無題・休題-ハバネロ風味-

私の視線で捉えた世の中の出来事を、無駄口、辛口、様々な切り口から書いてみました。

飽海地域史研究会 日和山公園

2024-01-24 17:50:13 | 歴史


令和5年、12月17日、飽海地域史研究会開催、事務局長が開始の挨拶


会長が挨拶と飽海地域史研究会の概要を説明。



今回の講師:(公立大法人)静岡文化芸術大学 名誉教授 阿蘇 裕矢氏だ。
彼は庄内の狩川生まれで、高校は酒田東に通うが、高校生デートのメッカである日和山公園には来たことがない。
大学は造園学科で、卒業して務めたのが建築設計事務所で、次はシンクタンクへ、そこから浜松市の大学の教授になった。


シンクタンク時代に、各地の公園作りに参加する。
地域で事を起こすには、その地域の歴史と遺伝子が必要。
同じものを造っても、馴染まない。


明治以前の行楽地には、何らかの花が咲いており、美味しいものを食べさせる茶店がある。


太政官公園は150年前から布告されている。
明治時代には、政府は欧米の都市の公園と言う施設を導入しようと寺や神社を指定した。
明治6年、最初に出来たのは東京の5箇所で、明治30年迄に82箇所が出来ている。


山形県内には、6箇所の太政官公園が指定されている。


日和山は300年前に景勝地として認められていた。


ただ、日和山公園には黒松はあるものの、花の記述がない。
近くに桜小路と言う町名(?)があり、公園には桜はなかったのかと思う。


政府は内務省や農政省を通して、各地の地目を把握しようとした。
勿論、税金を徴収する為である。あまりに新政府の税金の取り立てや役人の横暴が酷いことで、第1次酒田県(三島通庸)の時にワッパ騒動が起きている


日和山とは、全国各地に同じ名称の場所がある。
殆どは湊町で、船の運行や天気を見るために設けられた高台である。


酒田の日和山は国有地とされている。
米沢は何処から何処までが公園なのかわからない。


酒田は度重なる大火で、古文書が残っていない。
確たる年代がはっきりしないが年輪年代学で調べると、日和山には81箇所あるようだ。



昔の古い絵図や写真を見ても、常夜灯の周りにも木はない。


日和山は通称「あっけず山」と呼ばれている。
あっけずは酒田の方言でゴミのこと、しかし江戸時代の質素な生活を見ても、山になるほどのゴミが出るとは思えない。
大火時の残土やゴミなどを捨てて土を被せのではないか。


明治9年、明治天皇の御巡行では、両県とも道路事情が悪く、なかなかお出でになられない。
その間、公園を綺麗にせよと申し出に、急いで整理したこともあったようだ。


近代国家を目指す明治政府は、社会資本として公園を再開発し整備した。


次に公園としての危うい点、問題点を述べられた。
酒田市には142箇所の公園がある。その使われ方はどうだろう。
人を寄せるためと金儲けに走ると失敗する。
鶴岡と山形の例を話された。御殿堰は成功例。


文化とは、生活暮らし、風景、景観、緑に空気。
金沢市は町名を古い町名に戻す運動を起こす。
都市再開発で市街地と市街化調整地域を造って枠にはめようとしたが、人々は増えない。
逆に都市では屋上に農園や庭園を造っている。人の生き方が変わった。


隈研吾設計の豊島区区役所では、区役所の敷地を公園化して花、鳥、蝶を招き入れた。
日和山も行政に任せるのではなく、市民の考えも取り入れて、様々なアイディアを出す必要がある。
その為には、その町(酒田)の歴史をもう一度紐解く必要がある。
常夜灯、方角石、湊町・・・。日本で最古の物が残っている。


久しぶりに大学の講義を聞いたような満足感だった。
阿蘇先生のお話は歯切れが良く、良いことも悪いこともビシバシ伝わってくる。



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