■さくら咲く六月の社殿
さくらが小さいけれども六月の京都に咲いていたといいましたらば信じてくれるでしょうか。
上賀茂神社、京都を散策していると不思議な出来事というのはよくあるのですが、なにしろこの広い京都で懐かしい人と再会というよりも、居ましたよね、と後で言われたり、まあいろいろあるのですが、こんかいのこの六月の桜花というのは、不思議な経験だ。
サクラサク。ラブひなアニメ版のOPではない。ちょっと古すぎるか。しかしもっと古い千年以上の歴史を湛える上賀茂神社では、六月に季節外れの桜が咲いていました。イチゴの花では、と疑ってみましたが神社の方曰く、これは季節外れのさくらですよ、と。
十月桜という、冬に咲くさくらは実際にあるのですけれども、これは普通に春に咲く桜で、春というよりは初夏、まさか桜の季節が熱すぎてそのあと涼しくなったので一年巡った、と勘違いしたなんてことはないでしょう、もちろん満開というにはほど遠いけれど。
楼門は寛永5年こと1628年の建立なのですが、その朱色の楼門を背景に確かに、割いているのですね。しかしいまはもう六月下旬、遅咲きという事で知られる仁和寺の御室桜も見ごろを過ぎて二か月以上経ちますし、まさか桜の話題をいま時分みることになるとは。
本殿はその楼門の向こうにありまして、文久3年こと西暦1863年に再建されたものという、吉兆か凶兆か、遅れた補欠合格通知か、参拝の作法とともに何かいいことありますように、ではなく、あれが吉兆でありますように、とも祈るほかないのですけれどもね。
橋殿こと舞殿と細殿という拝殿に土舎、ここをむすぶならの小川というせせらぎが神域に冷涼かつ水音が雑音を遮る静謐さを湛えていまして、そして幾度かわたる流れとともに複雑な造形美をある種人口の森林が如く醸し出しているのはこの上賀茂神社という。
ならの小川、式年遷宮を定期的に行います上賀茂神社は常にその歴史を新しく、灰の中から新しい息吹が生まれるように歴史を受け継いでいるのですが、それでも現代史を見ますと、戦後の混乱でかなりの文化財と施設、歴史風土が失われていることを少し考える。
細殿という拝殿の前には立砂が、これはいわゆる盛り塩という玄関前の厄除けとも縁結びともいわれる全国の風習の原型となったものといい、もともとはこの社殿のご神体である神山を模したものという、その神山の山麓全体が永らく神社の神域であったといい。
神山の山麓という神域は、広く深泥池もほとりまでを結ぶ広大なものだったといいますが、戦後GHQの占領軍が何故かゴルフ場をこのあたりに建設するといい、多くの古い建物が破壊され、そのご住宅地などの再開発にもみまわれて今に至る現実を思い出させる。
立砂とともに神山の山麓、その往時の姿を連想してゆきますと、平和憲法、戦争放棄、民主主義、といや民主主義は大日本帝国憲法の時代からあっただろう、と思うのですが、占領軍のものをありがたがる京都の風潮をみれば、ゴルフ場開発もありがたいのかな、と。
舞殿、ならの小川、少々立砂とともに歴史を思い出し過ぎましたが、この神域は清冽な清水が湧き出ていまして、これは飲むことも出来るのですがなにかほのかに甘みのある、古い水道管による京都の水道水とは違う味わいに、この美味しさから真夏の近さを思い出す。
夏越大祓式が6月30日の夜にこの舞殿にて執り行われますので、まさに真夏はもうすぐそこ、という厳しい現実を思い出します。たしかに六月の時点でもうここまで暑い、その汗をそっと拭いながら季節外れの桜の花々をまた傍目に愛でながら参拝を終えました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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さくらが小さいけれども六月の京都に咲いていたといいましたらば信じてくれるでしょうか。
上賀茂神社、京都を散策していると不思議な出来事というのはよくあるのですが、なにしろこの広い京都で懐かしい人と再会というよりも、居ましたよね、と後で言われたり、まあいろいろあるのですが、こんかいのこの六月の桜花というのは、不思議な経験だ。
サクラサク。ラブひなアニメ版のOPではない。ちょっと古すぎるか。しかしもっと古い千年以上の歴史を湛える上賀茂神社では、六月に季節外れの桜が咲いていました。イチゴの花では、と疑ってみましたが神社の方曰く、これは季節外れのさくらですよ、と。
十月桜という、冬に咲くさくらは実際にあるのですけれども、これは普通に春に咲く桜で、春というよりは初夏、まさか桜の季節が熱すぎてそのあと涼しくなったので一年巡った、と勘違いしたなんてことはないでしょう、もちろん満開というにはほど遠いけれど。
楼門は寛永5年こと1628年の建立なのですが、その朱色の楼門を背景に確かに、割いているのですね。しかしいまはもう六月下旬、遅咲きという事で知られる仁和寺の御室桜も見ごろを過ぎて二か月以上経ちますし、まさか桜の話題をいま時分みることになるとは。
本殿はその楼門の向こうにありまして、文久3年こと西暦1863年に再建されたものという、吉兆か凶兆か、遅れた補欠合格通知か、参拝の作法とともに何かいいことありますように、ではなく、あれが吉兆でありますように、とも祈るほかないのですけれどもね。
橋殿こと舞殿と細殿という拝殿に土舎、ここをむすぶならの小川というせせらぎが神域に冷涼かつ水音が雑音を遮る静謐さを湛えていまして、そして幾度かわたる流れとともに複雑な造形美をある種人口の森林が如く醸し出しているのはこの上賀茂神社という。
ならの小川、式年遷宮を定期的に行います上賀茂神社は常にその歴史を新しく、灰の中から新しい息吹が生まれるように歴史を受け継いでいるのですが、それでも現代史を見ますと、戦後の混乱でかなりの文化財と施設、歴史風土が失われていることを少し考える。
細殿という拝殿の前には立砂が、これはいわゆる盛り塩という玄関前の厄除けとも縁結びともいわれる全国の風習の原型となったものといい、もともとはこの社殿のご神体である神山を模したものという、その神山の山麓全体が永らく神社の神域であったといい。
神山の山麓という神域は、広く深泥池もほとりまでを結ぶ広大なものだったといいますが、戦後GHQの占領軍が何故かゴルフ場をこのあたりに建設するといい、多くの古い建物が破壊され、そのご住宅地などの再開発にもみまわれて今に至る現実を思い出させる。
立砂とともに神山の山麓、その往時の姿を連想してゆきますと、平和憲法、戦争放棄、民主主義、といや民主主義は大日本帝国憲法の時代からあっただろう、と思うのですが、占領軍のものをありがたがる京都の風潮をみれば、ゴルフ場開発もありがたいのかな、と。
舞殿、ならの小川、少々立砂とともに歴史を思い出し過ぎましたが、この神域は清冽な清水が湧き出ていまして、これは飲むことも出来るのですがなにかほのかに甘みのある、古い水道管による京都の水道水とは違う味わいに、この美味しさから真夏の近さを思い出す。
夏越大祓式が6月30日の夜にこの舞殿にて執り行われますので、まさに真夏はもうすぐそこ、という厳しい現実を思い出します。たしかに六月の時点でもうここまで暑い、その汗をそっと拭いながら季節外れの桜の花々をまた傍目に愛でながら参拝を終えました。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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