2018年2月11日(日)
12時34分
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/45/fef854db9179325a8193194fc8ded926.jpg)
再び、中大手門の交差点に来ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/e8/b305c95ff972c2c09da09d5cbbe47287.jpg)
膳所大手門通り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/1c/2c5522f80bdfe499c6bfaa8f70e22bc3.jpg)
右手に
『膳所市民センター』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/fd/8aff1fb3066462a6f00e8d82923f4988.jpg)
膳所城の天守を思わせるような造りになってます。
高さは、実際にあった天守と同じにしたとか?
湖岸道路の向こうに立派な門が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/d7/03d4b705fd81374f3d0192f5591bc55d.jpg)
これは模擬復元されたもので本来のものではない
湖岸道路を渡る
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/f1/ba04a49be7617114d8b51712721b1284.jpg)
堀と塀、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ca/de96d38dd63aaab2d4693f8ea38b861d.jpg)
これも復元だと思う。
復元大手門から道路の向こうを見る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b6/099f5c1df5103752d77001cb1458fe2e.jpg)
城跡公園駐車場付近まで土橋と角馬出があったと思うのですが…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/75/4776ff60a948d0e898a9543090b7cb59.jpg)
二ノ丸、三ノ丸方向を見てます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/69/12703e0a4c2c9904d1595a36b5e5155c.jpg)
二ノ丸と本丸は廊下橋で直接往き来できた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/3c/60a6f9d0294a6d4924babb922f505940.jpg)
どちらも曲輪は湖面に突きだしてます。
湖面が堀の役割を果たしてるわけです。
『膳所城跡』碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/5b/85d46a26d48ab8bd6820561c2d97f814.jpg)
今さらですが、膳所は「ぜぜ」と読む。
天智天皇が近江大津宮を造られた時、この地は御厨とされ
「阿膳(おもの)の浜田」と呼ばれた。
料理を用意する場所という意味です。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、防御が弱かった大津城を廃止。
1601年、瀬田の唐橋に近く交通の要衝の膳所に城を築かせた。
坂本城・大津城の資材が転用され、縄張りは藤堂高虎でした。
最初の城主は、戸田氏。
その後、本多→菅沼→石川と次々に城主が交替。
1651年、本多俊次が入り明治維新まで7万石として存続しました。
近江国内では、彦根藩に次ぐ大きな大名となったが、水城のため石垣の改修など城の維持が難しくて明治3年いち早く廃城願いを出して取り壊した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/27/33c32651df9805a693c9aaca96d079ae.jpg)
今は湖面が低いが、昔はこの石垣付近の高さだったことがわかりますな。
『天守閣跡』石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/50/a4f462eec8a0d387de2ef721ad51359a.jpg)
四重四階の天守でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/ac/e178061d64f298cddcadeff766d38a3b.jpg)
こちら方向は北の丸、
同じく湖面に張り出してます。
が、正確な位置は後に改変されてわからない。
その先に見えるのが、近江大橋。
最初は有料だったが、今は無料です。
この近江大橋の手前までの位置に北の丸があったようです。
『石鹿地蔵尊』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/f9/2f3d51c0fdea78f993b5e525dcac80cd.jpg)
織田信長は比叡山を焼き討ちした。
比叡山にあった石地蔵を坂本城の礎石とした。
次に秀吉が大津城を築くにあたってこの石地蔵をまたまた城の礎石とした。
で、家康の膳所城でもまた引き継がれた。
明治の廃城で放置されたのをここに集めて祠を建てた。
つまり、この地蔵尊は比叡山から坂本城→大津城→膳所城3つの城を支えてきたのです。
合掌!
ところで、大手門を入ってすぐに本丸があるなんて、無用心だと思いませんか?
実は、当初ここは二之丸で、
本丸は橋を渡ったその先、まさに湖に浮かぶ城でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/e8/f284c335181e1711b6812b18fd9365f2.jpg)
ところが、
1662年、マグニチュード7.6の大地震が発生。
本丸三重櫓は崩壊し、湖の中へ。
天守は西に大きく傾いたそうです。
そこで、改修するにあたって、
本丸と二の丸を合体。
天守は中央寄りに移動、破風を無くした簡素な造りとなった。
で、本来の三の丸を堀で分割し
二の丸と三の丸に改変。
三の丸は当初と同じく陸続きの曲輪で規模は縮小された。
↓
改変後
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/81/9a5d743d857cfea3a487c65e4e88e862.jpg)
この時期には大坂城の豊臣家が消滅し、徳川家安泰となったのでさほど防備に気を配ることもなくなりこのような改変が可能になったのだと思います。
膳所藩の領地、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ad/d92603ac581f25846948d3917aa7e4c1.jpg)
湖南地域、現在の大津市、草津市付近に集中してるが、
飛び地がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/4a/a6c77ae3350049d8d0f32f772e7a8bf5.jpg)
湖西の高島郡、湖北の菅浦地域
さらに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/69/517799979026acd7012e7d735d501352.jpg)
河内国にも代官を置いて管理してました
近江国内は公家寺社領、幕府領などいろんな領地が錯綜していて複雑だったのです。
その28へ
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
12時34分
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/40/45/fef854db9179325a8193194fc8ded926.jpg)
再び、中大手門の交差点に来ました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/e8/b305c95ff972c2c09da09d5cbbe47287.jpg)
膳所大手門通り
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/1c/2c5522f80bdfe499c6bfaa8f70e22bc3.jpg)
右手に
『膳所市民センター』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/22/fd/8aff1fb3066462a6f00e8d82923f4988.jpg)
膳所城の天守を思わせるような造りになってます。
高さは、実際にあった天守と同じにしたとか?
