みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2002年出雲と松江旅行記パート5

2008年11月28日 21時42分59秒 | 旅行記

 わたしは、出雲大社に観光バスで巡った後、ワイナリーImg_0002 などに行くべきはずを、自分だけ抜けて日御碕へ向かいました。

石造りで東洋一と言われる、地上から灯下まで高さ38、8メートル、水面下から灯下まで63メートルの白亜の灯台が島根県最西端にあります。

バスで小糠雨の中、行くと淋しくて、どうかしそうなくらいの気分になりましたが、ウミネコが静かに迎えてくれました。「経島」と言われています。

小さな漁船がたくさん並んでいて、海はどんよりした景色をしていました。遊歩道がありますが、誰も歩いていません。

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おみやげ物やさんも閑散としていました。しかし、「おいら岬の灯台守は妻と別れて・・・・」などという古い歌を思い出しながら口ずさみ、進んで行きました。Optio430_02032830_064

到着すると、中を上がれると聞き、猛然と昇りました。

灯台の上から荒海を眺めて、必死にカメラのシャッターを押しましたが、あまりいい映像が映りません.。しかし、胸の内は感動で震えていました。                                      Optio430_02032830_065

こんなところまでやっと来たんだ、灯台は船を導く重要な場所であり、初点灯は明治36年4月1日で、当初は人がいたことでしょう。厳しい寒さと風に当たりながら、わたしの胸はいっぱいになりました。

そこから、日御崎神社へ向かいました。今の社殿は重要文化財で、朱塗り。徳川家光の命令で松平直政が10年がかりで造営したと言われています。華麗な権現造りで、最初は1000年以上も前に天照大御神を祀る下の宮と須佐之男命を祀る上の宮でできた古い社だったらしいのです。                    Img_0005

毎年旧暦十月を神無月と言いますが、出雲ではこの神在月に日御崎龍蛇神は、海神綿津美神(わだづみのかみ)のお使いとして海中から日御崎の海浜に上陸なさります。

実はラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が言うことには、八百万の神様を龍神が諸国から乗せて集合させるという言い伝えがあり、イザナギとイザナミも龍神に乗っていたそうです。

Img_0004 出雲では、白蛇を漁師が捕らえて、漁民がこれを海藻に包んで奉戴し神社に献納します。神社ではすぐに三宝に奉安し、祭典を行って神前に奉告します。

出雲大社でもこうした事が行われ、わたしが個人的に読んだ本の記憶を辿ると、「わだづみのみや」というのは、浦島太郎伝説に出てくる海底の国のことであり、これは日本民族の神は海を渡っておでましになるということではないかと言うことでした。

飛鳥時代には、史書によると、もう日本人が常世の国を「わだつみのくに」と言うようになったようですが、実は別であると折口信夫氏は述べ、日本人の祖先は海を渡って来たことを表しているのではないかと思われます。いつのまにか、天孫降臨というように天から降りて来たことになっていますが、実際は日本人の祖先は海から来たのでしょう。

脱線しましたが、海神のお使いの役を果たされた龍蛇神をImg_0006 神社では、火難水難から守る神様として祀られています。

こちらの神社には、昭和天皇もおいでになったそうで、その記念碑がこちらの写真になり、平和を祈る御歌が刻まれていました。

こちらの日御崎神社の中には、素晴らしい絵があるそうで、それを拝見したくて中に入り、神主さんに拝見したいと願い出ると、

「その絵は日露戦争の日本海海戦の日にしか公開されません」

というお答えで、実にがっかりしました。秩父宮様お手植えの松が、随分大きく生長していて、時代を感じながら、ぼんやりと境内に佇み、昭和天皇は最後まで日本の独立のことを気に掛けておいでで、日本海をはさんで外国と対峙していることを心配なさっていたのだろうかと漠然と思案しました。

いつまでも寒く天候の悪い中、歩いていられず、市営のバスまで戻りました。

続く


2002年出雲と松江旅行記パート4

2008年11月27日 19時17分35秒 | 旅行記

日本最古の神社、杵築大社(出雲大社)へ向かいました。アイルランドから移住して来たギリシャ人の血筋を持つラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、「日本民族の発展の初めの地」と述べています。

ギリシャ神話にも同じ様な話があるのですが、亡き妻を取り戻そうとイザナギは妻のイザナミを黄泉の国へ探しに行きます。「古事記」の有名なお話があります。その黄泉の国を支配するのが大国主尊ということになります。

10月は出雲では「神在月」と言います。八百万の神様達が集まって来ます。この国のその後を相談するためです。さて、今後のこの迷走している日本はどうなるのでしょうか。

出雲大社には千家さんという宮司さんがおいでになり、天皇家といえども大社の中には入れないそうです。古代の国譲りの時にどういう約束が取り交わされ、中はほんとうにどうなっているのでしょう。昔、松江のある殿様が無理に大社の戸を開けさせたところ、大蛇が火を吹いていて、驚いてやめて、信仰篤くなったと言われています。

