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まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

地球温暖化による、世界的なビジネスブーム。

2008年01月25日 | 社会的全般
「地球温暖化」。
ひょっとすると、この話題、遅い?取り上げるのは。
最近、この温暖化に関する、反論、疑問を表す本なり記事が、
目につくようになって、それぞれが、何だか冷静になってきた感じがする。
特に、気象予報士さんなんかは、特に、慎重にしている感じをうける。

突然の「異常気象」という感じも、昨年ぐらいまでは、
この温暖化という線で、まとめる感がありましたが、
様々な過去のデータから、予報をする彼らにとって、
「異常」とか「正常」の区別を、線引きを、どこでするのか、
であれば、何を根拠にするのか、
科学的に説明責任が発生する以上、なかなか、簡単にまとめることが
できないんでしょう。

考えてみれば、自分が大学生のころは、思いっきり、寒冷化の話がありました。
CO2の排出によって、大気の「混濁」が進む結果、
太陽光の到達が「遮られ」、地球が寒冷化する、なんてね。
今の傾向とは、まるっきり、真逆の説明でしたが。

海水の「高温化」もその影響下にあって、
氷河が溶けてしまうとか、南太平洋のツバルという国が沈んでしまうとか、
溶けた氷によって、水位が上がり、東京も、おちおちしていられないとか、
妙にショッキングな話が駆け巡りましたが、
CO2による、大気の「温暖化」によって、どうして、
海水が「温まるのか」は、熱の対流から言って、今でも、謎ではあります。

この温暖化が言われる前に、もっと問題であった件は、
「環境汚染」ではなかったか。
日本の都市部では、また別に、ヒートアイランド現象とかありましたが、
CO2といった問題に集約することによって、
その他の、有害な汚染、物質関係が、一挙に丸め込まれた感じがするのは、
私だけでしょうか?

ネタ的には、あの大型ハリケーンやら、スコール並の雨とか、
オーストラリアの干ばつとか、気になるニュースなり特集を目にしますが、
一方で、この「温暖化」で、地球自体の緑は、増える傾向にあるという。
さすが、地球の「主」はたくましいです。

また一方で、
太陽:黒点、新周期に 北緯28~29度に新領域--京大観測

  黒点は約11年周期で増減を繰り返しており、今回の黒点は新たな周期に入っ
  たことを示す。黒点の数が最も増える極大期は2012年前後。次回の極大期
  には1960年以来の大規模な太陽活動がみられるとの説が有力で、学界の注
  目を集めている。

  柴田一成京都大教授は「ここ数百年、黒点が減ると氷河が増えて地球が寒冷化
  すると分かっている。地球温暖化に黒点がかかわっているのかもしれない」と
  話している。

この話も、随分前から、聞いたことがあります。
というより、そう、思っていました。
で、いきなり昔の話ですが、
平清盛。  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

  病状の記録から、恐らくは大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリ
  アに罹ったものと思われる。当時の日本は現在よりも気候が温暖で熱帯性の伝
  染病であるマラリアが存在したと言われる。

みたいな話を聞くと、温暖化対策と称して、
国家予算1兆円規模を投下する「政策」について、その是非。
10年後に、歴史的に、科学的に、検証される時がくるんでしょうね。
ええ、自分としては、この「環境対策」に関しては、
異論はありません。

というより、事実、この問題をベースにした事業を進めているので、
逆に、サスペンス的に盛り上がってくれる方が良いです。
が、クールビズとかウオームビズとか言って、
「新たに開発された商品」を気取って着用して、広告に出るのは、
その製品自体にどんだけCO2が排出されているかってことを考えたら、
所詮、この温暖化は、
企業側の、一つのムーブメントなんじゃないかと、

また、
排出権とか、最近、この問題も大きなビシネスとして盛り上がっていますが、
結局、政府としては形を変えたODAであったり、
さらに「金融商品」として、日本がむしられる一方であったり、
(だって、これを商品として上場させているのは、議定書で頑張っている
 EU諸国だもの)
ISOとかの「規格」で、よくわからないけど、
企業をリードしているコンサルト会社やら商社、証券会社にとって、
大きな「稼ぎ場」になっているのは事実だし。

そのように考えていくと、
今年に限って言えば、マスコミが、特に「大新聞」が、
この温暖化を、どのように「煽るのか」「問題視」していくのか、
それとも「科学的」に実証していくのか、
または「トーンダウン」していくのか。
個人的には、ものすごく興味津々です。

最後に、北京オリンピック。
もう、温暖化というよりは、環境汚染というテーマで、
どのように世界に発信されるか。
それが契機になって、温暖化がどのように修正されるかのほうが、
「個人的には」さらに、ものすごく興味津々です。


便利なサービスが、かえって深刻な状況を産み出す。

2008年01月23日 | 社会的全般
社内に落ちていた週刊誌「SPA!」 1月22日号
「実録レポ ネットカフェ難民の壮絶な年越しに密着」という記事。
読ませていただきました。
が、正直、これを記事にしていいんだろうか?
という感想であった。

というのは、巷間言われている、イメージされている
昨今のネットカフェ難民。
深刻な事情があって、やむにやまれず、そのような生活を強いられている。
保証人も立てられず、住居に入ることもできず、
過酷な日雇いの仕事「しか」あてはない。

さらに、病気になったとしても、保険証もなければ病院にかかることもできず、
不当な天引きと称して、「搾取」され続ける、
格差社会の「象徴」とまで報道され続けている。
この層が、やがて、年齢を重ねることによって、
大量のホームレス層を形成することにもなりかねず、
社会に「対峙する」弱者として、どのような社会的な救済があるのだろうか?

こんな感じ?
だから、キャッチも「過酷」「悲惨」「壮絶」という単語が並ぶ、が。
今回の記事では、正直言って、「やむにやまれぬ」事情というのが、無い。
考えようによっては、全員が、「望んで」「楽しんで」、
さらに「自己と向き合おうともせず」「清算することもなく」、
あえてネットカフェに入り込んでいる。
そういう印象をぬぐい去れない、方々。

というか、こういう方々としか、コンタクトがとれなかったんであろう。
取材対象者として。

ただ、19歳の時に、職場のいじめが原因で静岡から上京して、
そのまま10年間「難民」を続けているというAさん。
10年?
新宿中央公園での、NPO法人による「炊き出し」に列をなし、
「今日はカレーだったから、量が少ないんですよ。2杯しか食べられなかった
 いつもの豚汁みたいなやつなら、3杯はイケたのに....」
「今のボクにはネットゲームがすべて。ゲームをしながら死ねたら、最高です!」

他に3名の対象者がおりましたが、
Bさんにいたっては、日雇いで、月収20万円。
「(新年の抱負)このままの生活を続けることかな。そりゃ、部屋を借りたいとは
 思うけど、面倒くさいし、無理でしょ。それに、今の状況でも路上生活しなくて
 済むしね」
などなど。

思うに、この東京、便利、不便を通り越して、
理解しがたい環境が出現しているようだ。
申し訳ない言い方をするが、幸不幸、人生色々あるし、
時代によっては、建設関係といった業界の景気の「波」やら、
社会構造の変化に伴い、はじき出される人生もある。

現場さえあれば、仕事さえあれば、もう少し普通の生活を送りたいやら、
普通の生活に2度と戻れない、特殊な事情から、
あえて身を投げざるを得ない方など、
当然、荒んだ日常の果てに、酒におぼれ、少額のギャンブルに身を震わせ、
など、それぞれが、何か、希望も悲哀もこもごもで、
どこかに生活者として、腹をくくった割り切り方や、
社会に対しての身の振り方への「節度」を含め、
納得のいく、といったら変だが、ストーリーが、たぶん、あったはず。

