といっても、まだ有給休暇中だから籍はおいてある。たまった有給を一気に消化中。17日くらいかな。
気付いてみれば3年と6ヶ月、このバイトを続けてきた。横浜で接客。
今でも覚えているが、このバイトは日曜日の新聞の求人折込広告で発見。自分が大学1年の9月だった。やってみようという動機はいつもと同じ。大好きな”あれ”に関われる。
明けて月曜日に早速電話。次の日から旅行でしばらく面接にはいけない旨を伝えると、なら今日、今から来てくれ、と。慌てて履歴書を書き、3時間後には面接を受けていた。
数日後に連絡が来て「まだ続ける気ある?」との質問に「はい」。後から聞いた話だと、採用決定はそう簡単ではなかったらしい。「まだ未成年、高校生とそう変わらないのでは・・・」そういう声が上がったらしいが、”大学名”がものを言ったそうだ。
研修はその1週間後くらいから始まった。
まあ、普通に辞めようと思ったね。”こんな仕事、自分に出来るわけない”。そもそも想像していたのとは違い、お客様と面と向かって接客する仕事だった。そして、覚えることが多く、正確さが要求され、扱う額は高額で(数千円単位)、おまけに非常に忙しい・・・。後に同じ時期に入った同期に聞いてみると、やはり研修中、何度もやめようと思ったとの事。自分も一日2時間の研修が終わるごとに、「え、あれより自分の担当する時間はもっと、込むだって・・・できるわけないじゃん・・・」とふらふらになりながら、職場を後にし、自分の無能を嘆くと共に進退について真剣に悩んだ。
しかし、結局とどまることになったのはいい人たちに囲まれて仕事ができたから、だと思う。「ここはいい人たちばかりだから、きっと楽しく仕事が出来ると思うよ」出勤初日、自分のロッカーにハンガーがなく困っていたところに、その辺のロッカーをかまわず開け、ハンガーを調達してくれた人にかけられた言葉は現実のものとなった。
同年代はまったくいなかった。学生は一人も所属していなかったのだ。一番若くて25歳くらい、上は40歳台、しかもほとんど女性という完全アウェー。それでもみんな気さくに話しかけてくださり、未熟な自分を温かく見守って下さった。とても居心地のいい空間を提供してくださったのだ。
そうして無事に1ヶ月の研修が終わり、11月からは独り立ち。その日のこともよく覚えている。同じ時間を担当する人に「好きなようにやっていいから」といわれ、実際に研修で教わったとおりに仕事をした。何も問題はなかった。
そう、”慣れ”が全ての問題を解決した。いったん、仕事の流れがつかめてしまえば、こっちのもの。単純作業ではないが、ある程度すべきことは決まっている。それを忠実にこなした。
それでもミスを犯す事だって。お客のイレギュラーな注文に冷静な対応が出来ずに、金銭のやり取りを誤った。マイナス3000円超。その日は一日中ブルーだった。どうしてもっと落ち着いて対応できなかったのか、周りの人に多大な迷惑をかけてしまった・・・と。「報告書」なるものを書かされ、仕事をする厳しさも味わった。
自分のアルバイトには特徴的なことがいくつかあった。
①担当時間が朝5時からと早い・・・3時50分にはおき、新聞の配達のバイクと共に出勤。冬の朝は尋常じゃない寒さで、毎朝、さ、辞めよ、と決意。人なんてほとんど歩いていない。自転車に乗っていると不審に思われるのか、3回ほど赤いランプの乗っかった車に止められた。「これからどこへ帰るんですか」「いえ、今から出勤です」。前日の夜は気を遣う。明日起きれるかな・・・目覚まし3個。それぞれ3回くらいちゃんとセットされているか確認。基本的に心配性。自慢じゃないが、無遅刻無欠勤。
②高い正確性が要求される・・・前述の通り、客単価が高いので、一回のミスが大きな額となる。金銭のやり取りは全神経を集中させ、預かった額、つり銭の額はしっかり声に出して確認。また商品についても、ミスしてしまうとお客様に甚大な影響を与える。実際、裁判沙汰になり、高額な賠償請求をされたこともあるとか。商品についても目でしっかり、声に出してしっかり確認。
③繁忙状態・・・になると、お客様の列が5メートルにも6メートルにもなり、それが1時間~2時間ひかない。少しでも早く対応できるようにするため、どうすれば短く、効果的に案内できるか言葉を選び、口と手を同時に動かすのは当たり前、目の前のお客様を対応しながら、次のお客様を見ては、何を要求されるのかあらかじめ把握し、準備できるようにしておく。
