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まなびの途中

色々な仕事をしてまいりました。
色々な出会いがありました。
勘違いもありますが、
学んだことを書いてまいります。

人類が知っていることのすべての短い歴史 を読む

2006年06月28日 | 本・映画
まだ全部読み終えていないんだが、間違いなく、自分の人生で5本指に入る本。
面白い。子供に、必ず読ませたい。

「人類が 知っていることすべての 短い歴史」 ビル・ブライソン著 NHK出版

600ページを超える厚さで、図面の1枚もございません。全て文字。
なのに語る内容は、現在に至るまで、解き明かされている、地球上の物理、化学、
地質、天文、あらゆる分野。
著者は以前ここでも取り上げた、消えゆくダイナーなどで御馴染みのコラムニスト。
旅行記などで、ベストセラーを連発。サイエンスは、まったくもってのお門違い。
その方が、実に3年。何も知らない素人の「なぜなに」攻撃に、
忍耐強い「専門家」達を巻き込んで、書かれた、実に壮大な書物です。

立ち位置は、なぜ海の塩分濃度が一定なのか、なぜこの先もっと塩辛くならないのか
それは普通に我々が気にしなくてはいけないことなのかとか、
原子は何でできているのとか、重さを量れるものなのかとか
天文学や物理で使われる「単位」。これに閉口してしまうとか、実に、我々に近い人間である。

その、親近感わく語り口。
彼は、ビックバンから始まる宇宙の謎から、知識の探索を始める。
今、常識になっている事柄についても、いつ、それが「謎」だと判明したか、
その謎に対して、どれだけ多くの、当時の一流の科学者、知識人たちが、
奮闘したか、真剣に間違ったことを主張していたか、命を削っていったか、
発見者が葬られていったか、出し抜かれたか。

当時の社会状況も詳細に描きながら、さらに、難解にさせている、科学、物理、
天文のあらゆる単位を身近に感じさせる表現方法、
例えば太陽系をとりあげて、
「現実問題として太陽系を一定の縮尺率で描くのは無理だ。地球の直系が
 えんどう豆くらいになる縮尺で太陽系を作図すると、木星は300メートル先
 冥王星は2.4キロ先になる」
「1個の原子の幅を1ミリにすると、1枚の紙の厚さがエンパイアステイート・ビル
 の高さに達する」

さらには、あらゆる文献から、偉大な人物をわかりやすく描写。
こんな人間だから、こんな発明が、などと、なんだか今まで何を習っていたんだろう
というくらい、色んな、元素の周期表のこととか、相対性理論のこととか、
一方で、鉛が万能の薬品として、フロンもそう、近代の歴史上、かえすがえすも
残念な発明品など、
またダーウィンが病的な「精確な数字」大好きな人だとか、(イギリスの田園地方
の土壌には、平均すると1エーカー当たり、5万3千767匹!の虫がいると
発表)ニュートンが文句のつけようが無い変人だったとか、などなど、
記憶に定着させることができます。凄い。

この手の内容の本。何冊か他の書き手のものを読みましたが、
文章がうまい、ということが、どれほど楽しく学べるかに直結する。
そしてさらに沸きあがる、なんて科学って面白いか。
科学と言っても、それは、とどのつまり、我々の歴史なんである。
一流の歴史の語り手から聞く話こそが、知的好奇心を膨らませる、
大きな事実なんだということを、この本をもって、再認識いたしました。

もちろん、現在最先端をいく「論理」なども、過去に、こういう人達の
こういう発見、間違い、そして発見を通して、謎を解き明かし、
今、こういう理論になっているを、時系列に沿って、理解させてくれます。
ひも理論とかいう宇宙の多次元の論理については、物理学者の口を借りて
「あれは哲学かなんかだろう」として、投げてはいますが。

ええ、子供に読ませたい、今、ナンバーワンの本でございます。

小泉さんの「源」を作った橋本さんの嘆きたるや。

2006年06月22日 | 本・映画
とても参考になる本を購入いたしました。
小泉さんが、なぜに、力を発揮できるのか、前から疑問に思っておりました。
派閥が力を失った、やら、慣例を破った人事だとか、今では当たり前のように
語られる内容ですが、あの自民党です。
何十年にも渡る歴史が、あの小泉さん一人の出現によって、
ぼろぼろになるわけがありません。

きっと、何か、武器を手に入れたんだ、と、こっそり思っておりました。

「首相支配-日本政治の変貌」 竹中治堅著 中公新書刊

非常にわかりやすく、そして読みやすく書かれております。
それぞれ個別の事象の評価は、各論、細かくあると思いますが、
現状を考察する上で、この結果は、この手に入れた、このシステムがあったから
なんだということが、明確に提示されていて、頭に入ります。

あの細川政権。あっというまに瓦解いたしました。
以前、成田 憲彦氏がお書きになった、「官邸」上下を読みましたが、
首相でありながら、何一つ、法案提出、改革をすることができない。
単なる「お飾り?」とまで、その無力さを感じましたが、
結局、攻防の末成立させた、小選挙区制度。これが、そもそもの始まりだった
ようです。

すいません、いつもいつも、なんだかここから始めると、素人ぶりが遺憾なく
発揮されているようですが、改めてこう読むと、そうなんだ!と合点がいってしまい
んなもんで書いているんですが......。

この制度によって、強化されたのが、「党の公認」。
中選挙区制度では、そこまで縛りがなかった。というか、気にもなりません。
が、ご存知のように先ほどの郵政民営化選挙では、この制度が「生死」を分けました。
一方で、小政党は存在意義が問われることになります。

さらに、政治資金規正法が改正され、献金も含め政治家の集金力が著しく低下、
党への助成金がそれに代わる事になると、「金の切れ目が縁の切れ目」通り、
幹事長に、その力が集中することになる。派閥の弱体化が促進。

そして橋本政権下での「行革」。
彼は内閣機能の強化を腐心する。重要政策の発議権。政策立案権。内閣官房の
強化。内閣府の設置。財政諮問会議の設置。
なんと、今やさんざん、叩かれまくっている橋本さんの行ったこと、
これ全部、今の小泉さんの「力の源泉」になっているではありませんか。
さぞや草葉の陰から.....。生きてますって。

そして、党の総裁を選ぶ際に、各自民党県連に「投票権」を与えたこと。
この総裁公選は当初、各県連代表者の47票が付加されただけであったが、
小泉さんが選ばれる時点では、各県連に3票が与えられていた。
このことによって、従来の派閥の首領が総裁になるシステムが瓦解することに
なった。
細川首相以来、マスコミをいかに味方につけるかが、そして国民から支持を得られるか、
さらに、この党首で選挙を戦えるか、が最も重要な案件になったからだ。

当然、地元の自民党支部は、実務、能力、そんなことよりも、「国民」が納得しない
ことが最重要課題となり、小泉氏の当選を押し上げたのは、ご存知の通り。

そして財政諮問会議が協力な武器となる。
ここで話し合われた内容が、各省庁の思惑を超えて、政策に、予算にかなり
影響力を及ぼすことになる。
あげく党の総務会の了承をえることなく、なんと、閣議決定しただけの法案が
国会に提出されることになる。
かの有名な郵政法案であった。

あの大蔵省を解体し、金融庁、諮問会議と政策立案監督と、その権力の大部分を
奪ってしまった橋本さん。
これによって、官僚の呪縛からもある程度、小泉さんはフリーとなる。