今回の登場者には、なんだか、全く、そういうシンパシーが感じられない。
取材だから、こういう「表現」しかできなかったんだろう、
なんてことを割り引いても、
卵が先か鶏が先か、じゃないけど、
こういうネットカフェがなかったら、
多分、ここに出ていた人達は、もっと「真剣」に、
生き方の選択を模索せざるを得なかったじゃないかとか、

グッドウイルとか、フルキャストのような、
日雇い派遣が、それこそ、あれだけの活況を呈していなかったら、
それでも、まだ、それでも、人を送り込めていない現場が五万とある、
こういう「インフラ」が公然と無かったのであれば、
もう少し、違った、社会環境、地方の産業政策など、
人口流出に絡む、大きな問題も、ちょっとは、別の様相を呈したかも
しれないんじゃないかと。

なんだか、こういう、民間のサービス業が、
かえって、何かを劇的に安直にさせて、安直な何かを大量に
生み出すきっかけづくりになってしまったのなら、
深刻な事情を抱えた「層」を、
ひどく、見えにくくさせてしまう、そういう世の中が出現していく、
今、こんな感じになりつつあるんじゃないのかと、思ってしまう。


農業のちょっとした話。

2008年01月21日 | 社会的全般
何の気なしに拝見した記事。
「ダイヤモンドオンライン」にて。

人口減少が招く都心地価下落と農地価格上昇の可能性

  私は今年、地価の値下がりが本格的に始まるとみている。最終的には地価が上
  がり始めた2005年の10~12月の水準まで戻すのではないか。それより、突っ込
  むかどうかは、経済の状況次第だ。

いやいや、これをピックアップしたかったんではないんですが、
自分も、畏れながら、そのように思っているので、
切り貼りしてみましたが、
近頃は、そのピークが、短くなってきたものですね。

今回は、メリハリの利いた「投資」が、主に外資主導で行われたので、
利益を確定したら、サット逃げる。
その昔のバブル当時、どこまでも突っ込んでいった日本の金融機関。
貸し付けることが、目的化したんじゃないかというくらい、
どこもここも、まさに狂乱化していましたが、

  外資は直接、日本の不動産を購入する代わりに、これらの投信を購入してお
  り、外資が引上げた時の影響は大きい。それは地価の値下げ要因となるだけで
  なく、私募ファンドをたくさん保有している地銀、信金・信組などは経営危機
  に陥ると思う。

に見られるように、多くの識者が、同じように述べていますが、
またしても、「義理」「人情」「縁故」「融通」などか絡み合う、
日本の金融機関が、性懲りもなく、「ばば」を引くことになりそうです。
ご愁傷様です。

まぁ、本題はこれではなくて、
「都市の地価は人口減少から下がり、農地の価格は上昇する、とみている。」
という、農業に関する件、です。

その根拠はというと、
「将来は、今は考えもつかない工業品の材料として、食料品が使われるようになる
 でしょう。高値で売れる農産物を生み出す農地は、必然的に値上がりします。」
ということなんですが、
今さらながら、トウモロコシが、燃料になるということ、
知ってはいましたが、ここまで「実用化」されるとは、
誰も思わなかったはずです。

そういえば、バックツーザフューチャー。
1話目で、博士が、未来から「帰還」したさい、
その「タイムマシーン」。
雷級の「燃料」が必要とされていましたが、
未来では、そこいらの「ごみ」やら「食べ物」から、
高出力のエネルギーを抽出する、唖然とする「代物」をエンジンにしておりました。

結局、この世界、エネルギー転換が起こらない限り、
大規模な「構造転換」は難しいので、
あるいは、こういうバイオ的な発想が、次世代を支える!
なんて期待をしてしまうんですが、
物質は、すべからく、地球に存在する「有限」の原子の
壮大な「リサイクル」で、我々も出来上がっているわけで、
なんか、何か、できそうな気がするんだけど....。

  郊外の開発された土地は、人口減少から住宅地としてではなく、農地として利
  用されることになる。すぐにその動きが加速するとは言いませんが、後で振り
  返れば、この数年はその大転換の大事な年になっているかもしれません。

案外、こういう発想、ありかもしれません。
ちょっとしたネタでございました。


この時代には、いらなくなったのか?連帯責任

2008年01月13日 | 社会的全般
かくいう自分も、「連帯責任」ということ。
良いイメージも、良い記憶もなかった。
正直、それに付随する記憶が、どうしても「理不尽」に尽きて、
今時、なぜ、そういうことが必要なのか、
あまりにも旧世代的な感じがして、
嫌悪感が強かった。

ただ、当たり前のことなんだが、この「連帯責任」というもの。
小学生。中学生。高校生。そしてなんだ、大学生というか社会人含めて。
各段階で考えてみると、
その、高校生だとか、社会人のレベルで、
「連帯責任」を背負い込む。
さらに、その結果、「管理者」から何らかのペナルティーを受ける。
学校であれば、体罰から始まって、居残りなど。

このレベルで、この連帯責任は、正直、辛い。
というのは、この年齢になれば、
自分のせいで、誰かに迷惑をかけることを「知っている」、
そういう判断が、ついていて当たり前の年齢だからである。

さらに、そういうことを「してしまった」人間に関して、
どういう事情、どういう間の悪さ、どういうつもり、をも、
ある程度、理解もできるし、予見もできる。
そういう年齢の集団において、
連帯責任というシステムは、かなり、強いる方にとって、
高度なテクニックなり、高度な適応、目標が必要。

ところがだ、
小学生は、どうだ。
中学生ですら、どうなんだ。
最近の傾向を見ていると、集団生活ということ、
実は、ほとんど重要視されていない。
というか、個人の存在がというか、あり方、振舞い方、考え方が
それこそ最優先で、
正直、集団で何事かするということ、
レアな出来事とすら傾向として思っているのではないか。

何度か、この「場」で申し上げたこともありますが、
現代は、本気で一人で生きていくことが可能な時代です。
それを可能に、いや、先々の担保として、年金の問題が
非常にクローズアップされてきておりますが、
(とはいえ、老老介護や、一人老世帯の増加など、深刻な状況が加速中)

どうやら、まだ、一人でこの人生をやっていけるのではないかと、
動物種としては、非常に恵まれた「生き物」を謳歌しております。

が、つい「先ほど」までは、
どう考えたって、一人で、生き物をやっていくことはできませんでした。
当たり前ですが、
今でも、一人でなんか、やっていけるはずはありません。
電気、ガス、水道など、単に「その程度」のインフラがトラブッただけで、
いきなり、我々は、この社会で、その生命の危機を迎えます。

で、話を戻しますと、
特に、子供、それも低学年。
幼児はとりあえず、おいておいて、
「模擬社会」を経験させるために、色々な連中と集団生活をさせる。
さらに言うと、どういう育ち方をしていようとも、
どんな考え方をしていようとも、
必要な瞬間においては、集団の「作法」を経験させておかねばならない。

集団生活自体、ええ、理不尽な世界です。
しかしながら、この大人の社会。理不尽な瞬間が特盛です。
個人サイズで結果も責任も負える仕事が増えてきたのも事実ですが、

一人の勝手な行動は、その集団の「リスク」を高めてしまう。
この簡単な事実。
これは、その集団に属しているという「理不尽」さをおいても、
ある瞬間においては、最優先されなければならない、
必須の当たり前のことです。