④外国人のお客様が多い・・・中国人や韓国人はもちろん、欧米各国の人、フィリピン人やタイ人、メキシコ人やエジプト人まで。多い日には何十人もの外国人と接する。基本的に英語で対応。大体こちらから聞くこと、あちらが聞いてくることは決まっているので意思疎通に問題はない。問題は英語も日本語も分からない外国人・・・ジェスチャー、筆談を駆使し、それでもなんとかあちらの言いたいことを理解し、こちらの伝えたいことを分からせ、大きな問題になったことはなかった。このバイトの醍醐味は外国人との応対にあるといっても過言ではない。多少の苦労はあるといっても、非常に楽しいのだ。欧米人は特にリアクションがすごくいい。両手を広げて喜んでくれる人、”your service is excellent”とほめてくれる人・・・タイ人には日本語でありがとうの言い方を教えてあげた。こわばった顔だった中国人に”謝謝”と言うと、うそみたいに笑顔になってくれた。大げさかもしれないが、自分は日本という国を代表して彼らに接していたつもりである。自分の対応1つでこの国に対するイメージが大きく変わる、いや変えられる・・・そう悪くはない対応をしてきた自負がある。
⑤他部署との連携が必須・・・自分の所属している課だけでは実はお客様へのサービスは完結しない。もう1つ別の課の仕事と合わさって初めて完結するのだ。だから出来るだけその課との連絡を密にし、その課の仕事を理解し、普段から情報を交換し、全体のサービスを高めていけるよう努力した。
そう、以上のような特徴から、ほかでは出来ないような仕事をさせてもらっていたと思う。それは”誇り”にもつながっていった。”自分にしか出来ない仕事をしているんだ”。「適性」という言葉で片付くことだったのかもしれないが。仕事に馴染めず、数日働いただけでやめていった人を何人も見た。
自分は思う存分このアルバイトを楽しんだ。意外にもお客様と接することが楽しかったのだ。”お客様の笑顔が見たい”。お客様が笑顔になると、それだけで不思議と自分もとてもうれしかった。やりがいを感じた。もっと、お客様に喜ばれるサービスを、と努力していった。お客様のちょっとした動作・発言から、何を望んでいるか把握し、それを満たす言動は何かを考え実践する・・・成功したとき胸が熱くなるのだ。常連のお客様の注文は出来るだけ覚え、適切に提供していく。他のレジでなく、自分のレジに来てほしかった。あちらも覚えてくれ、互いに新年の挨拶をするようにまでなった。「いつもありがとう」その言葉で全てが満たされた。
まず基本的に自分が笑顔でいること。これに尽きる。そう、どんなにつらくても。長蛇の列を前に、内心相当あせっていても、それを見せない。風邪で声がまったくでなくなったときも、逆に表情でカバー。仕事始まる5分前にトイレで戻しても、すべて水に流したつもりで、何食わぬ顔。
今日も、お客様と接したい。その思いが無遅刻・無欠勤へ。前夜39℃の熱があっても、一晩で全て発汗して解熱。雨の日、雪の日、台風の日。かまわなかった。
それでも、不安になることも。どうせ自分が接しても、他の人が対応しても、お客様にとっては何の関係もないこと。どうせ顔も覚えてもらえてないし、そもそももう二度と会わない人たちばかり・・・。自分の、お客様に少しでも喜んでもらいたい、笑顔になってもらいたい、という思いは届いていないのかもしれない。自分の努力はまったく無意味かもしれない、と。自分には何の見返りもないじゃないか、と。
だが逆に、そういった不安を払拭するために、さらに本気で取り組んだ。自分の与えられた仕事に。最大限のパフォーマンスを引き出せるように。
今日、そのアルバイト先に別れを告げた。お客様の中で、自分がいなくなったことに一人でも気付いてくる人がいれば、この3年半は大成功だったのではないかと思えるのだ。自分が全力を傾けて仕事をした、報いとなる・・・・。
思ったほど、あっさり終了した。もう、やりつくしたのかもしれない。まだまだ遣り残したことはあるのだが、そのとき出来る最善のことはしてきたつもりだ。大きな後悔はない。寂しさというものも感じなかった。徒歩圏内にバイト先はあり、いつでも顔を出せる。顔を出せば、相手してくれる元同僚がいる・・・そういう状況で完全な断絶は感じず、まだまだ自分の中では近い存在としてバイト先を認識できる。
3年半にもわたり雇ってくれた会社、迷惑をかけながらも温かく見守って下さった上司や同僚の方々、やりがいを与えてくださったお客様・・・感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