ええ、かなり得心いたしました。
昨日取り上げた法案に関しての記事ですが、「閣法」が事のほか、多い。
しかも成立しまくっているではないですか。
考えてみると、恐ろしいくらいの「権力集中」です。
何しろ、解散権、そして公認権、人事権を完全に掌握しておりますから、
総裁は党を意のままに操ることが、結果、非常に可能になったということです。
もちろんこれは、そのほとんどを作ったのが、かの橋本さんです。
さぞ、草葉の......。

ただ、参議院だけは、この状況からフリーです。
だって解散権もないし、6年の任期が保証されておりますし。
だから青木さんが、唯一、小泉さんと渡りを付けられるって寸法です。
よって、俄かに、参議院の重要性が高まってきた、というのが最近の傾向だと
この本で書いておりました。

いやー、非常に助かりました。
きれいに、くっきりと、学ばせていただきました。
ありがとうございます。


ダビンチコードの映画を見る

2006年06月19日 | 本・映画
映画「ダビンチコード」を拝見いたしました。
以前、前売りを購入するとプレゼントがつく。
この手のものに弱い一族としては、ペンライトみたいなもので、
壁に投射すると、あら不思議、モナリザが浮かび上がる! 素敵!
買わないわけが無い。もう、映画の良し悪し以前の問題で、何がプレゼントかが
購入動機になってしまう、映画を語る以前の問題を抱えている人間です。

簡単に言うと、そこまで酷評されるほどは、悪くなかった。
ただ、あのボリュームを映画用に2時間ちょっとで「再構成」するのには、かなり無理が
あったんではないか、というのが見て取れます。
そのため、大筋はそのままなんですが、人物の描写がはしょってあって、
それがストーリーの重厚さを軽くさせています。

ミステリーであって、サスペンスであって、当然、人が死んでおります。
主人公は事件に巻き込まれる。
その中で「脅威」となっている「悪」の方。
これがまったく、はしょられていて、脅威感がありません。
特にシラス。原作では生い立ちから、神に救われ、その教えを「実践」するまでの
ある意味彼の人生で背負わされている「業」や「感謝」など、
そのバックボーンが詳細に書かれております。
ですから、ただ指令に従って「淡々」と人を殺めていくなんてことはなく、
生への実践が見て取れるので、なおさら、脅威者として伝わってくるものがあります。

これがないと、主人公への危機感が、どこに存在するのか、ただ単に、警察に
追われている格好になって、ドキュメンタリーになってしまいます。
そして、その彼らを追うファーシュ警部。
原作では緻密、そして自信満々な野望をもった冷酷完璧な描き方をされていて、
その彼の野望にも主人公が翻弄されていく、そんな感じでしたが、
その役をされたジャンレノ。すいません、お好きな方には大変申し訳ないんですが、
適役ではありませんでした。それに映画では、異なった役割になっていましたし。

そしてそして、ソフィー。
もう一人の重要な主人公?なんですが、しょうがないですよね、時間が足りない。
謎解きの様々な部分で、大いに活躍するんですが、
映画では、ラングントンに頼りっぱなし。
最初は、単に身内が殺害された関係者で、ラングントンに頼りっぱなしで、
色を添える程度にしかみえません。

その途中で頼ることになった、サー・リー。
ちょっとした、偏執的な感じがなくって、普通の金持ち、物知りおじいさん。
後半で明らかになる、物語への関わりが、これまた軽くさせております。

そういう意味で、この映画を拝見したことで、
結構原作は、よく作りこまれていたんじゃん。なんて、再確認してしまいました。
人物の練り上げ方。こういう地道な作業が、物語に深みを出させるんだと、
今更ながらに考えてしまいました。
そういう意味で、映像って、結構難しいもんなんだな、と理解できます。

ただ、テンプル騎士団の墓やら、ニュートンの墓?など、どれもこれも、
映像で見ることができ、勝手ながら、非常に興味深く見ることができました。
ものぐさな自分にとって、こういうのは、たまりません。感激。
こういうのも映画の醍醐味です。
過去の歴史映像も、ありあわせの映像ではなく、あれ、ちゃんと作ったんでしょ?
エピソードで挿入していましたが、あれは、なんだか、しっかりとお金が
かかってる気が致します。

今回の感想としては、このようなものですが、総合的にみて、
ストーリーとしてよりも、ミーハー的な感性で、とても楽しく拝見いたしました。
間延びもしていないし、テンポもよかったです。
大変なご苦労を感じてしまう、そんな映画でした。

アメリカを知るには、とてもよい本です。

2006年06月14日 | 本・映画
福井日銀総裁が村上ファンドに投資をしていたという件で、大騒ぎ。
株価下落の要因の一つとまで言われるに及んで、辞職すべきだ、なんて話しに。
でもねぇ、運用を任せていただけなんで、日銀総裁まで勤める方なんだから、
こういうのに疎いはずはなく、やるよねぇ、普通。

むしろ、個人名を出さずに、関連会社を使って、投資を繰り返している人たち。
そして、法案なり、都市計画を事前に知ってさぁ、
利益をあげている人達。
この方々のコンプライアンスを、マスコミは追求したほうが、もっと、面白いのに。
壮大なる、「超」インサイダーなんだけど。
そういえば、「談合」なんかも、「超」インサイダーシステムなんですけど。
こういうのって、誰も指摘しないんですけど。

ビル・ブライソンさんという方が書いた本を読んでいます。
エッセイなのかな?コラムニスト?
「ドーナッツをくれる郵便局と消えゆくダイナー」というタイトルです。
本当は人類が知っていることすべての短い歴史 という本を購入したついでに
買った、同じ作者の本です。

もともとアメリカ人ですが、イギリスに渡り、タイムズ、インデペンデントに従事
ベストセラー著作物をものにして、アメリカに「帰国」。
アメリカ人なのに、イギリス人が見るような感じで、アメリカを書く。
いや、面白いです。笑えます。どこの国の方でも、文章が上手い人って、凄い。
訳者が上手いのかなぁ。

そこでネタを引っ張ります。
アメリカって、へー、こんな国なんだって、ほら、自分好みのパターンでしょ?
こういう知ったかぶりみたいなネタ、好きなんです。

多くのコラムがあってどれも楽しめますが、
あれだけ大きな国。そして人も多ければ、様々な慣習やら問題もそれだけ多い。
そんな中で、融通の利かない「ルール」なども軽やかに触れています。

しかし、アメリカ人の規則に対する信奉はときに行き過ぎてしまうことがある。
たとえば、地域の水泳のプールには27もの規則が掲示されている 27も!
その中で私が気に入っているのは、「飛び込み板からは、一度の踏み切りで
飛び込むこと」というものだ。
困った点は、それが理に適っているかどうかはあまり問題ではないということだ。

またジャーナリストとして国への言及もかかせません。

ペンタゴンは湾岸戦争の際になくなった記録を取り戻すのにかなり手一杯な状態だ。
短期間ではあったが、血沸き肉踊る砂漠の冒険に関する200ページに及ぶ
公式な記録のうち、残っているのはたったの36ページだ。
どうやら、失われたファイルの半分は、湾岸戦争の司令部にいた将校が、
軍のコンピューターに何かのゲームをダウンロードしようとした際に、
誤って消してしまったらしい。これが作り話ならいいと私自身思うが、
残念ながらほんとうの話である。

こういう「まじ?」という話は知りませんでしたが、CIAは20億ドルもの大金を
投じてソ連の動向を探っていたが、ソ連の解体を全く予見できなかった、とか。
から始まって、FBIの機能低下を面白おかしく取り上げてみたり、
昨年、それ以上に驚くほど無能な集団があることが明らかになった、として
その集団とは、アメリカの保安官事務所である、なんてことまで、
その「稀有」な「業績」について、淡々と、不思議な描写で描きます。

