日本と世界

世界の中の日本

韓国警察が尹政権へ一斉に反旗 統制部局新設に「独立損なう」

2022-07-29 19:28:42 | 日記
韓国警察が尹政権へ一斉に反旗 統制部局新設に「独立損なう」

2022/7/26 18:21桜井 紀雄有料会員記事
  • 国際
  • 朝鮮半島
  • 社会
  • 裁判


反応




韓国の尹錫悦大統領(共同)

【ソウル=桜井紀雄】

韓国の警察と尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権の確執が深まっている。

行政府内に警察を統括する部局を新設する尹政権の決定を巡り、警察幹部らが「警察の独立性を損なう」と一斉に反旗を翻した。

集団による反対行動を「クーデターに準じる」と批判し、幹部の処罰も辞さない構えの尹政権に対し、現場の警察官らも反発を強めており、対立は一層激化している。

尹政権は、警察改革に関する諮問委員会の勧告に従い、自治体などを管轄する行政安全省内に警察の政策や人事を扱う「警察局」を新設することを決めた。

警察側はこれに強く反発し、金昌竜(キム・チャンリョン)前警察庁長官が今月初めまでに辞任。

23日には、オンラインでの参加も含め、全国の警察署長約190人が会議と称して集まり、警察局設置に反対する意見を取りまとめた。

李祥敏(イ・サンミン)行政安全相は25日、記者会見で、署長らが再三の解散命令にも従わず、会議を強行したとして「クーデターに準じる状況だ」と指摘し、「刑事処罰事案だ」と激しく批判した。

尹大統領も26日、記者団に「重大な綱紀の乱れになり得る」と述べた。

尹政権は同日、警察局設置のための政令改正案を閣議決定。来月2日に施行される。警察側は一層反発を強め、今月30日には全国約14万人の警察官を対象とした会議を開くと予告しており、尹政権との対立は悪化の一途をたどっている。

対立の発端は文在寅(ムン・ジェイン)前政権の検察改革にさかのぼる。

文前大統領は、検察が捜査を盾に政治に影響を及ぼしてきたとして、捜査権の大半を警察に移す改革を断行した。

情報機関についても政治への介入を断ち切るとして、北朝鮮のスパイに関する捜査も含め、国内での捜査権限を警察に移譲させた。

その結果、警察の権限が一気に肥大化した。

一方、尹大統領は、検察への大統領府の介入をなくす名目で大統領府で検察や警察を管轄してきた民情首席秘書官室を廃止。

そのため、権限が増大した警察を統制するための行政部局の設置が急がれていた。

警察側がここまで行政安全省による統制を嫌うのは、1980年代までの軍事政権時代、警察が同省の前身の旧内務省の下部組織に置かれ、民主活動家らの拷問や弾圧に加担してきた暗い歴史があるからだ。


文前政権を支えた野党「共に民主党」は、今回の騒動に便乗し、

警察局設置について
「歴史に逆行する改悪だ」
「警察が尹政権関係者の『忠犬』に転落する」などと尹政権攻撃の格好の材料に利用している。

今回の政権と警察の確執は、文政権時代の検察や情報機関同様、警察も中立を訴えながら結局、政争に巻き込まれざるを得ない現実を映し出しているようだ。






畑俊六元陸軍大臣の日米戦争の回顧

2022-07-29 18:58:03 | 日記
畑俊六元陸軍大臣の日米戦争の回顧

(続・現代史資料(4)陸軍 畑俊六日誌 みすず書房 1983年3月刊 p539-541)
 畑俊六は昭和14年8月から15年12月まで、陸軍大将の第36代阿部信行内閣と、海軍大将の米内光政内閣での陸軍大臣です。

 どちらの内閣も畑俊六が引導を渡す形で内閣が総辞職しています。


 軍人が総理大臣になるのは好ましくないとの考え(?)からか、阿部内閣が議会の追及で総辞職か解散かに追い込まれた時に総辞職させ、米内内閣では政治家の近衛文麿が新体制の所信発表したのを受け、自ら単独辞任して内閣を総辞職させ、近衛文麿内閣が成立しました。
 その後は本土防衛司令官等になり、広島の原爆投下では広島で直接その体験もしています。
 戦後の国際裁判ではA級戦犯の終身刑となりましたが、昭和29年に病気で釈放されました。
 彼は現役時代からこまめに日記を記しており、それが伊藤隆、照沼康孝両氏の編纂で現代史資料として出版されています。
 以下にその一節を紹介します。
畑 俊六
(はた しゅんろく)
明治12年(1879年)7月26日 - 昭和37年(1962年)5月10日)
会津藩の武士の出身、日本の陸軍軍人。
陸軍内の派閥に属していなかったが、昭和天皇の信任厚く、陸軍大臣を2度務めた。