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上の写真の傘をさして、紫の袴をお召しになった方が宮司様だと思われます。明治の最初の頃、ハーンが逢った時は、土地の生き神様のように尊崇を集めておいでだったそうです。

手水のところに、その時の第80代出雲国造千家尊福公詠という板があり、

「霜雪にしをれぬ松の操こそ春の先にあらはれにけれ」

と書かれてありました。大社には、大きな鳥居がありまOptio430_02032830_049_2 すが、広場のような場所からずっと奥の松林の方まで続いていて、昔は松江の殿様クラスの方しか通れなかったそうです。そこをずっと辿って、歩いて行き、原始宗教の名残を拝見しました。

つまり、男女和合して、豊穣と子孫繁栄を祀るような置物がいくつも並べてあったりして、小さな場所で祀られてあったのです。庶民が今も祀っているのでしょうか。

松林は昔はわたしなぞ、歩くことも許されなかったのです。不思議な感慨に打たれました。

Optio430_02032830_057 ハーンは、千家尊紀氏に案内されて、初めて昇殿を許された外国人でした。彼が松江や出雲に特別な感慨を抱いたのは奇跡的な境遇からして、驚くべき事ではないかも知れません。

社の中にさらに小さな社があって、何を祀っておいでだろうと、小糠雨に打たれて眺めていました。

有名な、注連縄は大きくて太く、普通の神社と巻き方が逆です。中では結婚式を挙げている方々がいました。ステンドグラスの教会のような様子でした。

Optio430_02032830_056 ここで、四回柏手を打つのですが、二回は自分の幸福のため、あと二回は相手のために打つらしいとハーンが述べていました。

荘厳な中に、現代的な部分を垣間見て、うーんと時代を感じました。ここには古い因習とか、古い怖いお話など飛んでいってしまうような明るさがありました。

宮司さんの千家さんのお宅の前を通りました。千家尊紀氏は、千家尊福氏の弟さんです。

千家尊福氏は、出雲国造家に生まれ、教派神道系出雲大社Optio430_02032830_059 を創始し、埼玉県・静岡県知事、東京府知事、司法大臣を歴任しました。

今も埼玉県の大宮の氷川神社の古い碑には、千家氏の名前が残っています。ここは、大正天皇が守護神として大事になさったらしいです。

出雲には、仏教徒もおりますが、なぜか浄土真宗だけはないそうで、その理由は神道を宗教とすることに抵抗があったらしいのです。今はどうなのでしょう。わかりません。

伊勢神道に対して、出雲神道もあったわけですね。たいへんな勢力を持っていたと言われます。ここに平田篤胤の思想が入っていたらしいのですが、わたしは詳しいことは存じません。

ただ、ハーンはギリシャ神話の世界が廃墟して存在するだけだったのに対して、明治の当時に宗教として生活に息づいていたことに驚愕し、賛嘆したらしいようです。

わたしは、何か背中がぞくぞくしてきましたが、古い大社を眺めて、大黒様の宝物館などを見学して、奈良の東大寺の建築の柱に、この出雲大社の建築技術が生かされていたらしいことを知り、たいへん感動しました。

そして、現在の皇后陛下の講話の冊子をいただいて参りましたら、気分が柔らかくなりました。

大社の横側で眺めていると、イギリス人らしき男性が、大社に向かって、手を合わせていて、はっとしました。ちょうど下の写真のところです。

きっといろいろな知識があってのことと、推察しました。

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わたしは、ほんとうに中はどうなっているのだろうか、パンドラの箱のようなものなのだろうか、と想像して、遠くから眺め、千家さんと知り合って、ハーンは何を知ったのだろうかとふと思いました。

これだけの文明を持った民族が昔いたことに、日本人とは言え、失礼な言い方ながら、なにか得体の知れない不思議なものを眺めた気がしました。古代史は、だから謎に包まれて、人の心を捉えるのでしょうか。日本が安泰でありますように、そう思って立ち去りました。

この世には、「顕」界と「幽」界と両方があるのでしょうか。わたしの頭では本を読んでもあまりよく理解できませんでしたが、神道の非常な古さと荘厳さを感じさせるものでした。

続く


2002年出雲と松江旅行記パート3

2008年11月20日 18時52分46秒 | 旅行記

次ぎに、面積約6キロの松江市と陸続きの大根島へ向かいました。玄武岩を基盤とした溶岩台地で、牡丹の花と高麗人参の栽培で有名です。

グリーンテラスでは、温室の大輪の牡丹を観賞しまOptio430_02032830_035_3 した。松江藩主松平不昧公が愛した花で、王者の品格があります。

色とりどりで大輪、いかにも殿様が豪快にお好きな花のようです。

わたしは、花にたとえてもこんなに豪華な人ではないので、そのゴージャズな雰囲気に圧倒されました。

しかし、花というのは、どういう種類でも心和むものです。

次ぎに向かった、由志園という回遊式庭園は、一万坪もある日本庭園で、たいへん見事でした。昭和50年門脇栄氏が、築造したものです。

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わたしは、父親が高麗人参を以前飲んでいたことがあったので、知っていましたが、非常にお値段が高く、やはり名薬は手頃ではないのだなあと痛感しました。