さらには、平気で毎年、税金で推定1000億ドル(日本で言うと10兆円!)
申告も徴収もされないままで終わってしまう、官僚の「時短主義」を
からかってみたり、無駄を省こうとするその機関が、1億ドルの予算で
未回収の税金8億ドルを回収したのに、無駄な予算として、その1億ドルを
廃止した、なんてくだりは、なんだか、日本の社会保険庁の「事件」を
思い出したりして、どこも、笑えるなぁ、なんて。

そして日本でも話題になっている、食品検査に関しても、
「けちな政府が予算を出し渋っているために」あらゆるハイテク技術が
あるにもかかわらず、食品検査官はいまだに食肉工場のベルトコンベアーで
送られる肉を「目で見て」検査を行っている!
「すでにお気づきの方もいるかもしれないが、ここで問題は、
 微生物というのが、目に見えるものではないということだ」

いや、まだ読み始めて3分の1なんですが、
アメリカって、こういう国、という「面」があるんですね。
(危ない危ない、こんな国だったんだぜって、餓鬼みたいなこと言いそうに
なってしまいました。)
色々と「他国」にきっつーーーい注文を、出す割には、
これだけ広い国土に、これだけ多くの自治があって、そして小さな政府ですもの。
傍から見ていると、なんだか、とても大雑把で、愉快な国だって
この本を通して、親近感、湧きまくりです。
ぜひ、あの国に、どうしても我慢ならん!という方がいましたら、
ぜひ、お読み下さい。
アマゾンで約1ヶ月待たされて、届くくらい、手に入りづらい本です。
アメリカの本だもんなぁ。許す。

狂気の偽装を読んで、自分の不明を理解する

2006年06月13日 | 本・映画
勘違いしていたかもしれない。
あまりにも軽々しく考えていたかもしれない。
自分でもコメントできる対象かと思っていた。
心療内科、カウンセリング、最近とみに脚光を浴びている分野。
はっきりいって、これは無理だ。恐ろしく大変な分野だ。

「狂気の偽装 精神科医の臨床報告」 岩波明著 新潮社刊

タイトル付けから、帯のキャッチは、筆者が本書で述べている内容ではない。
編集が勝手に「創作」したものであろう。
確かに、昨今流行となった「偽装」は、タイトルとして「いい塩梅」かもしれない。
そして告発レポートでもない。

何が恐ろしいかというと、いわゆる精神病に対する処方、処置、
多くが未だ未解明なんだという事実。
脳のメカニズム、生理学的な臨床を含めて、こと、精神に関する一連の症例ですら
確実なことがわかっていない。
その現場では、多くの患者が、当たり前だが常識では推し量ることができない
「状態」で、助けを求めに来る。

治るというあてがあるわけでもない患者に対して、日夜、不断の努力が繰り広げられる。
薬でしか軽減できない症状。本人の意思を「ケア」するなんて、
他人事のようにのん気な現場はそこにはない。

何かに落とし前をつけたい。納得したい。理解したい。
だれもが普通にたどり着きたい道筋だ。
だからマスコミが、安易に「PTSD]やら「ゲーム脳」やら「トラウマ」など、
我々がそうだよねって、思いやすい流れにもっていくのは、理解できる。

が、これが何を増幅させるかというと、いとも簡単に、この症状を何かの責任に
転嫁させやすくしてしまっている、という現状だ。
誰もが、家庭の所為にしてしまえる。誰もが、親のせいにできる。
こうなったのは、あの時のあれが原因だ。
そして、まったくの一般人が、「精神的な病気」に逃げ込む。依存する。
自分の語り口を、ここに見出し始める。

昔から、精神的な症状は、どうにも困難な「医療」であった。
そして「人格」「精神」は、入れ込めば入れ込むほどブラックホールである。
体型からみる気質判断。フロイトの夢判断。遺伝子欠損からみる先天的可能性。
どれもこれも、そこを頼りにするしかない、関係者の苦渋が読み取れる。

「病名」がマスコミなどで「発明」され増えるにつけて、
本人も含め、家族が関係者が、それを拠り所にして、医者を締め上げる。
なぜ治せない。やり方がまずかったんだろう。告訴する。
あげく、つきまとわられて、生命の危険にまで追い込まれた医者がいる。

ひとつひとつの「症例」は、本人はもとより、関係者に至るまで、
相当な思いもあり、苦悩があって、当たり前だ。
そして、全てが、個別な事象なのである。
ひとくくりにして、風邪だ、痛風だ、糖尿だなんて「次元」ではなくて、
向き合うことでしか「軽減」しかできない、病気があるということに、
今更ながらに、自分の不明を理解できたのである。

自分でもそうだ、誰でも、心に様々なクラックを抱えている。
普通にそれはトラウマがあってさぁ、なんてセリフにして言うが、
それも決して本人にとっては、嘘でもなんでもない。
心のバランスをとれる、唯一の安全弁であるわけで、
誰もが、いくつものバルブをもって生きている。

そういうものが、果たして、簡単に他人と共有できるか、理解し合えるか。
そんな訳が無い。
わかったような言葉を繰り広げて、安易に理解を深めようとすることが、
どんなに双方にとって、どれだけ不幸な結果を導いてしまうことか。
さらに言うと、軽減はできても、完治はできない。
そういう「病」があるという現実を、我々は認識しなくてはならないであろう。

それが犯罪報道に結びつくとき、我々が安易に納得してしまう、
精神障害者というお決まりのパターン。
そうして彼らを、多分、不当に追い詰めていく。
さらには、真摯に取組む医療関係者を疲労させていく。

理解ができないものを、なんとか理解できる現象にしてしまいたい。
こと人間に関すること。心に関すること。
長い歴史のを通して、あらゆる試行錯誤が繰り広げられた。
不明なものを「こっち側に」ひきよせたいと、占いからヒーリングまで
そしてカウンセラーまで、幾多も考案されてきた。
自分も正直、そういう人間だ。
そして安易に、鬱、摂食障害、乖離症などを、考えてしまっていた。

いわゆる精神病というものを、タブーとして扱ってきたことが、
かえって我々の理解の浅さにつながってさえいるのではないか。
多分、もっと、広く知ること、理解されてあるべきものではないか。
今回は、難しいことを、学んでしまったようだ。

かえってシュメルは普通すぎて、怖い。

2006年06月09日 | 本・映画
西洋史が苦手なのは、あの長いカタカナの名前が原因だった。
なんとかアウグスなんとか、など、自分の記憶の原理を超えている音節は
古代の時点で飽和状態に陥っていた。

そのくせ、大学は古代史を希望していたという。
若いって、すごい。
もちろん、オーパーツやら、未だに説明のつかない絵図など、
心躍らせていたのも事実だし、何かに寄せて、ほら、世の中には絶対なことなんて
ないんだよ、みたいな、現実逃避って言ったらいいのか、
そういう時って、あるよね?