(昭和25年6月18日 巣鴨監獄にて)
この大戦に負けた原因は多々あるといえども、畢竟国力にて負けたのである。
 日清、日露戦争では、戦争も短期であり、総力戦といっても軍需工業、経済力といっても固より大なる素因をなすも規模が小さかった。
 又我相手の清国もロシアでも成程兵器は我方より優秀であったにせよ、そう大きな経済力がなく、又補給の点より云っても彼等よりも我方が寧ろ優位にあり、且制海権を保有しておったのであるから、軍隊その者の精神力が大に物をいって勝利を得たのである。
 しかし今回の対米戦争に於ては、工業力と云い制海権と云い何一つ優位にあるものなく、且補給は米国の優勢で有力な海軍力、航空兵力に制圧されて全くその機能を失い、太平洋上にばらまかれた兵力は総兵力に於ては優勢なりとも、個々に分断されて全くその力を失い、遂に各個に撃破されたのである。

 精神力に於ては日露戦争に比べれば国民全般の道徳力が著しく低下し、今回の戦争に比べようもないが、それでも個人の勇気は決して米軍に比して劣るものとは考えられない。

 戦犯として巣鴨に幽閉されて朝夕米軍将士に接する機会があり、勿論巣鴨監獄に勤務する米軍は他の部隊に比して一等低位にあるものとは考えられるも、その能力、勤務振りを見て、私には精神力、即ち軍紀風紀の点及訓練の点より見て我将士が彼に劣るものとは考えられない。

 日本軍将士の志気も我国の伝統より見て所謂斬込隊、特攻隊等の事実より見て、決して勇気地を払ってなしとは考えられないが、このような惨敗を見たのは全く組織の力が数倍米軍、否米国に比べて劣って居ったと断定せざるを得ない。

 米国がその富よりして金にあかして組織した国家総力に比べて、我国が日中戦争に於ていい加減に低下した国家総力を以て戦ったから敗けるのも誠に当然というべきである。

 結局貧乏国はいかに勇気があり意地を張っても、到底金持国には勝てないのが理の当然である。

 我国が米国の総力を低く判断したのは、米国に関する研究(あらゆる方面よりして)、ひいては諜報の不十分に帰因すべきもので、開戦前米国の経済断交にあい窒息し、又国民の声が開戦を主張したのに引きずられて、日中戦争でいい加減弱っていた国家の力を、無理に引きたたして開戦に引きずったことは、今にして考へれば誠に無理であったといわなければならない。

 日本が当時隠忍自重すれば、米国の海軍力は益々増大し、遂に自滅する外ないとする当時の海軍側の判断も一応理窟はあるが、たとえ米国より圧迫せられて逐次ジリ貧に陥るとしても、一か八かやって元も子もなくするに比べれば、まだまだ今日のような結果にならなかったであろうと思う。

 日中戦争だけ続けていて、油だけは何とかして工面し(米国と戦争をしないのならば在中国航空兵力だけであるから、油も何とかなったことであろうと思う)、小ジンマリとやって行ったなら、その内には国際情勢も変化して、又何とか局面打開の法があったように思う。
 かえすがえすも遺憾千万で、所謂”敵を知り己を知る、百戦危うからず”の金言を守らなかったからである。

 企画院あたりの計画も杜撰(ずさん)極まるもので、米国と戦うという前提の下に我国にのみ都合よくデッチ上げて、我方戦力を判定した処に根本的に誤りがある。

 又海軍は陸軍が中国大陸に於て、満洲事変から日中戦争と独り舞台に活躍するのに嫉妬もあり、功名争いもあり、昭和十数年以来、陸軍に対抗して莫大な予算をとり、尨大なる艦隊を作り、大和、武蔵という六万トンもある途方もない軍艦を作り、シコタマ油を貯蔵し、何か一仕事してたまらない処に、たまたま日米交渉決裂が起り遂に日米の大戦争となった。

 この大艦隊を惜気もなく潰滅させて、戦後戦犯となると総てを陸軍に押し付けて涼しい顔をしているとは、誠に以て怪しからん次第である。

 東京裁判で陸軍のものが六名も極刑となったのに海軍は一人もないとは誠に妙なことといわねばならない。

 敵を知ることをおろそかにして戦を初めた処に、緒戦の成功により有頂天となり、遂に刀を鞘に納めることを知らず、戦が初まってからも陸、海軍互に尚また功を争い作戦がテンヤワンヤとなり、遂に大敗に導てしまった。

 よい潮時に刀を納めるとしても米国が承知するまいというけれど、我より相当の犠牲を払って米国の面子をたて和を講じたならば、米国でも戦争を止めたいのであるから承知しないものでもなかったろう。

 日露戦争でも適当な時に刀を納めた。

 当時は何といっても政治家がいたが、この戦争では政治家がいなかった。

 又下剋上の風が強かった為に若いものに引きづられた。

 私などにもその責任はあるが、何としても残念なことをしたものだ。

 これも天運であると共に明治大正を通じて温醸された弊害が積り積って潰滅した結果に外ならない。

 
これも身から出た錆とあきらめなければならない。


【書評】『元帥畑俊六回顧録』軍事史学会編、伊藤隆・原剛監修

2022-07-29 18:23:11 | 日記
【書評】『元帥畑俊六回顧録』軍事史学会編、伊藤隆・原剛監修(錦正社、2009年)
May 10, 2010
  • 政治
  • 歴史
  • 政治外交検証:書評

評者:大前信也(同志社女子大学嘱託講師)


