北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】大覚寺,嵯峨上皇の嵯峨離宮は空海の祈りと高岳親王そして恒寂入道親王が紡ぐ複雑な日本史

2023-06-07 20:23:56 | 写真
■神護寺と空海と大覚寺
 大沢池とともに佇む大覚寺はほんとうに広大で寺院というよりは、という言葉がつい出てしまいそうにありますが歴史を知ればなるほどとうなづくもの。

 大覚寺は嵯峨上皇の嵯峨離宮として造営が始まり、そして陵墓が造営されたという歴史は既に紹介しましたが、平安遷都とともに平安京に上り、のちに転換点となる真言宗を日本に伝えることとなる空海はその嵯峨天皇から熱い信任を得ていたことでも知られます。

 空海はこの嵯峨離宮に招かれた際、持仏堂として五覚院を造営するとともに加持祈祷を行ったといい、考えてみると神護寺と大覚寺の近い関係は、嵯峨上皇と空海の所縁そのものなのだなあ、と気づかされ、この寺院の始まりと空海の不思議な関係を見た思いがする。

 真言宗大覚寺派、そして神護寺はここからそれほど離れていません、山を登る必要はありますけれどもね。嵯峨上皇の崩御から時を経た貞観18年こと西暦876年、皇女正子内親王により離宮が寺院に改められた、というのはなにかこう自然流れのように思えるのです。

 正子内親王、このひとは淳和天皇皇后というのですが開基としまして開山には恒寂入道親王、淳和天皇と皇后正子内親王との間の長男があたりました。時代が時代ならば高貴な身分となりますが、嵯峨上皇崩御の直後にありました承和の変により廃位されています。

 高岳親王の灌頂、廃位されましたが薬子の変により同じような経緯で廃位され、しかし空海に弟子入りすることができた高岳親王、出家の後に真如入道親王、この人は舞鶴の金剛院を開いたことでも知られる、この人のもとで真言宗の僧侶として出家の道を歩みました。

 陽成天皇の廃位、結局のところのこの時代の日本は権力基盤が流動的であった、桓武天皇の時代まで続いた遷都と軍事遠征の連続から急制動を掛けたような方針転換が混乱を呼んだのでしょう、陽成天皇の時代に混乱が生じまして恒寂入道親王には復位が求められる。

 恒寂入道親王は、しかしこの求めを慎重に断っている。無論、廃太子の復位が呼ぶ混乱を見越してのものとも、混乱しすぎている中央に近づくことの危険性とも、こう読み取れるのですが、廃太子の位置づけはこれにより奈良時代ほど厳しくはなくなり改革を果たす。

 後嵯峨上皇の法皇宣下、さてこれまで触れましたようになにか大覚寺には院政という表面的な歴史よりも隠棲という静けさとともに開かれた寺院であることが読み取れます、しかし平安時代を経て鎌倉時代末期のころ、法皇宣下した後嵯峨法皇が門跡となります。

 門跡寺院、後嵯峨法皇は第21代門跡となりまして、こののちに院政の場となる下地が重ねられてゆきます、もっとも後嵯峨法皇は院の御所をここには開かず、門跡寺院の一つとして大覚寺は元々兼ね備えた政治的な寺院としての役割を果たすのみではありましたが。

 嵯峨御所という歴史を歩むこととなりました転機は徳治2年こと西暦1307年の後宇多天皇法皇宣下の際、後宇多法皇は第23代門跡となられましたが、この際に院の御所を大覚寺に置き、また伽藍の整備に尽力したことで大覚寺中興の祖、とも呼ばれることとなる。

 大覚寺統、もっともこのあたりの歴史は後宇多法皇の皇子と亀山法皇の皇子、日本の皇統が二つに分裂する南北朝の時代に繋がるために、順風満帆な格式とは進まないところではあるのですが。ただ、院の御所とともに伽藍が御所に見合う格式へと整備されたという。

 大沢池とともに本当に時間をかけて散策、いや拝観しておきますと、これはテレビの時代劇を見た際に、ああこのあたりだ、と懐古するのに興味深い歴史を感じることができます、しかしそれ以上に複雑怪奇な日本史を伽藍一つ一つに秘めた寺院だとも気づくのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】大覚寺,新緑の高雄山見上げる嵯峨は院の御所を置いた皇室ゆかりの院政の地という大寺院

2023-06-07 20:00:01 | 写真
■五大明王奉じる大覚寺
 熱い早春から涼しい春を経て初夏という季節の前に台風がやってくるという梅雨前の不思議な日々です。

 大覚寺。だいかくじ、と読む。嵯峨の一角に位置しますこちらは、皇室ゆかりの寺院であるとともに、後宇多法皇がここに院の御所を置いた院政の地、貞観18年こと西暦876年に創建された由緒、というよりも京都に数多い千年を超える寺院の一つとなっています。

 嵐山というのは、不思議な一角とおもう。いや嵐山というのは観光地の代名詞的な存在となっていますが、一応この嵐山、という名称の山は、渡月橋からみて上流側の左岸にそびえる山の名前だったりします、標高384m、ただ一般的にはこの一帯の地名でもあります。

 松尾山と嵐山と烏ヶ岳、この三峰を嵐山三山というのですが、渡月橋から天龍寺までの一帯、ちょうどその中央部に嵐電嵐山駅、個人的にはまだ京福電鉄嵐山駅と呼んでいるのだけれども、この一帯が混雑しているように思う、そしてそれは不思議な印象も受ける。

