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馬ひでの助

街道歩き&城廻りの記録、
そして滋賀県情報&つぶやき
β《#^ひ^♯》でヒヒーン

地名夜話「甲良町」

2023-08-13 23:45:50 | 近江の史跡
地名ちょこっと紹介
【甲良町】滋賀県犬上郡
こうらちょう。
我がひこにゃん市と接していて、犬上川を挟んだ南側の町。
同じ犬上郡ということで親近感あるが、意外にも仲が悪くて市町村合併の話は進まず、車のひこにゃんナンバーも拒否されて破断となりました。
我が市が高圧的な態度をとってるのが気に入らないのかも、ね。
甲良の由来は、犬上川の河原(かわら)→「こうら」に転化した、と言われてます。
小さな町だが、3人の歴史上の英傑を輩出してます。
まずは、「京極道誉」。
足利尊氏を支え佐々木源氏の基盤を築きました。バサラ大名と呼ばれてます。
出雲の戦国大名尼子氏は京極氏の系統で甲良町尼子が本貫の地です。
二人目は「藤堂高虎」
頻繁に主を変えたため日和見大名と呼ばれてるが、築城術に優れていて江戸城を始めとして二条城、大坂城など有名なお城を造ってます。
江戸時代、外様大名は西国や東北などに飛ばされたが、高虎だけは逆に四国から伊賀伊勢へ栄転しました。
外様ながら家康のお気に入りとして信頼された大名でした。
3人目は「甲良豊後守宗廣」
大工の棟梁で高虎との縁で日光東照宮、江戸増上寺などの造営を担当しました。
現在、甲良町役場前に銅像があります。
ちなみに、藤堂高虎の生誕地は藤堂村と呼ばれてたが、江戸時代彦根井伊家2代藩主の直孝が、藤堂家に対して不遜だとして「在士」という村名に変えた。
で、現在も甲良町在士という地名になつてます。
家康は、合戦になった時に一番槍の家柄は伊賀の藤堂家と彦根の井伊家と決めました。
両家お互いに実力を認めてたようですな。
ところで、今回のクイズの選択肢としては甲良町以外に甲西町、甲南町、甲賀町もありました。
3つの町はともに甲賀郡に属したので町名に甲が付きます
なのに、なのに、
平成の合併で、甲西町は湖南市に。
甲南町と甲賀町は甲賀市になり、分裂しました。
同じ甲賀郡(こうかぐん)なのに分裂して
住民は
コウカイしてないかな?
明後日に続く~
□■□■□■□■□■□■□■□■
Φ(*^ひ^*)Φ
夏休みと言えば、NHKラジオ体操。
毎日全国各地から放送されてます。
で、冒頭に必ずその土地の紹介がある。
先日は「福島県のこおりまち」
とアナウンスが。
郡山の間違いじゃないの?
と思ったが、
「伊達家発祥の地」という解説があり、はたと気づいた
「桑折町」のことですよね。
これも難読地名ですな。
数年前、宇和島城に登った時に、桑折門がありました。
伊達家の家臣桑折氏にちなんだ門です。
桑折町に古代の郡衙があった。
郡、こおりと読む。
養蚕が盛んだったので桑折と改名したようです。
寝床でラジオ体操を聞きながら頭の体操をした我が輩でした。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
台風7号、
どうやら我が地方直撃のようです
しかも、お盆に来るとは、
ヤバい!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪

近江妙蓮

2023-08-07 12:30:00 | 近江の史跡
守山市中町に近江妙蓮公園があります
大日堂の境内の池で室町時代から咲いてる蓮の公園


説明文にもあるように明治時代後半から開花しなかったが、蓮の研究で有名な大賀博士の尽力により再び毎年夏に咲くようになりました。
資料館と駐車場あります



期間中は有料(高齢者半額)



近江妙蓮は蓮の変異株
花の中央に雌しべも雄しべもなくて
繁殖はレンコンで増殖する。

ちらほら咲き


咲いてる花が少なくて時期的にハズレだったかな?
と思ったが
さにあらず!