軍事史関係史料の翻刻に取り組む軍事史学会が、『機密戦争日誌』(平成10年)、『宮崎周一中将日誌』(同15年)に続く第3弾として公刊したのが本書である。

日本陸軍最後の元帥であった畑俊六が巣鴨在監中に執筆した回顧録と彼の昭和3年から4年、20年から23年の日記からなる。

監修者のひとり、伊藤隆氏のまえがきが示すように、回顧録は誕生から阿部内閣陸相就任までの詳細な回想で、陸軍内の派閥対立から距離をおいていた畑ならではの客観的な記述は、陸軍研究の貴重な資料といえよう。

畑の日誌としては、すでに『続・現代史資料4陸軍 畑俊六日誌』(みすず書房、昭和58年)が刊行されているが、今回の翻刻は同書を補い、これによって畑の全生涯をほぼカバーできることになった。

畑の経歴を概観するには、もうひとりの監修者、原剛氏による詳細な年譜が有益である。

陸士12期の畑は杉山元、小磯国昭、柳川平助らと同期であり、陸大を首席で終えると参謀本部作戦課に配属され、以後欧州駐在や部隊長の期間を除くと一貫して軍令畑を歩み、昭和3年には作戦部長に就いている。

彼を庇護していた兄英太郎が関東軍司令官のまま5年に急逝すると、一転閑職に追いやられるが、宇垣一成の後継者と目されていた兄と異なり、俊六自身は派閥や政治とは距離を置いていたようである。

それが侍従武官長就任につながり、昭和天皇の信任を得て阿部内閣での陸相就任を招くことになる。

次の米内内閣を自らの辞表で倒した後、支那派遣軍総司令官をつとめ、19年6月には元帥に就任、終戦時には第二総軍司令官をつとめていた。

37年に逝去、日本陸軍最後の元帥であった。

ここでは本書の過半を占める回顧録部分を特に先の大戦の敗因分析に注目して取り上げたい。

回顧録部分は「畑俊六回顧録」(5‐231頁)と「敗戦回顧」(469‐480頁)からなる。

そこでは畑の目を通した明治、大正、昭和の陸軍が描かれているとともに、昭和20年12月巣鴨拘置所収容直後から22年暮れにかけての執筆であることから、敗北の原因に繰り返し言及されている。

陸軍最高位の元帥にあった者による敗因の考察がこの回顧録の特徴といえよう。

特に「敗戦回顧」は敗北の理由に的を絞って書かれている。

すなわち、「ここに敗戦の因て来るべき処を深刻仔細に検討して、改むるべきは速かに改め、守るべきは守り、以て再起の資となさざるべからず」との思いで筆を執っていたのである。

日記部分のうち、畑が参謀本部部長だった昭和3‐4年の日記には、山東出兵、済南事件に関する記述が目立ち、田中義一首相と満洲某重大事件、宇垣一成陸相と軍制改革への言及もあって、当時の参謀本部の様子が覗える。

『続・現代史資料』所収分(昭和4‐20年)と合せて検討されるべきであろう。

さて、畑の回想によれば先の大戦の敗因の主たるものは次のようになる。

彼が敗北の最大の原因とするのは陸海軍の対立である。

薩の海軍、長の陸軍より始まる融和の欠如は、作戦構想の不一致、隠し立てを招いたことに加えて、予算を奪い合い、航空機などの技術の共通化が出来ずに経費や資材を浪費したこと、統帥部の合一や空軍創設が海軍の反対で実現しなかったことを指摘する。

そして、陸軍の立場から海軍に対して鋭い批判を投げかけている。

すなわち海軍の陸軍に負けまいとする意識、陸軍主導を恐れる海軍の危惧がこれらの対立の根本にあって敗戦をもたらしたというのである。

畑は満洲事変や漢口作戦の事例を挙げた上で、海軍の便乗主義と責任回避を次のように論難している。

「結果思はしからずと見れば宣伝是努め凡ての責任を陸軍に転嫁したり。

今次の戦争の如き先づ海軍を以て戦はざるべからざること明瞭の事実にして、海軍さへ到底戦争出来ずと云へば勃発すべき筈なきに、主脳部の態度頗不明瞭にして首相一任と言う如き極めて狡猾な態度をとり、悲惨なる敗戦の結果となるや、開戦の責陸軍にありと宣伝是努むるが如き、其心情唾棄すべく武士の風上にも置けぬ代物なりと云ふべし」。

敗戦から間もない時期の執筆だけに戦時の陸海軍間の様々な軋轢の経験がこうした激しい言葉を彼に記させたのであろう。

勿論、畑は陸軍部内の派閥対立や下剋上の悪習も敗戦の原因をなしたのは明らかであると断じている。

長閥とそれへの対抗に始まる派閥抗争は、各派の少壮将校が中心人物をロボット化する事態を招いたが、満洲某重大事件や三月事件の関係者への不十分な処置が上官への軽侮感を促して下剋上を増長させた。