「シュメル―人類最古の文明 小林登志子著 中公新書刊」

世界最古の文明。
簡単に紹介すると、
「シュメル人が活躍していた時代は前4000年後半から前3000年にかけて」
今から遠く、6000年前のことなんである。
メソポタミア文明を生み出した、最古の文明、なんである。

知ってましたよね。「楔形文字」。あれです。
文字が残っていないことで、研究が遅々として進まない、マヤ文明なんか、
非常に残念な気持ちになりますし、破壊の限りを尽くした、スペイン人に
どうでもいい、怒りを感じはしますが、仕方が無い。

が、この楔形文字。粘土板に書かれていて、これが、何万枚!残っているんです。
「粘土板読み」という技術職?がいるくらい、未だに、がんばって読んでいる。
パピルスに代表される、古代オリエント文明になると、
あのロゼッタストーンやらで、解明も進んでいますが、
シュメルは、ピラミッドよりも、さらに前。
学校ありの、都市国家ありの、神ありの、「文学」もあり、ことわざもあり、
戯言もありの、結構、今世の中でおこっていること、
いやいや、そろっていて驚きです。

元祖「はんこ」社会として、円筒印章が有名です。
その唯一の末裔は、日本です。悠久の時間を感じます。
ただ、我々の使用法とは異なり、印鑑の胴体。ここに絵やら文字を彫り込みます。
これを粘土板に転がして、「印字」するのです。
こういうのが、やたらめったらに出土している。
 
この印鑑。各人が持っていて、無くしたら、届出所まであって、そこで
「証明」までしてくれた!
鍵の代わりに、粘土で倉庫を封印します。その上から、こいつを転がして、
封印するんで、とても必要だったんです。現代版、絵付き文字入り「実印」です。

ビールの発祥地。
「黒ビール」「褐色ビール」「強精ビール」など種類があって、
ことわざに
 ビールを飲みすぎる者は水ばかり飲むことになる
 楽しくなること、それはビールである。いやなこと、それは(軍事)遠征である。
これがことわざが、戯言かはともかく、なんか不思議。

そういう訳で、農業の技術も現在の理論と遜色なく、
粒1つで76粒の収穫など、「農夫の教え」としてその技術を学校の教材として
教えていた。
学校では、生徒が書いた作文まで出土。
親に、教師に賄賂を頼んで、覚えがよくなったなんて露骨なものまである。
なぞなぞを駆使して、なんとか地名、神の名前を覚えさせようとした教本。
算数は60進法。複雑な地形の畑を測量しております。すごい。

それぞれの人間には守護神がいて、さらに分野別の神がいて、なんて、
今の日本でも受け入れられる環境を持っている。
自分の代理として、像を作り、それをお供えしているし、
それがやたらに出土しています。

そして正確ではないが、最古の「法典」が確認されている。
「ウルナンム 法典」
ハムラビ王法典と違って、やられたらやりかえさない、内容になっています。
銀でかたをつけるようになっています。
さらに、旧約聖書でお馴染みの「バベルの塔」もシュメルのジグラドが原型。
「言葉はもともと一つであったが、神の力で言葉を混乱させた。」
これも、シュメルの教えである。
言葉が一つであったら、争いはおきない、と語りかけているのかもしれない。

なんだか、いつもこういう読み方、紹介の仕方をしてしまいますが、
知らないことを教えていただけるのは、ミーハーな精神構造は自覚しておりますが
とても「楽しい」。

こういう歴史に触れて思うことなんだが、
この5000年かけて、人は、変わったのだろうか?
巨石建造物もなく、空中庭園も無く、理解できない物体もなく、
淡々と日常の人々の生活が明らかになっているシュメル。
ある意味、読み終わって、大きなサプライズはありません。
それだけ、今と変わらない日常が、5000年前にあったという事実が、
ひそやかに、なぜだが、自分を震撼させます。
必読の本でございます。

小林よしのり氏と斎藤貴男氏の対談

2006年06月04日 | 本・映画
土曜の深夜。相変わらず、夜中は頭がまわりません。
ちょっと、面白い記事がありました。
月刊 現代 7月号からです。
激突対談と称して、小林よしのり氏と斎藤貴男氏の対談です。
「中国にまだ謝罪が必要か」というタイトルです。

斎藤氏は、旧日本軍が行った「重慶爆撃」の被害者や犠牲者遺族が日本政府に
謝罪と損害賠償を求めた訴訟を、支持するコメントを出しております。
一方で、小林氏はそれに対しての批判を、行っております。
よって今回の対談は、まさしく直接対決、といったところです。

小林氏は、重慶爆撃を無差別空爆であったゲルニカの空爆になぞらえる
斎藤氏に真意をただします。
斎藤氏は、その表現方法について、素直に軽率さを認めます。

斎藤氏は結局のところ、戦争責任について、端的に「加害者責任」を重要視
いたします。

小林 「ということは、戦争をやったこと自体の責任ということ?」
斎藤 「というか、無辜(むこ)の人間を大量に、まあ人数が少なきゃいいと
    いうもんでもないけど、無辜の人々を殺した責任ですよ」
小林 「でも戦争になれば必ず死ぬよ」
斎藤 「だから、戦争はどんな状態であっても絶対にやっちゃいかん。
    仮にどうしても避けられなかったとしても、戦争を指導した者は
    終わったあとで、自分自身はやむを得ないことだと思っていたとしても
    腹はきらなきゃいかんのです」
小林 「それは戦争に勝っていても?」
斎藤 「そうです」

小林氏は、それはおかしいよ、と反論をしていきます。

正直言って、自分は斎藤氏の本は、何冊も読ませていただきました。
感銘を受けた本もありました。
が、今回の彼の意見は、今まで何度も聞いている、あの戦争の反省が
未だに足りない。というものと変わらないように思えます。
彼が対談中で、贖罪意識を忘れずに持ち続けなければいけない、といいますが、
もちろん、それは、非常に正しい意見だと思います。

ただ、過去の犠牲者に対して、これからも起こってくるであろう訴訟の数々に
対して、積極的にコミットすることと、
今現代の戦争を「抑止」する方法を検討することと、なんだか、大きな溝を
感じざるを得ません。

結局2人は、国際法を論点に話を進めますが、
小林 「あなたが言うようにね、国際法がもっと厳密になって、
    戦争を起こしても民間人からは一人の犠牲者も出してはいけない
    というぐらい国際法が世界に通用するようになればいいなと、
    このわしも思うよ。そうなれば、戦争なんてできないだろうからね」
斎藤 「うん、それでいいじゃないですか」

斎藤 「国際法は大事です。でもどこまで厳密に守ったって、犠牲者は出て
    しまうと思う。だから国際法云々の以前に、戦争はすべていけない。
    その意見は変わりません」

ここにいたって、なんで、こういう人達は、いままでの社会派ジャーナリズムの
人達は、いつも、ナイーブというか、純粋になってしまうのか。
悪は悪。善は善。加害者は加害者。被害者は被害者。
わかるんだけど、そんなの、わかっています。
でも、わかっているんだが、なぜ、その時に戦争がおこってしまったのか、
システムなのか、人間本来の本質的なものなのか、どうなのか。

我々は、全然、成長もしていないのか?学んでもいないのか?
だから、犠牲者の遺族を「支援」してでも、これでもかと「贖罪意識」を
植えつけようとするのであろうか?

