気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

森町にある旧三軒茶屋跡

2015-09-04 09:30:40 | 日記
函館新道の石川名前由来を見てから、大沼を通り、森町にある旧茅部街道にある「史跡旧三軒茶屋」を巡ってきた。
私たちは、函館から国道5号線を進み、JR東山駅の踏切を渡り、しばらく、石碑を探しながらゆっくりと行くと左手に説明版があった。この史跡への道案内になるような目印はない。

この旧茅部街道について説明版には

弘治年間(1555(室町時代末期)、茅部地区の鰊漁を求めて、箱館から多くの漁師が出入りするようになり、箱館~森間に道路が開かれた。やがて、「茅部場所」と言われる茅部地区の漁場が設置されると、交通量が急速に増大し、後に「茅部街道」と呼ばれる主要道路になった。函館~峠下~(  )峠~宿野辺~三軒茶屋~追分~森~鷲ノ木間 48㎞)。
街道筋の要所には宿屋、休憩所等があり、特にこの三軒茶屋では、わらじ、酒、お茶、駄菓子等を買う人で賑わっていた。
明治維新の開拓期には、この道路を本格的に改修し、函館~札幌間の本道となり、鉄道が開通する明治三十六年までの間、本州方面と結ぶ大動脈だった。
現在、この道路は国道5号線開通により「旧街道」となりましたが、古くから東蝦夷地(道南部)開発の要道として様相がいまだに残り、森町の貴重な史跡の一つ。』平成5年9月15日  森町教育委員会  と説明がある。

歴史的にも、北海道では室町時代末期から存在していた街道はとても古くからの開発と感じて読んだ。チョットしたら、蝦夷地を旅した歌人「菅江真澄」も歩いていなかっただろうか・・・それとも、江差方面から熊石方面に行ったのかな~とか、蝦夷地探検の松浦武四郎は箱館から山越へのルートに大沼の峠越えをして、歩いたのではなかろうか・・・彼の著書に大沼の光景が記されていたので、ヒョットシテ・・・この街道を通過していたのでは・・・というのは、松浦武四郎著「渡島日誌」に追分を入り、山の端通り、小沼・・・イクサ川、カルマカ川、アカイ川・・・鹿部村。当時また此処を開きて砂原通りの通行大に便利成りたり。・・・洲崎の茶屋、山稼一軒茶を沸かし、ふき漬等をうり居也。・・・樹立原を行き、宿の部(宿野辺・・・と解説)茶屋一軒あり。松前家の時より、1年米十俵ヅ、被下、通行の昼を賄う也。」と記録がある。さらに、赤井川橋あり駒ケ岳近く見ゆる也。道幅広くして至て宜し・・・とありますので、彼の通過したという足跡の碑はないが、私は「松浦武四郎通過の旧茅部街道」と勝手に思っているが・・・どうかな?
 参考までに、北海道には富良野岳の麓に標高1000mの高層湿原「原始が原」があり、此の地を彼が通過したという木碑がたっている。希望的、願望・・・夢ですが、旧茅部街道にもあったらいいな~。
4年前、べべルイから登山口、瀧を見ながらの「通過の地」を歩いた時の様子です。安政時代の彼の足跡を空想しながら、
その地に到達することも私の歴史発見の一つの楽しみです。

三軒茶屋史跡の近くに「三界萬霊塔」という石碑がある。

これは、民家の敷地内なのか・・・道路に沿った所に石碑と説明版があり樹木の間に、文久2年(1862)建立の石塔がガラス張りの小屋に保存されている。何が書いてあるのか解読不能。
説明版によると
『森町指定 有形文化財(第3号)
 「三界萬霊塔」の「三界」とは、過去・現在・未来の三世をいい「萬霊」とは生物全ての精霊をいう。つまり、三世の生物すべての精霊を供養する塔のこと。』と説明されている。(森町教育委員会)


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1 コメント

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勉強になりました (永井 新一)
2022-11-12 02:30:30
何も考えずに通っている道ですが、役に立ちました。
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