気付いてみれば3年と6ヶ月、このバイトを続けてきた。横浜で接客。
今でも覚えているが、このバイトは日曜日の新聞の求人折込広告で発見。自分が大学1年の9月だった。やってみようという動機はいつもと同じ。大好きな”あれ”に関われる。
明けて月曜日に早速電話。次の日から旅行でしばらく面接にはいけない旨を伝えると、なら今日、今から来てくれ、と。慌てて履歴書を書き、3時間後には面接を受けていた。
数日後に連絡が来て「まだ続ける気ある?」との質問に「はい」。後から聞いた話だと、採用決定はそう簡単ではなかったらしい。「まだ未成年、高校生とそう変わらないのでは・・・」そういう声が上がったらしいが、”大学名”がものを言ったそうだ。
研修はその1週間後くらいから始まった。
まあ、普通に辞めようと思ったね。”こんな仕事、自分に出来るわけない”。そもそも想像していたのとは違い、お客様と面と向かって接客する仕事だった。そして、覚えることが多く、正確さが要求され、扱う額は高額で(数千円単位)、おまけに非常に忙しい・・・。後に同じ時期に入った同期に聞いてみると、やはり研修中、何度もやめようと思ったとの事。自分も一日2時間の研修が終わるごとに、「え、あれより自分の担当する時間はもっと、込むだって・・・できるわけないじゃん・・・」とふらふらになりながら、職場を後にし、自分の無能を嘆くと共に進退について真剣に悩んだ。
しかし、結局とどまることになったのはいい人たちに囲まれて仕事ができたから、だと思う。「ここはいい人たちばかりだから、きっと楽しく仕事が出来ると思うよ」出勤初日、自分のロッカーにハンガーがなく困っていたところに、その辺のロッカーをかまわず開け、ハンガーを調達してくれた人にかけられた言葉は現実のものとなった。
同年代はまったくいなかった。学生は一人も所属していなかったのだ。一番若くて25歳くらい、上は40歳台、しかもほとんど女性という完全アウェー。それでもみんな気さくに話しかけてくださり、未熟な自分を温かく見守って下さった。とても居心地のいい空間を提供してくださったのだ。
そうして無事に1ヶ月の研修が終わり、11月からは独り立ち。その日のこともよく覚えている。同じ時間を担当する人に「好きなようにやっていいから」といわれ、実際に研修で教わったとおりに仕事をした。何も問題はなかった。
そう、”慣れ”が全ての問題を解決した。いったん、仕事の流れがつかめてしまえば、こっちのもの。単純作業ではないが、ある程度すべきことは決まっている。それを忠実にこなした。
それでもミスを犯す事だって。お客のイレギュラーな注文に冷静な対応が出来ずに、金銭のやり取りを誤った。マイナス3000円超。その日は一日中ブルーだった。どうしてもっと落ち着いて対応できなかったのか、周りの人に多大な迷惑をかけてしまった・・・と。「報告書」なるものを書かされ、仕事をする厳しさも味わった。
自分のアルバイトには特徴的なことがいくつかあった。
①担当時間が朝5時からと早い・・・3時50分にはおき、新聞の配達のバイクと共に出勤。冬の朝は尋常じゃない寒さで、毎朝、さ、辞めよ、と決意。人なんてほとんど歩いていない。自転車に乗っていると不審に思われるのか、3回ほど赤いランプの乗っかった車に止められた。「これからどこへ帰るんですか」「いえ、今から出勤です」。前日の夜は気を遣う。明日起きれるかな・・・目覚まし3個。それぞれ3回くらいちゃんとセットされているか確認。基本的に心配性。自慢じゃないが、無遅刻無欠勤。
②高い正確性が要求される・・・前述の通り、客単価が高いので、一回のミスが大きな額となる。金銭のやり取りは全神経を集中させ、預かった額、つり銭の額はしっかり声に出して確認。また商品についても、ミスしてしまうとお客様に甚大な影響を与える。実際、裁判沙汰になり、高額な賠償請求をされたこともあるとか。商品についても目でしっかり、声に出してしっかり確認。
③繁忙状態・・・になると、お客様の列が5メートルにも6メートルにもなり、それが1時間~2時間ひかない。少しでも早く対応できるようにするため、どうすれば短く、効果的に案内できるか言葉を選び、口と手を同時に動かすのは当たり前、目の前のお客様を対応しながら、次のお客様を見ては、何を要求されるのかあらかじめ把握し、準備できるようにしておく。