小林は最後のほうで、過去の加害者責任とやらをいくら喚起させようとしたって
問題は過去のことじゃなくて、いま現在のことでしょう、という。
過去のことを言い募ったとしても、今に、何らの効果があるとは思えない、という。

で、斎藤氏は「だけど、まったく誰も言わないよりは、僕だけでも発言しておいた
ほうがいい。」に、また行ってしまう。

そして小林氏が最後に、責任を取るということは、何も過去の事例にだけではなく
今現在においても、同じように必要だとし、
アメリカに頼りきって、何一つ、自主的に解決することができない、
解決しようともしない、日本人の「虚無主義」を覚醒させるためにも
自主防衛に「転向」するよう、斎藤氏にエールを送ると、

斎藤氏、反論できない。

全ては、今現在を、どのように「ハンドリング」していくか。
そして起こった事に、どのように責任をもってあたれるか。
その為の、過去の累々たる歴史があるわけで、
勝手な意見だが、あの戦争はこうしたら、負けなかった、という連中の意見と
斎藤氏が言う、これからも戦争被害者を取り上げていく、というのは、
なんだか、どちらも「生産的」でない、同じような意見の気がするのだが、
どうなんだろう。

だめだな、夜中は、本当に頭がまわらない。


あの戦争について書かれた本。今を照射するはず。

2006年05月25日 | 本・映画
まぁ、なんだか新しい会社なんだが、変な方向にいきそうで、
未だにスタートしていないのは事実としても、やいのやいのと投資家からの
突き上げに、社長がギブアップ寸前。
またしても、自分に、社長のオファーが、来てしまいそう。
これで、大きな失敗をしたばかりというのに。
ktさんからは、「二度とそんなことは、軽々しく受けないように」と厳命されて
いただけに、「まさか、やります、なんて言わなかったでしょうね」
と、強く念を押されています。

こんな突然の出来事があった、今日この頃です。

昨日の大雨。上手く難を逃れて、本を読んでおりました。
だから「大雨洪水警報」なんて、ちっとも、知りませんでした。

「あの戦争になぜ負けたのか」 半藤一利 保阪正康 中西輝政 戸高一成
               福田和也 加藤陽子 文春新書刊

こういう文脈の本を読んだのは、初めてです。
アマゾンから、頼んだ本がなかなか届かず、つなぎと言うことで購入。
でも、様々な意味で参考になりました。
生半可な知識で、この戦争を語ることができない、ということも理解いたしました。

ただ、現実として、戦争で亡くなった方々の、意味なり意義を、
検証し、考えねばならないことは、確実に必要なことなんだということ。
いたずらに、「戦争反対」と叫ぶことは、間違いではないが、
それは、全てを「否定」し、思考の外に出して「良い」ということではない。

なぜ、負けたのか、という言葉を、ノスタルジーでもなく、ああやれば勝てる
という「お茶話」でもなく、冷静に検証することを、戦後、
どうしても「忌避」していた状況を、変えなければならないと思うし、
時代を「経験」し尽くすことは、どうしたって、必要なこと。

どうも、この国は、過去をすっぱり断ち切るというのが「美徳」とされるような
慣習があるように思われる。
だから、以前の調査でも、近現代のことを知りもしない高校生の話とか、
それこそ、江戸時代の「暗い」話とか、
語ってはならないのか「共産主義」系統の話とか、
なんだか、タブーに陥った感じになっている。

考えてみれば、固有名詞で語られる事象には、名のある人物がいて、
その影響力なり、責任云々、くっつけて話されるが、
この本でわかったことは、当たり前だが、多くの「民衆」がいて、
大手のメディアが「部数獲得」のために「迎合」して、環境をつくっていった。
陸軍・海軍も、毎年排出される「エリート」達も、
今の官公庁のエリートとダブル感じで、
ただ、上下のシステムに汲々とし、優秀なものほど、優秀だと思われている
戦艦系、駆逐系に流れ、兵站系や補給系、水雷系などには、「馬鹿」がいく。

こんな、戦術を理解もしていないような、「エリート」意識が、
国全体の組織を崩壊させている、なんてところは、今の財務、国交、なんとかは
一流で、農水、総務はダメなやつがいく。
似ているじゃない。

そして、大幹部の言ったことに対して、「情」が支配し、
メンツをたてて、止む無き戦いを展開した。

そこには、何を学んで、何を知って、どういう戦略をたてていたのか、
外交も含めて、なぜ、こんな情報があるのに、無視したのか。採用しなかったのか。
人間関係における、国家運営のシステムを見通す限り、
本当に、「情けなく」なってくる、気持ちを抑えられない。

多分、意識としては、一度も攻め込まれたことが無い、単一民族の
「歴史的記憶」が、そして、「純潔」な記憶が、なんだか、総崩れで
「玉砕」に近い状態を導いて。
特攻の際に、多分、理解していた人間達は、「これで日本民族は1万年大丈夫だ」
なんて言葉になってくるし。

こういう問いかけを、幾万何遍も、戦時中の人間は、始終考えながらも
倒れていったし、死地へと向かわされた。
それを指示した人間達のことを、なんだかんだと言うのも「あり」だが、
全く同じとは言わないが、今の国家組織も、それを支持する民衆も、
この戦争から、何を学んだんだろう?というほど、人間関係の組織メカニズムは
どうやら変わらずに、「劣化」している気がする。

この本を読んで、否定して、もうしない!と叫ぶことは結構だが、
学び尽くさなければ、もう、なんだか、死んでいった人間達に
悪いような気がして、気がして。

こんな読み方は、どうなんだろう、と思いながらも、
一方で、学び尽くすことは、決して、唐突なナショナリズムには
繋がらないはずだ、とも、考えております。




歴史を学ぶという姿勢について、「大丈夫な日本」より

2006年05月20日 | 本・映画
考えてみると、どの国家でも、何かに困った時には、過去の教えに学ぶことが
多い。当然、文明レベルも、国家間の取引システムも、激変した状況があって、
簡単なことではなかろうが、それだけに、見通せない「先」を読もうとする際に、
過去の「歴史」を紐解くことが、多い。

上手くいったことや、上手くいかなかったことは、
全て、過去における「検証結果」であり、比較対照事例として、
参考になることは、言うまでも無い。

ところが、これまた考えてみると、この日本では、これだけ「長い歴史」を
持ちながらも、明治期以前の歴史は、まったく、どこかのナルニアあたりの
物語としてしか、イメージがつかない。

弱ったことに、この本を読んで、またさらに、その思いが大きくなってきた。

「大丈夫な日本」福田和也著 文春新書刊

この方に関しては、言うを待たず、周知の方です。
別件で、SPAに連載中の対談。まとめた本なども昔読ませていただいており、
読書量から、博識なところ、肥満体系なところ、批評家であることなど、
様々な評価を受けております。

にしても、読みやすい。だらだらしていない。言うことが明瞭です。
この本では、近代の理念なり現象が「限界」に近づいてきた中で、
言われている「無限の発展」を前提にした社会からの転換について書かれています。

「歴史を参照せよ」という命題は、かのアメリカでさえ2003年のイラク攻撃時
激務の合間を縫って、ラムズフェルド長官以下の主要スタッフが、
ローマ史に読書会をおこなっていた、という凄みのあるエピソード。
日本は、あまりにも「歴史という知恵の宝庫」を軽く扱いすぎているのでは
ないかと、作者、いえ、考えてみれば、最近、みんな、そう、言い始めています。

自分が過去に教えを受けた「歴史」。
特に江戸時代の歴史は、15代将軍の名前。そして、建築物と、文化の名前、
そしてそして「何とかの乱」を抑える。
もっというと、いかに五公五民だとか、圧制だとか、反乱だとか、
そういう抑圧された農民、民衆にえらいスポットを当てられた、
結構、暗黒の時代のような教え方をされたように、記憶しています。

鎖国、という言葉が、なにやら遅れていて、開明的でなく、ひどく野蛮で
無知で、頭悪い所業のように言われ、綱吉の「生類憐みの令」によって、
江戸時代のダメさ加減が決定したかのような気が致します。

弱ったことに、最近読む本。この江戸時代に焦点をあてた内容なんですが、
根底から覆すものが多くて、再考を余儀なくされています。
そしてこの本も、江戸時代の、完全な自由は無かったにせよ、
強力な「循環システム」の中で、非常に完成された「平和」が維持されていた。
という検証から、今の近代を照射する感じになっています。