近江妙蓮は一斉に開花することは無い

蕾のまま散る花も多い

そんなわけで、映えないのであまり人気は無い

でも貴重な妙蓮、
大切に育ててほしいものです。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪














膳所城の防塁と水害

2023-08-02 09:31:00 | 近江の史跡
7月6日
京阪膳所駅

カーブになっていてホームが狭いので
腰高ベンチになってる

膳所公民館(市民センター)へ移動

膳所城の天守風の建物になってます

膳所藩士羽太(はぶと)家史料展が開催されてたので見学に来ました
幕末から明治にかけての古文書が公開されてました
史料は自由に撮影してよいと係員さんが仰ってくださったので感謝です
有名な大津事件
ロシア皇太子を斬りつけた津田巡査はこの公民館近くに収監されたようです


版籍奉還、廃藩置県、西南戦争などの記載。
京都に近いから情報入手が早かったようです


大塩平八郎の乱、和宮下向、
桜田門外の変は「彦根騒動あり」と簡単な記述。
機密事項だったからね。


御用池普請の事。
羽太家が池の浚渫の役目を負った。
藩士みんな総出でモッコ担いで普請をしたようです。
城下町から山の麓まで大変な労働だったと思います
実は5月の連休に御用池を見に行った
史跡の解説板は無くて
有料の釣池になってました…

他にも史料あったが、
気になったのが、
天保7年の水害記事
大雨続きで琵琶湖の水位が高くなり
城下町のあちこちで水没した。
城下町には旧東海道が通ってたので
大事な通行は水没してない別の道を案内したという。

で、1つ気になったのが、
往還道というのは東海道のこと。
膝付近まで水没したようです
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
一、当町筋水漬ハ霊照院前少々有之、響忍寺前泉水寺桝形迄西ノ庄宮

之前五十間計、大津二而ハ石場七、八十間計浜町通り小舟入五十間計、

何レも膝之当り迄水漬候由、
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「響忍寺前泉水寺枡形前」

水没したため枡形前を避けて響忍寺横から仮道を通らせるようにした、
ということかな。


泉水寺というのは現在見当たらないが
響忍寺で、東海道が屈曲してます。

これが街道の枡形のことだと思う

以前にブログでアップしたことあるが、

響忍寺の門は立派な長屋門で城下町の西側を見張る重要な位置だったことがわかります。
だから、わざとここで街道を折れ曲がるようにさせてます。
長屋門は枡形門のような役割かな?

で、先の図を見ると


東海道を通せんぼするように防塁があったようです。
おそらく水害対策と城下町防護のための土塁だったのでしょう。
この防塁は壊されて
現在は
スーパーマーケットと橋付近が少々高くなってるだけ。
天井川の堤としての高まりとしか見えない

で、市民センターの係員さんにお話を伺ったら、

本来の東海道は防塁を避けて通るようになってたようで、これが枡形の意味なのでしょう。
通行人は
防塁と響忍寺で囲まれた空間を移動させられるわけです。

いやぁ、これは知らなかった。
全く知らずに東海道歩きをしてたわけで
いやはや汗顔の至りですわ。

前述の水害の時は

臨時としてこの図の白い点の仮道を移動させたのでは?
と思いました

グーグルマップ
響忍寺裏の川沿いに緑地があり、
この緑地が防塁跡の痕跡かな?
と推測したが、単なる堤跡の名残かも?

以上、おしまい


あくまでも個人の独善的推敲なので
鵜呑みしないようにお願いします



馬《●▲●》助ヒヒーン♪



























浮気城(守山市)

2023-07-26 15:47:00 | 近江の史跡
矢島御所跡を探索後、
午後は、JR守山駅東へ移動。

浮気城を探索することに。
スーパーに駐車して(買物しましたよ)、
城跡まで移動

神社の境内へ入る
神社の背後に土塁が残る


神社の背後を周回した

こんな所にもスズメバチいますか?