湖岸道路の向こうに立派な門が見えます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/d7/03d4b705fd81374f3d0192f5591bc55d.jpg)
これは模擬復元されたもので本来のものではない
湖岸道路を渡る
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/f1/ba04a49be7617114d8b51712721b1284.jpg)
堀と塀、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/ca/de96d38dd63aaab2d4693f8ea38b861d.jpg)
これも復元だと思う。
復元大手門から道路の向こうを見る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/b6/099f5c1df5103752d77001cb1458fe2e.jpg)
城跡公園駐車場付近まで土橋と角馬出があったと思うのですが…。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/75/4776ff60a948d0e898a9543090b7cb59.jpg)
二ノ丸、三ノ丸方向を見てます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/69/12703e0a4c2c9904d1595a36b5e5155c.jpg)
二ノ丸と本丸は廊下橋で直接往き来できた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3a/3c/60a6f9d0294a6d4924babb922f505940.jpg)
どちらも曲輪は湖面に突きだしてます。
湖面が堀の役割を果たしてるわけです。
『膳所城跡』碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/11/5b/85d46a26d48ab8bd6820561c2d97f814.jpg)
今さらですが、膳所は「ぜぜ」と読む。
天智天皇が近江大津宮を造られた時、この地は御厨とされ
「阿膳(おもの)の浜田」と呼ばれた。
料理を用意する場所という意味です。
関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、防御が弱かった大津城を廃止。
1601年、瀬田の唐橋に近く交通の要衝の膳所に城を築かせた。
坂本城・大津城の資材が転用され、縄張りは藤堂高虎でした。
最初の城主は、戸田氏。
その後、本多→菅沼→石川と次々に城主が交替。
1651年、本多俊次が入り明治維新まで7万石として存続しました。
近江国内では、彦根藩に次ぐ大きな大名となったが、水城のため石垣の改修など城の維持が難しくて明治3年いち早く廃城願いを出して取り壊した。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/27/33c32651df9805a693c9aaca96d079ae.jpg)
今は湖面が低いが、昔はこの石垣付近の高さだったことがわかりますな。
『天守閣跡』石碑
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/50/a4f462eec8a0d387de2ef721ad51359a.jpg)
四重四階の天守でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/ac/e178061d64f298cddcadeff766d38a3b.jpg)
こちら方向は北の丸、
同じく湖面に張り出してます。
が、正確な位置は後に改変されてわからない。
その先に見えるのが、近江大橋。
最初は有料だったが、今は無料です。
この近江大橋の手前までの位置に北の丸があったようです。
『石鹿地蔵尊』
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/f9/2f3d51c0fdea78f993b5e525dcac80cd.jpg)
織田信長は比叡山を焼き討ちした。
比叡山にあった石地蔵を坂本城の礎石とした。
次に秀吉が大津城を築くにあたってこの石地蔵をまたまた城の礎石とした。
で、家康の膳所城でもまた引き継がれた。
明治の廃城で放置されたのをここに集めて祠を建てた。
つまり、この地蔵尊は比叡山から坂本城→大津城→膳所城3つの城を支えてきたのです。
合掌!
ところで、大手門を入ってすぐに本丸があるなんて、無用心だと思いませんか?
実は、当初ここは二之丸で、
本丸は橋を渡ったその先、まさに湖に浮かぶ城でした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/e8/f284c335181e1711b6812b18fd9365f2.jpg)
ところが、
1662年、マグニチュード7.6の大地震が発生。
本丸三重櫓は崩壊し、湖の中へ。
天守は西に大きく傾いたそうです。
そこで、改修するにあたって、
本丸と二の丸を合体。
天守は中央寄りに移動、破風を無くした簡素な造りとなった。
で、本来の三の丸を堀で分割し
二の丸と三の丸に改変。
三の丸は当初と同じく陸続きの曲輪で規模は縮小された。
↓
改変後
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/81/9a5d743d857cfea3a487c65e4e88e862.jpg)
この時期には大坂城の豊臣家が消滅し、徳川家安泰となったのでさほど防備に気を配ることもなくなりこのような改変が可能になったのだと思います。
膳所藩の領地、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/ad/d92603ac581f25846948d3917aa7e4c1.jpg)
湖南地域、現在の大津市、草津市付近に集中してるが、
飛び地がある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/4a/a6c77ae3350049d8d0f32f772e7a8bf5.jpg)
湖西の高島郡、湖北の菅浦地域
さらに
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/69/517799979026acd7012e7d735d501352.jpg)
河内国にも代官を置いて管理してました
近江国内は公家寺社領、幕府領などいろんな領地が錯綜していて複雑だったのです。
その28へ
馬《●▲●》助ヒヒーン♪