この弊風が顕著であった関東軍が満洲事変を引き起こして政治にも影響を与えるようになったことが、ひいては先の大戦突入の一大原因であると論じられている。

このような陸軍に対して、部内の統制を維持して敗戦まで結束を保った海軍の手際には感嘆のほかないと畑は述べて、先の手厳しい海軍批判との間でバランスをとっている。

彼はその理由を岡田啓介ら海軍長老がよく部内をとりまとめたことに求め、陸軍が宇垣一成らを尊重する雅量に欠けたのと対照的であるとした。

この畑の指摘を待つまでもなく、政戦略の一致に重要な役割を果たすべき陸軍が、もし内部対立を克服できていたとしたら、少なくとも中国との事変の長期化は避けられたであろう。

一方、政治家として敗戦の責を負うべき人物に挙げられているのは近衛文麿である。

その「はっきりしない性情」、「弱い性格」では開戦直前の日米交渉の難局を打開することはできず、嫌気がさすと内閣を投げ出して我が国の施策に一貫性を欠如させたことは、今次の敗因のひとつであるとして畑は我が国政治家の貧弱さを嘆いている。

但し、近衛は陸軍のいうことをよく聞いたので、彼を支持して担ぎ上げた陸軍の責任も浅くはないとの自省も忘れてはいない。

これは陸相経験者による陸軍の政治関与の難しさについての痛切な自己批判でもあろう。

政治に関連して政戦略の不一致も指摘されている。

占領の効果など宣伝価値を優先して戦略の本領を後回しにしたため、兵力の逐次使用など用兵の失敗を招いたが、それは貧弱な政治家が軍部にひれ伏し、陸軍の少壮中堅層が政治を解さないまま宣伝に走った結果とする。

このことは別に述べられている総力戦に備えた戦時体制構築の不十分さとも関係していよう。

大陸での戦いが5年に及び国内が疲弊して厭戦気分も出てきた中で米英との国家総力戦に臨むには、戦争機構の改良進歩が必要であったにもかかわらず、それを怠ったところに失敗の原因のひとつがあったというのである

陸海の統帥も合一できず、政戦略の歯車も噛み合わないところに近代戦の捷報はもたらされないだろう。

ところで畑俊六は砲兵であった。

工兵と並び技術に親しむ兵科である。

砲工学校ののち帝大員外学生として技術を修める道を採らず陸大での参謀教育を選んだ彼は、技術には詳しくないと謙遜しているが、砲兵監をつとめ更には航空本部長の席にもついている。

そうした畑から見ると、陸海軍や陸軍部内の対立とともに敗戦の一大原因をなしたのは、軍事技術の遅れであり、技術改良への関心の低さであった。

「我国は飛行機にて米国に敗れたるなり。飛行機と電波兵器にて我国は無条件降伏の憂目に遭ひたるなり、窮極する処技術にて破れたるなり」とまで断言している。

日清戦争後の軍備拡張時に量の拡大に追われて質の改良を進めず精神面で補おうとしたが、それで日露戦争に勝利したため方針を変えずに量の拡大に走り、その結果としての兵器の劣等が今次の惨敗を招いたとする。

その背景には陸軍当局の技術に関する認識が至らず、技術制度の抜本的改正を怠ったことや幼年学校から陸大まで技術教育を軽視したことなどがあった。

加えて貧乏国の常として予算に束縛されて列強より遅れた装備で戦わざるをえなかったのは、政治の責任でもあるとの指摘も忘れない。

教育に関連していえば、陸軍大学校が戦術戦略を偏重した教育を続けたことも敗因の一つとされている。

火器や航空機の進歩発達した状況では、統帥も学理的、系統的であるべきであり、総合戦力を発揮するため精密周到な計算に基づく計画が必要となるが、陸大ではこれを軽視する傾向があったという。

そこで養成された幕僚は計画的統帥に疎く、通信や補給がないがしろにされた。米軍の科学的な作戦計画とは雲泥の差であり、兵器と弾薬と航空機の学理的指揮に圧倒されたのが今次の大戦であったと畑は振り返っている。

彼のいうように、陸大教育での兵站の軽視は補給計画の杜撰さ、すなわち船舶の運用、補充の計算の誤りを招いて補給の断絶を引き起こし、通信への無頓着は作戦連絡の敏活を欠く事態を生じさせて悲惨な敗戦の原因となったのである。

畑の筆がここまで進むと、我が国の国家、社会や文明のあり方といった議論がすぐそばに控えているように思える。

欧米先進諸国に遅れて急速な近代化を進めた極東の島国がたどった隘路と片付けてしまうと、その道程に捧げられたものが見えてこないだろう。

畑は自身の生涯を振り返る中、敗戦の主たる原因を以上のように総括した上で、次のような文章を最後に筆を擱いている。

そこには彼が敗北を糧にして次の世代に伝えようとした教訓が示されているといえよう。

「要するに本戦争に於ては組織的技術的統率に於て敵側に破れたるものにして此原因は上は大本営より下は下級部隊に至るまで計画者指揮官が物的質と量に綿密周到なる計画等に疎く所謂観念的に客観的に物事を計画指導したる結果、万事科学的事務的なる米側に数歩を輸したるものにして、畢竟我国上下一貫する科学的事務的教育の不備を暴露したるものと云ふべし」、

