松浦武四郎著「西蝦夷日誌」の「磯屋(谷)領」には、案内の土人セベンケから丁巳(安政四年)五月九日シリベツ(尻別)なるソウヅケの事を路道なくして甚難澁のよし・・・と聞いている。『シリベツの山も笹に障(さえ)ぎられて見えざる故一同困り、追々日も落ちかかる故心細くなる故、其處に樺の木有に上がらせ見れば、ソウヅケを直に向に見たる由にて、一同安心したり。・・・此の所クッシャリニブト(倶知安川口)爰に一艘の丸木船の備有に、乙名棹さし二人づつを乗せて渡す。水勢吼(ほゆるが)ごとし。雪解水にて濁れり。其危うき事筆の及ぶ處にあらず。』ここでその大変さを武四郎は和歌にしている。その歌碑が
白木建設敷地内に建立されている。
『あやうしと しりべつ川の
白波を 命にかけて けふわたりけり 』
当初、個人の敷地内に松浦武四郎の歌碑があることに何故なのか・・・と思ったが、建設会社の創始者が武四郎の苦難の「命かけて・・・」の心意気を会社の思いと重ねたようです。
会社は休日であったので、お話を聞くことができなかったが・・・先人の苦労を後継者につなぐ松浦武四郎が存在することにますますの尊敬抱き、会社が松浦武四郎がこの地倶知安宗助川を探検した時の大変さを詠んだ和歌を歌碑に刻み、建立にされたこと、個人的には嬉しい・・・苦労、努力は裏切らない・・・何時か成果が・・・。

歌碑(後方羊蹄山は雲に覆われているが・・・歌碑の真正面にある)

歌碑の左側に説明がある。松浦武四郎がソーツケ(宗助川)探索のため、尻別川を渡ったのは安政四年(一八五七)三月十日(陽暦六月一日)であった。ソーツケは、サケ、、マスの豊庫として名が知られていた。歌碑は武四郎がその時の印象を残したもの。
また、札幌の老舗の古本店で手に入った『松浦武四郎著、丸山道子訳「後方羊蹄日誌」』には図解入りで、樺の木に案内のアイヌの一人を登らせたものがある。日のある中、自分で傍らの木に登って四方を見ると、西方に羊蹄山、西南にヒンネシリ(尻別岳)北西には昆布の山々、東に余市岳、北東に岩内岳が見えた・・・と現代語で書いてある。
丸山道子訳の後方羊蹄日誌と樺の木に登って見渡すアイヌ(絵の横に「危うしと しりべつ川の・・・の和歌が書かれている。)
彼女の訳によると松浦武四郎は磁石を持っているので、不安だったのはむしろアイヌたちの方であったろうとも記録している。
武四郎は真狩川の支流を通ったり、和人の経営する笹小屋に泊まり、五月十四日、案内の一同に手当の品を渡して、翌日アイヌ一名を連れて余市に向かった。

白木建設敷地内に建立されている。
『あやうしと しりべつ川の
白波を 命にかけて けふわたりけり 』
当初、個人の敷地内に松浦武四郎の歌碑があることに何故なのか・・・と思ったが、建設会社の創始者が武四郎の苦難の「命かけて・・・」の心意気を会社の思いと重ねたようです。
会社は休日であったので、お話を聞くことができなかったが・・・先人の苦労を後継者につなぐ松浦武四郎が存在することにますますの尊敬抱き、会社が松浦武四郎がこの地倶知安宗助川を探検した時の大変さを詠んだ和歌を歌碑に刻み、建立にされたこと、個人的には嬉しい・・・苦労、努力は裏切らない・・・何時か成果が・・・。

歌碑(後方羊蹄山は雲に覆われているが・・・歌碑の真正面にある)

歌碑の左側に説明がある。松浦武四郎がソーツケ(宗助川)探索のため、尻別川を渡ったのは安政四年(一八五七)三月十日(陽暦六月一日)であった。ソーツケは、サケ、、マスの豊庫として名が知られていた。歌碑は武四郎がその時の印象を残したもの。
また、札幌の老舗の古本店で手に入った『松浦武四郎著、丸山道子訳「後方羊蹄日誌」』には図解入りで、樺の木に案内のアイヌの一人を登らせたものがある。日のある中、自分で傍らの木に登って四方を見ると、西方に羊蹄山、西南にヒンネシリ(尻別岳)北西には昆布の山々、東に余市岳、北東に岩内岳が見えた・・・と現代語で書いてある。
丸山道子訳の後方羊蹄日誌と樺の木に登って見渡すアイヌ(絵の横に「危うしと しりべつ川の・・・の和歌が書かれている。)
彼女の訳によると松浦武四郎は磁石を持っているので、不安だったのはむしろアイヌたちの方であったろうとも記録している。
武四郎は真狩川の支流を通ったり、和人の経営する笹小屋に泊まり、五月十四日、案内の一同に手当の品を渡して、翌日アイヌ一名を連れて余市に向かった。


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