離党し、新生党を結成した。党首には羽田孜、幹事長たる代表幹事に小沢一郎がついた。

彼らが離党して、新生党を結成したのは、この一年前に細川護熙前熊本県知事率いる日本新党が参議院比例区で四議席も得たことから、その流れを感じ取っていたのである。新生党は自民党の中でも一番黒い部分であった竹下派の人たちであるが、自分たちが政治改革をするのだという論調をもって、国民の支持を受けることになる。

新生党結成に、文字通り数日さきがけて、自民党の当選1回生、2回生で構成する政治改革グループが日本新党との連携を約束し、新党さきがけを結成する。メンバーには代表の武村正義はじめ、田中秀征、井出正一、園田博之、鳩山由紀夫らであった。

野党・社会党は宮沢内閣に不信任案をつきつけ、自民党羽田派が反逆したことによって不信任案が可決され、衆議院は解散する。総選挙の結果、新生党とさきがけ日本新党という新保守が躍進し、自民党は過半数を大きく割り、社会党は半減した。

連立政権時代

自社両党の大幅減により、ここに五十五年体制は終わりを告げ、在野の社会・公明・民社・社民連と新保守三党は連立政権を組み、自民党は結党史上初めて野党となった。自民党の総裁イコール総理大臣という方程式が初めて崩れたのである。

社会党は五十五年の結党以来、初めて政権についたが、社会党史上最低の議席での政権獲得となり、与党第一党といえども、首相の座を得ようとは考えられなかった。

新生党代表幹事・小沢一郎の采配によって、与党第四党たる日本新党代表・細川護熙が内閣を作り、政治改革法案が苦労の末、なんとか可決する。

政治改革法がなしとげられると新生党の小沢一郎がとりしきる非民主的な路線に反発した社会党とさきがけは距離を置き始め、細川首相は佐川急便からの献金疑惑が発端となって辞職する。細川首相はさきがけとの連携公約を棄て、小沢一郎に近づいていき、徐々に支持を失ってゆく。

後継には副総理であった新生党党首・羽田孜が就任するが、社会党は羽田を首相指名後に下野し、さきがけは閣外協力にとどまり、羽田内閣は少数与党政権となる。

やがて、野党自民党によって、羽田内閣に対して不信任案が上程されると、採決の前に内閣は総辞職をした。社会党とさきがけは、再び、新生党・公明党ら連立与党と連立を組み直そうと試みるが政策の不一致により破談する。

社・さ両党は、首相候補に村山富市社会党委員長を推すことで一致。小沢一郎はその強引な手法によって、自民党から海部俊樹を引っ張り出し、首相候補にする。初めて野党を経験し、絶望を味わっていた自民党は、社会党とさきがけの政策案を丸呑みし、村山委員長を首相として投票することを決定する。

ここに日本史上初めて、誰もが予想しなかった自民党と社会党の連立政権が生まれた。社会党はそれまで反対していた自衛隊の存在を認め、日米安保条約も堅持するという百八十度違った方向を示し、社会党内は混乱する。

一方、小沢ら旧連立与党は、合併し、新進党を結成し、史上最大規模の野党が生まれた。これにより、来る小選挙区制による二大政党時代を予感させた。

自社さ政権は、村山首相が引退し、副総理・橋本龍太郎自民党総裁に禅譲する。小選挙区制度のもとで埋没する社会党とさきがけは自民党・新進党とは違う第三の勢力として民主リベラル新党を模索しはじめる。その第一弾として、日本社会党は社会民主党に党名変更するが看板の架け替えだけに終わり、新たな入党者はなかった。

さきがけ代表幹事の鳩山由紀夫は、新進党にいる彼の弟である邦夫とともに、鳩山新党を結成しようと新進党にも呼びかけるが、社民党とさきがけを中心とした勢力にとどまり、民主党を結成する。

自民・新進・民主という三党の体制が生まれた。民主党結成の際に排除された社民党並びにさきがけの執行部側は、自民党との連立政権に残り、以降は自民党が過半数ないための補完的役割に社さは甘んじるのである。

九六年十月の総選挙後、どの政党もとくに伸びず、民主党結成により大量離脱となった社・さだけが激減した。自社さ連立政権は続いたが、議席の少ない社民・さきがけ両党は閣外協力となり、新進党は二大政党の一方の雄にはなりきれず、新進党から自民党に復党するものが増えていった。

新進党から小沢一郎の盟友であった羽田孜が、強引な小沢政治に愛想を尽かし、「太陽党」を結成する。新進党の崩壊は進み、細川護熙も離党し「フロム・ファイブ」を結成し、新進党は解党に追い込まれた。

新進党は六党に分裂する。小沢支持者は「自由党」として、旧公明党の衆議院は「新党平和」、同じく参議院は「黎明クラブ」、旧民社党は「新党友愛」、反小沢の保守派は「国民の声」、どこについていいかわからないがとにかく創価学会票が欲しい保守政治家は「改革クラブ」を、それぞれ結成した。これにより第三党であった民主党は第二党に格上げされたが、自民党との議席差は大きく離れていた。

羽田の「太陽党」、細川の「フロム・ファイブ」と鹿野道彦率いる「国民の声」は合併し「民政党」を結成する。やがて、民主党、民政党、新党友愛と民主改革連合は合併し、現在の民主党となる。

黎明クラブは公明と合流し、さらに衆議院の新党平和とも合併し、元の公明党に戻る。改革クラブは新党平和(のちの公明党)と統一会派を組み寄生する。

そうしたなか、二〇世紀最後の参議院選挙で、小沢一郎の自由党は自民党との連立政権を模索し始めた。

そして、自由党と同じく自民党を批判して議席を増やした公明党も自民党・自由党の連立政権に加わり、橋本内閣に続く小渕内閣は自自公連立政権となった。小沢は、衆議院比例代表の削減などの政策が守られないことから連立を離脱しようとするが、自由党内の連立維持派が反発し、保守党を結成する。本体自由党はやせ細り、下野する。このようなドタバタ劇の中、小渕首相は倒れ、幹事長・森喜朗が跡を継ぎ、まもなく小渕前首相は死去することになるが、自公保連立政権となる。

そして二〇〇三年、自由党は野党として民主党との共倒れを防ぐためにもと、民主党に合流する。保守党は民主党の数名と保守新党を結成するが、総選挙でさらに激減し、自民党へ復党する。

政党の変遷をコロコロ変えると有権者に筋が通っていないと言われるが、政党は政党のために存在するのではなく、政治家が利用するために存在する。政党の離合集散は、以前から多く行われてきたものであって、五五年以降、ほとんど政党の離合集散が少なかったのが異例であろう。有権者は支持政党を変えていくのに、政治家は所属政党を硬直していなければならないというのはおかしい。






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