「我国将来の教育は学校と言はず社会と言はず一層事務能率的に教育を刷新するの要あり。之が為には科学的に組織的に物事を観察処理するの習慣を養成教育するの必要最大なりといふべし」。

敗戦間もない時期の悔悟が組織と技術、能率と計画に関する言葉で結ばれているのも、彼らしいところである。畑俊六は生粋の軍人であった。

ここに挙げられたいくつもの敗因は、その後、多くの論者によって指摘されたことでもある。

しかし、陸軍最高位の人物が敗戦直後の回顧の中で率直に述べているというところに本書の特徴があるといえよう。

畑が指摘したことは、例えば海軍側から見るとどうなるのか、政治家はいかに反駁するか、諸外国の事例はどうだったのか、といったことと比較していく必要があろう。

しかし、何よりも興味深いのは畑の回顧から60余年後の現在、ここに指摘された論点がどのように克服されたか、あるいは克服されなかったかということである。

それらの比較と分析と検討は評者を含めた政治史家の今後の課題であろう。



マリアナ沖海戦

2022-07-29 17:43:01 | 日記
マリアナ沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 16:12 UTC 版)

勝敗の要因

小沢治三郎司令部
指揮官の能力

本作戦の敗因の一に、機動部隊の長官である小沢中将の能力不足が挙げられている。 機動部隊の田中正臣航空参謀によれば、小沢中将には飛行機に対する知識が絶対的に不足しており、艦隊司令官でなく艦長が持っている程度の知識であり、訓練や性能の意味もよく知らなかったうえ、それを補佐すべき幕僚には小沢中将に意見できるような人物がいなかったという[62]。また、小沢中将は本作戦の際に旗艦に軍楽隊を乗せ、どう間違っても勝ち戦だと確信している気運があったという[63]。二航戦の奥宮正武航空参謀は、同海戦の敗北後に小沢司令部の高級幕僚から「勝敗は時の運」という言葉を聞き、それが当時の小沢司令部の空気だったという[64]。また、「マリアナ沖海戦での小沢司令長官の戦法(アウトレンジ戦法)は良かったが、飛行機隊の実力がこれに伴わなかったという説があるが、私はこれに賛成出来ない。第一線部隊の指揮官の最大の責務は戦闘に勝つか、払った犠牲にふさわしい戦果を挙げることであるからである」と述べている[65]。
第一戦隊司令官宇垣纏中将は、1944年4月末に「大鳳」で行われた図上演習を部外者として見学したが[66]、第一機動部隊に対し「生死の岐るゝ本圖演に於て、徒らに青軍に有利なる経過あるは指導部として注意すべき點なり」と苦言を呈している[67]。5月5日の「大鳳」での図上演習では「全體を通じ見るにKdF司令部は手前味噌の感無き能はず。戦は一人角力に非ず。噴戒を要す」と怒りを示している。
アウトレンジ戦法
詳細は「アウトレンジ戦法」を参照
本作戦で小沢長官が採用したアウトレンジ戦法は、成果をあげずに多大な犠牲を払うこととなり、連合軍からは「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される結果になった。
この戦法に対しては、反対意見もあった。航空本部部員角田求士は「海戦後ある搭乗員から出撃前の打ち合わせ会で「現在の技量では遠距離攻撃は無理だと司令部と議論をした」という話を聞いた」という。軍令部部員の源田実は、「自分はアウトレンジには反対でリンガに出張した時、第一機動部隊司令部に忠告してきた。その理由は、航空攻撃の時発進後適当なウォーミングアップが必要で、発進後三十分ないし一時間が適当である。これより早くても遅くても不適当である。従って発進距離は200浬、多くとも250浬以内が適当である」という。第二航空戦隊参謀奥宮正武は「大鳳の打ち合わせでアウトレンジに対する反対意見を述べた。それは当時の練度では自信がなかったからである。ただし意見を述べただけで議論はしなかった」という[68]。奥宮参謀は敢えて議論をしなかったことについて「本件については既に作戦前から小澤司令部の参謀達とよく話してあったが、彼等は母艦航空戦を理解しておらず、ましては理解も出来無かった…と言うより聞く耳を持たなかった」「そんな経緯もあり、大鳳での打ち合わせという最終段階において、その様な議論をすることは利益よりも害が多いから」と述べている[69]。
一方で、機動部隊司令部は反対意見の存在を否定している。小沢長官は戦後、防衛庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、練度からしてまともに四つに組んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の訓練、開戦後の戦闘様相を考え、最後に到達した結論は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦後になってアウトレンジは練度を無視した無理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関係高官が出て来たが、当時の航空関係者は上下一貫してこの戦法で思想は一致していた。」と語っている[70]。先任参謀大前敏一も反対意見を聞いたことがないという[71]。
しかし、結果的にはこのアウトレンジ戦法は無謀であった。ただでさえ、太平洋の真っ只中において母艦から発艦した艦載機が、敵艦隊攻撃後、再び母艦に戻ってくることは、敵に到達する以上に難しいのに、その距離が今までの作戦よりずっと長大だったのである。特に航法担当者のいない単座機である零戦などは、味方機と離れてしまうと独力で戻ってくることは難しかった。そのため、洋上で機位を失し燃料切れで母艦に帰投できなかった母艦機も相当数あったと考えられている[72]。 また長距離飛行となるので、事前に索敵機が発見した敵艦隊の移動距離も大きくなるわけで、ましてや未錬成の搭乗員ではこれを発見するのは至難のわざであった。二航戦の奥宮航空参謀は、攻撃隊の前方に前路索敵(誘導)機を先行させ、この誘導機によって攻撃終了後、再び攻撃隊を母艦まで誘導することも期待されたが、結果的には、それらの効果は認められず、多数の未帰還機を出した[73]。 また、母艦の索敵機の一部は、緯度変更に伴う磁針の訂正をしておらず、第58任務部隊の位置を誤って報告した。その結果、日本艦隊は米機動部隊が二群いるものと取り違え、実際には米艦隊のいない方角に乙部隊を中心とした100機近い航空機を差し向けてしまった。これらの攻撃隊は、米艦隊に会敵できず引き返したが、それでも少なからずの未帰還機を生じさせている。また、一部はロタ島等にある日本軍飛行場に着陸する直前に攻撃されたりして損害を出した。
また、第一機動艦隊の母艦艦載機が、タウイタウイ入泊後に各種訓練ができなかったこともアウトレンジ作戦失敗の要因であった。編成の早かった一航戦艦載の第601海軍航空隊搭乗員は、リンガ泊地・シンガポール付近で約一ヶ月程の訓練を行ったが、タウイタウイ入泊後は2回しか訓練出来無かった。これらの原因としては、タウイタウイ近辺に、全艦載機を挙げて訓練する飛行場がなかった事、泊地自体が第一機動艦隊が全艦入泊した時点で一杯になり、泊地内で空母が母艦機の訓練を行なう事が出来無いほど狭かった事、タウイタウイ島周辺に米潜水艦が多数出没した為、泊地から出て訓練ができなかった事が挙げられる[注釈 6]。