参拝しました

普通は鳥居から入って参拝するのですが…

鳥居の前の水路に

鳥居の先に

浮気城は鎌倉時代に浮気氏(由緒はわかりません)の居城で、
戦国時代は佐々木氏に仕え、後に織田豊臣氏に仕えたそうです。

少し東へ移動する

お堂があり、
県道へ出ると
住吉神社から伸びた土塁の痕跡かな?

県道を神社へ戻る
高田徹さんの本によると、
神社背後の土塁は水害対策の堤だった可能性も?
という見解。

県道の浮気バス停

「うわき」と読んだ方いませんか?

「ふけ」
と読みます

水気が浮く→浮気
守山市付近は野洲川の河口付近で低湿地となり、洪水に悩まされ水の溜まりやすい場所。
それが地名となったようです。

水路は不潔じゃなくて
綺麗で、守山市はメロンが名産。
ゲンジボタルの生息地としても有名です

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

























矢島御所跡〜矢島城跡

2023-07-20 21:34:00 | 近江の史跡
守山市
大庄屋諏訪家屋敷の半夏生を見学した後、矢島地区へ移動した
矢島自治会館付近が矢島御所でした
最後の足利将軍義昭公がここで過ごしたので御所と呼ばれる
江戸時代は高島市の分部氏の飛地でした

植え込みに道標が!

この道標、本来どこにあったのだろうか?

会館の北西へ移動

自治会館のマップには土塁がわずかに残されてると書いてあるが、


私有地なので入れません

城主、由来などもさっぱりわかりません

馬《●▲●》助ヒヒーン♪














夏越の大祓

2023-06-30 13:47:35 | 近江の史跡
今年も半年過ぎました

八風街道歩きで
菰野町の井手神社に立ちよった
早速茅の輪巡りする

山城駅前の
桜神社
急斜度の石段を登る

こちらにも茅の輪

八風街道歩き、四日市の伊勢富田まであと少し、ゴール目前です



そして、我が地元の

多賀大社にも
茅の輪が。
八の字に回ります

この夫婦、
太鼓橋に挑戦した。
この橋を渡るのはなかなか大変なのです。
太閤秀吉さんが、母の病気快癒祈願として寄進したので、
太閤橋と呼ばれる


本殿に参拝
厳しい夏を乗り越えられますように!

広い境内にはいくつか史跡が残されてる
この蔵は
太閤さんゆかりで

太閤蔵

江戸時代は彦根井伊家の加護もあり大いに栄えました。


三つのお社で茅の輪をくぐったのは
今年初めて。

今年の後半戦
良いことあるかな?

地元のスーパーで

水無月を買った。
要介護の母ですが、食欲は旺盛。

3個のうち2個は母が食べるだろうな…


誕生月の6月も終わり。

母のおかげでここまで長生きできたことを感謝しなければなるまい。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪














木俣清左衛門家

2023-05-29 11:59:00 | 近江の史跡
先日、土佐遠征をしたが、
土佐と言えば、
【木俣守勝】
土佐守と称してたので、井伊家の家臣は「土佐殿」と呼んでました。

木俣家は伊勢の神戸出身、
守勝は三河岡崎で生まれ家康の小姓を務めた。
その後、明智光秀の家臣になり頭角をあらわす。
本能寺の変後は再び家康の家臣となり
井伊家の目付として佐和山城に。
新しい城の選定に関しては、磯山や荒神山などいくつか候補があったが、
守勝は彦根山を推し、家康も了承しました。
そして、2代藩主井伊直孝を支えて筆頭家老となり、最大一万石の領地を得ました。
井伊家と縁戚関係をもち、他の家老とは別格の地位を得ます。

江戸時代、平和となり彦根城の実質上の大手は中山道に近い佐和口御門となり、
木俣家の屋敷も佐和山多聞櫓の内側にありました。
藩主の参勤交代でお国入りする時は必ず
佐和山御門を入り、木俣家屋敷で接待を受け、その後お城の表門へ入るのが慣例となりました。



ちなみに江戸城では将軍のお宮参りでは必ず井伊家に立ち寄るのと同じパターンで主君と筆頭家臣の絆を確かめるためと言って良い。

現在彦根城博物館では
木俣清左衛門家資料の企画展が開催されてます。

お越しヤス!