その日は、その後、宍道湖の夕日を拝見したかったのですが、残念ながらまっすぐ玉造温泉へ行きました。

『枕草子』の中にも記述があり、清少納言も浸かった湯だったのでしょうか、白色ですべすべと滑らかで、気持ちのいい湯でした。

遠くへ来た感慨と、明日の出雲大社への期待などで胸が高鳴り、静かな夜を迎えました。

続く


2002年出雲と松江旅行記パート2

2008年11月10日 21時30分42秒 | 旅行記

バスで、八重垣神社を後に、安来市にある足立美術館へ向かいました。

郷土の故足立全康氏の膨大な日本美術のコレクションを収蔵しています。

お庭が見事な作りで、感動しました。

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さて、お庭は遠くの山を借景に、池は青々として緑濃いのです。

わたしは作品を感嘆して眺めていましたが、昭和14年だったか、馬の立派な絵が描かれてあって、なぜか非常に印象的で、戦前のこれだけの見事な絵が残っていて、作家の感性がどこか凛として、素晴らしいと思いました。

多くの絵を拝見したのに覚えていたのは、戦争勃発の直前の絵だからでしょう。Optio430_02032830_019 わたしはアメリカ文化が流れて来て、日本の昔の風情が失われていくのがちょっと悲しく思っていたので、けしてアメリカがすべて悪いというのではなく、日本人が持っている繊細な感性を感じながら、美術館を堪能したのです。

最近の若い女性を見てどんなに綺麗でもがっかりする姿があります。足を広げているのです。スカートをはいたら、膝はつけるべきなのに足を広げている姿は、あまりにだらしがないと思います。

そういう意味では、昔の女性像の見せる「恥じらい」という表情を思い出させてくれる日本女性の絵画も幾つかありました。これだけの作品が揃っているのは並大抵ではないと感心しました。

次ぎに、清水寺へ行きました。桜が咲き始めていて、Optio430_02032830_023 風情がありました。6世紀に開かれた山陰屈指の天台宗寺院です。尼子・毛利の戦で本堂以外は焼失しましたが、毛利氏が現在の堂宇を償って再興したと言われます。

室町時代建造の本堂は重要文化財、山陰唯一の三重塔は天保年間築造。思わず、三重塔を見上げて、遠く東京からはるばる来たなあと感慨に浸りましたが、わたしのことです。

バスの帰宅時間いっっぱいになる前に、慌てて猿飛び佐助のように急階段を駆け下りて、名茶室で有名な古門堂のある、蓮乗院へ駆け込みました。

右上のような高い場所にあるところから、階段を飛ぶように下りて行きます。

Optio430_02032830_022_2 蓮乗院ではご住職がおいでになり、「よくおいでになった」と出迎えてくださいました。

「ほんとうはここに来るべきものなのに、観光客は素通りでね。さ、お上がりなさい」とおっしゃられました。

書院造りの本坊は江戸末期のもので、歴代の松江藩主がしばしば訪れたところです。

まず、ここでお茶とお菓子をいただきました。

囲碁の道具と、馬の置物が部屋にあり、懐かしく拝見しました。いかにも馬を大事にするところが武士らしいと思いました。また、囲碁は昔は武家や公家の娯楽でもあり、頭脳を鍛えるのにもいいものです。亡き祖父がよく囲碁を打っていたので懐かしさでいっぱいになりました。

 それから、古門堂へ。室町時代末期の築造をそのまま残す鶴亀の庭があります。

ご住職がおっしゃるには、鶴は男性・亀は女性で、男女を表しているらしいのです。

わたしがお庭を拝見しようとすると、次の方のため、草履を置いて自分の草履を揃えるように躾けてくださいました。こういうひとつひとつが大事な教育になるのでしょう。

Optio430_02032830_033 紅葉の頃は見事なことでしょう。

さて、古門堂はその茶開きの正客として松平不昧公を迎えて大茶会が催されたそうです。

茶庭には男滝・女滝を造り滝にして、陰陽を表現しています。

古門堂は、大門の廃材を使用して建立されました。坪約三坪の草庵。

さらに、茶室へ入れてくださいました。撮影していいとのことで、デジカメに納めました。

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わかりにくいかも知れませんが、右のあんどんは貴重なものです。

1.98メートルの正立方体の室内空間は、角柱とこの右上の丸柱の数を持って、天地・四方八方を意味し、宇宙空間を表現しているそうです。

中央の丸柱のあんどんの灯が宇宙空間の太陽を表現しているらしく、名茶室として名高いのですが、時間がそうなく、急いで拝見しました。

茶道に詳しくないので、あれこれいいことを言えず残念ですが、憩いの空間があり、そこに仏教の教えが静かに形になっていました。

親切なご住職に感謝して、バスへ戻りました。こういう場所こそ、静かに拝観したいところでした。