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馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

【石塔後谷城】東近江市蒲生町石塔

2023-02-28 06:53:00 | 近江の史跡
御代参街道歩きで、補完の探索するために2023年2月16日、
栩原神社を再訪。
神社前に駐車した。
前回にも述べたが神社の東側に旧道の名残がある。

この旧道が京セラ工場の南側付近を通って街道に繋がってたのかも?
と推定した。

それはともかくとして、
この街道をにらむ形で東側の丘に城跡がある、ということを知った。

正体不明の城跡で石塔地区の集落の背後にあると言う。
早速探索することにした。


↑の丘に城跡

石塔(いしどう)集落

集落の北側に林道が延びる
車での侵入はダメです。
我が輩は歩いて入る。

林道の東側に地蔵堂があります。

すぐ北側に土塁と堀跡

土塁の上を東へ移動した
堀はここまで。
堀は後に水路として利用されたと思われる。
堀跡ではない可能性もあるけど…
突き当たりの土塁と削平地は単なる耕作地だった、かもね。


地蔵堂まで引き返して林道の西側へ


地蔵堂横の堀と土塁が林道で断ち切られたが、西側へ繋がってた

先へ進んだが、

南側の民家で犬がうるさく吠えたて、不審者と間違えられそうなので引き返した。
これが大きな失敗。
このまま先へ進めば城跡の南側付近の遺構を確認できたのに…

幕末~明治初期にかけての地形図を見るとなんかありそうなんですよね。
うーん悔しい…

仕方ないので、林道を進み

東側の尾根裾付近を入る
山頂曲輪のようですが、
ほぼ自然地形

西尾根は土塁状になってる

病気です😅


この谷筋を降りて西へ向かえば良かったかも?
これが二つ目の失敗






引き返して北側の犬走を戻る

雪が無ければもっとわかりやすいかも?

そんなわけで、城跡の遺構はよくわからなかった

以上です😥

馬《●▲●》助ヒヒーン♪
































2023/02/13

2023-02-13 08:44:54 | 近江の史跡
まだ残雪があった。
この後、多賀町役場の背後の青龍山へ縦走した。
雪中行軍となってしまった⛄️



遭難するかと思った




籠城山城は犬上川の北岸の山、
山頂に薄い土塁で囲まれた主郭、虎口、帯曲輪があります

なお、
犬上川の南岸には京極道誉で有名な勝楽寺城があります




後鳥羽上皇ゆかりの地めぐり。

2022-11-17 23:18:10 | 近江の史跡

長浜市の西黒田地区。

有名な横山城の南西部の地域。

この地域に後鳥羽上皇ゆかりの史跡が残されてる。

後鳥羽上皇といえば、今年の大河ドラマでは重要な役回りでこの後、最終回までの主役と言っても過言ではない。

後鳥羽上皇は北条義時を討伐するために承久の変を起こすが、その戦勝祈願のためにこの地を訪れたそうです。

大河ドラマにちなんで長浜市では後鳥羽上皇ゆかりの史跡巡りのサイクリングマップを作成した
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長浜市の観光案内所で入手できます。

我が輩は長浜市観光協会のホームページからダウンロードして印刷した。

これを携えて探索しました。

その拠点基地が

西黒田まちづくりセンター

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東に向かうと
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「森神社」

上皇が松と杉を植えられたとか?

鳥羽上城登山口の紅葉
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鳥羽山と後鳥羽上皇の関係についてはよくわかりません。

上皇にちなんで鳥羽山と名付けられたのかな?と思われるがはてさて?

この時出会った地元の方に聞くべきだった…

城跡探索に関しては後日アップする予定です。いつになるかわからないけど…

日を改めて訪れたのが、

「八坂神社」神田山公園

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駐車場とトイレがあり、この日はここを拠点にして周回しました


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神社の隣に

「妙立寺」


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神社とこの寺はともに1199年後鳥羽上皇行幸の際の祈願所として建立された。

境内には

上皇手植えの桜
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上皇が使用された井戸
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が残されてます

現在蓮池として在所の名物となってる神田山と神田溜

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さらに北陸自動車道を過ぎて東へ向かうと

「円光院跡」
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上皇が滞在された
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隣に

「名超寺」
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紅葉真っ盛り
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そして、

「後鳥羽神社」
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隣の妙超寺にちなんで上皇をしのび
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明治天皇が巡幸された時に建てられた

小堀遠州の庭もあるがよくわからなかった。

この後、少し寄り道して横山丘陵のいくつかの山を探索し城跡を探したが何も全く見つからなかった、


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というか、ハイキング道として縦横無尽に整備されてるので砦があっても消滅したと思う

で、北上すると

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イチョウ並木


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長浜農業高校
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道路から校舎までの長い通学路にイチョウが植えられた。

現在、名物になっていて見学者多い。

なお、11月19日(土)は農産物の直売があるのでイチョウの撮影禁止になります。


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銀杏がいっぱい落ちてたが、あとどうするのかな?