編成が遅れた二航戦の第652海軍航空隊、三航戦の第653海軍航空隊は、内地で満足に訓練が出来無いままタウイタウイに直行した為、僅かに回航中に1回、入泊後5月18日と同31日の2回しか訓練を行えなかった。その為、二航戦の奥宮正武航空参謀は「タウイタウイでは“如何に練度を上げるかではなく”“如何にしてこれ以上、練度を下げないようにするか”に腐心した」という[75]。363空飛行長の進藤三郎は「その頃の搭乗員の練度は何とか着艦ができる程度、洋上航法や空戦はやっとこさ というくらいで、とても『アウトレンジ戦法』どころではなかった」という[76]。
艦攻等は攻撃が訓練の主体なので列機は指揮官機の後ろについて行く考えが強く、指揮官機が墜とされると、もうどちらへ行ってよいのかわからないものが多かった。練度は3分の2が通常の任務遂行に支障なく、残りの3分の1も平易な状況下で作戦可能であったが、特に練度が高くて距離的にも心配のないのは全部のうち二ないし三組だけであった[77]。652空飛行隊長岩見丈三によれば、分隊長以上の指揮官で訓練を補おうとしていたようだが、実際はうまくいかず、戦術行動などは机上訓練であったという。田中航空参謀によれば、タウイタウイでやるはずだった必要なウォーミングアップができずに戦闘指向が上がらなかったことが最大の原因であるという。奥宮二航戦参謀によれば、練度が落ちて索敵に自信がなく、発見しても命中できるかどうか疑問であったという[78]。
戦力の格差
航空戦力
航空戦力には決定的な差があり、日本側が498機に対し、アメリカ側は901機であった。 母艦部隊は1943年末から1944年初頭までに南東作戦で消耗しており、訓練もほぼ実施できなかったので本作戦を行うには練度不足であった[79]。(一方、母艦部隊の練度自体は、海軍が新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成にもかなりの努力を払ったので、本海戦に参加した全母艦搭乗員の平均飛行時間は、開戦時〜南太平洋海戦までと比べてもあまり遜色ないレベルであったという指摘もある[80])
もう一つの航空戦力である基地航空部隊の第一航空艦隊は作戦前の消耗戦でその多くを失い、練度も芳しくなかった。 一航艦は将来の主戦力として期待されて錬成が続けられていたものだが、練成途中にクェゼリン、ルオットの玉砕が起こり、1944年2月15日に連合艦隊への編入が決められた[81]。さらにトラック被空襲によって一航艦の実戦投入が早まった。一航艦整備参謀山田武中佐によれば「トラック被空襲により予定外の五三二空、一二一空等の実動全力のマリアナ方面投入が命ぜられたが、それまでの内地における訓練の実体は各隊訓練のみで、航空艦隊設立の主旨である大兵力の機動集中は一部の部隊(二六一空、七六一空)のみで実施されていた状況である。全般の練度については、一航艦のマリアナ展開が時期過早と考えられ、五二一空、一二一空に至ってはマリアナに出ていってから訓練する方針であり、自分は訓練状況をよく知り過ぎていた関係からとても自信を持ち得なかった」という[82]。
第一航空艦隊は2月23日マリアナ進出時にマリアナ諸島空襲を受けた。淵田美津雄参謀は、戦闘機が不十分なこと、進出直後で攻撃に成算がないこと、消耗を避けることを理由に飛行機の避退を一航艦長官角田覚治に進言したが、角田長官は見敵必戦で迎撃を実施し、最精鋭でもあるほぼ全力の90機を失った[83]。その後も増援された戦力の消耗を続けた。
直前の渾作戦によって攻撃集団(一航艦)の集中が遅れ、基地航空部隊は逐次消耗し、決戦に策応できなかった[84]。5月27日、米陸軍主体の連合軍はビアク島へ上陸を開始、この方面は絶対国防圏からも外れ、作戦命令方針にも一致しなかったが、連合艦隊が独自の判断で決戦兵力の第三攻撃集団を投入した[85]。29日、渾作戦が実施され、決戦兵力の第二攻撃集団もハルマヘラ島方面に移動させた[86]。5月11日マリアナ空襲を受け、連合艦隊は第二攻撃集団をヤップ島に戻したものの、第一攻撃集団はパラオ空襲の被害が大きく、第二攻撃集団ではデング病が蔓延、第三攻撃集団はすでに消耗し、第一航空艦隊はすでに作戦協力が不可能な状態にあった[87]。一連の戦いで稼動機を全て失った第732海軍航空隊は戦闘詳報で「小兵力を駆って徒に無効なる攻撃を続け、兵力を損耗し尽くすに及んで已むに至るが如き作戦指導は、適切とは称し難し。耐久的戦勢に於いては、見敵必戦策なき無理押しを反覆せず、兵を養い機を見て敵の虚に乗じ、戦果を発揚する如くすべきなり」と評した[88]。この様な事情から第一航空艦隊で作戦に参加できたのは100機程度であり、邀撃戦を少数かつ分散した状況で実施し、期待されていたような総合威力を発揮することはできなかった。
対空防御力
本海戦における攻撃力の主は航空戦力であったが、それならば防御力の主は対空防御力となる。その対空防御力の日米差は、航空攻撃力以上の差があった。米機動部隊に艦載されていた戦闘機はすべてF6Fであり、日本の零戦に優位はなく、陸上攻撃機も性能不足で、空襲への迎撃態勢も米軍がレーダー・無線電話・CIC(戦闘指揮所)などを使用、導入して戦闘機を有効活用し、高角砲の対空射撃にVT信管を開発、使用していたのに対し(上述の通り対空砲火による損害はほとんどなくかつVT信管の使用率も20%程度で本海戦におけるVT信管による損害と言えるものは微々たるものであった。)、日本側は従来の防空方法のままであった。これは潜水艦など他の兵器にも言えることで、兵器の進歩性で日本軍はアメリカ軍に大きな差をつけられたまま本海戦を迎えたのであった[89]。
アメリカ海軍機動部隊は、レーダーとCICによる航空管制を用いた防空システムを構築していた。潜水艦からの報告で日本艦隊の動向を掴んでいたアメリカ機動部隊・第58任務部隊は、初期のレーダーピケット艦と言える対空捜索レーダー搭載の哨戒駆逐艦を日本艦隊方向へあらかじめ約280km進出させておいて、日本海軍機の接近を探知した。そしてエセックス級航空母艦群に配備されていた方位と距離を測定するSKレーダーと高度を測定するSM-1レーダーの最新型レーダーで割り出した位置情報に基づいて日本側攻撃機編隊の飛行ベクトルを予測し、400機にも及ぶF6F ヘルキャットを発艦させて前方70〜80kmで、日本側編隊よりも上空位置で攻撃に優位となる高度約4,200mで待ち受けさせた。
進出させた哨戒駆逐艦や他空母など自艦と同じ最新型レーダーを搭載した艦を含む傘下各艦隊、戦闘空域近くを飛行する早期警戒機、早期警戒管制機の元祖といえる高性能レーダーと強力な無線機を搭載した特別なTBMなどから各々探知した日本機編隊の情報が、第58任務部隊旗艦のエセックス級航空母艦レキシントン IIのCIC(Combat Information Center)に伝えられた。
VT信管(MARK53型信管)


