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まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

「外交敗北」を読みました

2006年09月14日 | 本・映画
「外交敗北――日朝首脳会談の真実」 重村智計著 講談社刊

賛否を含めて、色々な評価が下されている本。
そういう認識を持っている。
内容が、特に、北朝鮮問題を扱い、これを「外交敗北」と指摘する内容だけに、
なかなかショッキングな「情報」も含まれている。

さらに、どういうわけか、読みにくい。
自分的になんだけど、ほとんど、接続詞を使わない、書き方が、同一の内容を
併記した箇所にあっても、すぐに次の段落に移れない感じ。
何度も、「連続した箇所だよな?」と、読み直したりしてしまった。

そうはいえ、個人的には、かなり、勉強になった本です。
改めて、指摘することも無いんですが、
こと、外交に関して、日本が、アメリカに追随を「是」とした内容だとか、
アメリカの怒りを買った時点で、そもそも外交的に失敗している、
なんて、全然、そんなことを作者は言っていない。

赤裸々に、「お願い外交」。「国会対策」にも似た外交。
つまり、最初から「落とし所」を勝手に決めた感じの外交を、
たっぷりと、紹介、解説してくださっております。

一方で、アメリカの外交スタイルにも触れ、
「仲介者」と過度な交渉はしない。
決裁者から、必ず「言質」をとる。
情報は、あらゆるコストをかけても収拾する。
そして、外部シンクタンク、専門家を公式に雇い入れても、対策を講じる。
政治家は、絶対に、利害交渉をしない。だから、ぶれない。

様々な、歴史的な経緯を、過度に持っていたのかどうかわからないが、
一方的に、北朝鮮という国家に、おもねる政治家が過去に多くいたこと。
名誉と利権を、簡単に欲した政治家やらマスコミが、簡単に「餌食」に
なったことなど、当然ながら、この本以外にも、あまねく周知のことであった。

冷静に見れば、疲弊し、困っていたのは、北朝鮮という国家であった。
その国を、どのように「対処」していくか、
「切り札」は、むしろ、こちら側にあったはずだ。
有利に交渉を進めていくことが、できたはずだ。

当たり前のことなんだが、このようにはっきり言い切られると、
本当に、政治家さんやら、外務省の「へたれ」には、愛想が尽きてしまう。
結果が全てあることは間違いの無いことで、
かなりの「覚書」を持参して、どうやら日朝宣言、拉致問題を認める、
そういう「取引」に持ち込んだようだが、
小泉・安部ラインが、結果的にその覚書を、「反古」にしてしまった。

これは、どうやら事実らしい。

なるほど、結果オーライだったらしい。
進捗をみせない日朝交渉であっても、未だに「拉致問題を6カ国協議のレベルで
話をするのが恥ずかしい」と言ってしまう、高官がいるのも、
結果を誰に対して、出すのか。
そのために、どういう駆け引きと交渉をしなくては、ならないのか。
それは、あなたの「プライド」と天秤にかける事案では、決して無いこと。

この本で、何度も語られているが、
外交は、国会対策の「延長」感覚ではない、ということ。
話し合いで、相手の立場を慮って、怒らせず、なるべく平穏に、落とし所を
見つけていく。

あまりにも、長いこと、政治の場で、見せ続けられていた、国会劇場の再現だ。
それが、どうやら、外交の場でも、同じ事をしていたらしい。
外交は、多分、駆け引きだと、戦略だと腹をくくれば、怒らせて上等。
現に、中国の首相と、こんな記事が。

日中首相の握手写真、ASEMのHPに…中国の要望で

  小泉首相が出席したヘルシンキでのアジア欧州会議(ASEM)首脳会議の公
  式ホームページに、首相と中国の温家宝首相が会場内で笑顔で握手した瞬間を
  とらえた写真が11日、掲載された。



案外、小泉さん、こういうところは、「逸材」でした。
というか、今までが、今までだったんで、小泉さんを評価せざるを得ない、
そんな感じなんでしょうか?

身にしみて思う、介護の現場

2006年09月12日 | 本・映画
どうにも、こうにも、よく考えて書ける状況ではないんだが。
人が話をしていたり、音楽が大音量でかかっていると、
マルチタスクが、ぜんぜん、できません。
こういう人間なんです。

イブニングという漫画雑誌にて連載されている、「ヘルプマン!」。
介護の現場をリアルに描くこの作品は、様々な現場で、社会で評判になっている。
最近のお気に入りのひとつ。
現在の「介護マネージャ編」に至っては、介護保険の改正に伴う
行政の対応と、現場の混乱をテーマにされている。

つくづく思うことなんだが、病で倒れる、介護を要する老人になる、
本当は、これほど不安になることはない。
ただ、あまりにも、この国の、そいうインフラが整備されて、
それほどの危機感を抱かなくて済む。
そういうことなんだろうか?

この漫画では、確かに歩くことができる、会話が、ある程度成立できる、
そういう老人は、「自立」しろ。
個々の症状を、大雑把にランクわけして、聞こえはいいんだが、
確実にある層を、切捨てにしている状況が、理解できる。

生活保護もそうなんだが、本当に必要としている人間と、
明らかに、法なり、行政の不備をついて、「得」をしている人間、
そういう情報が、色々と入ってくる。
何が真実なのか、判断もしようがないが、確かに、国は、予算の不足もあって、
切捨ては明確な方向の気がする。

今回、描かれている内容には、元気な老人が、切り捨てられた老人を、
グループで支援。
まさに限定された地域コミュニティーのあり方を示唆するものとして、
非常に興味深かった。

ただ、現在、我々が置かれている状況。
先にあげた統計によると、核家族がもたらす「老老介護」の実態。
そして「認知症」の伴侶をもつ家庭の崩壊。
このテレビ番組を見たが、本当に壮絶な内容だった。
自分への記憶を失くした妻へ、献身的な介護をする夫。

これを知れば知るほど、一人では、結局生きていけないという現実が身にしみる。
だからこそ、最近、若者のあり方や思考をめぐる内容の本が、
色々と出版されているが、
思うに、我々は、あまりにも、「老い」「病」に関して、呑気すぎるのではないか
そういう気がする。

何かあった際に、多分、何かが「手助けを」してくれる。
国が、行政が、NPOが、ボランティアが。
そういう、無責任な安心感が、この国を覆っているような気がする。
若者の「不遜な態度」「見下した態度」は、とどのつまり、こういう環境が
こういう発想を生み出しているのではないか。
さらに、よくわからない「自己責任」という言葉も、
明らかに、「大き過ぎる政府」をあてにした、前提にした、発想にも聞こえる。

もし仮に、そういう状況になったとしたら、
知識としてでもいい。
知っているのと知らないのとでは、社会に対して、どう関わっていくか、
雲泥の差になってくるような気がする。
これこそ、一番の格差問題のようなきがするのだが。

備忘録的に「格差社会」の論点

2006年09月06日 | 本・映画
新書の本で、最近、設定したテーマに関して、色んな論文、評論を集めたものが
出版されるようになった。
ミニ「論点」といったところでしょうか。ありがたいです。

