まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

「特攻」について書かれた本を読んでみました。

2005年10月29日 | 本・映画
土曜日です。
少し、自分にとって、ハードな話に絡んでみたいと思います。
皆さん、おてやわらかに。

とある本を読んでいる最中です。
あの戦争、特に特攻隊について、書かれている本です。
正直、それについて、詳しいはずもなく、意見をも今まで、もっていた者でもありません。
それでも、いまさらながらに、そのことを知っておくという作業が
とても必要なんだと、感じながら、読み進めております。

反戦に不戦に、戦争の狂気として、また、そうせざるを得なかった時代の流れとして、
従う者、納得した者、理解した者、命じた者、命ぜられた者、その場にいなかった者。
戦争を一括りで、語れない、本当に難しい問題が、そこに、ありました。
ただ、その問題を通して、決して譲れない結論があります。
戦争は、行うものではなく、巻き込まれたくもなく、痛切に平和を希求したい。
になるのでしょう。

ところが、武器を持った、いわゆる、局地的なものを含めて、この世界で戦争がなかった
時代は、ほとんど、ありません。
いまもなお、アジアで、アフリカで、ヨーロッパで、イスラムで、「戦い」は不断なく行われているのです。

ニュースなどで、映像やら記事で、その凄惨な「現場」は知ることができます。
そして、丁寧な解説を読みながら、その原因も知ることができます。
また、現地に行って、直接、見ることもできます。
ところが、全てに渡って、解決するための方法が、見当たりません。
一方的な為政者による虐殺は、確かに過去、何度もありました。
その為政者の責任として、排除すれば、事が収まる。そう見えた瞬間もありました。
でも、終わりません。

なぜなんでしょう。

日本では、今、憲法9条改正において、いつか来た道と、多くの人間が危機感を募らせております。
ナショナリズムの萌芽として、教科書問題を、ことさらクローズアップする集団もおります。
語られる「愛国心」を、危険なものとして、ボーダレスの社会を、説く人々もおります。

多分、本当に、多分。
それを語る、多くの人が理解していることがあります。
戦争に向かうには、最終的に、主義、主張なんて、どこにもないのだ、という事実を。

普段、災害においても、突然の事故であっても、その映像なり、情報にふれたどんな人間も、
癒されない被害者の、そして、被害者の遺族の心情を知っています。
そんな身近な「不幸」においても、湧き上がる、怨念の情。
仮に、自然災害であっても、管理者たる行政に、その不備を求め、泣き叫び、訴える被害者。

「死」が、何をもたらすか。
実は、全ての人間は、闇底に、ひっそりと、その気持ちを抑えつつ、生きているはずです。
その被害者の、被害者の遺族の気持ちを、自分に置き換えて、ふるえてしまう、自分の気持ちを。

ましてや、戦いが、まさに、おこなわれている、その現場では、
すでに戦いが、戦いである意味をとうに超えてしまって、心の闇の連鎖が、止みません。
お手軽になった「携帯型の武器」が手に入る以上、宗教を超えた、怨念のかたまりが、
「自爆」に走ることを、誰が、否定できるでしょうか。

血縁、地縁。その先に、共同体があって、その先に、郷里(くに)があって、その先に民族なり
国家があります。
いつものことですが、「愛国心」は、上から、宣言されて、出現するものでは、決してありません。
身近に出現した、「危機」に触発されて、始めて発動するものだと、思います。

アメリカでは、毎日のように、社会的な、世界的な、「危機」をあおって、成り立っていると、
かの「ボーリング イン コロンバン」という映像で、マイケルムーアは分析しています。
隣接したカナダは、いまだに、武器も持たず、家の鍵すらかけないで、暮らしていることを
反面状況として、対比させていました。

もし、家族を、「殺られてしまったら」。知人が、恋人が、そして、誰々が...........。
何かが、燎原をはう、炎のように、燃え広がることを、誰が、否定できるのでしょうか。

だから、戦争をおこしては、ならないのです。
だから、戦争に、まきこまれても、いけないのです。

あの戦争で、亡くなった「特攻の兵士」は、どんなに理不尽であっても、どんなに疑問であっても、
どんな総括をしようとも、すでに、闇の連鎖の中に、おりました。
最後は、親、兄弟、妻、そして郷里。そして国を「守る」。その「怨念」の彼方に集約されていったはずです。
もっとも、崇高な、そして、純粋な、「犠牲」を覚悟してまで。
だから、もちろん、当時を生きていない、我々も、涙が止まらないのです。

尊い、本当に尊い「経験」であった、と考えます。
こういう大規模な、まさに国中が戦場になる、こういう体験は、ヨーロッパじゃなく、
日本では、かって、ありませんでした。
まさに、今、様々な戦争へのアプローチがありますが、
国をあげてのパニックであったことは、間違いありません。
戦い方への方法論を、いまさら論議しても、何の解決にもなりません。
回避する。止める。走り出したら、ブレーキがきかない車を、決して作ってはなりません。
この経験から、学ぶべきことは、多分、そこにあると思いました。

そして、今や、危惧されている、「ナショナリズム」。
血縁、地縁すら破壊されている、今日のこの国で、何かが起こったとき、
どういうパニックが訪れるか、
自分は、未だに、それについて、冷静にかかれた本に出会っておりません。
彼らが危惧する、愛国心の発動が、本当に、リアルにおこるのか、
私は、よく、わかりません。
それが、いいことなのか、悪いことなのかは別にして。

そして、求められるのは、殊更に、危機を煽るようなアジテーションは、避けるべきものだと。
見ていると、いわゆる「右」とされている方々よりは、
「左」に属しているグループが、結果的に焚きつけているように見えるのは、
私の錯覚でしょうか?
どうか、我々の心の闇を、開かせないで、いただきたいものです。

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