北村牧場の石川啄木の歌碑を見て、再び、道道6号線を北上。札比内を通り、晩生内(私はばんせいない・・・と読んでいた。正しくはおそきないと読む。)にある松浦武四郎が描いた樺戸連山のスケッチがあるので、その絵を見る目的です。晩生内駅を右折していくと家が2~3軒あった。水田のあぜ道のような所に木製の看板があった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/43/551ff4bb73d498fd697e9730f916a2f8.jpg)
そこには『松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む
1857年安政4年5月21日(陽暦6月12日)リイノタフより眺望』
歴史上、最も古く浦臼を紹介した眺望絵である。資料提供 美唄市 平 隆一氏 浦臼町 教育委員会 浦臼町文化財保存会 と書かれていた。
「ヲソキナイ」についての松浦武四郎の記録は「丁巳東西西蝦夷山船地理取調日誌 上」松浦武四郎著、秋葉實解読によると(第四巻再篙石狩日誌(二)
『右の方、川幅三間。源はカハト山より落ちるよし。相応の川なり。樹木源には椴も有るよしなり。然し川口には柳・赤たもの木・其の外楓・がんびのみ也。少し行 ヒン子タシナイ』の記録がある。
また、近くに「田園空間博物館」という立て看板があり、そこには『石狩川の流れ 時代の流れと樺戸の自然 三軒屋沼は石狩川の屈曲した河道が
氾濫時に取り残されてできた三日月形成の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る。自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。
石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では、昭和7年から15年かで17回を記録し、その都度、農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。
大きな氾濫が起こると左右に河道をかえて、取り残された旧河道として三日月湖が形成されます。
人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は自然形成的な三日月湖が多くあります』と紹介してある。![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/04/b902e43709b51b83ee50b53911d862b1.jpg)
次に浦臼の郷土資料館を訪ねる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/43/551ff4bb73d498fd697e9730f916a2f8.jpg)
そこには『松浦武四郎 三軒屋より樺戸連山を望む
1857年安政4年5月21日(陽暦6月12日)リイノタフより眺望』
歴史上、最も古く浦臼を紹介した眺望絵である。資料提供 美唄市 平 隆一氏 浦臼町 教育委員会 浦臼町文化財保存会 と書かれていた。
「ヲソキナイ」についての松浦武四郎の記録は「丁巳東西西蝦夷山船地理取調日誌 上」松浦武四郎著、秋葉實解読によると(第四巻再篙石狩日誌(二)
『右の方、川幅三間。源はカハト山より落ちるよし。相応の川なり。樹木源には椴も有るよしなり。然し川口には柳・赤たもの木・其の外楓・がんびのみ也。少し行 ヒン子タシナイ』の記録がある。
また、近くに「田園空間博物館」という立て看板があり、そこには『石狩川の流れ 時代の流れと樺戸の自然 三軒屋沼は石狩川の屈曲した河道が
氾濫時に取り残されてできた三日月形成の沼で、過去大氾濫を繰り返した石狩川の歴史を物語る。自然形成的な三日月湖を代表する沼の一つです。
石狩川の氾濫は、明治年間で8回、大正年間で2回、昭和年間では、昭和7年から15年かで17回を記録し、その都度、農作物や人々の生活に、甚大な被害を及ぼしました。
大きな氾濫が起こると左右に河道をかえて、取り残された旧河道として三日月湖が形成されます。
人工的な三日月湖の多い月形に比べて、浦臼は自然形成的な三日月湖が多くあります』と紹介してある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/04/b902e43709b51b83ee50b53911d862b1.jpg)
次に浦臼の郷土資料館を訪ねる。
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