ただ、ガキには、わからない。
結構、若い大人でも、知らない。
いや、知る必要の無い社会だからかもしれませんが。
だからといって、何のペナルティーもなくて、済ませる。
そいつだけのせいにしてしまう。

個人的には、多分、異論はあろうかと思いますが、
子供には、有無を言わさず、参加している全員に
「災い」が降りかかる、そういう経験をさせたほうが、
リアリティーがあるんじゃないかと、思っております。

ええ、連帯責任という「代物」になりますが。

昔で言うならば、即座に、何らかの「体罰」が軽いも含めて、
普通にありました。
何度も言いますが、高校生以上には、そいつだけのせいにしても
構わないと思います。

ただ、最近は、その体罰というのが、
その教師の「個人的」な、怒りの爆発だったり、個人の趣味なんじゃないか、
そういう、我々の「知識」も報道で増えてしまったので、
こういう「理不尽」さも、あえて、あり、なんてことも、
最近では軽々しく発言はできませんが.....。

とはいえ、教師自体が、というより、社会自体。
集団というものを、これほど、軽く考えている。
というより、「あるの?」「必要なの?」という時代。
連帯責任というのは、言ってみれば、いらなくなってしまった、
過去の「作法」だったり、必要のない考え方なのかもしれません。

だって、何かがおきれば、
何かのリスクが高くなれば、
何かの「災い」が降りかかってきても、UFOに侵略されかかっても、

「国」のせいにすればいいんですから。

個人的には、年金問題なんか、
高齢者のみならず、我々も含めて、
「連帯責任」だという話。は、考えないようにしています。
ええ、年金問題は、舛添が悪いに決まってますから。
えへっ。


今の日本人の問題意識、かな?

2008年01月09日 | 社会的全般
「つくば」って広いなぁ。
あの学園都市って、そのまんま都市みたいで、大したもんです。
夜だったんで、もう、夜空が広くって、ろくな内容しか書けないんですが、
次回は、陽があるうちに行ってみたいものです。

かなり古い記事で申し訳ないんですが、

これからの日本に期待することランキング

順位

1位  老後は年金で暮らしていける国 100

2位  治安のよい国 97.2

3位  税金が正しく使われる国 96.9

4位  医療費が安い国 82.6

5位  国民のマナーがよい国  76.8

6位  医療の質が高い国 74.6

7位  子どもを産みやすい/育てやすい国 73.9

8位  政治家や官僚が嘘をつかない国 73.1

9位  教育の質が高い国 63.6

10位 環境問題先進国 56.7

11位 公共サービスが充実した国 56.7
12位 経済格差が少ない国 55.0
13位 自然災害に対する対策が万全な国 51.7
14位 食料自給率の高い国 50.3
15位 ストレスなく働いていける国 48.3
16位 教育水準が高い国 44.9
17位 人々の間に差別のない国 42.8
18位 地方が元気な国 41.8
19位 無料の公共サービスが多い国 41.4
20位 公的機関や企業の情報開示が正しくなされる国 38.9

いや、楽な切り貼りをしてしまいましたが、
こういう「質問」をすると、たぶん、こういう回答が多くなる、
その典型的なパターンですね。

ネット上なので、何が、有効な回答か、わきまえた回答が上位にきておりますが、
昨年、社会的に「問題」になった項目が、
適度に回答に盛り込まれていて、なるほどと、世相を現しております。

根底に、問題意識やら、怒りやら、おかしいな?など、
ニュースで取り上げられるたびに、おそらく、こういう項目に、
収斂していくのでしょう。
さらに言うと、期待というよりは、
あっけらかんとした希望であったり、切実な要望であったり、
期待というよりは、なんだか、現実に即した「陳情」ベースになっているところが
ほのかに「寂しい」です。

もっとも、この国が、煮詰まりかかった現実を抱えている。
シンプルな「こうしていこう」というテーマなど、
どこの世界を見回しても、特段なく、
中国に見るように、国家的に、「成長」していくんだ、
なんて熱い「熱」も、一通りやってきてしまったわけで、
国民的に高得点をあげられる内容に乏しい現実もございます。

どこぞの方が、日経のオンラインビジネスというサイトで、
今の日本の若者は、いかに働かなくてすませるか、という意識が高い、
そう嘆く、外国の「目」を紹介しておりましたが、
このランキングを見ると、
いくつかの切実な問題は別にして、
多分、誰でもそう感じるであろう、「仰る通り」が、
感想として残るのではないか。

質問の仕方が変わっていれば、また別の角度から回答があふれる可能性も
あるんだろうけど、
たとえば「これからの日本をこう変えていきたい」
なんてしたら、
ひょっとするけど、回答が少なくて、「没企画」になってしまったらどうしよう。

夢を託せる国、という感じと、
夢を実現できる国、というのは、似ているようで、全く違っていて、
関与の在り方が、全然異なる。

昔、子供らが「未来予想図」みたいな絵の出展があって、
それこそ明るいSFタッチの内容が思い出せるけど、
今は、その未来が、今の現実で、これ以上は「劇的」に変化はしないだろう、
細かいディーティールしか変わらないだろう、
なんて、子供でも、ちょっと存じ上げている感じがして、
可愛くないんだけど、

「振りかえって」来た道を見ると、
どうやら、結構、メンテナンスを怠ってきた、ぼろぼろの国が、
ぷすぷすと煙を立てて広がっている、
まじ、これ、大丈夫なの?
というのが、現実的な「未来予想図」になってきているのではないか。

なもんで、「技術立国として世界をリードする」とか、
「最新のテクノロジーで医療の最先端をリードする」や、
「お得意のバイオ技術で温暖化を世界的にリードする」
みたいな、この国が、主人公で、世界に「商売」するとか、
役に立つとか、引っ張っていくとか、
そういう「考え方」が、まるで見えないのは、
どこに問題があるのでしょうか?

結局、国は「箱」で、その箱は、よくわからないけど、
たまたま自分たちは日本という箱にしまわれていて、
誰が作ったのかわからないけど、ちょっと「酷くない?この箱」、
どうにかしてよ!
という、こんな感じの人々が、輪をかけて増殖中、
というのが、程よく理解できる、このランキングじゃないでしょうか。


新年に思いつく話ではありませんが。

2008年01月07日 | 社会的全般
新年、恒例の「特売」ではなかった、福袋の「買付」から始まって、
お参りに家電量販店めぐりから、テーマパーク「巡回」など、
どう表現していいんだかわからないが、
忙しかった。

そうえば、いつからだろう、1月1日。
東京では、ほとんどの「店」が、営業している。
もちろん個人店はお休みだが、チェーン店化しているスーパーから、
もちろんレストランに至るまで、
年賀状ですら、昨年まで、2日の日は、お休みのはずであったが、
「営業」している。

昔、レストランなどは、すかいらーく系でもデニーズタイプでも、
「正月料金」というのが忘れられない。
正月メニューということで、値段も、おひねり分、高い。

今の方が、人件費を含め、流通も、値段が張るのは事実なんだが、
そういう時代があった。
お参りにいく「参道」にある喫茶店も、居酒屋も、
昔は、コーヒー1杯が通常の「倍」。
メニューも品数が少ないうえで、1.5倍。

それが当たり前のように、その「不便さ」こそが、
特別な「日」の彩りを添えていたようなきがするのだが、
そんなの関係ない。
新年から、「新年バーゲン」!特売!
普段と、ちっとも変わらない。
いやむしろ、変な「特異日」を醸し出していて、
その、新年という「神々しさ」が、俗世っぽさになっていて、
なんだか、なんだろう?

テレビさへも、昔だったら、各番組合同で「ゆく年くる年」があったが、
今では、各局「独自進行」。
日本国中の全家庭が(言い過ぎだ)、ほぼ同時に
「あけましておめでとう」であったはずなのに、
この「除夜の鐘」からなる、カウントダウンも、
単なる「コーナー」の一つになり下がっている。

最近、たまに「違和感」があるんだけど、
こういう、なんでも便利っていうか、何でも当たり前のように
不便さがなくなり、
恒例の行事ですら、独自色で、いい悪いは別にして、
てんでばらばら。

それを支える、提供するサービスも、あれやこれやで「ごまん」とある世界。
家族すらも、「核化」して久しいが、
全体的に見たライフサイクルもライフパターンも、
どこに「共有」出来る部分があるのか?

ひょっとしたら、「あの時」といって、
共感できる思いが、てんでばらばらで見当たらない、
まれに見るとんでもない国が、出現しているのではないか?今。

で、そのキーになる部分が、変な事件とか、政治家の不祥事とか、
お盆とか、年末年始とかではなくて、
よく言うように、「共同幻想」がかってあったのであれば、
それを作り出す、共有できる出来事が、てんでばらばらならば、
もうこのご時世に「共同」なるものは、無くなっているんじゃないかとすら、
思えてしまう。

まぁ、そんなこと、新年早々に考えるのも、健康に悪いし、
とにかく、仕事を軌道に乗せるのが、
今の自分の、大事な、大事な、大事な........
って、いつまで同じ話しているんだろう。


新年を迎える前に、自分のことを棚に上げて....

2007年12月25日 | 社会的全般
この1、2週間という時間がもったいない。
いずれにしても、大半の仕事、年内に大きな動きはない。
つまんないな。

最近、国の仕事がえらいことになっている。
まぁ昔から「仕事」をしているという意味を、どう考えているのかわかりませんが
ここにきて、随分様変わりしている事態に、
どうもついて言っていないような気がする。

新しい知識にしても、技術にしても、もう、どうにこうにも「煮え煮え」。
官僚という「エリート」が、学んだことを、
この社会に「おろす」という作業こそが、これまでの「モチベーション」
だったことは周知の事実で、
まさか、責任を「とらされる」ために、その存在があったとは、
夢にも思わなかったことであろう。

監督責任といえば、昔と今では、全然、受け取るイメージは別で、
言うことをきかす、という感じから、
起こったことを引き受けるまでには、天文学的な距離感を感じてしまう。

言ってみれば、哲学的な問題なのかもしれないが、
場を作りました、規制緩和もしましょう、経済活動の自由も、ルールの上では
平等で、しかもプレイヤーに関しては「性善説」で臨みましょう。
起きた問題に関しては、案件ごとに、司法が解決してくれるでしょう。
お役所が、そのジャッジまで、口をはさむことは、できません。

ところが時代が移るにつれて、
この国が、「福祉国家」として要求度をあげてくると、
どうしても限りある財政では、すべてにわたって満足度をあげるには、
無理が出てくる。

そのために、「予防」的な考え方。
リスクをヘッジするあり方が、最終的に強力な言い訳にもなろうし、
結果的に、財政の出動量を減らすことにもつながるし、
こういう考え方から、「予見」を最優先させる、
その取り組みが、「お節介」と言われようが、
「息苦しい社会」と言われようが、国が取り組み始めたのは言うまでもない。

たとえば、喫煙にしても、喫煙権とか、そういう「嗜好性」をおっしゃられる
そういう方がいるが、
医学的に、その「煙」が、他者の健康リスクを「巻き添え」にする。
それは、将来にわたって、医療費増大の数パーセントを占める。
だったら、公共施設では、分煙もしくは禁煙にさせる。
これが、「予防」見地における、考え方だ。

将来に予測される、金銭的なダメージ。
これを想定しながら、行政の在り方を考えていくという発想は、
実は、まだまだ端緒についたばかりと思われ、
その真逆を未だ突っ走る官庁が、国交省だったりする。

厚労省の問題にしても、
もっと早めに「予防」の見地から、広い視野と責任を考えていれば、
このような肝炎に関する悲劇的な状況は、最小限に防げたであろうし、
全員一律救済だと、将来にわたって、何兆円にもなってしまう、
そういう悲劇にもならなかったであろう。

いくら政治家が国民の民意を受けて緊縮財政だと切り込んでいっても、
官僚自体に、国家予算の未来図なんか「気にもしていない」、
そういう、まさに哲学的な「根性」が見え隠れしているうちは、
この先、薬害もそうだし、偽装建築にしてもそうだし、
教育改革にしてもそうだし、
将来に、先送りしてしまう、財政出動を増加させてしまう。

グッドウイルの問題にしてもそう。
おそらく、日雇いの大部分を、どっかが、きっちりと回収するんだろうけど、
大部分は、それを受け入れた企業が、なんのお咎めもうけていない。
これはいったいどういうことだろうか?
結局、日雇いとして生計を立てていた人間は、
おそらく、最終的に、予見すると、
限りなく、福祉国家としては、生活保護という状況に陥る可能性があって、
大きな財政的な出動が、見込まれる。

この先、あらゆる現場で、発生するトラブルは、
この傾向から言うと、最終的に、国が救済するという処理になってしまう。
東京の渋谷において、痛ましい「温泉施設」の爆破事故があったが、
これに関しても、たぶん、国の管理責任が大きく問われることにもなろう。
公園の「柵」が無いばかりに、幼児が池でおぼれてしまった「事故」も、
最近では、県の「管理責任」が問われ、大きなお金が支払われた。

ある意味、こうなってくると、
あらゆる「公共」であろうと「わたくし」であろうと、
国の施政としては、管理管理を強化せざるを得ない。
ええ、なにかあったら、税金でまかなうことを強調することになるんだったら、
誰もが有無を言えなくなるはずだから。

このような展開が進めば進むほど、
おそらく、どの時点で、国はギブアップしてしまうのか、
干支が新しい「ぐるり」を始める前に、
ちょっと憂鬱に考えてしまう訳だし、
これでは、特に優秀な人間も、そりゃ、官僚という職業には、
なりようがないわな、なんてことも、考えてしまう訳で、
天下国家を語る、なんて気概なんて、この先、なさそうな気がするので、

我々は、誰に、何を託すつもりで、この国を考えていけばいいのだろうか?


本当に、医者は足りているのか?

2007年12月07日 | 社会的全般
紙面では、また救急患者の「たらいまわし」が取り上げられている。
様々なケースがあって、
それぞれに要因があって、
ただ、最悪の結果が生じていく。

あらかたの番組では、医者に対して、
「本来」の姿に戻るべきだと、案外、精神的な崇高な態度を示せとか、
患者を「診ない」ということは「救わない」と同義だと、
憤慨される方もいる。

ただ、どうしてもわからなかったことは、
なんで、こう、いくつもの病院が「消え去って」いくのか。
今読んでいる本。
たまたま購入していたものだが、
「貧乏人は医者にかかるな!」というタイトル。
その理由の箇所まで読み進めていないのだが、

要は、医者が決定的に不足している。
前半の部分で、作者は、かなりの力を裂いて、歴史的に政策的なところまで、
解明し、解説を加えている。

医者と弁護士は、増える一方で、将来職場が無くなってしまうのだろうか?
そう思っていた時期があった。
が、どういうわけだが、医者は、20年前より、
その「増加」を見越して、毎年の学生の数から、根本的に減らしてきた、
そういう流れがあった。

政府は、医者が「余る」という「予測」を、前々からたてて、
十全な準備をしてきた、という事実。
ところが、その根拠となる「数字」が笑える。
入院患者16人当り1人の医者を。
なんと、ろくな設備も、技術も無かった、
60年以上も前の「数値」。昭和23年。

今の医療体制で、あらゆる検査をして、技術が高度のなればなるほど、
麻酔の技術が増せば増すほど、長時間化される手術。
ましてや、「不治の病」を治る病にすべく果敢に努力し、
当時では、死んでしまう病でさえも、なんとか生還させてしまう医療。
16人は、適正なのか?

今では、最低人数とされていたこの16人が、最高値として読み替えられ、
この数字を元に、「医者が余っている」とされている。
他に、その医者の数だが、免許を持っている医者は全て「母数」に加えられる。
よって、80歳だろうが、退職して研究職をやっていようが、
確か、ムツゴロウさんも医者だったよね?(これ、言い過ぎ?)
(医者の登録って、薬剤師はあるんだけど、どうなっているのかしら?)
とりあえず、カウント。

実際、30歳から65歳までの数では、
政府が決める、人口10万人当り150人の医師を大幅に下回る、
123人!
最近、メディアが好き好んで使う、OECD加盟国のデータでは、
全体の平均が、人口1000人当り2.9人の中で、
日本は、下から4番目、2.0人。

そして、入院日数を「半分」に減らす。
この命題に応えるために、病院が行えば、すなわち、患者は自然「倍」になる。
それでも、政府は、「余っている」という掛け声のもとに、
何年ごとに、大学の人数「削減」を求めていく。

小児科、産婦人科と多く問題になっている、病院の閉鎖。
どのマスコミも、医者の数をまともに取り上げたところは無い。
本当に、この本で言っているように、これらが事実であるならば、
我々は、将来、本当に医者にかかれない、
金を持っていなければ、優先的に「手術を受けれない」
そういう事態に直面するのかもしれない。


去勢された言葉が生み出す打たれ弱い社会では。

2007年12月06日 | 社会的全般
もう少し、「不細工」な表現を使ってもいいんじゃないかと、
そういう気がする事件が多い。
よく「車内でキレた中年男性が」など見出しで踊っているが、
なんだか、キレる、そういう事態が、
社会的に、良くは無いけど、一定の理解を示されているのはなぜだろう。

もっと、これをいわれてしまったら、恥ずかしくって申し訳ない、
そんな表現があってもいいんじゃないか。
例のストーカーという表現も、昔は単なる「変質者」で片付けられたが、
今でこそ、「不気味」「怖い」という感覚が、
自動的に喚起されるが、
当初は、結構、「新鮮」なイメージで語られることがあった。

犯罪者、罪を犯したもの、
ベースとして、「社会的・環境的」な要因を結びつける、
そういう「断罪」というか「免罪」を考える傾向は、否定するわけではないが、
犯したことにも、一分の「理」がある。
そういう考え方が、
なんだか、配慮する傾向に拍車をかけているようで、
これがまた、マスコミとか心理学者とか社会学の先生が、
いい表現を「見つけて」くるんだよね。

確かに、ストーカーという言葉。
これによって、このジャンルの「犯罪」には、
いくつかの「現象」があって、と、
それぞれが明確になったもんで、対応力があがったというのは明確。

これが変質者であれば、なんだか、ありとあらゆる境界がぼんやりとして
対応力が減じるのも理解できる。

そうとはいえ、最近の色々な言葉。
ちょっとデリカシーに欠ける言い方かもしれないが、
昔に比べて、きわどい言葉が、「地下」に潜り過ぎているような気がする。
あえて言ってしまうと、
ダークな言葉に、普段から「耐性」経験ができていない場合、
地下から噴出してきた「言葉」に、
ころっと、やられてしまう。

言葉は、簡単に言うと、最もベイシックな「武器」である。
最近は、携帯やらパソコンで、永遠と「残ってしまう」言葉が、
「無垢な」子供らを狂乱の渦に巻き込んでいて、
大人ですら、その新しい状況に「打つ手無し」。

振り向きざまに、「馬鹿やろう!」とか「OOOOXXXX」という完全放送禁止用語を
言ってしまっても、その場で消えるか、決着がつくんだが、
メールとかはそういうものでないだけに始末が悪いよね。
昔で言うと「お札」か?

まぁ、普段から、「やわらかい」「配慮を尽くした」言葉の世界で暮らしていると、
パワーのある、「地下に封印」された言葉は、
物凄い効果を生むってことにもなる。
文化的に向上するとか、文明的にどうか、なんて尺度はあろうが、
犯罪者にまで、結構、配慮の効いた、
そして「心理学的」に免罪符を、さも、与えてしまうかのような「表現」は、

こと、人間社会において、何かを、何かの能力を、何かの適応力を、
著しく「後退」させてしまう感じがする。

ちょっと大上段に振りかぶりすぎて、困った展開にしてしまったが、
言葉というのは、武器でもあるし、また、その武器を扱う人間の力量も、
ある意味図れる「道具」である。
そういう観点からすると、
色々な意味で、言葉が「集約」化されて、
案外、「規制」されてしまう社会というのは、
いい悪いは別にして、去勢され一見平和で紳士的だけど、
妙に「打たれ弱い」、貧弱な動物たちで溢れかえってしまうような、
そういう社会になってしまうようで、怖いんだけど。

ここで、いじめに関わる話を展開するのは、話が長くなるし無理だけど、
簡単に言うと、大人が、そういう言葉に、そもそも対応力が無い。
「そんな酷い」で終了。
もう、ここまで我々は、無力化されているのかもしれない。


請負と派遣は、全く別物ですから。

2007年12月02日 | 社会的全般
新しくなった車に搭載されている「カロツェリア」君。
カーナビですが、CDをハードディスクに50ギガも溜め込めます。
何年振りでしょうか、レンタルしに行ったのは。
ええ、ピンクフロイドを借りてきました。
ただいま、堪能中です。

派遣料金の公開を要請へ 厚労省、マージン明らかに

  労働者派遣法の見直しを検討している厚生労働省の労働政策審議会(厚労相の
  諮問機関)の部会は29日、労働者を派遣した際に派遣元が派遣先から受け取
  っている派遣料金の情報公開を進めることで一致した。厚労省は今後、派遣法
  に基づく指針を改正し、派遣会社に対して公開を要請する規定を盛り込む方向
  で検討する。

  労働者側にとってマージン(派遣手数料)がわかる意義がある。

ええっと、何か、問題が違っているような気がするんですが。
例の、グッドウイルとかフルキャストで問題になっているのは、
確かに「単語」上では、派遣なんですが、
これ、「請負」です。

請負と派遣、簡単に言うと、請負はその現場「いくら」で売りげを立てます。
派遣は、その人間一人頭、「いくら」で売り上げを立てます。
よって、請負では、多分この作業は1日あたり10人くらい、
そんで「1人あたり」1万円として、10万円かかります。
そういう見積もりを出すわけです。

派遣は、OOさんを派遣します、と。
その方は、1「時間」例えば2000円でお願いします。
そういう見積もりの仕方になります。

もうお分かりの通り、マージンが見えないのは「請負」です。
ええ、10人で作業を見積もっても、
60歳の人間で行う場合と、ちゃきちゃきの20歳で行う場合、
作業効率が異なりますので、
意外や意外、8人でできちゃったりする訳です。

さらに、1人、1万円でなんて見積もりを出しますが、
この場合、大体、20%前後のマージンを考えますので、
日給8000円前後になるわけです。

「依頼主」は、もちろんちゃんとしたところでは、
このラインには、何人の人間が「適正」かを、明確に指示してくる場合が
多いのですが、現場の「指揮・命令」権は、請負会社。
「調整」することは、難しいことではありません。
ですから、「安い」人件費で、少人数の「過酷」な現場が、
生まれたりするわけです。

ところが派遣は、その「人物」がそのまんま料金に跳ね返ってきます。
「指揮・命令」権は、「依頼主」になりますので、
派遣会社は、ただただ、送り込むだけです。
ですから、日常的に、その依頼主とのコミュニケーションが多く、
ほとんど派遣会社の人間と、話をしない場合があります。

その結果、派遣の場合、多くは、自分が「いくら」で派遣されているか、
知っています。
その派遣社員が、評価が高ければ高いほど、依頼主は「引き抜き」を
当然考えますので、普通に、「お前はいくらだ」って言います。
また、その逆で、そいつの評価が低ければ低いほど、依頼主は、
「お前にはいくらかかってんだから、もっとやれ」って言います。

もちろん、IT関係とか、技術系の派遣の場合、
通常3割の「抜き」が理想ですが、もっと「抜ける」場合があります。
そういう例外をおいておくと、
この法案。
企業の要請が高いのは、派遣といいながら、
既得権とでも言いましょうか、まさにピンはねの境地である、
請負の「単純派遣」を残したい、そういうわけなんです。

  違法行為が横行している日雇い派遣については、何らかの規制強化が必要との
  意見でも一致し、

なんて書いてありますが、普通、人材派遣には、こういう「有期」の
期間契約は、多くありません。
偽装派遣と呼ばれ、多くは、つまり「請負」の日雇い作業に従事するわけです。

で、一般の方は、人材派遣でも、3割も抜ければえらい儲かってるジャン、
そう話す方も多いと思います。
だって、人を紹介するだけジャン。たったそれだけでしょ?とか。

それだけだったら、ごめんなさい、私も、すぐに飛びつきます。
すぐに事業化をはかります。
でも、残念ながら、全然甘くありません。
大変です。
やればわかりますし、色々とこの業種に関して相談を受けたりしますが、

人ほど面倒くさくて、クオリティーが変数で、クレームが多い、
こんな仕事、見たことがありません。
さらに、昔で言えば、1人の採用にそれこそ、1万円もかかりませんでした。
が、現在、依頼主が最低限、求める「人材」を揃えるために、
かかるコストは、10倍近く上昇しています。

ええ、人がいないんです。
一番儲かっているのは、人材派遣会社ではなくて、
実は、「求人誌」の会社です。
リクルートとか、インテリジェンスとか。
ビルが建つんじゃないでしょうか?

おまけに、遅刻欠勤は当たり前ですし、理由も無くやめることは、
もう日常茶飯事。
それなりのペナルティーは当然として、派遣会社がかぶります。
それこそ、そういう「勤怠」で解雇しようもんなら、
いきなり「労働基準局」に駆け込みます。

さらに、福利厚生ということで、社会保険やら労災、雇用保険、
さらには、研修費から厚生施設、研修所の確保、管理費用。
とどめは、募集費用。
また、仕入れが人件費ですから、丸々消費税がかかってきます。

どんなに切り詰めても、残った営業粗、5%残ればいい方です。
ここで1社でも倒産とか、売上金の回収ができなければ、
決算上で、赤字という、信じられない事態になることもあります。

だから、人材派遣会社が、派遣法の改正で、どこに流れて行ったか。
はい、ご名答。
請負に流れていったのです。
その総本山が、グッドウイルとフルキャストです。
派遣では、普通求められない、30歳以上、さらには60歳くらいまで、
普通に「採用」することができます。
ええ、募集コストが、ほとんどかからない、この「層」を取り込める。

工場とか車の工場、電機メーカーの組み立て工場とか、配送関係とか、
実は、我々にものすごく直結していて、
それでいて、一番「敬遠」される職種。
この分野に、大量の請負業が成立していることを、
我々はもっと理解して、この問題を語るべきです。
そして、これによって、何が、どこが、一番「恩恵」を被っているのか、
もっと冷静に判断するべきです。


マックと自衛隊発言にリアクション

2007年11月30日 | 社会的全般
人間というものは、大概にして自分を律することなんか、苦手。
見ていないから平気、わからないから大丈夫。
昔から、当たり前のように、そういう意識は誰にでもある。

その見られていないから。
わからないから、とかね、そういう「外」の意識がある社会環境。
もちろんのこと、見知った人がいる。知人友人、家族関係だとか、
「顔」が割れている、そういうエリアでは、有効。

それでも「旅の恥は掻き捨て」とか言われているように、
当たり前のことだけど、顔が割れていないエリアでは、いつの世でも、
「たがが外れる」。
人間は、案外、変わらないものだ。

現代がことさら道徳もマナーもいい加減で、でたらめになってきたと、
確かに自分もそう思うことがある。
けれど、「昔」でいったら、商売やっている連中も、
「代々続いていた」とか、妙に「顔が割れている」世界で仕事をしていた。
まぁ、それぞれの地域とか、「普遍性」はない所もあるけれど、
それなりの何らかの「抑止力」は、道徳とかルールで、
変に整合性がとれていた、ように思う。

違うといえば、当たり前のことかもしれないけど、
もう、この世界、地縁だとか血縁も含めて、
石を投げ続けても、そういう連中に、当たりゃしません。
もう、日常的に、毎日、「旅」をしているようなもん。

最近、マクドナルドなんかで、「やらかした」事件?
もう、どっち向いて仕事してんだか。
そういうニュースが、日本的ですが、続々とブームになっています。
が、「関係者」には、そういう事、絶対にしません。
ずるいとか、せこいとか、そういう説明もありますが、
いやいや、昔から、「顔が割れている」という関係で成り立っていますから、
それはそれ、実に当たり前の「行動」です。

そういう「人間性」は、誰にでも、普通にあることなんで、
「顔が割れていない」世界が、拡大に拡大してくると、
社会として、地域として、国として、
どっかが、「掻き捨て野郎」を、ルールに縛り付けなきゃならん、訳です。

そういうシステムを大事な言葉で言うと、公共、とかなるわけで、
もちろん、もともと、エレガントに公共心なんて、人間、
デフォルトで備わっているはずはありません。
やっちゃったことを、非難されて、いられなくなる、
そういう悲劇が、結果的に、それに「昇華」されているだけです。
ぶっちゃけ言って。
「顔が割れている」世界では、大概にしないと、村八分というセオリーが
もれなく発動されるからです。

ないない。
今の社会では。
侵しがたい個人の人権が、より強力に発動されるんで、
多数の「論理」を差し置いても、尊重されるべきは、個人の「裁量」。
もう、大人子供まで、その「味」を知ってしまった以上、
もう、この国は「観念」するしかありません。
行き着くところまで、いっちゃった、そんな感じです。

ええ、東国春知事が、「徴兵制」で鍛えなおす!
なんてことを言って、それも、結構、どうなりそうか知りながら言っちゃってる
そんな感じはありますが、
これは、方法論から言っても、土台無理な感じがします。

憲法的に勉強不足。
税金でこれをやるのか。
結局、いたずらに議論を尽くすことになります。
なぜ、徴兵制が実効性を持ちえるのか。
多分、半分リアルな仮想敵国が、そこにありそうだからです。
どこの国だって、国をまとめるために、
そりゃ、あらゆる戦略を使って、国の精神的な一体感を、
それで作り上げていますから。

こんな情報過多社会で、それすらも機能しなくなってしまったから、
あらゆる国で、大変なことになっているわけで。
強い国といったら、イスラムとか、中国とか、ロシアとか、
言わなくても、ご存知の通り。

そうなってくると、この日本。
いやいや、もう、エントロピーがマックスでとか、
そういう話にもなってきますかね。
それとも何か有効な手段というのが、どっかにあるのか、
いまだ、言い放しで申し訳ないんですが、考え中でございます。
ええ、この自分が。
恥ずかしい話ですが........。


金を、安く手に入れる方法、なんだってさ。

2007年11月28日 | 社会的全般
しばらくは、デジタル的に脊髄反射で書かせていただきます。
もう、新しい会社では、メールしかプライベートできません。
悲しい。
多分、もう少しで抜けられると思うんで、自分的にも我慢我慢。

金が高騰しているんですって?
なんか、アメリカがだめになると、金があがるような気がするんですが、
関係あるのかしら?
というのは、知らない人は知らないと思うんですが、
例の社会悪といわれている「パチンコ業界」。
これも金の影響が出ています。

東京に限ってのことかもしれませんが、
パチンコは、ご存知の通り、賭博です。ギャンブルです。
「出玉」は、その量に応じてお金に「換金」することができます。
建前的には、それに見合った「同等」の景品。
これを特殊景品と呼ぶわけですが、これを「両替」に持っていくと、
まぁ、古物商というんですか、同等のお金で「買い取って」くれる。
そういうシステムになっています。

もちろん、正規の景品も数百レベルあるんですよ。
(指導が入っていますが、建前上、あるんです)
タバコとか洗剤とかポテチとかチョコとかゲームソフト、時計などなど。
でも95%の交換は、ずばり、お金です。

東京では、その昔、この特殊景品と呼ばれるものは、
「特殊」な方々や、団体さんが(暴れる業界ですね)仕切っていたもんです。
でも、今では、とある「真面目な」組織が、徹底して管理、健全化を達成。
ええ、言わなくても良いですよね。
アバレル業界の「真逆」な組織がバックです。
すぐには、もちろん、わかりませんが。

そこでは、その特殊景品に、「まじほん」の金!が使われています。
パワードバイ 田中貴金属です。
お分かりの通り、この「まじほん」の金が、価値担保して、
それに見合った「お金」に交換できる、そういう健全的な仕組みがあるのです。
どこぞで、ライターの芯だとか、手ぬぐいだとか、レコード針だとか、
もう、ファンタジーなのか、ギャグなのかわからない物を
あてていた時代がありましたが、今では、通用しません。

ところが、昨今の「金の高騰」です。
驚きました。
ええ、最近こそ、あまりやらなくなりましたが、パチンコやります。
そこで数日前、勝ちまして、当然、お金に換えようと、外にある両替所に、
出向いたわけです。
その、パワードバイ田中貴金属製の特殊景品を持って。

突然、前から2人組みの「男性」が、セカンドバッグを小脇に抱え、
「ちょっといいですか?」

この展開でドキッとしないほうがおかしいよね。
すり抜けるように、距離をとりながら抜けようとすると、
「あのー、その景品、高目に買い取らせていただけませんか?」
えっつ?
「あのー、この場で、2500円のを2800円で。1000円のものを
 1100円でお願いできますか?」
(一部、内容をわざと変えてお送りいたしております)

驚きました。
まさしく、金の調達です。
その特殊景品には、しっかりと、まぁ、何グラムのミニチュアサイズの
金が入っています。
取り出せば、あら不思議、流通できる金が、ポロリと。
しかも、「相場」を完全に無視した状態の「値段」で、
それこそ東京のパチンコ屋の周りで、「採集」できる。

目ざといというか、なんと言うか、驚いたというか、呆れるというか。
江戸時代のポルトガルとの通商じゃないんだから、
金が「流出」しかねません。
ええ、どっかに。
大変です。

まぁ、それほど影響力の無いブログだと自覚しておりますので、
こういうこと書いちゃっても大丈夫かと思うんですが、
これもまた「世相」ということで、話題にしてみました。


高齢者の方々が、いまだ、社会で働くということ。

2007年11月22日 | 社会的全般
さらりと、日常ネタで失礼いたします。

お客様との時間待ちで、某ファーストフード店にて。
携帯クーポンを片手に、いつも安く時間をつぶす。

このファーストフード店では、店員に、高齢者を採用することが多く、
以前、渋谷のお店で、お客様のご案内に、「かくしゃく」とはしているが
すでに「老人」と見て間違いない方が、
元気な大声で、右に左にと、お客様のレジへの誘導をされていた。

もちろん、途切れないお客の中で、
気のつく限り、それは、若い人間には、とても望むべくものではないが、
手提げ袋を渡したり、落ちているゴミを、普通に拾い上げたり、
子供には笑顔を見せたりと、
押し付けがましくない、さりとて「業務」を感じさせない、
その自然な接客に好感をもったものだ。

今日のとある所のお店。
ここでも、どうみても、「老婆」にしかみえない、
例の若々しい「制服」を着用し、
最初、後姿で、床の汚れを「ふきん」で清掃していた際には、
とてもそういう「年齢」とは思わなかったが、
振り向いた際に、驚いた。

どうみても「おばあちゃん」である。
ところが、本当に、頭が下がるくらいの「動き」で、
椅子の乱れはもとより、気のついた箇所をことごとくきれいにされていく。
簡単に言うと、彼女の通った後には、塵一つない世界。

ただ、今日は、それだけではなかった。
その方には申し訳ないが、その方が、熱心に作業をする傍らで、
休憩をしている自分。
または、彼女が動く先々で、テーブルで食事をする大人のサラリーマン。

この「風景」は、見ていて「慣れない」。
仕事と、もちろん、お客という立場はあろうものだが、
そもそも、こういう高齢者、本当であればご引退され、老後という人生の中で、
地域の中で、温かく見守られ、その人生を回顧されてもいい方が、
彼女から見れば、息子とか、孫ともいえる客層の中で、
一人働く。

色々、昨今言われている社会的な状況なり、事情があるんだろうけど、
何かがおかしい気がする。
なにしろ、肉体的な限界も、年相応にあるとは思うんだが、
その熱心な作業が「あだ」にもなって、
額から浮かぶ汗やら、その弱弱しくも年を感じさせる細い腕やら、
ほかの表情が見当たらないような張り付いた疲れ。

出入りするお客に、ひょっとすると「笑顔」でもあれば、
そういう願いさえも、お節介ながら持ち合わせてしまう。
さらに、悲しいかな、「先人」に対して、威厳というものは
ひょっとすると我々が、そういう環境を作り出さなくてはいけないのかと、
そういう、いらぬ考えさえも自問自答してしまいたくなる。

別に、その採用をとか、働くこととか、そういうこと自体を決して
否定も非難もするつもりはない。
ただ、上手く言えないが、
もうすでに、この社会は、いろいろな意味で、
途方もない世界に突入してしまたんだなぁ、という感慨があるだけで、
ただ、この風景を、当たり前と考えてしまうことだけは、
いまだ、自分には、とてもできないだけで、
このファーストフード店に対しては、その気概なり、姿勢には、
感心はするものの、
今日だけは、今日だけは、つまらないことかもしれないけれど、
申し訳ない、なんだかちょっと辛くも悲しい気持ちになってしまった。

だから何って言われるかもしれないんだけど、
うーん、書いてしまいました。


寄付行為について、ちょっと考えました。

2007年11月21日 | 社会的全般
(人から話しかけながら、書くとこうなります。すいません。)


10億円ものお金を市に寄付した88歳の方が話題を呼んだ。
多くのマスコミは、この話題を取り上げるとき、
なぜ、こんなに「貯まったのか」とか、
「貯めるためには、何が秘訣なのか」、
どうやら、そこに集約するしかなかったようだ。

こういうことに、当たり前だが、日本の多くの人間は慣れていない。
自分も、実は、そうだったりする。
多くの反応は、こういうことをする人間に対して、
「変わった人だ」とか、「そんなに儲けていたんだ」とか、
結構、得体のしれない不気味さを感じたりもしてしまう。

寄付をするという行為が、特に諸外国と異なって、
日常的でない事態が、この日本ではある。
その説明に、「税金」の問題を挙げる方がいるが、
そもそも、篤志家といわれる方々は、
自分の資産を寄付することが多く、
課税云々もあろうが、そんなことは「二の次」であろう。

要するに、多分、この国では、こういうことが「美徳」として、
一般的に認知されていないというか、苦手、なんであろう。
それよりも、どうも、やっかみ、ねたみの対象にされやすく、
何をして「儲けたのか」が、普通に気になってしまうことが、多い。

最近、税金の問題で、控除の撤廃だとか、低所得者に対しての優遇措置が
無くなってしまうとか、富裕層に対しての累進課税をもっと上げるべきだとか、
お金のないこの国にとって、議論がされているようだが、
限りなく平等化を狙う方向と、
富を分配することは、実は、相容れない。

平等化すること自体、理念は正しいが、
そもそも、富の平均化に話題がいってしまい、
社会主義的な方法論に着地してしまうが、
そんなことは、歴史的に多くの国で、悲惨な結果を我々は知っている。

富の「再配分」こそが、国力を背景にした、資本主義社会としてのベースで、
当たり前だが、富む者もいれば、貧する者もいる。
議論はあろうが、富む者が永続的に富んでいて、
貧する者が永続的にそれが続く、という硬直化した社会は、誰も望まない。
多様的で、可能性があって、流動的で、が、活力を生むわけだが、
その「原資」としても、新たなニューカマーを育てるためにも、
現在の「富裕層」に、それを期待することは、間違いではなかろう。

そういう理解を、社会的に「共有」することが、
実は、大人の成熟した社会の気がするし、
マスコミも、もう少し、富裕層に対して、その寄付行為を含め、
3面記事みたいな「詮索」に集中するのではなく、
まさに「普通」に称える姿勢を示してみては、いかがか。

もちろん、この国には「私腹を肥やす」という単語あって、
蓄財するとか、とても一人では使いきれない金額で「権勢を誇る」方が、
なんでか目につくが、
そういう私財を守りつくすという、多分、古来よりの「家制度」の、
長い影響なのかもしれないが、
そろそろ、社会的に、ぜひ、富裕層も、理解をもって自ら率先すべき
時代なのではないか。

できれば、双方、ポジティブに、
ただ、求めるだけでなく、チャンスをいただいたことに感謝するとか、
与えるだけでなく、社会に貢献するという精神的な充足感を、
もっと前面に出していただくとか、
そもそも、マスコミもメディアも、
どういう社会が、おおよそ「美しい」のか、
もう少し、ピュアな見方で、社会を平和にしていただきたい気がする。


ちょっと乱暴な意見を新聞に......。

2007年11月20日 | 社会的全般
なんですっけ、駅前とか、ビルの側壁に展開されているテレビ。
オーロラビジョンで通じるのかしら?
それに、毎日新聞のCMが、文字通りでかでかと放映されていた。
編集者とか解説者とか、読者がテーブルで紙面を広げると、
いきなり数人現れて、喧々諤々と「議論」を戦わす。
もちろん、紙面を閉じると、何事もなかったように日常が。

そういう、まぁ、CMだし、いいたいこと、わかります。
ただ、それを見て思ったのは、
昔、新聞にせよ、雑誌にせよ、そういう誰彼の主張が前提だった気がする。

いまでこそ、朝日新聞だ、読売新聞だと、
さも公共の「公器」みたいな「装置」みたいな、匿名とはいえ、
権威を持った「新聞」として、
どうやら、公正で、無謬で、バランスがとれていて、
なおかつ「真実」を追究する。

報道されたり、解説されたことは、もちろん、相対的に、いや、
絶対的に「正しい」意見であったり、見方であったりということを、
なんとなく、「みのもんた」とは違う「正しさ」として、
大衆は認識しているようだが、
昔は、「俺の意見が正しいだろう」という、その「正しさ」のバトルを
堂々と展開していたのが、新聞であったり、雑誌であったような気がする。

もちろん読者も、そのバトルの中で、
これはこっちのほうが正しかろう、とか、いやいや、こっちだとか、
結局同じことを言ってんじゃねぇのかとか、
そういう「楽しみ方」とか、「反応」の仕方があった。
もちろん、誰が書いてんのかとか、そういう「相手にできる」実体感、
そういうものが、肉感的にあったような気がする。

まぁ、その最中に結果的に無謀な戦争があったり、
翼賛的なのか、自主的なのか、もう、戦争を全面的に支援してしまった、
そういう「暗い過去」があったり、
営業的に、多くの読者を獲得するために、
何かに「迎合」してしまい、
むしろ、穏便な中立性を、そして、大衆が「好みやすい」だろうという、
勝手なマーケティングで、ことさら、暴いてみたり、
叩いてみたり、意見とはいえないような煽りをいれてみたり。

そうこうするうちに、なんだか、新聞が「熱くなる」ということはなく、
「冷静に弱者の立場を遵守する」みたいな、
大人の顔をしだしてしまったりして、
なんだか、どの新聞も、販売力こそが、その力の「源泉」に堕してしまった。

そうすると、過去の「言っちゃった」り「煽ってしまった」記事が、
蒸し返されたり、事実誤認であったりしても、
今のネット環境では、なんだか、すぐに「ロックオン」されて、
むしろ「俺はこういう考え方なんだ」なんて開き直ることもできず、
ネチネチとちょっと経って、特集を組んでみたり、
読者の声で「代弁」させてみたり、
大人として冷静に「無視」もできないから、
その作業が、結果的に「姑息」みえてしまったりして、
ありがたくもない「アサひる」みたいな、造語をどっかが貼られてしまったり。

むしろ、毎日のCMじゃないけど、
いいんじゃないのかな、こういう「姿勢」。
冷静な大人の対応を紙面に展開するよりも、
熱く、
「俺は中国が絶対だ!」
「竹島は、韓国にあげるべきだ、それが日本のあり方だ」
とか、やってもらったほうが。

変に、ボーダーレス化とか、主権の変容をとか、
さも「堅苦しい」単語を用いなくても、武装しなくても、
多くの社員を抱えた、企業として、ばくちを打てないことも理解できるけど、
そろそろ、時代の流れの「転換期」として、
生ぬるい意見のオンパレードよりも、
後世に「評価を仰げるような」ブレイクをしてみたりするのも、
今の新聞にとって、結構、いけている戦略じゃないのかしら?

消費税導入論議「見送り」とかタイトル出ししてるけど、
堂々と1面に、「社説」に逃げ込まず、がーーーんと、
民主党に、いっそのこと政官のクリーニングをさせてみよう!
とか、それでだめだったら、消費税しかないよね、とか、
腹を括った主張を、今こそ、本気にやってみてはどうかと、
なんだか、代わり映えのしない日々の新聞を見ては、そう思うんですが。