気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

モヨロ貝塚~北見ピアソン記念館

2012-11-18 19:06:13 | 旅行
2011年9月10日の10時30分頃、網走市の網走川河口付近にあるモヨロ貝塚に着いたが、入り口には新築工事のため、閉鎖中の紙が・・・掛かって、モヨロ貝塚資料館は残念ながら見ることが出来なかったが、入り口から見学できる竪穴住居跡など記念に撮影する。
資料館新築工事中の説明版
 
 モヨロ貝塚の竪穴住居跡の景色 
    
(工事中にも関わらず、もう一組の見学者がいた。)
この貝塚は司馬遼太郎著「街道をゆく 38」の「オホーツク街道」オホーツク街道にモヨロ貝塚発見者の米村喜男衛翁が少年時代に畑で人の手で削られた鋭い石をひろった。受け持ちの先生が「大昔、金属がなかったころ、石を削って刃物にした。この石はきっとそれだろう。」と教えてくれ興味をもったよう。「考古学雑誌」の定期購読をしたり、採集に熱心だった米村喜男衛氏が貝塚発見に至ることや金田一京助博士や知里真志保教授とのこと、20代にアイヌの研究をしようと函館の湯の川で2年間遺物の収集をするなどアイヌについての知識をふかめた・・・とある。それから函館を去って、米村氏は網走に着いて網走川の河口に高さ二、三十メートルの高さの砂丘の断崖面に貝殻層が露出したのを見つけたことが、米村氏のモヨロ貝塚発見のはじまり・・・と司馬遼太郎氏はトロイアを発見したシュリーマンに似て、「米村さんのトロイアが始まったのである。」と述べている。米村氏は東京で修業した理容師の技術を活かし理髪店を経営し、店内に発掘物を展示したのが、モヨロ貝塚館のスタートと思われる。また、この地には道内の高校生も発掘調査に来たとのこと。この高校生の中から考古学者も出たとのこと。この高校の中には私の母校の先輩たちも参加していたことが分かった。
 この後、北見市内に向かい、ピアソン記念館や北見ハッか記念館、松浦武四郎踏査跡地 顕彰碑や中ノ島公園内の武四郎初踏査の利用河川 説明版を探した。
 ピアソン記念館(北海道遺産)
  
 ピアソン邸は2年ががりで故郷エリザベス市の自然に似た美しい高台にピアソン夫人が好むスイス風山小屋を思わせる家が建てられたとのこと。
ピアソン夫妻は三十五年間北海道を函館~室蘭~小樽~さっぽろ~旭川~北見へと南から北へ都会から農村へと開拓者あっちの心に忍耐と勇気と愛の灯をともしながら、伝道をつづけ、小樽と札幌で本道初期の女子教育に貢献し、札幌農学校の学生を教えた。また、旭川では軍人電動、廃娼運動、監獄指導、アイヌ伝道、学校教育の振興に尽くした方である・・・。昭和3年に故郷のアメリカに帰ったが、十五年間住み慣れたその地「みかしわの森」に別れを告げたことを北見市教育委員会がピアソン宣教師夫妻の功績を記念して旧ピアソン邸を復元保存し、展示したと説明がある。
ハッカ記念館内部蒸溜装置
 

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