「論争 格差社会」 文春新書編集部編 文春新書刊

内容は、「格差は本当にあるのか」に始まって、「ニートは下流社会の投影か」
「格差社会を生き抜くために」といった章立てで、関連のある論文や、対談を
集めています。

それぞれの論者から了解をとったのであろうが、時期が割りと近いこともあるのか、
明らかに、これはあれをベースにかかれていない?など、拝見していて
スリリングな場面もあって、面白かったです。

希望格差社会の山田さんや、仲正さん、日垣さん、竹中&宮崎対談、森永さん、
斉藤環、「ニートっていうな」のメンバーやら、良く集めました。

通して拝見すると、格差社会というものが、実態があるのか、それとも
イメージなのかについては、「冷静な検証」が必要だ、という点が強い。
森永さん当たりが、盛んに、政府の陰謀を全面に押し、結果的に「富」の集中が
底辺の人間を置き去りにする中で、政策が進められている、と頑張っていたが。

テレビでも衝撃的に取り上げられていた、OECD(経済協力開発機構)発表の
「貧困率調査」。
アメリカについで日本が2位という報道。
これをもって、「格差社会」が明確になったと報道していたが、
この貧困という「定義」。中位所得の半分以下の人を、まず「貧困」と定義。
さらに貧困指標が、可処分所得で計測される。

結果、資産があって所得の無い人は、全員貧困とみなされる。
さらに日本側が提出した「統計」は、「国民生活基礎調査」。
この統計は、福祉事務所が調査を担当するため、もともと低所得者に対する
カバー率が高い。
いずれにしても、そういう定義だということだけは、覚えておきたい。

そこで、大竹文雄氏は、
  格差のない社会はありえない。と言っても問題がまったくないわけではない。
  必要なのは、どのような格差を問題にすべきか、という視点なのである。

  格差の是非は人々の価値観に依存する。それでも多くの人は、努力に応じて
  所得が分配されるべきだ、という意見に賛成するだろう。
  運・不運による格差は小さくすべきだという意見にも賛成するに違いない。

  結局、私たちが合意できる格差対策は、人生のスタート地点での格差を
  小さくすること、最低限の生活水準についてのセーフティーネットを作ること
  税制を含めた広い意味の保険制度を整備して、運・不運の影響を小さく
  することの3つではないか。

そこで、ずっと進んで、竹中大臣と宮崎氏の対談で、
 竹中 「失われた十年」のあいだ、労働者の給料はほとんど下がっていないんです
    バブルが崩壊してから十年くらいのあいだ、労働分配率が一気にあがります。
    そして企業の取り分、つまり資本分配率は下がりました。
    むしろこのあいだ日本の企業はよく持ちこたえたとものだと思います。
    この数年、賃金が上がらなくなった反面、企業の利潤は増えましたが、
    これは「失われた十年」の資本分配率と労働分配率とを調整していたので
    あって、現在はようやく調整が終わりつつある局面を迎えているのです。

考えてみれば、あの十年の際、年末年始、ごった返す空港で、来日した諸外国の
方々が、「日本人が、日本を脱出しようとしている」と、コメントをしていたことを
覚えております。ええ、時期の名物、海外旅行へ行く連中でしたが。
そのバブル崩壊の際、確かに、ある政治家が会社の数を減らせば、適正化すれば
不況がおさまる、なんて、ガキでもわかることを述べていたことを覚えています。
ええ、確かにあの時期は、「市場が縮小」しておりました。

一方で、山田氏も斎藤氏も、物理的な格差ということではなく、精神的な面で
検討を行っている。
山田氏は、システムの疲弊もあって、希望の喪失が「格差」を生み出す。
努力が報われないというステイタスが現出している。
ということに焦点をあて、
斉藤は、例えば「ホリエモン」のような、既成の破壊者が、その先に何を
創造できるのか、ということを、そして小泉氏が、破壊の先に何を具現化できた
のか、結局、何も生み出せていない、説明も出来ていない。
「意欲の壁という絶壁」「システムへの無力感」といった言葉で、根本的な
問題を提示している。

笑えるのは、森永氏と最後まで意見がクロスしなかった対談者、二神能基(NPO
法人 ニュースタート事務局 代表)などは、若い世代に「社会力」が弱い以上、
格差なんてどうでもよくて、もともと、日本のシステムに「乗れない」以上、
自分たちの「社会」を創生することが、大事。
いっそなら、相互パラサイト的な、「自分たちのしのぎの場」を作ろうと
行動をおこしています。

ある意味、長い不況があったという事実。
業界の再編があった中で、市場の縮小があって、
あのバブルといっても、不動産、広告、情報誌などの関係が賑わっていました。
製造関係は、農林水産関係は、おおよそ、凋落をしていった事実は変わりません。

ヒルズ族といっても、その数はわずかです。
年収700万円を超えると、所得収入、全体の7%以内に入れる、高収入者です、
それは、15年前に特集された記事です。 
自分が思うに、所得配分の平均は、あの10年前を除けば、あまり変わっていない。
ただ、不況の際、放出されてしまった、高年者。
そしてフリーターとして生きてしまった、35歳前後の労働者。
もっとも、「格差」を直撃しているのは、実感しているのが、この層だと、
思っております。

ちょっと、備忘録的に書いてしまいましたが、お奨めの本です。

一流と呼ばれる人たちの本

2006年09月05日 | 本・映画
「泣き虫」金子達仁著 幻冬舎文庫刊
この本で描かれている高田延彦。知っている方は、もう、私なんぞが語ることを
許さないくらいに、ご存知の方がいる一方、
知らない方は、脳裏に、ああ、スポーツ新党で、参議院選挙で落選した人、
程度の方も多いと思います。

自分にとっては、マニアックでもなければ、さりとて無関心ではいられない人物
として、高田には、興味がありました。
だって、以前住んでいた住居の近くに、「高田道場」があるんですもの。

個人的には、プロレスがリアルかショーか、なんてことで、このことが、
長らくタブーだったなんて、実はどうでもいいことです。
自分にとっては、アスリートが、いわゆる一流と称されるに至る過程で、
どこぞの「山にこもった」とか、そういうことではなく、
何に直面して、何を選択して、何を糧にしたか。
そして、どのように思考したのか。

あのヤンキースの松井選手は、ある時期から、「人のせいにしたことがない」と
仰っていました。
安易かもしれませんが、一流といわれる人の大部分は、
傍から見ると、自力で苦難を乗り越え、さらに恵まれた才能を存分に発揮して
という感じに受け取られますが、
どの世界でも、一流、これは、なかなか、そう、輝けるものではありません。

天分の才をお持ちの方は、五万といらっしゃいますが、
よく言われるように、昔神童、今凡人ですか?確かに天運もあるかもしれない。
ただ、一流と称される方々。
この方々について書かれた本やら、ルポを拝見すると、
本当に、一瞬一瞬までを、克明に言葉にすることができている。

まどろっこしい書き方をして申し訳ないですが、
よく「経験」する、という文言を、我々は普通に使っていますが、
どこぞに行ったから、とか、何をしたから、何を見たから、
そういう単純な作業だけで、案外、満足げに使っていますが、
多分、経験って、そういう単純なことではないと、考えております。

私なんぞ、この平凡な日常、仕事を通してであっても、
何かの出来事に直面した場合、
本当に、誰々のせいにしたら、何々のせいにしたら、そういう
思考ルーチーンの「オフバランス」をしたら、どれほど楽か。
しかも、こういう人が、結構多い。

本当は、その瞬間、瞬間に、取れる選択肢やら、考え方、様々にあるはず。
当然、それを通して、出た結果であれば、例えば何もしないも含めてですが、
まじっすか?や、やったーも、客観的に振り返ることができる。
自分が主体的に関わったこととして。
多分、それが経験だと。

だから、人と話をしていて、「あれはねぇ、あいつに騙されたんだよ」とか、
「あいつが鈍いせいで、逃しちゃったんだよ」という語りがでてきた時点で、
もう、この人は、終わってんな、と、考えること、しばしばです。
以前、こういう方に、意地悪く、なぜ、どうして、どういうこと、と追い詰めたら
結局、なんでこうなったか、全部、憶測で、主体的に参加していない。
単に、おこぼれをいただく状態でした。

ごめんなさい。長々と。
経験するって、多分、簡単なことから、複雑なことまで、予期できぬことまで、
間断無く、考え通すこと。
取れる選択肢を、結果的に、増やしていくこと。
それは、出た結果に対して、検証ができる、それに他ならない。

ああ、また七面倒くさいことを、書きなぐっていますが、
書き手である金子さんが、「どうしてそこまで高田さんは、話してくれたんだろう」
という表現を、あとがきに書かれていましたが、
本気で経験してきた人は、6年前の配球やらスコアー、驚くことによく知っている
抜群の記憶力だ、なんて言われ方しますが、
話をすることが、間違いなく、できる。

自分は、一瞬一瞬、向き合って、ちゃんと考えているんだろうか?
後に、検証を交えて、言葉にすることが、できるのだろうか?
「あれは、なし!」って、投げちゃっていることが、山のように多いのでは
ないだろうか。
いつも、こういう本を読むと、そう自問してしまいます。



ヒトラー最後の12日間を見ちゃいました

2006年09月04日 | 本・映画
自宅のパソコンが、これは、もう末期だな。
修理に出そうか、どうしようか、相変わらず、本体が温まってくると、
突然、「7」という数字が、連打され、当然、何も書けなくなってしまう。
イッツアソニィー。これで、最後まで使えなかったパソコンは、3台目。
もう、ソニー、止めようかなぁ。

DVDで「ヒトラー 最後の12日間」を見ました。
あまりにも、役者さんの顔が似ていたし、ドイツで作られた映画だと聞いていたので
どういう描き方をしているのか、興味があったからです。

2時間半という時間の中で、最後まで地下壕で、共に過ごした秘書の話から
まとめあげた作品です。
というわけで、これ、ドキュメンタリーです。
これも映画というんであれば、そうなんでしょうが、
この手の映画って、内容が内容だけに、作り手側も、見る側も、難しいことは
間違いありません。

正直言って、戦争末期のドイツの、ぼろぼろの中枢がよくわかりますし、
何を信じていいのか、信ずる術も、人間もいなくなってしまう、そんな連中の
大混乱が、やっぱり戦争の「みじめさ」や「不毛さ」を明確にしています。
攻め込まれるドイツ。
イスラムの世界でもそうなんでしょうが、ろくに経験のない若い、もしくは子供が、
戦いの場に狩り出され、倒れていく事実は、多分、どこでも「ありうる」事実、
なんでしょう。

映画として面白かったかと言われると、ごめんなさい、です。
だんだん、彼をとりまく人間が、そう、何だか、彼に寄り添うことでしか、
能力を「誇示」できなかった連中が、自暴自棄になったり、酒におぼれたり、
また、本当に能力があったり、国民を考えたり、講和を説くものが排斥され、
そういう流れが、よくわかるんですが、
そう、ただ、ただ、その経過を押さえているだけなんで、
最初、そっくりさんを集めた、ドキュメンタリーかと思ったくらいです。

ただ、ドイツの戦争への捉え方と、日本の責任論は、全く別レベル。
ドイツは、もう、完全にヒトラーの個人的な責任に持っていっております。
国全体が洗脳されていたんですよ、という感じになっての戦後処理と聞いています。
だから、「相続」はしますが、国民に責任はないんで、謝らないよ、という
スタンスです。

そういう意味で、淡々としたこの12日間を描くことが必要だったのかなぁ、
と考えもしました。
それは、最後に、この秘書に、エンドロールのところで語らせます。
私は、ユダヤの人間を虐殺していたことを、最後まで知らなかった。
もう少し早く気づいていれば、と言わせておりますし、
登場した主要人物のその後を、データとして紹介もしております。

言うなれば、どこの戦争にも公正な「正義」は、存在しません。
オリジナルな「大義」だけが、何かをバネにして、熱狂させていくもんだと。
勝った国も、負けた国も、それこそ、国民もマスコミも、
どうにもならない、贖罪を抱えてしまうことは、避けられないはずです。

それよりも、むしろ、建設的に、国家間の利害関係を作り上げるためには、
過去の歴史を声高に叫ぶよりも、追い込まれた感覚やら、罵倒され続けられる
精神状態は、この国の人間に、何かの「バネ」を与えかねることは、
決して得策ではないと、思うんだけどなぁ。
そんな、不毛で悲惨な戦争映画を、見た感じでございました。

ええ、前にも書きましたが、映画の評論なんて、能力不足です。
だって、この後に見た映画。「ブレイド3」でしょ、「笑いの大学」ですもん。



歴史はどんどん面白くなる

2006年09月02日 | 本・映画
いつもお世話になっているブログ、ば○こう○ち納得いかないコーナー
の「婆さん、あの猫はきてるだろうな」で紹介された本です。

「なぜ偉人たちは教科書から消えたのか」河合敦著 光文社刊

どうやら、あの当時習った教科書。変貌を遂げているようです。
本の中でまず取り上げられている人物。
聖徳太子、源頼朝、足利尊氏、武田信玄、西郷隆盛の「絵」。
今では、信憑性が疑われ、「伝」と紹介されるか、もしくは消失しているそうです。

教科書は、学会やら発見やらで、新事実が判明しても、なかなか反映されない
ことで有名でしたが、この数十年で、随分書きかえられた感じになっているようだ。
昨今の「教科書採択問題」などで脚光を浴びているのは、近現代史。
そうはいっても、実際、授業時間内で教え切れているのかしら?って感じな所。
でも古代、中世、そして江戸時代までは、テレビでもお馴染みの「主人公」
が出てくるので、身近ですし、授業で、案外カバーされている。

特に聖徳太子像なんか、紙幣にもなっていたんで、「鉄板」かと思っていましたが
なんのことはない、100年後に書かれたもので、そもそも、聖徳太子自体、
「想像の産物」?てな具合にもなっているらしい。
まったく、知りませんでした。もちろん「聖徳太子はいなかった」というタイトル
の本を書店で見かけますが、へー、なんて感じでしたが、
これからは、もっと、注意するようにいたします。

歴史上の人物などは、後世に、脚色されたり、ありもしないヒーローに描かれたり
「時代物」として、結構刷り込まれておりますが、
実像を知っておくのも、悪くは無い。

例えばここで紹介されている「吉宗」。
ギャンブルでは、大変お世話になったというか、人生を誤ったというか、置いといて
暴れん坊将軍でお馴染みですが、この方、もともと、将軍になれるような立場の
方ではなかったということ。
吉宗は御三家の一つ、紀州藩徳川密さだの四男として生まれるが、母が「身分賤しく」
紀州藩主にさえ、なれる可能性もなかった。

ところが、なんでか、兄達が、次々と死んで、紀州藩主の地位が「転がり込んだ」
さらに、七代将軍家継が幼少で没した折、御三家の筆頭の尾張藩、そして水戸藩を
押さえきって、まさかの八代将軍になったという。
さすが「御庭番」の創始者。
とはいえ、享保の改革やら、紀州藩の財政改革など、成した功績は燦然と輝く。
長い徳川治世。8代目といえば、なんだか、中だるみの頃。
御三家というシステムが、「徳川」にとって、上手くいったともいえるのではないか。

この作者は、現役の高校の先生です。
依拠する内容は、実際使われている高校の教科書を参考にしております。
特に江戸時代、あの「犬公方」だとか、50人以上もの子供を作ったなど、
散々なイメージしかないんですが、綱吉。
どうやら最近では、画期的な社会福祉政策を営んだ将軍として書かれているようですし、
田沼意次でさえも、「賄賂政治」などと言われていましたが、
積極的な重商主義、対外政策の手腕が評価されているようです。

これからも、様々な研究が進むうちに、色々な面が評価されたり、疑問をもたれたり
教科書も変わっていくのでしょうか。
一時の、妙な構造主義ぽい書かれ方や、為政者と民衆の対立やらが、
色濃く記憶に残る、昔の教科書も今度、読見直してみようかと思う次第です。

仲正さんのエッセイって、大好きなんです。

2006年08月31日 | 本・映画
「なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論」 仲正昌樹著
 晶文社刊

最近、会社法関係、債権審査、調査、保全に関する本を読んでいたので、
特に、この場で紹介することはいたしませんでした。

そんな中で、半年以上も前に購入していた本ですが、ようやく読むことができました。
これは、意外にも、お奨めでした。
哲学・思想を総動員した、コミュニケーション論、を想定していたんですが、
中身は、仲正ワールド。哲学・思想の「エッセイ」です。

考えてみれば、哲学にしろ、思想論にしろ、人間が構成する「社会」というもの、
それをどういう風に、理解するか。
もっと言えば、個々の人間の生き方から、複数の人間関係に生じる様々な
利害関係、その大枠としてのコミュニティーから社会に至るまで、
どういう「理解」ができるのか、ということなんですよね?

当然、起こったことに対して、これから起こることへに関して、
利害がそこにあるから故に、コミュニケーションが生じるわけで、
この本は、それこそ、古から、最新の「論」を、様々にちりばめながら、
かといって、「高尚」ではなく、身近な、「低俗?」な出来事を通して、
本当に、本当にわかりやすく、書いてくださっております。

もう、弁証法ってこういうことなんだ、とか、ポストモダンってこういうことなんだ、
とか、構造主義って、そういうことなんだとか、
それこそ、事例が、身近な事なんで、想像以上に、理解が進みます。

あれですよね、いい加減な「使い方」をしている人たち、自分を含めて、
良くわかった風にして、意味を正確に相互で理解もせずに、論争をし合うと、
こじれますよね。
喧嘩になりますよね。
誹謗中傷合戦になりますよね。
人格攻撃になりますよね。

その当事者になってしまった仲正さん。
もう、全編を通して、論理的に、解説をしていかれます。
実名入りです。

右翼、左翼といった、なんだか不毛になっている論争も、2項対立といった
観点を通して、もう、なるほどなぁ、と理解できます。

意外に、我々って、当事者になってしまうと、冷静になれない。
人の話を聴く、言葉の意味を正確に知っている、さらに、相手が使っている
言葉の意味を、相互で確認しあう。
そういう作業を通して、初めて、建設的で、実効的な会話が成立する。
なんとも身も蓋も無いことなんですが、
現在、こういうことが、ちゃんとできなくなっている。

話が通じないのは「当たり前」である。
頭の問題ではなく、そもそも、謙虚な誠実な心構えからして、
すでに崩壊している。
みたいな、言葉がかみ合ってないことに、いい加減気づけよ!
という、楽しい、罵詈雑言も、ちりばめられていて、一気に読めます。

学生にも、研究一筋で、一家言ある方にとっても、必読でしょうか?
様々な局面でのコミュニケーションに関して、
こんな言い方は、失礼でしょうが、
まったくもって、最良の事例集。そして解説書です。
僕は、とても参考になりました。

最近、気になっている漫画家さん。

2006年08月25日 | 本・映画
安達哲氏「さくらの唄」というマンガがございまして、
成人指定を受けているマンガです。
1種の学園ものなんですが、残っているイメージに「18禁」というものがありません。

お気に入りの田辺イエロオ「結界師」。
今週号で、「面倒だなぁ、思春期は....」っていうフレーズがありますが、
見てない人には、何のことだか、さっぱり理解できない書き方ですが、
なんか、くすって、笑ってしまうんです。

イブニングという雑誌で展開中の、日本橋ヨヲコ氏が連載中の「少女ファイト」。
女子バレーという高校のスポーツものですが、
かなり気に入っています。
本屋で第1巻が刊行されました。
が、横に「G戦場ヘブンズドア」という作品が平積みに。
3巻とも購入してしまいました。

一気に読む。
そんな時間がどこにあるんだ、という、当然のような突っ込みはさておき、
図らずも、何度か、涙腺がやられました。
そうはいえ、実は、どこがどうなんだ、と言われると、多分的確な説明ができません。
少女ファイトでもそうなんですが、この作者さん。
1コマの、いや、1ページ内の情報量が、なんか、ものすごく多い。

たいがい、若い時期は、臆面もなく、ナイーブで、軸らしいもんが無いから、
その都度、面倒くさい傷つき方をしてしまいがちです。
おまけに、それぞれが、それぞれの物語を欲しがるので、安易に手に入れたがり、
一方、物語を背負ってしまう若者は、切実な理解者が必要なのに、
それができるのは、残念ながら、その物語を押し付けた大人だったりします。

それらが、ごちゃまぜになって、それぞれが、ピンからキリまで、面倒な心象風景を
もっていて、依存しながらも、近寄りすぎて傷ついて、
明確な利害関係もないもんだから、落とし所もつかめなくなって、
色んな、今から思うと、なんだかなぁ、という経験を通して、
どうやら、自分も、相手も認識できる、そういう大人になっていきます。

それが、とっても、良くわかる。この作者さん。
僕にも、何でかわからない、そういう描写、あります。
ただ、読み通すと、なんでか、辻褄があって、すっかり、はまっている自分が
いたりします。

救いなのは、安達哲さんのもそうなんですが、ちゃんと、登場人物の面倒を
最後までみています。
有体に言えば、ハッピーエンドに近い幕引きをされています。
というか、ここまでの、経験をさせたんですから、
ひょっとしたら、自分よりも、経験達者で、能力高い大人になって当たり前です。

ちょっと、マンガについて書いてしまいましたが、
もちろん、解説するなんて、そんな能力、自分にはありません。
ファンの方には、先に(ああ、もう後だ)謝っておきます。ごめんなさい。
ただ、単行本の帯に島本和彦氏が、
「こいつらの情熱には背筋が凍りつく!漫画界が怖くて なんか逃げ出したくなって
くるぜ!!」とありましたが、おいおい、意味わかんないよ、と突っ込み入れときます。
ええ、島本さんのマンガも結構、持っています。ファンですよ。違った意味で。

激化する食料資源の争奪戦をダイヤモンドが特集

2006年08月15日 | 本・映画
買いっ放しだった「週刊ダイヤモンド」を読んでいます。
お盆とはいえ、銀行が開いている限り、会社に休みはありません。
15日ということで、朝から見る番組がありません。
どこをつけても、靖国、靖国です。
他の方のブログで引用されていた、東海新聞の記事。
  山崎、福田、加藤といった親中派が「十五日以外なら中国は問題にしない」と
  説得したせいだとは知りませんでした。なのにその通りでなかったことに激怒  
  したあなたは、いつか公約をはたす日をうかがっていたのでしょうね。
面白かったです。この記事。
  米国内からも非難があるとメディアは外圧を借りますが、原爆が「戦争を終結
  させるために必要だった」という国の人間にいわれたくはありません。

なるほどね。

さて、ダイヤモンドが特集していたのは、「危険な食卓」。
読むまでは、これを食べたら危ない!みたいなものかと思っておりましたが、
色々、踏み込んで書いております。
それにしても、毎度、毎週、よく色々と取材して、頑張っています。

目に付いたのは、「遺伝子組換え」に関して。
全体を通して語られる内容は、食料に関して、世界的に「供給不足」という
深刻な問題です。
魚類の買い付けですら、日本の独特な細かい仕入れが、諸外国には不評で、
世界的な魚食ブームの中で、「競り負け」続けている。
あの牛肉に関しても、アメリカは生産量より消費量が多く、知りませんでしたが
輸入によって、国内消費をまかなっている。
もう、日本に出さなくっても、いい、そういう事態になる可能性すらある。

もちろん、日本が好む「はらみ」「たん」など、アメリカでも、少しづつ、
需要が上昇しているという事実。
日本自体では、消費量のわずか半分が自給率である。

そんな中で、遺伝子組換えという作物。
諸外国と、日本では、根本的な意識の違いがあります。
日本では、人体への影響が重要視され、30年後、50年後、子孫の代に
どのような影響があるか、さらには、そういうメカニックなものに、
拒絶反応があります。

一方で、欧米では、遺伝子組換えの作物のほうが「環境に優しい」という
見方が主流だということです。
「農薬や除草剤の使用が3分の1以下に減った。手間やコストが削減できて
 今まで手が回らなかった環境対策にも着手できた」
「農薬まみれの従来の農法を続けていたら、将来よりも”今の生態系”が
 ダメになっていた」
という立ち位置です。

例の有機野菜がいまいち主流にならないのは、
もともと日本は、野菜類の生育に適さない環境らしく、農薬は不可欠らしい。
というのは、リンゴにしても、農薬を使用しない場合、
何かの害虫が発生した場合、そのエリアはほぼ全滅。立ち直るまでに、数年以上
かかる。そのリスクは、その農家を直撃する。

さらに、日本は特別なエリアを除いて、農業は、零細・兼業農家が主体。
法人格を認めていない。
そして消費者。
「農薬は減らせというくせに、青虫が付いていたという苦情の電話は頻繁に
 かかってくる」
「キャベツは包丁で切れば、染み出たキャベツの天然成分により断面が黒ずむ。
 なにもしなくてもリンゴは表面にツヤが出る。それらを農薬の影響と勘違い
 する苦情は多い」

農薬も嫌い、虫も嫌い、遺伝子組換えも嫌い。
一方的に安全とおいしさと安さを求める、野菜を知らない、知識の無い、
そんなエゴの塊の消費者。

激化する食料資源の争奪戦の中で、この特集は、日本の食糧安保問題の深刻さを
主眼にしている。
そのくせ、事の本質を無視した「報道」が、消費者の不安を増大させる。
そういう書き方になっておりました。

確かに、増え続けていく、アレルギーや疾患。
不安な要素は、いたるところにあって、情報は、洪水のように溢れています。
今日の新聞にも、折れ曲がった「うなぎ」の写真が掲載されておりました。
不自然に栄養過多になったうなぎ、ということらしいですが、
そうは「受け取れない」。そんな深刻な「妄想」がもたげてきます。

普段の日曜日でも、夕食時に、なぜかマックがファミリーでにぎわっています。
これが、夕食らしいです。
炭酸、がんがん、飲んでいます。
横で、親は、シェイク、一気飲みです。たばこ、吸いまくりです。
(最近は、禁煙時間帯があるマック、多くなりました)
昔、生理用品のCMで、使用した「色」が青。これは今も変わりませんが、
自分のと違うといって、「苦情」があったり、
例のおしゃぶりを5歳まで使用させ、歯の発育に障害が出たと言っては、
訴える親がいたり。

意見なり、消費者の声というのが、どこから、どういう人達からでているのか、
報道は、そういう意見を、フラットに紹介しすぎかもしれません。
視聴率、あがるからね。不満なり不安を煽るニュースは、飛びつきますよね。
自分も、色々な情報を、冷静に取捨選択できる、
そういう目を養うよう、気をつけていかねばならない、
そう考える次第でした。


ウェブ進化論を借りて読みました

2006年08月09日 | 本・映画
続けてで申し訳ないんですが、
さっきのスパイウエア。先日、トラックバックをはられ、
一応見ました。
するとどうでしょう。同じページが何度も何度もダウンロードされています。
画面上にそれが現れる、という方法ではなく、
「戻る」というスイッチを押すと、前の画面に、普通戻れますよね?

ところが、そいつ、そこに攻撃をかけるのです。
見ていると、戻るというボタンのプルダウンされた窓の中に、
あっという間。5個も6個も、そのページが別のアドレスで更新され、
結局、前の画面が、ひたすら、そいつオンリーに塗り替えられる。
希望している前の画面に戻れない、そんなウイルス?というか構造に
さらされておりました。
怖いよぉ。

さてさて、今でも、師匠であるKTさんから、参考資料として読まれていた
「ウェブ進化論」 梅田望夫著 ちくま新書刊
これを強奪の上、読ませていただきました。
ええ、マッハ読みさせていただきました。

KTさんもマッハ読みされたらしく、ええ、自分もほぼ同じ感想でした。
グーグル絶賛!といった内容でした。
確かに、このブログに参加させていただくようになって、
このネットワーク環境を、違和感なく利用させていただいておりますが、
当然、こういう環境に馴染みのない方もいらっしゃるわけで、
サブタイトルにもあるように、本当の大変化はこれから始まる、
というのも実感できます。

今まで、情報を占有していた人間が、初期利益を獲得し、パイオニアとして
またはリーディングカンパニーとしての名誉なり地位が与えられておりました。
そういう意味で、最近の情報は、昔ほどの「重き」を持たず、
ソースといった感じで、色々な関係の中の、ベースといったらいいんでしょうか
軽くはないです、重要ではありますが、もうそこまでの秘匿性もないし、
一つ持っていれば、エクスカリバーだ!なんて感じでもありません。

ソースを共有することで、そのソースを最大限の活用をして、
何かを実現していく。
ある意味、ブログなどは、玉石混合とも言われているが、
ソースを利用しながら、その表現力が試されてもいるわけだ。
そうして、多くの公約数的な作業の中で、全員が「果実」を享受できる。

多分、いろんな意味で、「進歩」「革新」は、相当なスピードになるだろう。
さらに、今まであった、地域やら地理的な要因すらも、超えていくだろう。
そういう予感が、実現されていくであろう。

自分も、言葉の阻害要因さえなければ、そういう世界にリアリティーを
感じるし、理解もできる。
英語、やっぱり勉強しようかなぁ。
とはいえ、グーグルが進める、情報の最大公約数的な処理の方法を
ヒューマンに頼ることなく、コンピューターに自動で処理をさせる。
人間の持つバイアスを排除する。
ええ、多分文句はないです。

でも、ヤフーのように、検索においても、人間の手を加えるという作業。
これも、実は、好きなんです。
ポータルサイトが、自動化され、個性というものよりも、最大公約数的なものを
尊重するのも手法ではありますが、
情報を個性的に取捨選択できる方法も、そういうポータルサイトも
できれば頑張ってほしい、と。

ああ、本の紹介なんですが、うーーーん。
ktさんも言っておりましたが、参考資料でした。
だって、書かれていること、大概は、皆さん、すでにおやりになっているんですもの。
それだけ、この環境の進歩の速度って、速い速い。

ただ、アメリカのブログですか?意見を主張することが彼らの「民族性」ですか?
日本の炎上とは違って、どうやら建設的なコメントの応酬とか書いてありましたが
そうなのかなぁ?
よくわかりません。


読んでみました。いわゆるA級戦犯の本

2006年08月03日 | 本・映画
最近は、様々な見解、立場の本を、ニュートラルな気持ちで向き合おう。
そう心がけ、読むようにしているんだが、
そもそも、知らない、不勉強なものに対して、そういう道理は通らなかった。

「いわゆるA級戦犯―ゴー宣SPECIAL」 小林よしのり著

これだけ盛んに議論もされ、報道もされている中で、タイムリーな本。
戦争論から始まって、靖国論、台湾論、沖縄論と、このあたりに来ると、
この分野の描き方は、追随を許さない。

どちらかというと、小沢氏に見られるように、戦争で戦死しなかったものを
祭ること自体がおかしい、やら、神道の意味も深く分からずに、
いわゆるA級戦犯を、そのままの字義で、なんとなく分かっていた風にしていた。
もう、読めば、売れている理由が良くわかります。

要するに、この国では、あの「戦争」を語ること自体、どれくらいタブーだった
のか、ということが、もの凄くよくわかります。
何しろ、この本で紹介された多くの「事実」。
僕は、知識としても、知らないことが多かった。
エピソード好き、トリビア好きの、「下等」な自分であっても、
何しろ、知らない事が多すぎる。

正直、東条英機、広田弘毅の紹介のところは、不覚にも泣けた。
当然ながら、東条の偏狭な性格も紹介もされていたし、もちろん、彼の結果的な
能力の問題にも触れている。
ここで、こういう言い訳がましく書くことで、自分の立ち位置の保全をしようと
している自分も情けないのだが、
素直に、彼の存在を「理解」することができた。

もちろん、この世界は、一つの道理が通るわけでもなく、
様々な、駆け引きが、その時点での「正義」ではなく、「道理」となって
表れる。
東京裁判の開催中でさえも、欧米のアジア侵略は、続いていたわけであり、
フランスに至っては、50年半ばまで、ベトナムを侵略続けていた。

戦争そのものと、歴史的な事象は、そろそろ、切り離して、考える時期が
きているのではないか。
小林も、何度か書いているようだが、この東京裁判。
この歴史的事象を、もっと、冷静に、客観的に、検証してみるというのも、
我々の「世代」だから、できるはずのことであろう。

そうしていくことで、対米、対中、対ソに関して、
そもそもの「国家間の利害」というものが、どれほど、考えていかねば
ならないか、それが、強くわかりもしよう。
いわゆるA級戦犯の中には、どうでもいい、対ソ戦で、当時の「ロシア」を
こてんぱに「外交交渉」で勝利した人間すら、「遡って」犯人に仕立て上げられている。

さらに、A級戦犯として、容疑にあげられた数多くの人間達には、
フィリピンの大統領ホセ・ラウエル、国民議会議長ベニグノ・アキノ、
ビルマ独立義勇軍司令官のオンサン少将の名も含まれていたそうだ。

ドイツとは異なり、単独の独裁者が、あの時代を「画策し」導いた、
そういう感じではなかった。
20もの内閣が、それ相応に、発足し、倒れ、ある者は銃弾に倒れ、ある者は
「ルール」に則った、倒閣を余儀なくされた。

火のついたような、マスコミと「大衆」。
独裁者が、戦争を画策した「連中」がいるものとして、戦利品を強奪するが如しに
降り立ったGHQ。
その、何もない、その事実に、慌てて仕立て上げた「犯罪容疑者リスト」。

なぜ、民衆が、その集合体である国が、あの時代を、ああいう形で、
進んで行ったか。
ただ単に、A級戦犯においてのみ、犯罪を立証しかねない今の風潮で、
なんら、歴史的な解釈が「免責」されるものでは、決してない。
本当に、今だから、もっと、冷静に、客観的に検証していくこと。
戦争と、歴史的な事象とは、切り離して、考えることは、必要であろう。

そうしていかないと、単に「靖国問題」が、一人歩きをして、
それで、何かが、全て解決できた風に考えることは、できなくなってるはず。
そういう問題では、決してないはずだ。



医療崩壊に関する本。学べます。

2006年07月28日 | 本・映画
正直、自分でも、どのように考えていったらいいのかわからない。
ただ、漫然と、不信感をもっている。
医療の進歩は、華々しく、一方で、この高齢者社会。寿命が延びる。
また我々も、この現代で、救われる若い命を、何度も見聞きしている。
高度医療は、生死の実態を、何か曖昧にもさせている気もする。

もちろん、深いダメージを与える「過誤」も多い。
残されたもの、未だその病から身を苛まされている者。
事が命に関わり、その人間の一生の問題にもなりうる、医療。
生半可な言葉で、到底語れるものではない。

医療崩壊―「立ち去り型サボタージュ」とは何か 小松秀樹著 朝日新聞社刊

小松氏は、虎の門病院泌尿器科部長という現職の方。
決して、医療側の立場から、一方的に書こうとしたものでもなく、
システムとして、どのように、「病」に立ち向かえるか、
具体的な事例をふんだんに、各国の現状を踏まえ、
現場の現状を細かく検証しながら、対策にまで踏み込んで書いておられます。

医療水準。この言葉ほど、この本を読んで、不明確なものはないんだと、
理解いたしました。
個々の人間の数だけ、症状があって、時代が進むほど、「病名」は加速度的に
増えていく。
一人の医者が、長きに渡ってその人生を歩む中で、過酷な労働時間の中で、
全部の医者が、同じ知識、技量を持ち合えるというのは、「幻想」である。

医療費抑制の為に、考えられないほど悪化した労働環境を強いられている病院。
離散する若い医師。「偽医師が年収2000万円」という報道の中で、
「病院」勤務者は、アルバイトをこなさなければ、家庭ももてない。
開業医を促進する「日本医師会」。

患者本意、医療費抑制の末、末期状態に陥った「イギリス」。
2000年英国犯罪調査によれば、看護従事者は保安要員についで2番目に
「暴行」を受ける危険度が高い。
患者と接する医療従事者は3殻年に一度は患者から「暴力」を受けている。
すでに「医師の士気の破滅的崩壊」が真剣に討議されている。
もちろん、看護士への成り手は、無い。

マスコミが「世論」という名の下に、システムに目をむけることなく、
医療過誤を引き起こした人間を「断罪」する。
深夜100もの病床で、2名の看護士。起こり得る「事件」。
捜査の名の下に、取調べと称して何日も身柄を拘束する警察。
多くの医療機関が、結果的に、医療過誤をシステム的に内包し始めている。

当然ながら、旧態依然とした「医局」の傲慢さ。
技量不足の医者。非常識な医療過誤。
救済されえなかった過去を持つ我々の怨念は、声を上げざるをえなかった理由を
持っている。
マスコミと警察による、現場「踏み込み」「犯人特定」。
喝采をあびることもあり、溜飲を下げることもあるが、
悲しい現実として、産婦人科、外科への成り手が、急減し始める。

あの「エイズ訴訟」。
安部被告、郡司被告を「悪の首謀者」として、断罪しまくった時期があった。
2005年に行われた「HIV感染症と血友病 回顧と展望」のシンポジウム。
東京訴訟の原告の中心であった川田氏。郡司氏。訴訟弁護団の徳永氏が参加。

 「産官学(産官医)が癒着して、エイズの被害が生まれた」という、いわゆる
 薬害エイズ神話は間違いであり、そこを乗り越えないと、真実も、今後に役立つ
 教訓も導き出せない、という点では、一致した。
 ジャーナリズムともども、犯人探しに終始してしまい、今もその後遺症が残る。」

厚労省も、専門的に「現場」を知らない。
ヒステリックな「後遺症」を抱えて、非現実的な対策しか講じられない。
行政も病院も、末期症状を呈している。

思った以上に「医者」は窮地に立たされている。
社会に投げかける言葉も持ち合わせていない。
最悪のタイミングで、最悪の医療過誤が発生する。
どんどん「下僕」に成り下がっている、士気が下がっている。
まるで、今の教育現場を見ている気がする。

何が、公共サービスを劣化、破壊していくのか。
そのものか、ヒステリックなマスコミか我々か?
真剣に育てていかねば、単なる「利用者」として、目をそらしていくと、
「格差医療」の侵入は、多分、防げないであろう。

教育も、その通り、格差教育が叫ばれて久しい。
金のあるものが、そのサービスを、「正当な対価」という名分で、享受する。
医療も、必ずや、今のままでは、そっちへ行く。

意外にも、マスコミの報道のあり方が、この国の「何か」を劣化、破壊していく
そんな歴史に、我々は、立ち会っているのかもしれない。

あらゆる意味で、押さえておきたい「本」です。
ちゃんと対策も提言されていて、参考になります。お奨めです。


 

我々を構成する、最小単位の物質

2006年07月20日 | 本・映画
「はじめての“超ひも理論”―宇宙・力・時間の謎を解く」 川合光著 講談社現代新書刊

以前、エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する という本を、
本当に、根性を入れ、絶え間なく訪れる「意識の飛び」を振り払い、最後まで
読んだことがあります。

正直、目で、イメージで理解することが、難しい世界であります。
何しろ、一方で、150億光年という、とてつもない規模が片方にありながら、
この宇宙の仕組みは、真逆。原子のさらに小さい構成物質の追求。
これまたスケールが、全然イメージできない。

考えてみると、この人体。何でできているのか、と考えれば、「細胞」とまでは
普通答えられますが、その細胞の構成はどうなっているのかにかかると、
途端に、怪しくなってきます。
この学問は、そのさらに深く、そもそも、この我々の世界を構成する最小単位は
なんでしょう?というところまで、やってきます。

それこそ10のマイナス33乗とか44乗とか、「見えるのか?」という
世界です。
まさに「超ひも理論」の前段階において、謎だらけなんです。
そうして、得られるものは、その最小の物質が、どうやらひも状の物質だと、
いう話で、あらゆる方々が、まさに物理学、数学的な「検証」作業をして、
その結論にたどり着いております。

そういう物質を特定することで、もう少し大きめの、確定できる物質の動きやら
作用やらの説明がつく。そういう話しなんです。
僕は、てっきり、ひも理論。ひも状の何かという、ある種のイメージだと思って
いたんですが、ひも、だそうです。
これが輪ゴムみたいになったり、激しく動いたり、一本になったり、
その存在自体が、考えてみれば当たり前なんですが、時間とイコール。
プランク時間とかそうも呼ばれているものを「生み出します」。

ただ、中盤から、数式的な解釈に突入いたしますので、泣く泣くギブ寸前。
だって、この「ひも」が、または、真空の空間にある「エネルギー」が、
とか言われても、「数式的にきれいに検証されます」と言われても、
もう、なにがなんだか。

しかも「そいつ」が、いわゆるビッグバンですか、この宇宙の始まりを作り出した
「素」といわれても、なんだか、声を荒げて「何が!」と言ってしまいたく
なる衝動を抑えられません。
4次元までは、到達可能な領域ですが、10次元となると、無理やり「感じこまなければ」
この頭では難しいです。さらに、「ほら円筒形の中に、6次元を丸め込めば、
4次元として、現象を理解できるのです」といわれても、
またしても「何が」と頭が言葉を荒げています。

この手の本としては、実は、大変読みやすく、著者自身、まさにオンタイムで
研究をされていて、話し方に躍動感が漂っています。
書き方も、いやいや、かなり上手い。これほどの内容ですから、ひょっとすると、
普通の人より、「言語能力」が発達しているからかもしれません。
でないと、ともすれば、「哲学的な内容」と揶揄されるテーマですから、
話し方が下手だと、もう、聞いている方は「悶絶」です。

それにしても、多分、これが「ひも」だ!なんて、見ることはできないんだろう。
我々は宇宙の果てを見ることができないように、我々の構成物質の最小単位ですら
見ることが出来ないんである。
それはそれで、もの凄い、不思議なことだと、思いませんか?

科学物の本。続けて読んでいます。

2006年07月18日 | 本・映画
「人体 失敗の進化史」 遠藤秀紀著 光文社新書

  ホモ・サピエンスの短い歴史に残されたのは、何度も消しゴムと修正液で描き
  換えられた、ぼろぼろになった設計図の山だ。その描き換えられた設計図の未
  来にはどういう運命が待っているのだろうか。引き続き、描き換えに描き換え
  を続けながら、私たちは進化を続けていくのだろうか。

このような説明にひかれて購入いたしました。
この地球の歴史の中で、針に糸を通すような、か細い命の道筋。
幾多も表れた、古代における生物。
様々なデザインを持っていました。
結果的に、人類への端緒を導いた「生物」が、あったからこそ、今、ここに
我々がいるわけです。

このように考えると、恐ろしいくらい、途方も無い道筋です。
そういう全てを盛り込んだ本が、先に紹介した「人類が知っていること全ての
短い歴史」という本でした。
とにかく、あらゆる表現がユーモアを交えて、秀逸でしたが、
すいません。この本の著作者の、表現方法。
僕は、馴染めませんでした。

なんか、大仰な表現。別にそのことをそこまで、だ、とか、である、みたいに
言い切ら無くても充分理解できるのに、どうもそう、表現される。
例えば、「主はいま、首をあの憎きハシブトガラスに食されながら、黄泉の国から
静かに私を見上げている」
なんて感じで、死んだタヌキについて語り始める。

ある種、講談調の乗り。
解剖学者として、昨今養老さんが群を抜いて、様々に顔を出されているが、
この本。タイトルは、すばらしい。
もう、自分なんて、わくわくしながら読み進めて行きましたが、
これまた、ごめんなさい。
確かに、内容的に、理解もできますし、なるほど、と思う部分もありましたが、
「失敗」だったんでしょうか?この人間の設計図?

といった印象にはならないんです。
むしろ、我々が持っている、この人体の設計図。
とても不思議?理に適っている?それよりも、こうなる必然があった?
失敗というより、驚異?みたいな感じの方が素直に取れてしまいます。

もともと「あごに」使われていた骨が、耳の骨の一部に持っていかれる様子は、
「ありもの」の骨やら器官を、モディファイしながら、別の用途に
使用していく、進化の不思議。
人間の内臓ですら、左右対称ではないのは、浮き袋みたいなものを、
陸肺用に転換するうちに、血液のポンプである、心臓のかねあいもあって、
どうやら「対称」にならなかった、という説明。

すごいな、進化って。とこう感じてしまうんですが。
鳥は、恐竜族の後輩。という説も、色々聞いてはおりましたが、
進化を、「設計図」という観点から読み込む作業は、
とても面白い発見でした。

他の本では、デザインという表現をよく見受けますが、
もっと言えば、遺伝子ですよね。
最終的には、その、あんなに「小さい」遺伝子。
これが書き込んでいる「設計図」の途方も無い世界に、驚嘆せざるを得ません。
長い時間の中で、どのような組み換えがおこり、「適用」が生じ、
あるものは、羽になり、鰭(ひれ)から手が、足が生じ、目が生まれ、
今、我々はここにいる。

この設計図は、もちろん最終形ではありません。
この先、我々の設計図から、どういう生物が「可能」なのか。
それとも、我々の「種」は終了なのか。
考えが尽きない話題でございます。

ネアンデルの読みやすい本です

2006年07月07日 | 本・映画
なんだか、一日中外で仕事をしていたような感じ。
携帯で記事を書く方法なんて知らないし、指が「太い」んで、
携帯で文字を打つことなんて、面倒くさいし。
モバイルのバッテリーなんて、古いから、10分しかもたないし。
仕事、本当に、始まるのかしら? うふ♡(へー、こういう文字、出てくるんだ)

「ネアンデールタール人の正体 彼らの「悩み」に迫る」 朝日新聞社刊

 内容紹介
 かって地上には。常に2,3種類の「ヒト」がいた。
 新しい人類が現れては消えていき、その数は17種類にものぼる。
 その唯一の生き残りであるわれわれホモ・サピエンスを除いて、ヒトはすべて
 地上から姿を消した。

昔、教科書で、このネアンデルタール人。アウストラロピテクスとか、北京原人
とか、その次のホモ系統として、一歩手前の、進んだ人類として書かれていた気が
する。例えば、屈葬とか、花を添えられていたとか、集団で生活していたとか、
道具、火を使っていたとか。

我々の直系は、どうやらクロマニヨン人。ネアンデルタール人は、途中で分岐した
違う「種族」なんだそうである。
そして、なんだか、ヨーロッパ地域にしか、その存在は認められていない。
知りませんでした。世界中にちらばっていると、思っておりました。

この本は、平成15年に開かれた、公開シンポジウムに参加した11人によって
書かれた本で、とても読みやすい。
とにかくネアンデルに興味がある方に、うってつけ。
って、なかなか、そんな人、いませんよね。私だけかしら。

先に、ネアンデルを題材に書かれた本を取り上げましたが、ある意味獰猛果敢、
しかしコミュニケーションは、なんとテレパス。科学者が、その「脳」の秘密を
解明すべく、捕獲、研究!といった中で、人類学者が知らされずに派遣される。
そんな内容だったかなぁ。

前に読んだ本に書いてあったが、その「人類」の化石。つまり骨。
ほとんど残っていないんですって。
世界中で集めた骨。今でも、トラックに一杯にならないんですって。
ましてや完全な1体。骨数にして、200本近くの完全体は、1体もないそうです。
だからその作業たるや、貴重な骨に、何を語らせるか、すごい大変。

DNAを解析するも、これも採取できるのも、最新の技術を駆使してで、やっと。
炭素の半減期を使った年代測定法も、人の息やら、触れた人間の手で、
簡単に「汚染」されるという。

そういう「根気」がいる作業を通して、この本では最新の情報を満載。
分野別にして、各単元ごとに、このネアンデルを多角的に解説しております。
結局、謎は、なぜ、忽然と姿を消したか。消さねばならなかったか。
クロマニヨンによって、消されたのか。
共生はできなかったのか。種の混合はなかったのか。
今でも、いくつかを除いて、「解答」はでておりません。

ただ、その「脳」の機能、構造。これには、興味を覚えました。
まがりなりにも、人類と称される種類の中で、ネアンデルは脳の容積も大きく、
前頭葉もかなり発達していたことがうかがえ、知能が認められているらしい。
彼らは、そうはいっても、集団生活、社会コミュニケーション。
これは現代人とは異なり、そこまでの「協力」体制型ではなかったらしい。

以前、どこかの地域に住む人達が、草、木に関して、驚くほどの区別ができる。
何百種類にも名をつけ、用法も知っている。そんな内容を読みました。
ネアンデルも多分、そういう「図鑑型」に近い知能という話し。
他者とのかかわりの中で、人を動かしたり、上下関係、時間的な関係など、
そういう「物語型」ではなかった、と推定しております。

脳は、時代が降りるにつれ、容積を増やしていきます。
そのため、個体は出産時、ますます不完全体で世に出てくる。
それをネオテニー化として解説しております。
脳の成長が遅い、体の成熟度も遅い。
ネグロイド、コーカソイドときて、1番最後に枝分かれしたのが、モンゴロイド。
よって、モンゴロイドがその未熟型?幼児化?つまりネオテニーが微分的に進んでいる
なんてことまで、話を進めている部分もありました。

つまり、言語を操りながら、社会性を獲得していくということが、
卵が先か鶏かではないですが、現代人が獲得した、スキルということ。
これによって、脳がますます「進んでいく」という流れでした。

その中間地点にいたネアンデル。
言葉は、そこまで話せなかったらしいんですが、
だって、人って、考えてみれば、数種類しかないというのが、そもそもおかしいよね。
なんだか、たくさんいたみたい。
たかだかネグロイド、コーカソイド、モンゴルと3種類でもごたごたしてんのに、
10種類くらいいたらどうなっていたのかしら。
そういう意味でも、ネアンデルタール人には、近い種として、興味がわきます。
雪男伝説?どうなんでしょうか。