現在、宮崎駿監督の「風立ちぬ」を映画で上映中ですが、昔から堀辰雄に関心があったので、軽井沢高原文庫の「堀辰雄展」を見学に行きました。
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堀辰雄に興味を抱いたの他のは、エッセイの「大和路・信濃路」を読んでから、その戦争近い時期に、英文字を加えた文章に深い感銘を受けたからです。
最初は、信濃だけに関心があった堀が、やがて古代奈良へ想像を働かせて好むようになるのには、折口信夫の影響がありました。
芥川龍之介に師事し、小林秀雄などに小説「聖家族」を激賞されて、文壇に立った堀辰雄。
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軽井沢高原文庫は爽やかな夏を私に贈り物にしてくれて、展示室には堀辰雄の奥様がクリスチャンとして亡くなったことを示す写真などがありました。
中村真一郎、立原道造、福永武彦と親交を結んでいて、そういった蔵書がたくさんありました。
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堀辰雄の住居のひとつで、傍に「うば百合」が咲こうとして蕾をつけていました。
私は大学時代に、友人から福永武彦の本を紹介されて、「あなたが好きそうだから」と言われて借りた記憶があります。はかなく淋しく美しい文章でした。
中村真一郎は、「感情旅行」という小説を読んだくらいです。
福永武彦訳の「悪の華」(ボードレール)は読みかじって、これを神父様が許したということが印象的でした。
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さて、ここで小説家でエッセイストの堀辰雄が住まっていたと思うと、軽井沢の療養所的な雰囲気がわかります。
「風立ちぬ」や「菜穂子」を読んで、難病だった結核の病に倒れた女性の強い意思が伝わってくるせいか、私は暗い中にも作品に希望のような光彩が放たれていたと思います。
昭和10年頃、結核は猛威を奮って、不治の病として人々を悩まして、多くの方が亡くなりました。
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次に、「鬼女山房」と自ら名付けた野上弥生子の別荘。中勘介と歓談し、高浜虚子と「ホトトギス」について語った場所で、朝日に輝く浅間山を眺めるのが好きだったと言います。
野上弥生子というと、「秀吉と利休」という本を思い出します。三国連太郎主演で映画化されてもいます。一度是非ご覧ください。
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次は、有島武郎の別荘のあったかカフェです。有島武郎は札幌農学校(現在の北海道大学)を卒業しました。キリスト教徒で社会主義の影響もあって、自分の農地や宅地を貧しい人に譲ろうかと良心的に葛藤があり、その後、記者で人妻だった女性との交際で内面の呵責に耐えきれず、軽井沢のこの浄月庵で首つりの情死をしたと言われています。
「生まれいづる悩み」などをここで書いたそうです。
農園開放はトルストイの影響もあったのでしょう。学習院中等科出身で、「白樺派」でした。
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少年の出来心と、指導していた女性教諭とのやり取りがなんとも美しく、思案させられる作品です。
少年に渡された葡萄は、キリスト教の愛の教えでしょうか。
「ああいう先生が今もいてくれたら」と最後に呟く有島武郎。
なんだか、有島武郎が、苦しみながら生きていたことを象徴し、大きな愛が彼に注がれていたら、悲しい結末はなかったかもしれないと思いました。
大人になると、なかなか人は他人に厳しいものです。有島武郎も苦しかったに違いありません。
この別荘には、日本国憲法草案に携わったベアテ・シロタさんのご両親が戦時中お住まいだったそうです。
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私は三度目の訪問で、家族はペイネの本を大事にしている私を知っているので、ここでゆっくりと絵を眺めました。
ユーモアがあって、温かくて、素敵な恋人たちです。
チェコスロバキアの著名な建築家アントニン・レーモンドの設計によるご自分の別荘で、この方は聖パウロ教会も設計なさった方で、軽井沢にほかにも多くの別荘を作りました。
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それから、塩尻湖の湖畔を回り、次は深沢紅子さんの美術館へ伺いました。野の花が美しく繊細に描かれてあって、素敵でした。
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さらに、湖畔を行くと、朝吹登水子さんの別荘、睡鳩荘へ。サガンの「悲しみよこんにちは」など、フランス語の邦訳をして、翻訳家として非常に有名でした。
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ヴォーリズによる設計の別荘で、朝吹登水子さんは高輪にも同じ方の設計によるご自宅もあり、素敵な避暑をここでお過ごしになったようです。
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お名前だけは知っていたけれど、華麗なる一族の方だったので、驚きました。
祖父の朝吹英二は慶應閥で三井で活躍した実業家、父親の朝吹常吉も三越百貨店の重役、帝国生命(現、朝日生命)社長を歴任した実業家。
親戚には、鳩山家まで続くような富裕層の方が多く、登水子さんは深窓の令嬢、つまり、超お嬢様になるような方。わー、と内心叫びました。すごーい。
何が凄いかと言うと、富裕層の方でも猛勉強して、自立できるだけの深い教養と実用の知識をと応用力を身につけていたと言う事実です。私は、自分が中途半端な勉強姿勢であったことを自覚させられました。頭が下がります。
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ヴォーヴォワールとサルトルと歓談している写真とか、眺めて凄いとしか言いえません。「大人」「成熟した女性」という感じの朝吹登水子さんでした。居間を眺めて、積まれた書籍を横に驚愕しました。親からの最高の贈り物は、愛と深い教養と人脈かもしれません。
今は軽井沢銀座を若い人たちが闊歩し、自分も好きな時に行けるでしょうが、昔はある一部の方々の高級避暑地か、結核の保養所と言うイメージを私は持っていました。
しかし、ごく庶民の私にとって、軽井沢はどこか遠く、若いころ、憧れた場所でもありますが、祖父母の同じく東京の家に宿泊することが子供の自分にはとっても楽しみだったくらいなので、今回の旅は夢のような一日でした。
続く。
精力的に訪ねておられるご様子、何よりです。
堀辰雄文学記念館の写真を懐かしく拝見しました。
中山道を歩いた時、この文学記念館があって、
堀辰雄が散歩の途中に愛でた半跏思惟像が、
近くの泉洞寺にあるのを思い出しました。
また、ここで堀辰雄を初めて知ったことで、
「風立ちぬ」を図書館で借りて読んだ記憶です。
もうそれから、もう7年も経ちました。
文学館の先右側に、追分宿本陣跡「油屋」があり、
門前に明治天皇行在所の石碑がありました。
また、この本陣の建物の南側に、
戦争を避けて疎開して暮らした堀辰雄の家、
どちらかと言えば粗末なブルーがかった家もありました。