考えてみれば、変なんだよね、江戸時代って。自分も日本史の「先生」やって
いたのは事実なんだけど、生存権と基本的人権を過酷に抑圧された
階級社会的な刷り込み方が強くて、平八郎の乱とかが、優先的に出てきて
困っていたんです。
でもさ、そんなに過酷な搾取が連綿と続く社会だったら、
落語やら、庶民文化やら、商人経済が、なんであんなに発達したのか、
本当に、それだけ、ナルニアの国の物語って感じだよね。

寺子屋に始まる識字率の話やら、灌漑設備やら農作物の収穫高に至るまで、
他国に比べて相当な技量をもっていた。
おまけに商人経済に至っては、アメリカのシカゴにある取引所では、
「この取引所のルーツは日本の先物取引所であり、大阪が発祥の地である」
なんて紹介がされていて、今や全世界に蔓延しているデリバティブのルーツは、
日本の米市場が発祥が公式見解らしい。

これって、どういうこと?落語にも、そんな、過酷な「抑圧」って話、ある?
誰か、意図的に、そういう「酷い」話に曲げてない?
って最近思うようになってきてるんです。

全てが良いとか、悪いとか、そんな2元法な解決やら考え方はおかしい。
そんな中で、この先の指針を掴み取るために、そして、無限だといわれてきた
世界が、思いっきり「有限」の世界を前提にしていたことを踏まえて、
歴史を学ぶことが、知恵を学ぶことが、さらには、他国の歴史を学ぶことが
いかに大事なことか。
あの占領下のアメリカですら、日本に対する研究は膨大なものがあった。
そのくせ、今の日本。マスコミも含めて、あの中国、韓国に関する
歴史認識は、今、結局のところ、どうよ。

靖国問題において、どのメディアでも近視眼的な発言を繰り返しているが、
この本でも1章がさかれている。
でも、日本の軍国主義化を懸念している中国という触れ込みだが、
れっきとした核兵器保有国です。そういえば、インドもロシアもフランスも
アメリカも、軍事的な脅威で、日本を語ったところなんて、なかった。
地政学的に、中国がという意見に対しても、それを言うのは、日本だけで、
中国の高官レベルでも、相手にしていない。

今を語るにせよ、明日を語るにせよ、自国はもちろん、他国の歴史に通ずることが
いかに有効なことか。
あまりにも、自国の歴史に対して「否定的」すぎるこの国にとって、
その研究し、参考にする姿勢をとらない限り、その姿勢は、他国理解についても
同じ姿勢がでまくってるよ、と考えざるを得ない。

ちょっと、基本姿勢を正される感じの読後感でございました。


電波利権 という本を読みました

2006年05月18日 | 本・映画
最近のマンション、一戸建てには、いわゆる「アンテナ」が無い。
ケーブルテレビへの加入を申し渡される。
これを意外とも何とも思わなかったんだが、最近の何でも「訴訟団」が引き起こす
電波障害訴訟は、売主、またはビル所有者負担が「嫌になったんだ」ろうと
考えていた。

が、この本で思い当たった。

「電波利権」池田信夫著 新潮新書刊

この本は、もっと読まれてよいのではないか。
それほどまでに、どきどきしながら読めた本は、最近なかった。

土建業界のような「官公需」に依存した業界 を歴史的な流れに沿って
書いていく。ご存知の方には、本当に当たり前の世界なんだろうが、
マスコミもテレビも、その電波利権の支持者であるが故、全く、問題化せず、
我々は、知ろうとしなければ、全く知ることができない状況に置かれている。

何が問題なのだ、というよりも、この「有限」な電波の利用に関して、
誰もが、その将来の有益性を考えることなく、政治家の意向によって、
漠然と決定されてきたという事実。
その後に起こる、様々な革新においても、何ら有効な改革を講じることができず、
ただ、右往左往する関係者の場当たり的な「作業」が、
本当に滑稽で、情けなく、感慨深く明らかにされていて、
いやいや、官僚(行政)も政治家も、そして利権取得者の民法も、
だめだな、これは、という事実に気づかされる。

携帯電話1台につき、未だに年間540円の電波使用料をとられ、
電波料(540億円)の93%を支払っているのに対して、
地上放送局は1%という事実。
携帯電話の周波数の割り当てが困難で、ために、競争を阻害され、「高い」
料金を支払い続けるユーザーがいる一方で、
ほとんど使用されていない周波数を「のん気」に使っている、MCA無線機。
2つの特殊法人が「大量の天下り」を受けて、独占し、
主なユーザーが郵便局など「官公需」。よって、公認機種は1台数十万円。

アメリカなどは、数百もの放送局があるのに、政治家の「お国入り」の
映像を確保するためだけの「地方局」。
衛星放送ですら14グループからの申請があったが、1本化工作を郵政省が
推し進め、結果「オール財界」で193社も出資するWOWOWが誕生した
「喜劇」。

2011年に地上局の、オールデジタル化が決定したが、
実は、今もっても、当事者は、何を「決定」したか、わかっていないという事実。
それも「利害調整」の一環として、何の知識も見えない「総務省」が
強引に決めたという事実。
そのデジタル化は「コストが1兆円で収入増がゼロ」というプロジェクトだが、
誰も反論できずに、右往左往する民間経営者達。

いやー、笑えるんだが、背筋が寒々とする「エピソード」が満載です。
全部紹介したら、ほとんどを列挙になってしまいます。
ただ、本当に、この先、何をどのようにしたらいいのか、
この「利権化」した電波を、効率的に利用するための改革など、
いくつかの「民間からの」事例が、勇気付けてくれます。

無線LANが「免許の必要がない」システムだというこには、
改めて、そういえばそうだよね、と気づかされました。
この技術が注目されているには「訳」があったんだと、気づかされました。
ということは、周波数の利権から除外されたシステムということ。

放送はもともとは、国策的に位置づけられる「手段」であったし、今も変わらない。
政策上、電波を管理することは、そのまま、時の政権がメディアに
「干渉」しやすいようにしたということ。
日本の特殊性から、テレビと新聞の2大メディアが、相乗りしてしまったのも、
政治の干渉に拍車をかけた。
ただ、その「国策」としての最大の武器であるインフラが、技術革新の中で、
揺らいでいるという事実。
誰でも「基地局」をIPというソフトを活用しさえすれば、持てると事実は、
「ネットは新聞を殺すか」ということを、「ネットはテレビを殺すか」に
限りなく近づけ、さらには、「ネットは政権のあり様を変貌させるか」に
近づけることになるのではないか、と大いに考えさせてくれるのである。


ウエクサ・レポートを読んでいます

2006年05月11日 | 本・映画
ようやくネットが繋がりました。
これで不自由さから解放されます。本当に2週間ぶりです。

なんだか、他の方のブログでみかけたもので、つい植草さんの本を購入
していました。まだ読み終わっていないのですが、
「ウエクサ・レポート」というタイトルです。
アマゾンで購入したんですが、書店に置いてあるのでしょうか?

