馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

中条江上館跡周辺

2016-09-21 17:30:29 | 旅行
2016年04月28日(木)、

江上館、主郭南門の横に
『古館稲荷神社』

三浦和田氏が江上館東南隅に京都稲荷神社を勧請したのが始まりで、
上杉氏の会津移封以後は村の守護神として守ってきたそうです。

江上館を出ました。

奥山荘歴史館員さんに道順を教えてもらって立ち寄ったのが

『坊城館跡』

国史跡奥山荘城館跡遺跡群の一つ。
江上館の南約200mの所にある。
南北60m東西80mの規模。
建物は総柱で、東側に集中。

発掘調査された



井戸は14世紀前半の石組井戸。


鎌倉時代後期の地頭屋敷で、江上館の前身と推定されてます。

「西門」


「馬場」

西側に遺構が無いので馬場だとか?

「溝」

館の北側を中心に土器が大量に出土、

青磁・白磁も多い、長崎産の石鍋などもあり、広範な交易状況が察せられる

埋め戻して全体が保存されてます。
色分けしてわかりやすく表示されてるのがナイス。

16時03分、中条駅に戻る
一時間ちょっとの訪問でした。

駅前の広場に
『坂額(はんがく)御前之像』

平安後期の12世紀代、越後北部の武士団城一族の女武将。
『吾妻鏡』には1201年、羽黒の鳥坂城での城一族と鎌倉幕府軍との戦いで坂額御前が登場する。
そもそも城氏は越後平氏で、梶原景時の庇護を受けてた。
景時は鎌倉幕府第2代将軍頼家の時に失脚した。
で、城氏は爆弾に見切りをつけて京都に上り、朝廷の力を背景に挙兵したのです。
館が京風の理由が想像できますな。
奥山荘の鳥坂城で最後の抵抗をするが、上野国からかけつけた佐々木盛綱に敗北、滅亡しました。

坂額(板額)御前は美人で弓の腕前が抜群、百発百中の父兄を超えると評された。
戦いで、生け捕りとなり、幕府に連行され、甲斐源氏の浅利氏に嫁いだとか?

ちなみに坂額御前の出身地「飯角(いいずみ)」で飯角を音読みして
はんかく→はんがくと呼ばれ坂額になったそうでござる。

いやぁ、この人は知らなかった。
この像が無ければ、なにも知らずに立ち去ったに違いない

像も役に立ちますな。

この後、再び村上駅へ向かうのであった


続く

Φ(*^ひ^*)Φ
本日も雨、

台風一過の晴れ、
というのは嘘っぱちか?

明日も雨模様、
山登りの予定なのに…。

β《#^ひ^#》でヒヒーン
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする