喜茂別町の「旧跡のしるべ」のマップには13か所の史跡がある。旧国鉄駅を後にして、尻別川の対岸にある比羅夫神社を訪ねた。目印は「留産橋」を渡り、釣り具屋さんの付近。
「比羅夫」といえば、倶知安にJR比羅夫駅があり、ニセコのスキー場にも「ひらふコース」というのがあり、大分昔であるが、スキーで遊んだり、スノーシュウオークもしたことがある。また、後方羊蹄山(しりべつやま)にも比羅夫コースがある。
比羅夫といえば7世紀中期に蝦夷地を服属させたという阿倍比羅夫将軍の名もある。
(1)比羅夫神社
所在地:喜茂別町字平岡
鳥居をくぐり階段を登ると小さ社殿があり、開き戸の横に
「比羅夫神社の歴史」について説明が書かれている。
『大正二年(一九一三)史跡台(留産、村所有地)に創建された。
河合篤叙(かわいあつのぶ:初代倶知安郵便局長))の阿部比羅夫を祀り神とする神社の創建の意見にを入れてその実現に期したものである。
旧伊達藩亘理の家老で伊達開拓の功労者である田村顕充(たむらあきまさ)と河合の交流も背景にあった。昭和四十一年道路改修時、社殿建立の従来の一から西寄りの低地へ新社殿を建立した』
喜茂別教育委員会の「旧跡のしるべ」によると神社には6本の錆びた刀(蝦夷刀)と拓石があるとのこと。
社殿の裏は小高い森になっており、河合氏らは頂上にチャシらしい跡を発見して、比羅夫置庁の地はここであろうとこの地に移転したという記録があった。
階段から
手水場(鳥居の柱下にある)
(2)喜茂別発入植者の阿部嘉左衛門
『阿部嘉左ヱ門は天保9年(1838)6月に生れ、仙台阿部嘉左衛門の婿養子となる。
明治3年、33歳のとき、旧亘理藩主伊達邦成移住の時、一家をあげて渡道。明治4年、伊達邦成の命により、喜茂別町に入植。』
相川共同墓地内に「旧跡のしるべ」がある。
彼の足跡には
和人として初めて喜茂別に居を定め、喜茂別駅逓(相川の渡船所)を創設した。
しかし、「喜茂別駅逓所」の史跡は・・・どこかにあるのか・・・調べていなかった。
(3)喜茂別神社と開拓記念碑
開拓記念碑
「旧跡のしるべ」によると、『喜茂別村は大正6年(1917)4月真狩村より分村↓。
大正9年(1920)6月には徳舜瞥村字尾遠の一部を合併し、昭和13年(1938)全村字名快晴、地番整理を実施し、その記念として開拓記念碑を、喜茂別神社境内に建立した。
平成10年10月 喜茂別町教育委員会』
喜茂別神社鳥居
旧跡のしるべのような説明案内はないが、調べると
祭神 天照大神・豊受大神・大己貴神(おおなむちのかみ)少彦名神(すくなひこのかみ)
由緒については
「明治41年晩春の大早魃に際し、初代社守大槻音吉斎主となり尻別山において天照狼や豊受大神を勧請した・・・。
神社社殿はとても立派なもの。
狛犬さん
手水舎
喜茂別で最も古い馬頭観音の旧跡のしるべの説明版があるが・・・馬頭観音への道は雑草で不明。
「比羅夫」といえば、倶知安にJR比羅夫駅があり、ニセコのスキー場にも「ひらふコース」というのがあり、大分昔であるが、スキーで遊んだり、スノーシュウオークもしたことがある。また、後方羊蹄山(しりべつやま)にも比羅夫コースがある。
比羅夫といえば7世紀中期に蝦夷地を服属させたという阿倍比羅夫将軍の名もある。
(1)比羅夫神社
所在地:喜茂別町字平岡
鳥居をくぐり階段を登ると小さ社殿があり、開き戸の横に
「比羅夫神社の歴史」について説明が書かれている。
『大正二年(一九一三)史跡台(留産、村所有地)に創建された。
河合篤叙(かわいあつのぶ:初代倶知安郵便局長))の阿部比羅夫を祀り神とする神社の創建の意見にを入れてその実現に期したものである。
旧伊達藩亘理の家老で伊達開拓の功労者である田村顕充(たむらあきまさ)と河合の交流も背景にあった。昭和四十一年道路改修時、社殿建立の従来の一から西寄りの低地へ新社殿を建立した』
喜茂別教育委員会の「旧跡のしるべ」によると神社には6本の錆びた刀(蝦夷刀)と拓石があるとのこと。
社殿の裏は小高い森になっており、河合氏らは頂上にチャシらしい跡を発見して、比羅夫置庁の地はここであろうとこの地に移転したという記録があった。
階段から
手水場(鳥居の柱下にある)
(2)喜茂別発入植者の阿部嘉左衛門
『阿部嘉左ヱ門は天保9年(1838)6月に生れ、仙台阿部嘉左衛門の婿養子となる。
明治3年、33歳のとき、旧亘理藩主伊達邦成移住の時、一家をあげて渡道。明治4年、伊達邦成の命により、喜茂別町に入植。』
相川共同墓地内に「旧跡のしるべ」がある。
彼の足跡には
和人として初めて喜茂別に居を定め、喜茂別駅逓(相川の渡船所)を創設した。
しかし、「喜茂別駅逓所」の史跡は・・・どこかにあるのか・・・調べていなかった。
(3)喜茂別神社と開拓記念碑
開拓記念碑
「旧跡のしるべ」によると、『喜茂別村は大正6年(1917)4月真狩村より分村↓。
大正9年(1920)6月には徳舜瞥村字尾遠の一部を合併し、昭和13年(1938)全村字名快晴、地番整理を実施し、その記念として開拓記念碑を、喜茂別神社境内に建立した。
平成10年10月 喜茂別町教育委員会』
喜茂別神社鳥居
旧跡のしるべのような説明案内はないが、調べると
祭神 天照大神・豊受大神・大己貴神(おおなむちのかみ)少彦名神(すくなひこのかみ)
由緒については
「明治41年晩春の大早魃に際し、初代社守大槻音吉斎主となり尻別山において天照狼や豊受大神を勧請した・・・。
神社社殿はとても立派なもの。
狛犬さん
手水舎
喜茂別で最も古い馬頭観音の旧跡のしるべの説明版があるが・・・馬頭観音への道は雑草で不明。
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