気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

北村 石川啄木の歌碑 2011年6月30日

2013-04-28 13:14:08 | 旅行
 6月30日、曇り。北村温泉を出発して、道道6号線を月形方面に向かうと間もなく、石川啄木の歌碑の案内版があった。
北村牧場の敷地内である。
大きく、立派な歌碑であり右側の石碑には悲しき玩具よりの詩が書かれている。
   『石狩の空知郡の牧場の
        お嫁さんより 送り来し バタかな』

「鹿子百合の碑」には次のように書かれている。
 『薄幸の歌人石川啄木のあこがれた橘智恵(戸籍上はチエ)は北海道庁立札幌高等女学校卒業後補習科に進み、一九〇六年(明治39年3月)函館区立弥生尋常小学校の訓導となった。翌四十年六月、代用教員として採用された。石川啄木は、智恵を「真直ぐ立てる鹿子百合にたとえ、美しい同僚の存在に強く心をひかれるものがあった。不幸にも同年八月函館大火によって職を失った啄木は智恵の下宿先を訪れて処女詩集「あこがれ」を贈り札幌へと旅立っていった。その後病を得て職を辞し、療養に専念して全壊した。智恵は札幌農学校で兄の学友であった若き牧場主北村謹のもとへ嫁ぐことになり、明治四十三年五月石狩川を汽船で遡って空知郡北村の北村能牧場(後の北村牧場)に来たのであった。啄木は、明治四十三年末に出版した処女詩集「一握の砂」を智恵に送ったが、この歌集に収められた「忘れがたき人々二」二十二首は智恵を歌ったものである。
 のちに「空知のホルスタインの父」とたたえられる夫と共に多忙な毎日をおくっていた智恵は啄木が東京で肺を患い、栄養もままにならない貧困の生活をおくっていることを風の便りに聞き、当時高価で入手困難だったバターを、夫の同意のもとに歌集のお礼の気持ちを込めて、かっての同僚に贈った。
一九二二(大正十一)年十月一日、智恵は産褥熱のため愛する夫と六人の子を残して、空知郡岩見沢町の岩見沢病院でこの世を去った。
   満三十三歳であった。私たちはこの美しいエピソードを長く後世に伝えるため この碑を建立する
     一九九九年十月  北村歌碑建設期成会』と記されております。
北村牧場の案内     歌碑案内
歌碑全容
啄木の歌碑を見てから、浦臼方面の晩生内の松浦武四郎の碑を訪ねる。

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