当時のCICは、まだ戦闘に関する情報をほとんど完全な手動で処理、統合、分析を行なうだけで、戦闘機誘導所がCICからの情報をもって空中待機中の戦闘機隊を無線で、向かってくる日本機編隊ごとに振り分けその迎撃に最も適した空域へ管制し、交戦開始後は各戦闘機隊の指揮官が現場指揮を執って、逃げ惑う日本機を追いかけ回した。「マリアナの七面鳥」と呼ばれたのは、そのときの日本機の逃げられないのに逃げ惑う姿が、これからつぶされようと人間に追いかけられる柵の中の七面鳥の逃げ惑う姿に似ていたからである。
また、1943年の末頃から、対空砲弾が命中しなくても目標物近く通過さえすれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。この結果、従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は3倍に跳ね上がった。アメリカ軍は概ね3倍程度と評価している。なお、マリアナ沖海戦におけるアメリカ艦隊の対空砲火のスコアは戦闘機の迎撃を突破して艦隊上空に到達できた日本機が少なかったこともあり、VT信管弾や40mmボフォースなど全てを合計しても19機(アメリカ側確認スコア。当然誤認を含むと思われる)に過ぎなかった。また1943年に開発されたばかりのVT信管はマリアナ沖海戦時点では製造が間に合っておらず、アメリカ艦隊が発射した全高角砲弾のうちVT信管弾が占める割合は20%程度であった。
日本軍でも、アメリカ艦隊の対空防御能力を「敵艦艇の対空火力は開戦初期はバラバラ、その後火ぶすまに変わり、今やスコールに変わった」として、これまでのような方法でアメリカ空母を攻撃しても成功は奇蹟に属すると考えるようになった[90]。
アメリカ軍の指揮
勝利を得たアメリカ軍だが、スプルーアンスの作戦指揮については消極的であるとの批判がなされた。6月18日に攻勢に出なかったことや、20日になるまで西方への進撃を行わなかったことなどが指摘され、航空戦の専門家でないスプルーアンスが指揮官だった点も問題視された[91]。これに対し戦史家のサミュエル・モリソンはスプルーアンスの戦術指揮は正しかったと主張している。サイパン攻略の支援という任務を負っていたことから、日本の航空部隊により大きな打撃を与えることは困難であった。また、西進していれば、何隻かの艦艇が失われる結果になっただろうと反論している[91]。
モリソンは、どちらかといえば19日に夜間索敵が行われず、日本艦隊発見が遅れたことを問題視している。19日夜の段階で日本艦隊を発見できれば、翌20日に早朝から攻撃が可能であったはずだと指摘する。ただ、ミッチャーが夜間捜索をしなかったのは、搭乗員の疲労が激しかったことへの配慮に基づくものであったと擁護している


調査対象国のうち、家計債務がGDPを超えた国は韓国のみ。

2022-07-29 17:15:01 | 日記
国際金融協会、第1四半期の統計…韓国だけがGDPより家計債務が多い 

増加スピードは企業債務が2位、政府債務の割合は15位

主要国のGDP比の家計債務・非金融企業債務

 韓国の家計債務は、国家の経済規模を考慮すると、世界36の主要国(ユーロ地域は単一統計)のうち依然として最も多いことが確認された。

今年第1四半期基準で、日本や米国などの主要国の国内総生産(GDP)比の家計債務残高は、新型コロナ危機のために消費が減り1年前より4ポイント以上下がったのに対し、韓国の下落率は0.7ポイントにとどまった。

企業債務は韓国の増加スピードが世界で2番目に高かった。 

 国際金融協会(IIF)が5月に発表した報告書「グローバル債務モニタリング」によれば、今年第1四半期の韓国のGDP比の家計債務残高は104.3%で、世界36カ国の中で最も高かった。

「家計債務世界1位」からいまだ抜け出せていないということだ。

続いて香港(95.3%)、タイ(89.7%)、英国(83.9%)、米国(76.1%)、中国(62.1%)、日本(59.7%)、ユーロゾーン(59.6%)が10位圏内に入った。

調査対象国のうち、家計債務がGDPを超えた国は韓国のみ。 

 昨年第1四半期に比べると、韓国のGDP比の家計債務残高は105.0%から104.3%へと0.7ポイント下がった。

しかし同じ期間の縮小幅は、英国(7.2ポイント)、米国(4.7ポイント)、日本(4.6ポイント)、ユーロ地域(2.9ポイント)に比べて明らかに小さかった。 

 企業の経済規模に対する債務の増加スピードも韓国が最上位圏だ。

韓国のGDP比の非金融企業の債務残高は、昨年第1四半期基準で116.8%で、香港(281.6%)、シンガポール(163.7%)、中国(156.6%)、ベトナム(140.2%)、日本(118.7%)に続き7番目に高かった。

韓国企業の債務の割合は、昨年第1四半期(111.3%)に比べて5.5ポイントも上がった。

こうした上昇幅は、ベトナム(+10.9ポイント)に次いで36カ国のうち2番目に大きかった。 

 一方、政府債務のGDP比(44.6%)は25位だ。

過去1年間の政府債務の割合の増加スピード(-1.2ポイント)は15位で、中位圏だった。経済規模と比較して政府債務が最も多い国は日本(248.7%)だ。

  国際金融協会の報告書は、「GDPに対する世界の債務(家計+企業+政府+金融部門)の割合は約348%で、2021年第1四半期の頂点より15ポイントほど低くなった。

しかし、韓国、ベトナム、タイなどは(自国基準で)最大の増加記録を立てた」と明らかにした。

今年第1四半期末基準で、グローバル債務は305兆ドルで、昨年末に比べ3兆3千億ドル増えた。 

 韓国の預金銀行の家計融資は、金利の上昇と不動産取引の不振などの影響で、昨年12月(-2千億ウォン)と今年1月(-5千億ウォン)、2月(-2千億ウォン)、3月(-1兆ウォン)まで4カ月連続で減少した。だが、4月には1兆2千億ウォン増加し、5カ月ぶりに再び増加傾向に戻った。 

チョ・ゲワン先任記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )