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まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

行きつけの書店では限界かも

2006年01月11日 | 本・映画
たまたま書店で本を物色していたら、この漫画がすごい?だったかしら、小冊子が
販売されていて、その「男編」なる中に、それぞれが選ぶベスト5という企画。
2人ほど、「結界師」を選出されていた。
もちろん「プルートウ」。毎回欠かさず読んでおりますし、単行本も所持しております。
そして手塚氏の原作も読んでおります(もちろん社内の人間が1巻の限定版を購入
したために、それを読むことができましたが)。

そこそこ、センスというかバランスは保っていると思っているのだが、うん、いいや
この話題。昨日でていたビックコミックのゴルゴ13。
大型ダンプのタイヤの話は、うんちく好きの本人としては、参考になりました。
世界であのタイヤ、2階建ての家くらいある、巨大なタイヤ。あれを造れる工場は
世界でも3箇所しかなく、結果、世界で稼動するそのダンプ130台強の年間消費量
ですらまかなえない。そういう話。へー、と。でも、今回、解説多すぎかな。
ゴルゴ13。苦悩です。うん、いいや、この話題。

なんでか購入してしまった「社会派くんがゆく 維新編」。
すでに5冊目ということ。存じ上げませんでした。軽く調べても、この世界では
有名なお方々で、不明でございました。
確かに、この論調というか口調。こういうネット世界で「ブログ」が蔓延していなかった
時点では、本当に「刺激的」で切り口もいわゆる「鬼畜的」で、ある意味、視野の
角度をひろげる、「画期的な」書物だと。
というより、メディアなどで「自主規制」が極度に進んだ現状、この単語を活字に
しても大丈夫なんだ、という内容のオンパレードには驚きました。

さすがに今日では「刺激的」というレベルではないかもしれない。
にしても、少なからず「違和感」を感じているメディアの報道に関して、うん?
というクエスチョンを、個人的にも自主規制している「単語」で、明快に説明しきる
文章力、表現力は、素直に脱帽いたします。

最近、ちょっと驚いたのは、「ガイア」という関東では有名なパチンコ店。
全国で100店舗以上抱えているのは、都合3社しかございませんが、「新参者」
では破竹の勢いで店舗数を伸ばしてきたこの会社。
サメのように出店を止めたら「死んでしまう」とまで表現されておりましたが、
この度、ドイツ証券が700億円を「証券化」いたしました。
簡単に言うと、ガイアは700億円を手に入れた、ということです。
が、この大規模な金額に見合う担保なり資産を、この会社は持っておりません。
なんと、日々のキャッシュを裏付け資産として、つまり日銭を担保として、
今回のファンドが成立したのです。いいのか、なんでもありか?

内容を見ると、証券化に際し、優良店31店舗を任意に選択し、仮に対象店舗の経営が
悪化した場合、店舗の追加や運営者の交代ができるようにする契約となっている。
ということだ。
つまり、もう、実質的に、これは、「経営権譲渡」ですね。
多分、証券を購入した、とある会社は別会社作って、その31店舗の受け入れ準備
しています。
ガイアもガイアで、アイオンという別ブランド店舗を作っておりますし、解体作業中と
いう感じなんではないでしょうか?
「売りに出る」という話は、すぐにイメージ悪化に繋がりますし、ひいては、譲渡後の
客数にも当然影響があります。もし、そうなんであれば、実にスマートな「やり方」ですね。

しかし、仲正 昌樹さんの本、行きつけの書店では見つけにくい。
そこでついにアマゾン購入を考えております。初めてだなぁ、使うの。
大型の書店は、いくらでも居てしまえるので危険です。もう、最終手段だな。

「反社会学」の本。うんちく話が好きなんです。

2005年12月27日 | 本・映画
この方の「反社会学」の「研究本?」。とても好きなんです。
パオロ・マッツァリーノ。前回はイースト・プレス社から出版された「反社会学講座」。
以前記事で取り上げたような気が致しますが、今回は、二見書房から「反社会学の不埒な研究報告」
読んでおります。

気に入っているのは、言葉の使い方。統計学の使い方。そしてなによりも、社会学の
「騙しのテクニック」。

「つねずね私が申しておりますように、社会問題として語られる論説の多くは、じつは
 個人的かつ感情的な意見に過ぎません。それを客観的かつ科学的な学説に格上げするために
 学者のみなさんは世論調査や意識調査の結果を裏付けとして用います。」

あげく、事実を調べもせずに、直近のデータを誤った思い込みに利用するくせを、
「戦後高度成長期の日本人はみんな清く正しく生きていた」
というフレーズでひとまとめにして、
少年期の犯罪件数が、最も多かったのが、いわゆる「団塊世代」。荒れた荒れたという
昨今の犯罪の低年齢化を嘆く諸氏に、3倍もの件数データを(国が出している本物のデータ)
持ち出して、大笑いしております。

また、「犯罪白書」を取り出して、これまた、世間に「危険」を呼びかけている
学者やテレビの「騙しのテクニック」なのか「浅知恵」を笑います。
その「窃盗」。確かにかってない勢いで窃盗は増えています。
某元野球人をキャラクターに、かってない勢いで成長する、某セキュリティー会社
も現実にございますが、こと家を守る、といった生活上の犯罪、
「浸入盗」に関しては、ここ30年、大きな増減はありません。
むしろ昭和40年ごろのほうが、多い。

今や、防犯カメラにいくつもの鍵。赤外線のセキュリティーと、関連商品のオンパレード
です。マスコミも煽りに煽る番組を作成しては、生活圏の危機を呼びかけますが、
窃盗で増えたのは、「非浸入盗」。車上狙い、自販機荒らし、万引き、引ったくり
などが件数を押し上げております。

データを「恣意的」に使ったやり口は、先に作者が述べるとおり、
己の「意見」に裏付けをつけるための「作法」です。
これを専門に「格上げ」したものが、学者の「社会学」云々という「研究成果」に
つながってくるものなのです。

テレビのOO調査に関しても、舌鋒鋭さが増します。
今回の本は、各種データを意欲的に発掘して、専門家やらマスコミが、いかに
恣意的に使っているか、そして、社会の不安を煽っているか。
そして、データそのものの持っている、不整合性、不条理性を面白おかしく
「解説」を加えていきます。
その結果、妙に悲観的にならず、むしろ、もっとポジティブに今の現状を見て行きましょう、
という流れを作り出している。

個人的には、大好きな一品です。
ええ、ええ、そうなんです、結構、うんちく話、好きなんです。
責めないで下さい。すいません。

「下流社会」を読みながら

2005年12月24日 | 本・映画
「下流社会」を読んでいて、こと「意欲」について、多分いらだちを感じているんでは
ないのかな、と作者に対して思いました。
ベースは、「消費行動」。もちろん経済社会ですし、古くから言われている、
1億総中流社会、といった文言も背景にあると思います。
片や、韓国、中国の国をあげての「上昇志向」を目にすれば、この国の行く先を
懸念する気持ちもわからないでは、ありません。

ただ、多分ですが、この国は、世界から見て、はなはだ「上流社会」であることは
紛れも無い事実です。
他国と違って、移民、海外労働者に寛容ではありません。
文化も、言語も、そしていわゆる民族も単一で、ほとんど摩擦も生じておりません。
ほぼ全国均一なサービスを受けられ、生命の危機に関して、これほど鈍感な国も
珍しいといっては、珍しいくらい、感じさせないインフラが整っております。

そういう中で、目指せ1流国。といった国をあげての上昇志向もなく、
平均的な生活は、維持されていて、本人の流儀で、生活ができる、という自由を
謳歌できる国です。
つい30年前までは、明らかに、学校で、着ているものが「足りない」子供が
おりました。
住居で、全てが完結していない、家族も、そこらにありました。
絶対的な不足感、階層感というものが、厳然と、そこにはありました。

海外旅行すら、絶対的なステータスになりうる時代。
外車ですら、そして国内のセンチュリーなど、「一部にしか許されない」と考えられていた
そんな時代もありました。

ところが、20年前におこった「バブル」という現象は、言われている、一部にしか
許されないであろう、と思われた「神話」を瓦解させるに充分なものでした。
もともと、あのバブルは「投機的」な経済活動の突出した1現象で、実は、その
情報なり、資源が集中する中央を目指して、各地から集まった人間が
享楽の髄を尽くした、特定の時代でした。

「上流階層」がするであろう、といわれたことを、ほぼ「物的な」模倣だけを
彼らはやり尽くしました。
そうです、ここから、「上流階層」というものの、ステータスは「記号」として
あたかも「バラ売り」され始めたのです。

低所得者でも満喫できる「セレブな休日」。
1点豪華主義で「気分はセレブ」など、そのほとんどは、誰でも叶うことができる
「そんな程度」といった「情報のデフレ」が確実におこりました。
本当に先代からの「ぼんぼん」と呼ばれた「上流階層の息子」は、実は、「物質」
に執着しておりません。
芸能人がことさらにブランドをピーアールしながら、あれもこれも、と嬉しそうに
「紹介」することすら、実はありません。

そもそも、この国は、「上流階層」といった、文化すら、実はないのです。
主に「生活スタイル」といいますかより「精神的な所作」に重きをおかれていました。
よって、消費行動からみられる、上中下、といったものは、過去の国策として
クローズアップされた「文言」であって、そのもの人間の社会においての
上中下という生活スタイルの位置づけとは、まったくかけ離れていたものです。

例えば、300万円では「結婚ができない」といった、データーから導き出された
この本のキャッチは、本の下流社会に強引にあわせた「辻褄」にしか思えません。
すでに、国全体で獲得された「上流国」。である以上、そこには、絶対的な
消費意欲も生存意欲も、実は、ないのです。

そして、税制の問題で、根こそぎ食い尽くす「相続税」によって、伝統的な
「家」ですら、縮小に向かう中、どこに「上流社会」があるのでしょう?
たいがい2代目で終わってしまう、上流者たちに変わって、己の才覚とでのし上がって
くる、今で言う「IT長者」の方たちが、シンボルに見られるこの形は、
本来持っている「ステイタス」を満たしているのでしょうか?
そう思っている人が、どれくらいいるのでしょうか?

ライフスタイルが多様化しているという事実は、マス媒体にとっては、致命的です。
経済のデフレも、なんら記事にも、マーケティングにもなりません。
ユニクロを下流社会のアイテムにする手法すらも、全くの「価値差別」というもので
作者が育った40年前の「安かろう、悪かろう」の3流商品と比べるまでも
ありません。
それをそのまま「意欲」という単語に結び付けて、年収と結び付けても
旧世代のマーケティングのレクイエムとしか受け取れないのは私だけでしょうか?

希望格差を焦点にあげた「本」のほうが、システムの問題として、切り口として
とても面白かった。
なんで、この本が、ここまで売れるのか、それをテーマにした「本」のほうが
興味があります。

だからこの国は、なんてことよりも、もっと事実を

2005年12月21日 | 本・映画
よくお邪魔するブログでは、BSの世界のニュースを「速報」していただいているので
いつも興味深く拝見いたしております。
日本も、近隣3国との対応に四苦八苦しておりますが、世界各地も様々な事件なり
解決しがたい問題を抱えているようで、国同士というか、民族間といいますか、
宗教間も含めて、ボーダーレスって何?愛国心って何?と言う風に、軽々しく
口にできない状況になっているようです。

昨日にも書きましたが、読むべき本を忘れたことで、もう1冊「文庫本」を購入して
おりました。
「日・中・韓 新三国志」 黒田勝弘 古森義久 著 徳間文庫

この両名が著作であれば、ほとんど読む前から内容は自明です。
この手の内容は、他の方々の本も含めて勉強させていただきました。

どういうトレンドで書かれているか、どういうバイアスがかかっているか、
というより、事実として、彼の国は、どのような国家戦略をとっているのか、
その具体的な事実の方が、とても興味があります。

特に中国に関して、反日教育がどうのこうの、というより、
エネルギー源を求めて、どの国とどのように手を結んでいるか、
そしてあからさまなのか、潜行しているのか、の方がとても興味があるのです。
そこには嫌い、好き、友好なのか反友好なのか、ということより、
その戦略が、多分、本当に多分、近い将来、腹を括らなければならない事態に
ならないとは言い切れない、と感じているのです。

議会がなく、予算すらも明確で無い。国民総生産の数字すら、多分、いやおそらく
という前提で発表される、お金については、「推定」の国であること。
1992年に独自の領海法の公布を、一方的に決める国であること。
台湾については、独立するんだったら、戦うよと、法を制定する。

ある意味、簡単に言うと、やる気まんまんな国です。
最近では、北朝鮮に「寄っていく」傾向は、韓国をナーバスにしているようです。
本当に、歴史的に苦労しているのは、韓国。
中国の脅威は、なにも領土的な野心だけではなく、ビジネスにおいても、
最もこれから苦労するのは、韓国なんだろうと、思っております。

近隣3国をテーマにして、日本が、やいのやいので、揉めている印象が多いのですが、
中国は、すでに、突き抜け始めてます。
その超大国が、どのように「国をまとめ」そしてどのように進んでいくのか、
近いところでは、韓国、台湾、そしてアジアといった各国は、どのように中国と
外交をしているのか、本当に中国は「自由主義」といった土俵にあがっているのか
もっと、詳しく知っていきたい、そういう風に考えているわけです。
アメリカ一筋で、今の日本は動いていますが、ロシアが握った手は、中国のようです。
その狭間で、小さい国土の日本は、どのように立ち回らなければならないのでしょうか?

未消化のまま書くとこうなります。ごめんなさい。

2005年12月18日 | 本・映画
まだ途中なんですが、「下流社会」という本を読んでおります。
本来なら、読後に書くべきなんでしょうが、少々。

作者は消費世界における、マーケティングのプロとして「社会学」というのでしょうか
その視点から、「大衆」の位置づけを行っているようです。
よって、表現が「欲の無い」という行動をとる「下流の層」を見極めようと
されているようです。

日本は当たり前ですが、複雑で高度な「経済社会」に間違いありません。
消費行動から、各世代?を分析する方法は、確かに一つの視点だと思います。
そして、その取りうるであろうパターンを分類し、代表者に語らせることによって
具体的にする方法をとっています。

どうやら自分は「新人類」のカテゴリーに入るらしいのですが、
ここまでの感想をいうと、(後段で語られていたら、先にお読みの方、笑ってください)
自分は、トフラーの著作を思い出しました。
昔、随分はやった本です。
その中で、新時代は、物を所有しない、という時代である、という1節です。

所有意欲、購買意欲から広がって、自己表現を説明するこの「下流社会の本」においては、
未だにステレオタイプな価値観が底流にありそうで、ちょっと、ついていけません。
確かに、日本橋で、働く女性ディーラーをミリオネーゼといった紹介をされ、描く
ライフスタイルも「ハワイで子供をサマースクールに預けて夫婦でゴルフしたい」
と語らせるが、今の時代、この内容にサプライズはない。
とかく我々は、熱狂的にある「ステイタス」をあこがれた時期を過ぎると、
本当にその「情報」はいっきに「デフレ」をおこす。

一方で「デフレ」化したステータスがまとっていた「雰囲気」は、
面白いことに、日本では、安いが、品良くコストがかからない「定着化」が
見て取れる。
何しろ、国を挙げて、均一化を図ろうとする国である。
情報は、あっという間に駆け巡り、一巡する。
間違っても文化なりを説明するつもりは無いのだが、現実的に消費なるものを
ベースにして、「それぞれの層」を解説するのであれば、
見栄も、建前も、あこがれも、ステータスも、あっというまに「情報的に」取得され
あっという間に「できもしないのに」普遍化する、そういう国みたい。

そういう意味からすれば、言われているように、「階層化」が進むのであろうか?
金銭の多寡が、ダイレクトに階層化社会を生んでいくのであろうか?
だめだな、やっぱり、ちゃんと、読まなきゃ。

ネアンデルタール という本

2005年12月12日 | 本・映画
久しぶりに「小説」を読みました。
勝手に「紹介いただいた」と思い込んでいる、サルトルを読む前に(まだ手に入れておりませんが)
山になっている「在庫」を消化中です。

「ネアンデルタール」 ソニーマガジンズ ジョン・ダーントン著
 ブックオフ価格。100円で購入。

ごめんなさい。あっと言う間に読みましたが、面白くありませんでした。
なにも、ネアンデルタールを素材に、サスペンス仕立てにする必要もありません。
また、ネアンデルタールを、今に「生存」させるのは「可」としても、
彼らが言語能力を持たない代わりに、RVというテレパシーに近い能力を持つ。
それも「可」としたいんですが、全然、彼らがなぜ、この時代まで生きてこられたか、
必然も、不思議も含めて、小説ならではの、リアリティーが伝わってこなかったんです。

読む能力が、落ちてるのかしら、と思いましたが、
最後は、猿の惑星に近い感じになって、そう考えて読み進める、と、さくさく読めます。

ただ、ネアンデール人が、ホモサピエンス・サピエンス。つまり我々とは、別系統で、
なぜ、寒さにも強く、屈強で、しかも脳の体積も大きい彼らが、滅んだか。
のどの構造から、言語を使用しにくかった、という研究もありますが、
先の「コミュニケーション」が脳の進化させた、という人類と照らし合わせてみても、
興味深いものがあります。

この本では、「欺瞞」というキーワードが用意されていました。
高度に「騙す」ということが、生存と滅亡を「分けた」分岐点である、と言いたいようです。
よって、彼らは、我々の祖先に滅ぼされた。という感じです。
交雑説はとっておりません。

でも、小説は、いいなぁ。

コミュニケーション能力の発達によって進化した人類

2005年12月06日 | 本・映画
「進化しすぎた日本人」という本から引用です。

 霊長類の脳を特段に発達させてきたのは「器用な手による物体の操作能力の発達」
 よりも、集団生活に基づく個体間の交渉、すなわち「コミュニケーション能力の
 発達」である。

 そこには、自他はもちろん他と他も区別し、その関係を記憶し理解する能力や、
 相手がどう考えているかを推し量り、その心を読む「心の論理」、さらに過去の
 経験を記憶しておいて必要なときにいつでも取り出し、判断に利用できる能力、
 そんな能力が伴っている。
 
 そうした、状況に応じた適切な対応ができるようになって初めて、知能の発達
 と言えるようななにものかが進化してきたのであろう。

このくだりは、子を設ける算段として、必然的にどういう構成で「育てるか」を
解説し、群れがあるとしたら、どうのようなタイプにわかれ、を解説し、哺乳類全般の
考察を経て、述べられた箇所である。

2足歩行によって、手がフリーとなり、その手によって、複雑な工作物を作ることに
よって、脳の発達が促された。という従来の説明が、どうやら違っていたこと。
猿の観察を続けていく中、「クー」という発声が、いくつもの抑揚、高低によって、
いくつか、いや、かなりの状況操作に、コミュニケーションに使われていること。

今、ニート、引きこもりなど言われている人間が、そもそも脳を発達、開花させる
その大きな「契機」を、自ら閉ざしてしまっている事態について。
様々な関係性を、コミュニケーションを通して判断する、対処する。
学ぶ、提供するなど、ほとんどの人間機能を、「怠っている」。「退化」させている。

準隔離的に育った人間。
その行く末を、他の霊長類から比較、検討できる。
完読いたしました。

準隔離飼育された日本人。猿の研究より

2005年11月29日 | 本・映画
非常に長い距離を移動した。もちろん電車で。
一日の半分を電車に揺られていたような気がする。
半分は座ることができ、半分は立っていたが、体調不良もあってか、
人と仕事の話をしても、30分で、カラータイマーが点滅し始める。

そんな中で、
「進化しすぎた日本人」 杉山幸丸著 中公新書ラクレ 刊
は、霊長類の権威として活躍されている方が出された、人類学の
エントリー本なのか、人類社会学なのか、そういうものとして、良書である。
文章がうまい。
猿の生態を通して、人類を俯瞰するという手法は、手馴れたもので、
我々も、お腹一杯な感じもあるのだが、
昔読んだ、その手の本の常識も、実は、研究されていて、異なる学説が提起されて
いるなど、好きな方には好きな本である。

昨今の、若年層の「凶悪犯罪」に関しても、「動物」としては、起こりようのあるケース
として、積極的に具体説明をされるが、結構、理解しやすい。
「人」は動物として、先天的に持っている「本能」を捨て去って、
柔軟に環境に適応をするがために、「脳」を発達させた。
簡単に言うと、生殖行動も「覚えなければ」発動すらできず、猿も、「隔離」されて
育った単体は、お見合いしても、子作りに向かわないという。
なので、動物園では人工授精が盛んになってきた。というくだり。

餌が非常に限られて、少ない場合、行動範囲は広く、特定の「巣」を持たない。
その場合、厳しい「上下関係」はそこには出現しない。

逆に「猿山」のように、狭いエリアで潤沢な餌が提供されるようになると、
突然、餌を独占し、抱え込む猿が出現し、厳しい上下関係が現れる。
「資源が集中していて取り合いの状況が厳しいほど、周りの誰よりも上に立って
 多くの資源を自分のものにしようとする傾向は」どの世界でも一緒なのだそうだ。

昔の猿の飼育、そして研究で、生れ落ちたときから他の固体と交えず、
一匹で「隔離」されて育てられた猿のことが書いてあった。
(今は、道徳上その手の研究はしていないのだが)
代理母として彼らに与えられるのは、金網で作った母。そしてタオルで作った母。
この研究の話を読んで、思わず、泣いてしまいましたよ。
なぜ、って聞かないで下さい。そんだけのことですから。よかったら、読んでね。
この研究は、社会性の獲得に関する実験として、とても有名な実験らしい。

皮膚感覚を含めた「学習」は、集団を通してこそ、学習されていくもので、
隔離された「猿」は、成長しても「社会性」は得られない。
もちろん、隔離された猿が子を出産時する時の「悲劇」は誰でも良く知る内容だ。

隔離飼育の問題点は、情緒不安定に始まり、親との関係、我が子との関係までも含む
あらゆる面での「社会性獲得不全」ということになる。

人間性の獲得とは、第一に社会性の獲得だ。社会性とは周囲の個体に気を配ることであり
それによって円滑さを維持することである。第二は「探検精神」だ。
隔離されて育った「猿」は、普通大人になると行う、遠距離移動も、探検も
まったくしないらしい。

作者は、昨今の日本の家族のあり方を、「準隔離飼育」の状態と言う。

特段、目新しい内容で無いかもしれないが、書き手のわかりやすい文章は、
馴染みのある知識をも、また、喚起、励起、させてくれる。
本当に、書き方を勉強しなくては、なりません。

 

宗教のことなんて書くんじゃなかった、ということで。

2005年11月11日 | 本・映画
こういう記事を目にしました。

生命誕生は進化か知的計画か 米教委で判断

生命の誕生には何らかの知的計画が関与したとする「Intelligent Design(知的計画=ID)」
を授業で教えようとする動きが出ている米国において、
カンザス州では、生物の授業で知的計画を教えられるようにするカリキュラム改訂案を教育委員会が承認した。
米国では、進化論支持者と、旧約聖書で神が天地をつくったとする天地創造説支持者の対立が続いてきた。

知的計画。簡単に言うと、神がつくった。
つまり、生物が誕生して固有の形をもつようになった背景には、何らかの知的計画があると
そう、言いたいわけである。
アメリカも政教分離が憲法によって決められており、宗教性が高いものは、公共サービス
から排除されている。
ただ、戦没者の「アーリントン墓地」(戦没者だけの墓地ではないが)は、
キリスト教であり、儀式に関してはキリスト教がよく用いられている。

ここで、靖国参拝などの問題を絡ませるわけではないので、あしからず。

まだ、読書中なんだが、「みんな」のバカ! 無責任になる構造 仲正昌樹著 光文社新書 
タイトル。これ、本意だったのかしら?と思って読み進めているんだが、作者の方は、
どうも、そういうこだわりはなさそう?養老さんのベストセラーに乗っかるのは
編集者の常套なんでしょうから。

主語が欠落している日本の風土は、特にうまく、みんなという言葉の使い方ができる。
民主主義というあり方も、どだい、「みんな」という総意を形にしたものだ。
このみんなという適用範囲を利用する側も利用される側も、それぞれが、利害関係を
うまく調節できるのであれば、つかいかっても良いはずだが、意思決定が薄弱化すると、
その「みんな」を代弁するリーダーが結果的に出現する。
集団が多くなれば、なるほど、各集団が利害を調整するための、「みんな」の理論は、
代弁者に委託するのが普通で、議会につながっていく。
そこで、立法やら、行政やら、司法のシステムやらが作られていき、なんてのが
近代国家?なんでしょうが、

えっつ?宗教もおんなじ?
のような気がするのは、私だけでしょうか。

イスラム教にしても、キリスト教にしても、砂漠の宗教。
そう書かれている本を読んだことがあって、非常に排他的な印象持ったことがある。
宗教に関しては、全くといっていいほど不勉強。
ただ、諸外国が言う、政教分離と日本の中で言う政教分離。
我々が、八百萬神に代表されるように、みんなの精神世界を司る宗教は、ほぼ無宗教に近い。
それは民族が育った環境がベースになっている。

宗教を自覚しながら、生きてきた民族と、西欧で言う宗教とは違った宗教を
無自覚に拠り所にしてきた民族。
テキストとイメージくらいに、多分、決定的に違うんだろうな。
だから、冒頭にあげた、「宗教教育の話」。
私、教育委員会が「神の教育を許可」なんていうのが、本当に理解できないんです。
これを、疑問視すると、アメリカの「みんな」のどういうことが、崩壊するんでしょうか?
日本では、まず、まかりまちがっても、こういう論議はありえません。

そういうことを、つらつら考えつつ、「みんな」というキーワードを中心にした
この本を、現在読んでいます。


人事では無いぞ、大阪市財政破綻。

2005年11月05日 | 本・映画
大阪府、大阪市。目が離せない、自治体であります。
またもや、お世話になっております、光文社ペーパーバックス。
今回は、「大阪破産」 吉富有治著

読み進めている途中なんだが、素材が素材だけに、内容はかなり充実しています。
「闇給与問題」が、いかにも大阪っぽい話として語られますが、
三位一体改革の中、自治体の独立が盛んに論議されている中、
当然ながら、「おおこけ」する自治体も、あるという典型です。

自治体の運営を、事業と見て、収支がとやかく言われるようになるのは、流れとしても、
まぁ、350近くもの、第三セクターを、作っては、その社長に、府のOBやら、
市のOB。または、現役の方をそえる、というのは、もはや、公共団体の域を超えております。

仮に、その方法論が、結果を出したんであれば、市も、府も、今まで通り、
中央からの人間を、入れることなく、人事においても、予算においても、
独立的なやりかたを、通せるはずでした。
「ほら、みたことか」と、中央に、喜ばれる、結果を出して、どうすんでしょう?

民間であれば、会社を潰す、ということは、日本において致命的で、
次はありません。が、大阪は、違います。
そこで社長をやった人間は、次が、ちゃんと「用意されており」、リスタートが
この日本でもきれることを、証明しております。って、逆撫でですね。

ワールドトレードセンターは、府が建てた、りんくうタワーと高さを競い、
当初の計画と予算を「大幅に超え」同じ256Mの超高層ビルとなった。
もちろんオフィスビル。にもかかわらず、そのほとんどを、「補填」するかたちで
通常相場の1,5倍で、市の部局が入居していて、「第2市庁」と揶揄されている。
ここの社長は元大阪市助役さん。ビジネスができる人材だったんでしょうか?

3セク3兄弟と呼ばれた、湊町開発センターの社長さんも、元大阪市経済局長。
この方は、破綻させたあと、しっかりと就職先が決まっており、励んでいる。
その会社は、自治体の人事異動を「予測」することを専門に調査する、情報会社。
「よく当たる」と評判をよんでいるらしい。

USJも、ご存知のように、第3セクター。
本年、経営状況が逼迫したために、あの、ゴールドマンサックス系ファンドから、
250億円の増資を受けた。
しかしながら、2012年までに上場できなかった場合、全額払い戻すという
特約がついている。すごいよね。

名古屋の「愛知万博」も同じ。
あくまでも、市、府、県などの税収を上げる。人口を伸ばす。など、計画はあった。
ただ、彼らが一番、理解していないのは、「責任」をとるという、最低限の仕事。
これができない。税収は、天から降ってくるものではなく、それを獲得しようとする
心意気はわかるのだが、要は、「計画」に「責任」が伴うことを、誰も理解していない
ということだ。結果的に。

行政サービスが、監視者との立場を脱して、やおら市場の創出だ、事業だなんて
無謀なことをしてしまうのは、一体全体、誰の知恵なんだろう?
そうです、もちろん、議員さんの、お力です。
そういう立法をしてしまったからです。
行政は、粛々と、それに従い、「行政」を行っている、だけです。

ということは、その責任は、誰かと言うと、身も蓋もありません。
その議員を選んだ、有権者にたどり着いてしまうのです。
ああ、つらい連鎖だ。
もちろん、第3セクは、企業の出資があって始めて成り立ちます。
確かに大阪は、お役所と企業の馴れ合いが、非常に盛んなところです。
市民、府民のせいばかりも、いってられませんが、そういう企業、今、大阪の
財政危機を見越して、本社移転を真剣に考えています。
間違いなく、市民税が、(法人税が)高くなります。
そうすると、また、そこに住んでいる住民に、間違いなく、「サービス劣化」
という地獄が、連鎖してくるわけです。

大変だ。

サイエンスジャーナリスト。科学ネタです。

2005年11月04日 | 本・映画
えー、自分としては好きな方なので、今回、この本に書かれていたことで、
おもわず、へー、面白かったことを、すいません、ピックアップいたします。

中野不二男 科学技術はなぜ失敗するのか より

世間では、偵察衛星の画像の解像度のことを、よく取り上げられており、人間の表情をも解析できる
てな話聞きますが、いくらなんでも、これは無理だそうです。あの空高くから「光学レンズ」で
撮影されたものは、時に昼、空気のゆらぎで、とてもそこまでは無理とのこと。
ただ、識別はできるらしい。