色々と話題になった方ですが、彼の発言で、一時期盛んにインフレターゲットを
勧めていたように記憶しています。
自分としては、この論はよくわからなかったし、懐疑的でもあったので、
そこまで関心はございませんでした。

ところがこの本ですが、なんだか色々と参考になります。
経済学者さんは、とかく、この世情のトレンドを解析し、ある意味「予想」を
「義務付けられて」いるかのようです。
そういう意味で、過酷な商売だと思います。
とはいえ、あの時から自分は、このことを繰り返し述べていたんだ、
なんて浮上してくるのは、それはそれで、いけないことだとも思います。

そういう感じも、この本では随所に表れていて、ちょっと切ないですが。
素人の自分としては、かなり、勉強になります。
平易な文章。わかりやすい関連付け。繰り返しキーワードを入れていく内容。
昨年の経済の流れを、とてもよく理解できます。

当然、各論ある経済界です。異論もあるでしょうが、
自分としては、この本で、まず、良くわかったことは、
「ろくな政治家がいない」という事実でした。
言い方に語弊があるかもしれませんが、株価の上下動が、なんだかものの見事に
政策の方向性と一致している、事実を、明確に指摘されると、
この日本の政治家で、まともに「経済政策」を立案できる人間はいるのだろうか
と、暗澹となってしまいます。

なんだかんだ言って、小泉さん。
30兆円の国債を切る、と宣言をし、国の借金を減らすとまで言っていたのに
なんとこの在任期間中、200兆円の借金を増やしてしまったそうです。

植草さんが言う、「購買意欲の低下」に関する件で、世間ではデフレの一要因
だとか言われていますし、買いたいものが無いからだとかも言われていますが、
社会保障の「不公平」さも改善されない中で、企業の景気と個人の所得が
全く連動していないなかで、「支出をするために所得を得る」という
人間本来の行動が「とれなくなっている」と、喝破しています。

言われて見ればその通りで、はい、仰るとおりですが、
こういう風に、いくつかの事象と関連付けて解説されると、
妙に、頭に入ってきます。
まだ読書中ですが、僕は、とても評価が高い本です。




稲荷信仰について書かれた本

2006年05月09日 | 本・映画
「日本人はなぜ狐を信仰するのか」松村潔 講談社現代新書刊

どう言ったらいいんでしょう。
「狐」につられて買ったんだけど、読んだんだけど、
多分、すごく、色々と詳しい方なんだろうけど、
自分が関心のある本ではありませんでした。

  稲荷の鳥居はなぜ赤いのか? 「こっくりさん」の起源は何か? 伏見稲荷とサル
  タヒコや豊川稲荷とダキニの関係など、秘められた多くの謎を東西古代思想を
  もとに解き、身近なお稲荷さんが持つ深遠な秘密に迫る。

と、アマゾンのブックレビューに書いてありましたが、
もう、イザナギ、イザナミから始まって、エジプトやインドの古代思想、
ギリシャ神話からハワイの伝統宗教「フナ」までをも関連付け、
「僕が知りたい、狐は、どこへ行ってしまったの?」が延々と続きます。
確かに、この手の話が好きな方にとっては、よくまとまった入門書として、
多分、重宝がられるんだろうな、という気が致します。

あれほどの稲荷神社。狐だらけです。
とはいえ、今の日本できつねをみれるのは、よくて北海道のキタキツネぐらいです。
自分も学生の頃、車だけで、北海道を1周したことがありますが、
その時に、どこかの峠で、キタキツネを見たことがあります。

つまり、今の日本では、事実上、きつねは伝説の生き物と化している。
だもんで、昔の書物にきつねの夢、たたり、きつね憑き、とやらがありますが、
今の子供とか、我々くらいの世代にとっては、
神社でしか、お会いできないというのが実情です。
ええ、夢に見た記憶すらありません。
祟られるといったら、なぜか、「貞子」の方が、リアリティーがあります。

動物の、神の遣いという地位は、この日本においては、はなはだ低下している
気が致します。猫くらいですものね。近くにいるのは。
油をなめて、人を祟るという感じより、何かを「告げる」「察知する」という
気配をかもし出す動物として、猫はまだ健在のような気が致します。

ただ、サルタヒコについては、この本で随分詳しくなった気が致します。
このような神話など、古代のことはとても興味があるんですが、
多分、今は、むつかしいかもしれません。

リバタリアンについて書かれている本

2006年04月28日 | 本・映画
人間は、あらゆることを多面的に、多角度から考えることができる。
目の前に起こっている事は、当たり前であるが、
そういう人間たちが織り成す、様々な思考の結果である。

それぞれが、それぞれに集団を成してくると、当然「見解の相違」が現れる。
自由は、他人が「理解」している範疇でのみ、有効になってくるからだ。
誰が何を考えようと、何をしようと、「それは個人の自由」というフレーズは、
本質的に「自由」に考えることができる人間にとって、
他人が「自由」に振舞うことに「寛容」にはなれない。

所詮、人間は自由が「怖い」のである。
他人の自由な振る舞いは、必ず、自分の自由を「侵食」してくるかもしれない、
という経験的な恐怖を知っているからである。
そのため、個人は、それぞれが、それぞれに「安心」できる自由の「範囲」を
確認しあう。共有部分を確認しあう。
集団化とコミュニティーの原点がここに、出現する。

昂じて、人間は、さらなる自由の共有化を「付託」する。
集団は、困ったことに、それぞれの自由の「範囲」があるからだ。
その付託先は、「神」であったり、「国家」であったり、する。
それは「ルール」という具現化した「範囲」となって、
人々の「規範」「道徳」「理念」となって現れる。

本来、自由は、人間が本質的に持っている「領分」である。
自由を制約する「規範」とは、本末転倒かもしれない。
その言い訳として「贖罪」を持ち出したり、「煩悩」を取り出したり、
「性悪説」を唱えてみたりと、誠に複雑な展開となっているような気がする。

ウオルター・ブロックの「不道徳教育 擁護できないものを擁護する」
橘玲訳・文 を読んでいる。
国家の機能を縮小し、市場原理によって社会を運営しようとする政治思想
「リバタリアニズム」を代表するリバタリアンの一人である。

この本は、橘玲さんの「超訳」である。
しかも30年前に書かれた、本である。
リベラリストという、自由は大切だよね、でも平等も大切だよね、
という理念とは異なり、平等を解決するためには、必然的に「国家」が必要だが、
本来的な自由を「犠牲」にしているよね。
すべての不幸は国家によって引き起こされていると思わない?
という立場に立っている。
目指すところは、もちろん小さな政府である。
そして、アメリカにおいて、支持されている理念である。

この本では、現在「常識」とされている様々な社会取引、職業、意識について、
攻撃的に、でもなぜか、論理的に解説されている。
衝撃的な内容を含むが、橘さんの意訳もあってか、もともとなのか、
思わず引き込まれる内容になっている。

麻薬が引き起こす「犯罪」は、そして高騰する「価格」は、
妙なことだが、国家権力、つまり警察の厳しい取締りによって、支えられている。
とかね。
アフリカ諸国への「援助」は、結果としてただでさえ脆弱な「軽工業」を
完全に「破壊」する行為になっている。(ケニアのジャーナリストは、
お願いだからもう援助はしないで下さい、と呼びかけている)とかね。

中には、もうこじつけじゃない、というのもありますし、
こういう考え方も、ありかもしれない、など、言ってみれば「嫌な本」です。
これだけ過密になった地球で、増えた人間の数だけ複雑になっている
社会のシステム。
我々が普通に「享受」しているサービスやら商品なども、
確かに有能な人間が「利益」を追求する中で編み出していった結果なんだろう。

しかし、これだけマスコミやテレビが発達すると、
先のホリエモンではないが、作り上げた「商品」「サービス」よりも、
「悪どく儲けやがって」のイメージが先にたち、
我々の食いつきも、そっちの評価を受け入れてしまいがち。