④外国人のお客様が多い・・・中国人や韓国人はもちろん、欧米各国の人、フィリピン人やタイ人、メキシコ人やエジプト人まで。多い日には何十人もの外国人と接する。基本的に英語で対応。大体こちらから聞くこと、あちらが聞いてくることは決まっているので意思疎通に問題はない。問題は英語も日本語も分からない外国人・・・ジェスチャー、筆談を駆使し、それでもなんとかあちらの言いたいことを理解し、こちらの伝えたいことを分からせ、大きな問題になったことはなかった。このバイトの醍醐味は外国人との応対にあるといっても過言ではない。多少の苦労はあるといっても、非常に楽しいのだ。欧米人は特にリアクションがすごくいい。両手を広げて喜んでくれる人、”your service is excellent”とほめてくれる人・・・タイ人には日本語でありがとうの言い方を教えてあげた。こわばった顔だった中国人に”謝謝”と言うと、うそみたいに笑顔になってくれた。大げさかもしれないが、自分は日本という国を代表して彼らに接していたつもりである。自分の対応1つでこの国に対するイメージが大きく変わる、いや変えられる・・・そう悪くはない対応をしてきた自負がある。
⑤他部署との連携が必須・・・自分の所属している課だけでは実はお客様へのサービスは完結しない。もう1つ別の課の仕事と合わさって初めて完結するのだ。だから出来るだけその課との連絡を密にし、その課の仕事を理解し、普段から情報を交換し、全体のサービスを高めていけるよう努力した。
そう、以上のような特徴から、ほかでは出来ないような仕事をさせてもらっていたと思う。それは”誇り”にもつながっていった。”自分にしか出来ない仕事をしているんだ”。「適性」という言葉で片付くことだったのかもしれないが。仕事に馴染めず、数日働いただけでやめていった人を何人も見た。
自分は思う存分このアルバイトを楽しんだ。意外にもお客様と接することが楽しかったのだ。”お客様の笑顔が見たい”。お客様が笑顔になると、それだけで不思議と自分もとてもうれしかった。やりがいを感じた。もっと、お客様に喜ばれるサービスを、と努力していった。お客様のちょっとした動作・発言から、何を望んでいるか把握し、それを満たす言動は何かを考え実践する・・・成功したとき胸が熱くなるのだ。常連のお客様の注文は出来るだけ覚え、適切に提供していく。他のレジでなく、自分のレジに来てほしかった。あちらも覚えてくれ、互いに新年の挨拶をするようにまでなった。「いつもありがとう」その言葉で全てが満たされた。
まず基本的に自分が笑顔でいること。これに尽きる。そう、どんなにつらくても。長蛇の列を前に、内心相当あせっていても、それを見せない。風邪で声がまったくでなくなったときも、逆に表情でカバー。仕事始まる5分前にトイレで戻しても、すべて水に流したつもりで、何食わぬ顔。
今日も、お客様と接したい。その思いが無遅刻・無欠勤へ。前夜39℃の熱があっても、一晩で全て発汗して解熱。雨の日、雪の日、台風の日。かまわなかった。
それでも、不安になることも。どうせ自分が接しても、他の人が対応しても、お客様にとっては何の関係もないこと。どうせ顔も覚えてもらえてないし、そもそももう二度と会わない人たちばかり・・・。自分の、お客様に少しでも喜んでもらいたい、笑顔になってもらいたい、という思いは届いていないのかもしれない。自分の努力はまったく無意味かもしれない、と。自分には何の見返りもないじゃないか、と。
だが逆に、そういった不安を払拭するために、さらに本気で取り組んだ。自分の与えられた仕事に。最大限のパフォーマンスを引き出せるように。
今日、そのアルバイト先に別れを告げた。お客様の中で、自分がいなくなったことに一人でも気付いてくる人がいれば、この3年半は大成功だったのではないかと思えるのだ。自分が全力を傾けて仕事をした、報いとなる・・・・。
思ったほど、あっさり終了した。もう、やりつくしたのかもしれない。まだまだ遣り残したことはあるのだが、そのとき出来る最善のことはしてきたつもりだ。大きな後悔はない。寂しさというものも感じなかった。徒歩圏内にバイト先はあり、いつでも顔を出せる。顔を出せば、相手してくれる元同僚がいる・・・そういう状況で完全な断絶は感じず、まだまだ自分の中では近い存在としてバイト先を認識できる。
3年半にもわたり雇ってくれた会社、迷惑をかけながらも温かく見守って下さった上司や同僚の方々、やりがいを与えてくださったお客様・・・感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。