とはいえ、今、日本でお世話になっている、カーナビもそうだし、GPS。
今は、アメリカの独壇場なんだが、「ガリレオ」計画がEUで発動しようとしている。
もちろんただで解放されるらしいのだが、このGPSは、軍事から航海、航空、測量、そして通信ネットワーク
の時間を同期させる手段にも使われていて、すでに世界では欠かせないものになっている。
アメリカのナブスターからのGPSは、始め、スクランブルがかけてあって、誤差が100メートルだった。
2000年5月、そのスクランブルは解除され、誤差36メートルに向上した。
「ガリレオ」計画は、衛星30個をフル活用するもので、誤差1メートル、が目標とされる。
恐らく、そのレベルは、商業的に有料になるだろうとのこと。
これに絡んできたのが、中国。そして、インド。
この計画は、国をあげての出資競争なんである。
日本も「新衛星ビジネス株式会社」がトヨタ、三菱を中心に作られたが、片や、国をあげて、
片や、衛星1個を上げる民間。
これまた、借金大国日本、ええ、予算は大きいですが、世界から見ると、ちっちゃい、ちっちゃい国です。

面白い記事なんだが、1998年に北朝鮮が打ち上げ、日本を慌てさせた「テポドン1」。
「人工衛星」の打ち上げだったという見解。それは、それで、いいとして、
その「衛星」。「光明星1号」。バッテリーによって国家を流し続けるほか、27メガヘルツの電波で
「チュチェ思想」のモールス信号を発信していたんですって。

最後に、コソボ紛争の「中国大使館誤爆事件」。
世界各国首脳の遺憾の意が連日のように続いたが、この誤爆騒ぎは、わずか1週間ほどで鎮火する。
理由は、「誤爆」ではなかったからなんである。
これって、知ってました?
そもそもこの空爆は、アルバニア人追放を進めるセルビア政府にNATO諸国は警告を出し続けてきたんだが、
それをミロシェビッチ大統領が突っぱねたことに端を発する。
そのセルビアを支援していたのが、中国、だった。
中国大使館の地下室には、セルビアの要注意グループが連絡を取り合うための無線局があった。
その無線局の周波数をキャッチしたアメリカが傍受を続け、結果、NATO各国には知らせることなく、
そこを叩いた、というのが、どうやら真相なんですって。

そもそも、ミサイルについているGPSは、高度20キロの高さから落として、誤差5メートル。
中国大使館の北側は、割ときれいに残っているのだが、3000キロクラスの爆弾が3発も落とされた
現場の姿ではない。きれいになくなった南側。
標的が大使館ではなく、大使館の南側の地下室。それも、そこをピンポイントに、小さな点に釘を
打ち込むように3発、打ち込んだわけである。面ではなく、まさに、地下を掘り下げるような、
点の爆撃。
地図が古いからと言う、「伝説」やら、「民間施設への誤爆」なんていうものは、
とても信じられない、と、著者は言っておりました。

なんだか、「○○で使える、何とか知識」みたいになりましたが、
どうも、こういう、サイエンスものには、目がなくて、すいません。

「特攻」について書かれた本を読んでみました。

2005年10月29日 | 本・映画
土曜日です。
少し、自分にとって、ハードな話に絡んでみたいと思います。
皆さん、おてやわらかに。

とある本を読んでいる最中です。
あの戦争、特に特攻隊について、書かれている本です。
正直、それについて、詳しいはずもなく、意見をも今まで、もっていた者でもありません。
それでも、いまさらながらに、そのことを知っておくという作業が
とても必要なんだと、感じながら、読み進めております。

反戦に不戦に、戦争の狂気として、また、そうせざるを得なかった時代の流れとして、
従う者、納得した者、理解した者、命じた者、命ぜられた者、その場にいなかった者。
戦争を一括りで、語れない、本当に難しい問題が、そこに、ありました。
ただ、その問題を通して、決して譲れない結論があります。
戦争は、行うものではなく、巻き込まれたくもなく、痛切に平和を希求したい。
になるのでしょう。

ところが、武器を持った、いわゆる、局地的なものを含めて、この世界で戦争がなかった
時代は、ほとんど、ありません。
いまもなお、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、イスラムで、「戦い」は不断なく行われているのです。

ニュースなどで、映像やら記事で、その凄惨な「現場」は知ることができます。
そして、丁寧な解説を読みながら、その原因も知ることができます。
また、現地に行って、直接、見ることもできます。
ところが、全てに渡って、解決するための方法が、見当たりません。
一方的な為政者による虐殺は、確かに過去、何度もありました。
その為政者の責任として、排除すれば、事が収まる。そう見えた瞬間もありました。
でも、終わりません。

なぜなんでしょう。

日本では、今、憲法9条改正において、いつか来た道と、多くの人間が危機感を募らせております。
ナショナリズムの萌芽として、教科書問題を、ことさらクローズアップする集団もおります。
語られる「愛国心」を、危険なものとして、ボーダレスの社会を、説く人々もおります。

多分、本当に、多分。
それを語る、多くの人が理解していることがあります。
戦争に向かうには、最終的に、主義、主張なんて、どこにもないのだ、という事実を。

普段、災害においても、突然の事故であっても、その映像なり、情報にふれたどんな人間も、
癒されない被害者の、そして、被害者の遺族の心情を知っています。
そんな身近な「不幸」においても、湧き上がる、怨念の情。
仮に、自然災害であっても、管理者たる行政に、その不備を求め、泣き叫び、訴える被害者。

「死」が、何をもたらすか。
実は、全ての人間は、闇底に、ひっそりと、その気持ちを抑えつつ、生きているはずです。
その被害者の、被害者の遺族の気持ちを、自分に置き換えて、ふるえてしまう、自分の気持ちを。

ましてや、戦いが、まさに、おこなわれている、その現場では、
すでに戦いが、戦いである意味をとうに超えてしまって、心の闇の連鎖が、止みません。
お手軽になった「携帯型の武器」が手に入る以上、宗教を超えた、怨念のかたまりが、
「自爆」に走ることを、誰が、否定できるでしょうか。

血縁、地縁。その先に、共同体があって、その先に、郷里(くに)があって、その先に民族なり
国家があります。
いつものことですが、「愛国心」は、上から、宣言されて、出現するものでは、決してありません。
身近に出現した、「危機」に触発されて、始めて発動するものだと、思います。

アメリカでは、毎日のように、社会的な、世界的な、「危機」をあおって、成り立っていると、
かの「ボーリング イン コロンバン」という映像で、マイケルムーアは分析しています。
隣接したカナダは、いまだに、武器も持たず、家の鍵すらかけないで、暮らしていることを
反面状況として、対比させていました。

もし、家族を、「殺られてしまったら」。知人が、恋人が、そして、誰々が...........。
何かが、燎原をはう、炎のように、燃え広がることを、誰が、否定できるのでしょうか。

だから、戦争をおこしては、ならないのです。
だから、戦争に、まきこまれても、いけないのです。

あの戦争で、亡くなった「特攻の兵士」は、どんなに理不尽であっても、どんなに疑問であっても、
どんな総括をしようとも、すでに、闇の連鎖の中に、おりました。
最後は、親、兄弟、妻、そして郷里。そして国を「守る」。その「怨念」の彼方に集約されていったはずです。
もっとも、崇高な、そして、純粋な、「犠牲」を覚悟してまで。
だから、もちろん、当時を生きていない、我々も、涙が止まらないのです。

尊い、本当に尊い「経験」であった、と考えます。
こういう大規模な、まさに国中が戦場になる、こういう体験は、ヨーロッパじゃなく、
日本では、かって、ありませんでした。
まさに、今、様々な戦争へのアプローチがありますが、
国をあげてのパニックであったことは、間違いありません。
戦い方への方法論を、いまさら論議しても、何の解決にもなりません。
回避する。止める。走り出したら、ブレーキがきかない車を、決して作ってはなりません。
この経験から、学ぶべきことは、多分、そこにあると思いました。

そして、今や、危惧されている、「ナショナリズム」。
血縁、地縁すら破壊されている、今日のこの国で、何かが起こったとき、
どういうパニックが訪れるか、
自分は、未だに、それについて、冷静にかかれた本に出会っておりません。
彼らが危惧する、愛国心の発動が、本当に、リアルにおこるのか、
私は、よく、わかりません。
それが、いいことなのか、悪いことなのかは別にして。

そして、求められるのは、殊更に、危機を煽るようなアジテーションは、避けるべきものだと。
見ていると、いわゆる「右」とされている方々よりは、
「左」に属しているグループが、結果的に焚きつけているように見えるのは、
私の錯覚でしょうか?
どうか、我々の心の闇を、開かせないで、いただきたいものです。

多分、ホラーな はなし。

2005年10月23日 | 本・映画
今は、もう手仕舞いしてしまったんだが、広告関係の仕事をしていて、
環境に関する案件に携わっておりました。
その時に、買いっぱなしになっていた本。
「循環型社会 吉田文和著 中央公論新社」

ご存知でした?
ゴミ。
産業廃棄物、年間4億トン。一般廃棄物(家庭系のゴミ)が5000万トン。
今、処理費用が、1トン2万円ですから、年間、9兆円が、
ゴミのために費やされております。

その処理といっても、運搬、中間処理、そして、最終処理(埋め立て)など、
これに、1兆円の費用がかかっておりまして、全体で、10兆円です。

国民総生産、つまりGDPでしたっけ?
この売上?も当然入っておりますが、ここまで、多額ですと、もう、
金額的に、引いて算出すべきもんではないでしょうか?

しかしながら、この処理費用。
これで、誰が、儲かるようなポジティブなもんではありません。
できれば、ありがたくない費用です。
そのため、当然のように、闇の世界の人達が、群がってきます。
不法投棄です。

さて、昔、星新一というショートショートの名書き手がおりました。
ある所に、大き目の穴が開いており、男は、穴に向かって、まず、
「おーい」と叫びます。返事はありません。
次に石を投げ込みます。底に当たる音は聞こえません。
かなり深い穴に違いありません。

そこからは、ご想像通り、数年も立つと、町が、世界がきれいになっていきます。
やがて、ゴミのことなど、誰も気にかけなくなった、ある日、
その男は、澄んだ空から、まさに自分の声を聞いたのです。
「おーい」
もちろん、間もなく、続いて、石が空から降ってきました。

多分、30年近く前の作品だと思います。
今、まさに、様々な因果を含めて、我々の身に、同じことが起こってきました。



イグ・ノーベル賞を紹介する本

2005年10月18日 | 本・映画
本の紹介ですが、前編、紹介です。

「もっと! イグ・ノーベル賞」ランダムハウス講談社

イグ・ノーベル賞とは、イグ(品が無い、あさましいの意)とノーベルを
掛け合わせた造語です。賞の対象者は、「人をまず笑わせ、そして考えさせる
研究。絶対に真似できない、まねすべきでない業績を対象に、
本物のノーベル賞受賞者や各分野の専門家、たまたまそばを通りかかった人が
選考する。授賞式は毎年、ハーバード大学の講堂で行われる」

説明自体が、もう、無理なので、ぜひ、興味のある方は、お読み下さい。
ただ、立ち読み程度の、紹介はさせて下さい。

この賞で有名なのは、2004年にイグ・ノーベル賞で平和賞を受賞した
「カラオケを発明し、人々に互いに寛容になることを教えた功績を称え、
井上大祐」であろう。この際には、色々なテレビで取り上げられたので、
記憶にあるとは思いますが、
この、受賞タイトルが、結構いかしております。

簡単に、いくつかご紹介いたします。

皮肉めいた受賞者
考古学賞(1991年) 
受賞者 フランスのボーイスカウト
理由  清掃活動中、歴史的遺産であるメリエール洞窟の古代壁画を
    落書きだと思って消してしまったため

医学賞 (1992年) 
受賞者 資生堂研究所の神田、ヤギ、フクダ、ナカジマ、オオタ、ナカタの各氏
理由  「足の臭いの原因となる混合物の解明」の草分け的研究。とりわけ
    「自分の足がくさいと思っている人の足はくさく、思っていない人の
     足は臭わない」という秀逸な結論を称えて

経済学賞(1994年)
受賞者 ファン・パブロ・ダビラ(チリ国営企業コデルコ社の先物トレーダー)
理由  「売り」のつもりでコンピューターに「買い」の指示を入力し、そこで
    発生した損失をカバーしようとリスクの高い取引を繰り返し、最終的に
    チリの国民総生産の0.5%に相当する損失を計上し、さらに、チリで
    「Davilar」(メチャクチャにするという意味)という動詞を造語
    した功績を称えて

平和賞 (1996年)
受賞者 ジャック・シラク大統領
理由  世界中を敵にまわしても怯まずに、広島原爆50周年の記念として、
    太平洋で原爆の実験を強行した根性を称えて

などなど、各年度において、10の分野から受賞者が選ばれる。
日本からは、他に、なまずと地震の研究で日本気象庁が。タマゴッチでバンダイが
バウリンガルでタカラが。また、韓国の文鮮明氏が、結婚産業に効率性と
スピードを導入し、急速な成長を実現した功績を称えて、と、なかなか、
いいセンスもしています。

また、日本では、1999年化学賞で、セーフティー探偵社の牧野氏。
夫の下着に吹き付けて精液の跡を発見できる、浮気検出スプレー(Sチェック)
を開発したため、なんてのもございました。

授賞式には、本物のノーベル賞受賞者がサインした賞状を、プレゼンターとして
出場。しっかりとした、セレモニーに仕立てているそうで、映画のラズベリー賞
もそうですが、こういうセンスは、見習いたいものです。 
 

1980年代。女性は、確かにこういう環境にいた。

2005年10月08日 | 本・映画
ああ、こんな言い方って、ありなんだ。
そういう出会いができるのも、本を読む楽しみの一つであります。
今回、なにげに、購入した本。
「なぜフェミニズムは没落したのか」 中公新書ラクレ 荷宮和子著

実は、私は、この作者さん、存じ上げておりません。
キーワードとして、最近のジェンダーフリーやら、フェミ婆、
ウーマンなんやらに違和感を感じていたので、なんか、都合の良い、
参考本、ないかなぁ、なんてスタンスでいた訳です。
その時に出会った本なんです。

いやー、いっきに、読めました。
そして、冒頭に申し上げた、ああ、こんな言い方も、ありなんだ。
ということになる訳です。

以前、大塚英志の「おたくの精神史」という本を読んだが、文章が軟体で、
気を抜くと、漫然とページをめくって、なんにも頭に入ってこないことが、
あった。その点、引用が過多な事もあるが、繰り返し、
たたみ掛けるような「持っていき方」は、紛れも無く、まねのできない、
文書力と、精緻な言葉遣いが見て取れて、体力使って書いているな。
一瞬、ほれぼれすることもありました。

簡単に言っては失礼なんだが、1980年代を、特に、女性のあり方。
非常によく理解ができました。
それと、林真理子氏のこと。勉強させていただきました。

考えてみれば、あの時代は、初めて、女性が、自分の趣向を、自分で稼いだ金で、
何の気遣いも無く、実現できた、そういう時代なんである。
それまで、働くと言うことは、おばさん、やら、やむにやまれず、
といった背景がある女性に限られていた。
当然ながら、1人で、レストランやら、喫茶店ですら、入れない、
入ることが難しい、そんな時代であった。
DCブランドのブームも、加速をかけた事象だ。
自己表現も、自分の責任で、勝手におこなうことができたのも、ここから。
それまでは、ささやかに、「人前にでるから」という事態でできる化粧なり、
外着があったにすぎない。
そう、思い出しました。

その時に、男社会に、男どもに、敢然と、論理的に、立ち向かったのが、
フェミニズムと、記憶している。
均等法など、法的な進捗もあったが、なぜか、女性の地位の向上に、
直結しなかった。
それほどまでに、マスコミも企業も政治も、完全に男システムであったのだ。

そういう最中、当然、男どもは、女の奔放さという程度の認識さしか持ち合わせがなかった。
海外旅行に、「きゃぴきゃぴ」行きやがって、とか、「腰掛の癖に商社なんぞに入りやがって」。ええ、特にJR東日本の人事部に行ったときは、すごかった、
「お宅、どこの出身?はぁ?うちら、東大なんで」「女性?ああ、お茶くみに採
用費なんかかけらんねえよ」。1980年後半のことです。

今では、女性管理者、上司なんてもんは、ごくありえる状況で、さらに、今は、
外国人の上司という、とんでも最強キャラがおります。
本当、時代は、徐々に変わってまいります。
そこで、なぜ、そのフェミが市民権を得られなかったか。
「フェミニストは、露悪的な物言いを重ねることによって、
 フツーの女の心の中に、あの人達と同類に見られたくない、
 品性下劣な人間とおもわれたくない、といったイメージを植えつけてしまった」
この引用は、それ以前の、多様な引用があって引き立つのだが、
上野千鶴子やら、現在の田島陽子、といったら、うなずく、
人々も多いのではないか。

その文を読んで、思ったわけです。
良かったんだ、あの人々を、下品だと、思ったり、言ったりして。

そういう意味で、ちょっと、感謝すべき、本でございました。
今も、例の教科書問題に関して、教科書ネット21でしたっけ、そういうネット
ワークでがんばる女性たち。
もしくは、ネットで呼びかける様々な宣言やら、賛同する諸団体のHP。
「品性下劣」に近いイメージを持ってしまうのは、同じことなのかしら。
つまり、普通の人々に、呼びかける言葉の手段が、あまりにも下手っぽい、のだ。
怖い、とすら、思ってしまうのは、自分だけであろうか?
「許すな!」なんて、そのスローガン。右翼の宣伝カーに近いイメージ。
学者言葉自体、論理的なことは、なんとなくわかるが、その言葉は、
我々には馴染まないだろう、ということも含めて。

この部分だけを取り上げて、何事かと、怒られてしまいそうだが、
男として、当たり前だと思っていた社会通念といったものが、
いかに独善的なものであったか、
そうだからこそ、彼女達は、どれだけ、頑張らねばならなかったか、
それによって、ゆるやかに、旧来からの家庭をコアにした、
地域社会が崩壊しようとも、旧来からの「男システム」が崩壊しようとも、
社会に参加している以上、性別だけでの、不当な評価は、
大きな損失を生むのではないか、と、感じさせられる、本でございました。