高校の北側に熊岡山があり

山の西側に

「熊岡神社」
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紅葉
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この熊岡神社は後鳥羽上皇が名付け親だとか?


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金太郎ゆかりの神社です。

西黒田地区には足柄山や足柄神社などもあり、後の坂田金時伝説の地となってる。

由来の根拠は不明ですが…


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この石段がキツかった。

低山とはいえ、5つの山登りしたため足が悲鳴をあげた
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神社の左手奥に
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「杉神社」

神社の横手に
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「王杉様」と呼ばれていて上皇が植えられたと伝わる。

現在は枯れて瀕死の状態

25分ほど北西へ歩くと

いよいよ最後。

永久寺町に

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「八坂神社」


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本殿手前の右手に

「後鳥羽上皇の腰掛け石」
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ただし、何の表示もないのでホントにこの石なのか?わかりません。

以上、

紅葉や黄葉を見に行っただけじゃないの?

と言われかねない散策でした😂

なお、アクセスとしては

長浜駅から路線バスで石田三成出生地と言われる石田町へ行き、横山城探索と兼ねて訪れるのがいいかと思います。

本数は少ないので、レンタサイクルもオススメです。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


認知されてない城跡(斧磨西城)発見?、の巻

2022-07-27 12:05:54 | 近江の史跡

最近は、猛暑のなか多賀参詣道を歩いてる。

いくつかルートがあり、今回は春日橋ルート。

東近江市八日市から多賀大社まで歩く。

国宝の天台宗系寺院、湖東三山を通るので湖東三山ルートと呼ぶことにした。

2022年6月27日


金剛輪寺と西明寺の間に「斧磨」という集落がある。


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有名な難読地名です。

斧磨、「よきとぎ」と読む


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斧磨集落の北西の入口に

「八幡神社」がある。


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石段を登って参拝した。


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この後、歩道のない国道を歩かねばならないので交通安全を祈願した


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斧磨集落を見下ろす

手前下には公園。

参拝後、地形図を見ると神社横の山が丸形になってる。


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円墳か何かあるかも?

簡単に登れそうなので少し探索することにした。



↑虎口付近←すでに城跡と思ってる

すぐに土塁が!
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これは古墳ではない

城跡じゃないですか!

どうみても人工的な土塁ですよ
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土塁の上から内部を見る
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平坦な削平地になってる

ただし、南側は崖となって下の公園に。
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全体が土塁で囲まれていれば間違いなく曲輪ですが…。

公園を作るために南側が削られて改変されたのか?

あるいは自然災害で崩落したのか?


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城内から虎口→神社方面を見る。

枡形状虎口に見えなくもない

いやぁ!これは嬉しい!


新発見の城跡だ!

大慌てで略図を書きました
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Googleマップの位置

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大胆な推測をすると

公園が曲輪③、

神社本殿が曲輪②

そして、今回発見の土塁付近が曲輪①主郭、

と思えませんか?

帰宅して国土地理院の明治以前の図を見た


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うーん微妙…

斧磨地区には遺跡も城跡も確認されてないので城跡なら新発見と言える。

とりあえず、

【斧磨西城】

と名付けた

とはいえ、

堀切は?

竪堀は?


神社の古社か、関連施設、もしくは寺院があった名残では?

近代に何か建てるために、あるいは耕作のために整地したのでは?

と、言えなくもない。


地元で聞き取り調査したわけでもないので

確かなことは言えません。

なんでもかんでも城跡に結びつけて考えてしまうお城病、

病人の戯言、根拠のない妄想でして、


以上、妄想劇場、おしまい。


街道歩き、頑張らねば!


馬《●▲●》助ヒヒーン♪


【太堂城跡】彦根市

2022-07-12 23:24:21 | 近江の史跡
前回紹介した河瀬城跡からさらに南にJR東海道線沿いに進んだ地域が「太堂町」
で、城跡があったとされる。
彦根工業高校


太堂町への案内板


聖徳太子ゆかりの太子堂があり、地名としては後に太堂に変化したと考えられる。
だから、読みは「たいどう」。

集落に入ると鳥居が。


「阿自伎神社行宮所」
豊郷町安食に阿自伎神社があり、その御旅所かな?
豊郷町の阿自伎神社から流れる水路は安食川と呼ばれ

太堂町の条里制区画を乱してる

この安食川は水田を潤す大事な川だが、同時に城館を囲む堀としての役割もあったかも?


この太堂地区の南に宇曽川が流れていて対岸には肥田城がありました。
肥田城主高野瀬氏の重臣だったのが久木氏で、久木氏の居館が太堂城でした。
そんなわけで、前回までは河瀬氏系列の城跡ばかりだったが、今回の太堂城から南は高野瀬氏系列の城跡群となる。

太堂町公民館
集落の中心部に来ました
さらに西北に進むと

「浄称寺」

地元の方に御伺いしたら、
寺の前の道は「ばば」と呼ばれてたそうです。
小字名としては残ってないが、おそらく「馬場」のことでしょう。
城の正面の道だったのでは?と仰った。

で、この道を北上すると

薮があり
阿自伎社霊地となってる
小字「大屋敷」はこの付近



よく見ると盛土が土塁のように見える


位置的にも寺からこの薮付近が城跡だったと推定できます

遠景
↑「お屋敷やぶ」と地元では呼ばれてるそうです

彦根市教育委員会文化財課の解説シートによると
水路や「大屋敷」「堀ノ岸」などの小字名から現在の浄称寺の北の薮付近が城跡と推定される。
とある。



なお、解説シートによると
久木氏は高野瀬氏とともに浅井方として肥田城の水攻めや野良田合戦で活躍する。
浅井氏滅亡後は柴田勝家に仕えた。
しかし、一向一揆の鎮圧戦で高野瀬氏とともに一族は自害したそうです

以上です

馬《●▲●》助ヒヒーン♪








【河瀬城】彦根市

2022-06-30 23:40:19 | 近江の史跡
宇尾城、蓮台寺城、甘呂城と河瀬氏関連の館城跡を探索してきたが、
今回は本家本元河瀬氏の「河瀬城」を取り上げる

場所は現在の彦根市川瀬馬場町付近。

JR河瀬駅から北上する

水路は堀跡か?と思ってしまう


八幡神社
ここから水路沿いに東へ向かうと

河瀬神社の大きな敷地となる


駅名や学校名など河瀬、住所としては川瀬となっていて河瀬と川瀬の両方が混在している。
河瀬氏は河瀬荘の荘官から武士化して京極氏の配下に成ったとされる。
後に犬上衆の一員として姉川合戦に参加、浅井氏と運命を共にして討死した。

この河瀬氏によって保護されたのが「河瀬神社」で神社から南側付近に城館があったのではないか?と推定されてます。

あくまでも推定なので、城跡の石碑などはありません。


河瀬神社の森
土塁のようなものがあるが…



右手の水路と神社は綺麗に平行する

河瀬神社の鳥居


拝殿
本殿



神社から南の住宅地を見る



現在は新興団地のように整然と区画されてるが、古代の条里制に依拠して現代に受け継がれてる
図の点線で囲んだ地域内に館があっと推測されてる

図の「辻」と表記される地点まで真っ直ぐ南下した。

以上、遺構跡が全くよくわからない河瀬城跡でした。

※図と解説は彦根市教育委員会文化財課作成の文化財シートを参考、引用しました

馬《●▲●》助ヒヒーン♪





【甘呂城】彦根市

2022-06-16 23:37:34 | 近江の史跡
甘呂城(甘露城)跡は彦根市南部の犬上川下流の南側に位置する



県道2号線から西へ甘呂集落に入ると
ディサービスセンター城の案内板がある。
城跡にちなんで名付けられたのかな?

この案内板の反対側に空き地がある。

ここに城跡の解説板があります
解説板によると
14世紀の史料には「近江国甘露庄」という荘園として高野山系の寺院の管理だったようです

後にいつの頃かわからないが前回、前々回と何度も紹介してる佐々木氏一族の河瀬氏が城館を築いたと考えられてる。

古代の条里制地割に依拠して館が築かれた。
甘呂集落には「城端」「城田」「城南」などの小字が残されてるのでおおよその位置を推定できる。


我が輩は朝鮮人街道(信長が整備した上洛道)歩きの時に立ち寄った。
街道は甘呂城跡の南側から東に向かい、蓮台寺城跡付近で北上する。
また、城跡の東側には現在の城陽小学校、南中学校沿いに巡礼街道が走ってました。
つまり交通の要衝に築かれた城館と言ってよい。

地図を拡大


ディサービスセンター城から北上します
甘呂神社へ向かう

「甘呂神社」

由緒によると延暦寺、日吉大社関連の神社のようです

城主碑
河瀬大和守と書いてあるが撮影が下手なので読めませんな。



神社の周囲の水路


館の堀跡だと思われます
これは土塁の痕跡か?


おそらく土塁は南へ伸びていたと思われる
土塁の位置を推測して集落の中の民家へ移動した。

解説板に記載されていたが、この付近に土塁が残されていたと思われる

たまたま民家の方がおられたのでお聞きしたら、
この溝が土塁の痕跡だと判明した。

城を囲んでた土塁は、廃城後も残されており犬上川が氾濫した時の堤防の役割を果たしてた。
しかし、近代になり少しでも宅地・耕地を増やして税収を増やそうという行政の意向があり、川が氾濫し水害で被害があっても文句を言わないという誓約を取り交わし、土塁を崩し宅地・耕地にしたそうです。
いやぁ、まさかこんな歴史があったとは!
城の土塁が洪水対策として役に立ってたということを知り、感慨新たにしました。
地元のオジサンから貴重な話を聞けて感謝感謝です。

今回は、現地に足を運ばないとわからないレアな歴史を知ることができて有意義な探訪でした

おまけ、


甘露山願宗寺から集落の南へ向かうと


「天九郎井戸」

南北朝時代に甘呂に住んだ刀工天九郎俊長ゆかりの井戸


彦根市観光協会のホームページによると
黒田節で有名な槍「日本号」は、天九郎ゆかり、と説明されてる

抜粋すると、

この天下の三槍の一筋「日本号」は「江州甘呂の住人(現彦根市甘呂町)天九郎俊長が鍛えた名槍である」と『彦根史話』は伝えています。
俊長は、嘉元年間(1303〜1305)に生まれ、貞治年間(1362〜1367)の末、六十余歳で甘呂の地で死んだと伝えられています。足利幕府が創設され、南北両朝が対立抗争するなど騒乱の只中にあった時代。父友長は甘露寺の住僧だったが、京都の来(らい)国俊に作刀の技を習い、甘呂に帰ってさらに精進した結果、相当名を知られるに至りました。俊長はこの父に鍛造の技術を習い、父の死後は、名匠とたたえられた相州正宗の養子高木貞宗(江州高木荘に住す)について精錬の道を究めて甘呂に帰り、「天の井」の水に己の技をみがきました。
俊長は刀のみだけでなく、とくに槍の名工とたたえられ、「古今銘尽大全」には、「甘露物」として記録されています。
日本号は無銘、福岡市博物館の所蔵品です。天九郎俊長が鍛えた槍かどうかは定かではありませんが、甘呂に天下の名工がいたことは確かなようです。

確たる証拠はないようです…

以上です

Φ(*^ひ^*)Φ
我が家の紫陽花



七変化してきました


馬《●▲●》助ヒヒーン♪












【宇尾城】彦根市

2022-05-24 23:01:49 | 近江の史跡


河瀬氏の一族に大宇氏があり、大和守高秀と秀則の2代が居住したのが【宇尾城】
Googleマップの○付近

「大宇」が後に宇尾に変化し現在は宇尾町に。
前回紹介した蓮台寺氏と河瀬氏、そして大宇氏の3家が「犬上衆」と呼ばれて浅井氏に従い、姉川の合戦で消滅したようです


蓮台寺城から県道206号線を北上し犬上川の橋を渡ると県道の左手に「白山神社」がある。
県道から左へ入った所に鳥居がある。



神社を囲んで北側一帯が城跡だったようです


鳥居の左手に細い路地があり、奥へ入る


果樹園があり、石碑が建ってます

「河瀬大和守秀則屋敷址」と記載されてます

私有地の果樹園なので遺構の探索は無理。
石碑だけ見て退散しました。

ちなみにこの県道206号線は、通称「彦根道」「朝鮮人街道」と呼ばれてます。
織田信長が整備した上洛道であります。

蓮台寺城、宇尾城、ともに街道を睨む位置に築かれました。

※彦根市教育委員会文化財課の解説シートを参考に探索しました。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪



【蓮台寺城】彦根市

2022-05-15 23:47:50 | 近江の史跡
彦根市南部に河瀬荘があり、河瀬氏が荘園管理して豪族となったようです。
この河瀬氏の一族の蓮台寺氏の居城が「蓮台寺城」でした。
この城跡の北側は朝鮮人街道が通ってます。
信長が整備し通った道です。







現在、蓮台寺町の集落のなかに一段高くなった畑地があり、城跡の石碑が建ってます。




「YouTube動画」



馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【勅旨岩倉城】(甲賀市信楽)を探せ!

2022-04-20 23:32:58 | 近江の史跡

2022年03月07日(月)
信楽町の勅旨城は南北朝時代に合戦の舞台になった。
Googleマップで城跡として登録されてるが、今のところ遺構の確認がされてないようです。


そこで、滋賀県民である我が輩が今回探索してみることにしました。

10時49分、信楽高原鐵道勅旨駅に駐車。

探索しました


↑Googleマップではこの位置に比定されてる。


詳細は↓の動画を見てください


全ルート


二時間47分、近くの目ぼしい尾根沿いを探索したが、結局成果無し

骨折り損でした😥

ま、素人の我が輩が誰も確認できてない城跡を探すというのが無理な話。

10年早いわい!😥

と、言われそうですな

馬《●▲●》助ヒヒーン♪