中堀のツル


佐和口多聞櫓
塀の向こう側に木俣家屋敷がありました。
ちなみに堀の反対側は井伊直弼が過ごした埋木舎があります


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
我が家のモミジ葉ゼラニウム

花が咲きました。
小さいです


花より葉っぱが魅力ですな。

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我が地方、早くも梅雨入り。

早すぎですな。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪


在士八幡神社の藤棚が見頃

2023-04-27 15:44:35 | 近江の史跡
甲良町役場に駐車。

↑甲良豊後守は大工棟梁で二条城、江戸城や日光東照宮建築に携わりました


公園には高虎公の残念石が。
在士地区出身の武将です

藤堂高虎公像。
江戸時代、西国の外様大名が伊勢伊賀という重要な地に領地をもらって栄転出世した大名は高虎公だけです。

そして在士八幡神社
例年ならゴールデンウィークが見頃ですが、今年は少し早い
藤棚、湖東湖北地区ではここが一番最高だと思います

最後は尼子館跡へ
甲良町尼子は、尼子氏の本貫地。
佐々木京極氏の一族で守護京極氏の代官として出雲に派遣され、後に出雲の戦国大名となりました。
かろうじて土塁が残ってます。


この他にも藤堂氏や尼子氏ゆかりの史跡が残ってるので、ゴールデンウィークの史跡散策にオススメです


以上。

馬《●▲●》助ヒヒーン♪



















姉川古戦場にて

2023-04-06 06:03:53 | 近江の史跡
姉川古戦場の桜は満開!

野村橋は通行止なのでこの前にも駐車できる
彦根藩士の川除奉行の顕彰碑
これは意外でした

対岸下流の岡山(勝山)へ移動
家康の陣地
今年は大河ドラマの影響で訪れる人も多いのでは?



Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

ランチパックに彦根城が。



馬《●▲●》助ヒヒーン♪





小川城(信楽)でお花見🌸

2023-03-21 11:31:00 | 近江の史跡
2023年3月20日(月)
甲賀市信楽町。
小川地区の天満神社に駐車。



徒歩で山頂へ向かった。



案内板が充実してるのでわかりやすい。

なお、林道が山頂近くまで通じてるので軽自動車なら楽に行けます。
ただし、対向車に注意。

登山道終点から入って右手が山頂で土壇になってる。


そして、土塁に囲まれた主郭。
中央に建物跡の痕跡あり。

もしかして、家康公はここに匿われたのかな?

土塁下部に
石垣が一部残存

西側に虎口あり。

虎口から力石を見る


北の尾根の次のピークは物見台曲輪かな?




手前の曲輪2にあずまや展望休憩所が。

こちらにも土塁。



桜はもう散りかけでした。


展望休憩所の額の板の文字は

故宇野首相の筆かな?


この堀切を下ると中の城へ



出丸(曲輪3)。
削平地になってる。
手前は薄い堀切。

こちらは西の監視か?
ここから尾根道を中の城へ下山した。


登山道あるが、笹薮で迷いやすい場所あり、
さらに大堀切や複数の堀切があり、越えるのは大変です。

↑大堀切。
左側が中の城への高い切岸

ま、なんとか無事に中の城へ降りられました

小川城は綺麗に整備されていて気持ち良かったです。





馬《●▲●》助ヒヒーン♪