 京都の西の奥座敷というべき嵐山、確かに混雑しているのだけれども目的はどうやら飲食のようで、そうした店舗が軒を連ねているのだけれども、いやここは歴史を湛えた、なにやら壮大美麗な美術館に来た子供が飲食コーナーから出てこないような、そんな感じ。

 天龍寺の伽藍と借景とともに見る庭園は確かに素晴らしく、なるほど京都五山というけれども、しかしこの一帯の混雑、それもCOVID-19のまだ猛威のあったころにも一応の人通りがあって、しかしいまではもう、ここにそんなに集まらなくともという規模だ。

 大覚寺は、ここから嵯峨の方へ、これも歩くとちょっとした距離なのか、これはもう遠くまで歩くのだ、という覚悟のある場合は別だけれども、ちょっとした準備のない自由気まま散歩の延長線で、地図もみずに散策するというには少々距離があるかもしれない。

 右京区嵯峨大沢町、真言宗大覚寺派の大本山が大覚寺です。嵐山駅から山陰線の踏切を超えると清涼寺のどうどうたる楼門が見えてきますから、ここに先ず感じ入るとともに拝観しますと、もちろん早朝から散策するならばともかく、朝食後の散策となると時は。

 山陰線付近には清凉寺、ここを拝観するとさて昼食は、と時間の分断を迎えてしまいますし、二尊院はじめほかの寺院のほうに歩み進めることとなり、大覚寺にいく時機を逸してしまうかもしれません、これは、そう大覚寺に行くのだ、という気概が必要となります。

 嵯峨天皇の離宮、高雄と愛宕の峰々を望見する立地は平安遷都の頃からの優美な冷涼感を湛えていたようで、当地に大覚寺が創建されるその前には嵯峨天皇の離宮が造営されていたという。嵯峨天皇、平安遷都の際の桓武天皇の皇子、空海に東寺を与えた帝です。

 五大明王を奉じる大覚寺、ここに寺院が開かれた背景には嵯峨天皇の譲位という歴史がありました、天皇は大同4年4月1日、西暦に直せば823年5月29日に譲位し淳和天皇の時代となります、こうして上皇宣下、太上天皇の尊号となりこの当地に隠棲しました。

 薬子の変による平城上皇との諍い、高岳親王の廃太子、嵯峨天皇の治世は、軍事と造作という桓武天皇の、東北地方軍事遠征と繰り返す首都造営に遷都という歴史が、漸く桓武天皇自身により幕引きとなった後の、日本を安定期に向かわせる苦労で終始していました。

 嵯峨院離宮を当地に造営された嵯峨上皇は、承和9年7月15日こと西暦842年8月24日、崩御されます、御陵は当地の山手に造営されることとなり、その跡地に大覚寺が造営されたのが貞観18年こと西暦876年、そうした政治的な寺院として歩み始めたのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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台風2号は100年に一度以下の豪雨-豊川市水害へレッドサラマンダー出動とフィリピン東方に台風3号発生

2023-06-07 07:00:43 | 防災・災害派遣
■臨時情報-台風3号
 台風3号が昨夜発生しました。

 気候変動と共に巨大化する台風と日本に接近する頻度の増大、やはりこれは安全保障上の脅威事項と受け止め、例えばハリケーンハンターのような台風に直接突入し気象情報を収集する航空機や、自衛隊に留まらず防災組織、消防や警察への水陸両用車輛の広範な装備が必要ではないか、と考えます。実際、今年の台風、日本接近の事例は異常に速い。

 6月6日2100時頃、フィリピン東方海上において台風3号が発生したとのこと。中心部の気圧は1002hpaで中心部の瞬間最大風速は25m/sで中心から東方440kmと西方330kmの範囲内が強風圏となっている、現時点ではほとんど停滞している状況ですがこの後発達しつつ北上する見込みとの事で、気象庁は今後の進路などの情報に注意を呼びかけています。

 台風2号、意外な大雨となりましたは、防災科学技術研究所の分析によれば今回の台風の東海地方沿岸に発達した線状降水帯は愛知県南部の、豊川市、特に東海道新幹線と東海道本線に東名高速道路と国道一号という、日本の東西交通の要衝に大雨をもたらし、防災科学技術研究所の分析では、この豪雨の頻度について、100年に一度以下、と解析しました。

 レッドサラマンダー出動、台風2号の豪雨災害において特筆すべきは総務省が岡崎市消防局に配備している日本で唯一の全地形車両レッドサラマンダーが浸水地域へ出動し初の人命救助活動に当った、という事です。シンガポールのブロンコ全地形車両を総務省が東海地震津波災害へ対応させるべく1両のみ導入した装備、これまで出動回数はありましたが。

 全地形車両、しかし1両しか配備されていない為に被災地へ到着する頃には既に洪水は水が引いており、例えば九州であれば陸路で36時間、北関東でも24時間以上現地進出に時間を要し、それならばボートで救助が終わっていた。犬山市水害に出動した事はあるが人命救助は無かった、今回は岡崎市に近い豊川市での水害故に間に合った構図となりました。

 自衛隊も山岳戦や沿岸部での作戦を考えるならばBvS.10全地形車両の様な装備を広範に配備しても良いように考えるのですが、それ以上に消防と警察、都道府県単位で薄く広くでも、少なくとも全国に1両だけという水準では役に立ちません。また、全地形車両の輸送に輸送ヘリコプター等の広範な運用方法も重ねて研究し、喫緊の災害に備えるべきです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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