困っている人を助けることは、できる範囲で考えるのは「当然」としても、
団体として「活動」を行うのは苦手。
助けたら、最後まで責任を負う、というポリシーには、馴染まないと思っているから。
そして、本当に困っているのか、どうなのか、
自分も「別の意味で」どうやら、困っている人なんで、団体で主張されると、
妙な「嫌悪感」が走るのも事実。

だから、リベラリストもリバタリアンにも、揺れに揺れ続ける自分がいて、
この本を読んでいると、落ち着かなくなる自分がおります。
公平と平等は、どう違うのか。
高度福祉社会と自由経済社会(弱肉強食と言われかねない)は、
どう、折り合いをつけていくのか。
考えてみれば、「小泉政権」が白日に晒したものは、実に多くの問題を
抱えていたことだったんだなぁ、と思いました。

ダヴィンチコード 売れている理由がわかりました。

2006年04月25日 | 本・映画
いわゆる小説物を取り上げることをしてこなかったんですが、
「ダ・ヴィンチ・コード」。
読み終わりました。とても眠い。

この本が、売れる理由がわかりました。
キリスト教関連に、素人だからかもしれません。
これは、ミステリー小説としてではなく、ある意味ドキュメンタリー本です。
こんなにキリスト教に関して、素人にもすんなり理解できる「本」を
読んだことがありません。

こういう表と裏を織り交ぜての「解説」は、ダヴィンチを軸にするも、
滔々たる歴史を通して、西洋の形を理解するには、うってつけの本でした。
キリスト教って凄いわ。

実は、本当に西洋史って知識ないんですが、どうにかこうにか
キリスト教を軸にしてきたことくらいは、知っていました。
映画でも、本でも、または美術でも、キリスト教を知識として知っていれば、
もっと楽しめるんだろうな、と残念に思っていたことも事実です。
例の死海文書の存在。そして、最近発見された「ユダの福音書」
この本を読んで、恥ずかしながら、初めてその存在の意義が理解できました。

すいません、なんだかとってもキリスト教って、面白い。

ローマ帝国が当時太陽神を信仰としていた中で、民衆の教えとして勢力が
増大していたキリスト教を、当時のコンスタンティアヌスが取り込んで、
合体させた話やら、もうこの辺からして知識増えまくりです。
暗号といわれるものの発祥から、アナグラムへの言及。
そしてダヴィンチの凄さ。
最後の晩餐に隠された謎、にとどまらず、様々にオブジェ、絵に隠されている
謎など、どれをとっても、こんなに楽しい読み物はありません。
最近アメリカやら、韓国の牧師などで御馴染みのカルト宗教が引き起こす
「性」にからんだ騒動についても、この本で、謎が分かった気になりました。

サスペンスとしては、途中で、敵がなんとなくわかりました。
多分、そういう風に考える方もいらっしゃるだろうと思います。
でも、これを読むと、作者って凄い。
個人的に好きな福井さんって方もそうなんですが、
どれだけ、その対象に詳しいか。これが極まっていると、読むほうとしては
安心して読むことができますし、驚きも倍化します。
何気ない会話ひとつとっても、奇をてらったところがなく、
まさに「人に出会った」感触が楽しめます。

そういう意味で、この本、面白いよ。

色々言われてますが、必需品です、猪瀬さん。

2006年04月18日 | 本・映画
猪瀬直樹 「道路の決着」 小学館刊

テレビでは、独特の鼻にかかった声。ボリュームをあげないと聞き取れない声。
それでも、この数年、ジャーナリストとして、その泥臭い追いかけ、事実の提起、
国がおこなった、余りある「無駄」を暴いた手腕。
とても興味をもっていました。

何度もいいますが、根がミーハーなので、当然、色々と読んでおりました。
「偽りの民営化―道路公団改革」田中一昭 
「道路の権力 道路公団民営化の攻防1000日」猪瀬直樹
「権力の道化」櫻井よしこ
はもちろん、ほら、ミーハーでしょ?

この本を読んで、改めて思ったことは、
この国のシステムは、放って置くと、本当に肥大化していくんだな、ということ。
そして、その問題に切り込むことが、いかに大変なことか。
マスコミをはじめとして、専門家と言われる人間が、いかに無責任に発言して
いたか、などなど。

「フィクサー」だとか、大臣就任に色気を出す、道路族に取り込まれた、
などなど、その都度様々な「評価」を受けていた。
確かにこういう審議委員会など、金額的には「ボランティア」であろう。
色々と読んでいてわかることだが、その委員会など、お役人があらかじめ用意した
結論の「補足」にしかすぎない。しかも、狂牛病の委員会に見られるように、
「本意を勝手にいじられ」て、「良識ある委員」が辞任することもある。
あげく、完全に無視されたり、違う法案が通ったり、「本業へのダメージ」にも
なりかねない。

要するに、インセンティブが働きにくい。
確かに、猪瀬さんは、作家でありジャーナリズムである。
このように、参加した内容を、本にまとめたり、テレビにでたり、「元は」とれる。
にしても、この5年間、この人は、本当にタフだよなぁ、が実感。
この膨大な、道路公団ファミリーの実態の解明から、保養所、分室、土地建物の
交換問題、そして例のハイカカードの「偽造」問題、そして、天下り。
よくもまぁ、調べたもんです。

で結局、様々な知識人、マスコミ、ジャーナリストは、彼が暴いた事実をベースに
論じているに過ぎない。というか、誰もここまで踏み込まなかった。
そして、それぞれの委員も、公団系、国交省系、JR系と、利害対象者であり、
それぞれの権益を守らんが為に、必死になる。
さらにそれに政治家が加わり、マスコミが便乗する。
次々に辞任する「委員」達。
民営化を破綻させたのは、猪瀬だという指摘。

よく読めばわかりますが、この民営化は100点満点ではありません。
問題も多く、内在しております。
ただ、どうして、こうなったか。委員会が機能しなかったからなのか。
猪瀬が「邪」だったからなのか。
こういう論点で解説する人達もいますが、
道路公団、国交省という「権化」がいかに巨大で、悪かの認識が足りないように
思えます。
何しろ、各自治体の首長から、自民・民社の議員も含め、公団ファミリーの
潤沢な余剰資金によるロビー活動含め、継続性のない取材を行うマスコミ。
全部が、民営化の反対にまわるか如しですから。

どうにか、民営化を図るために、猪瀬さんがまさに「フィクサー」のように、
政治家の間を「暗躍」したのは事実。ある意味、この部分。それをとって、
この人は、権力者と関係を持つことが、そっちのけで、嬉しいみたい。
なんて評価も受けていましたっけ。確かにそう取れるような、箇所もあります。
ただ、国鉄民営化においても、最大の障害は「政治家」だった。
時の委員は、もっとえげつない「暗躍」をしてまわったことを考えると、
猪瀬さんは「目立ち過ぎた」という結論に至るのです。

その内外からの「ひがみ・妬み」を一身に集めた、集大成の本が、これです。
ええ、まさに、猪瀬さんの真骨頂本です。
言ってますよ、俺がいなかったら、ここまでこれなかった、みたいな感じ。
でもね、自分は、許容範囲ですね。
というか、こういう人が、スタンドプレーでもいいんです、もっと出てこないと、
簡単に、この国のシステムは変わりようがありません。

だって、免許の更新でも、安くなったし、車検もそうだし、社会保険庁の問題も
そして住宅公団の問題も、この人がせっせと集めた資料から発展したんだし、
櫻井さんも好きですが、出版社に圧力をかける、「矮小な人」と非難するのも
わかりますが、でもね、彼は、今の日本には必需品です。