さて、明々庵に到着して、前回にこの茶 室建立の話と、 数奇な運命をお話したが、今回は、実際に中身を見てみましょう。
「明々庵」は南堂清欲禅師に古喝「明々古仏心、的々師意」(みなりん思案:目の前にはっきりと見えている自然界には古い仏の慈悲の心が見え、そこに明らかに真実の教えが現れている。森羅万象に古からの仏の要点が見てとれるということ)から命名したと言われます。
不昧29歳の時のもの。
大戦後、管理が行き届かず荒廃していたのを、昭和41年、不昧公150周年祭を機会に現在の赤山の台に移されました。
ここに、不昧公の直筆で、宗易南坊連名の茶会大法七箇条 の懸板を掲げます。そして、「明々庵」三字の自筆は、安永8年の銘があります。釜・雲板・水屋の甕にも、みな自筆「明々庵」の三字が刻まれているそうです。
庵の旧形を残すのに苦心の痕がが随所にあり、壁竹の中に鉄線を入れて堅牢にし、柱梁棟などすべて楔止めなく、ひとつも釘を用いなかったのです。
その鎖の間の床の屋根には、京の小瓦を用い、庵の後方の屋根の裾には出雲古瓦を用いました。
また、鎖の間の南面の袖垣を新たに設け、表土壁、裏杉皮として、その欄間に芝天徳寺内の不昧翁廟にあった彫刻を入れたことらしいです。あるいは一説に名工小林如泥の作であろうと伝わっています。
一応、こんな解説しか書けないのですが、詳細はよくわかりません。
庭にも灯籠はじめ、有名な方のものがごろごろ昔はあったようですし、美しい庭だったらしいのですが、今はどこがどれかよく自分には理解できませんでした。
わたしは、隣接の「茶室百草亭」で、お茶と和菓子をいただき ましたが、もてなしてくださった、にこやかな女性の感じが忘れられません。
わたしはここでしか販売されていない干菓子を友人のお土産のために購入しました。
想像するに、「百草亭」という名も、禅語の「明々百草頭、的々師意」という言葉の「百草」から命名されたのかなと、思いました。
さて、ここからが友人を説得するのに苦労した場所で、長い道のりを歩いて、普門院へ参りました。友人が怪訝に思っていたのは知っていましたが、ここの茶室も見る価値が有るというと納得してくれました。観田庵は、今回諦めざるをえませんでした。
普門院は、累代藩主の祈願所として尊崇を集めた場所でした。今から400年前松江初代藩主堀尾吉晴公が、松江城鎮守のために開いたと言われています。
不昧公の信任篤い、三斉流の荒井一掌の好みだそうです。
そして、小泉八雲はこの観月庵でお茶の手ほどきを受けたらしいのです。。
普門院の附近に、小豆磨ぎ橋というところがあって、それが 右の写真になります。
夜毎、ここに女の幽霊が出没し、「杜若」という謡を謡うと、怒って祟ると言われていました。
最初は、きちんとした由来があったそうですが、今ではわかりません。
ある時、物に動じない侍が堂々とここで謡い、何もなかったと笑って帰宅すると、門前に綺麗な女が立っていて、文箱を差し出します。
侍が会釈をして受け取ると、女は消えてゆきます。
侍が箱を開けてみたところ、幼児の生首が入っており、侍が家に入ると、客間の座敷に我が子の胴体が転がっていたという、顔がひきつくような恐いお話でした。
一瞬、通るとき緊張しました。
ただ、この寺には日本野鳥の会の生みの親である中西悟堂氏が住職を大正時代なさっていて、多くの詩人・文学者が訪れたらしいです。
最初、訪問すると、チャイムが鳴るまでどなたもお出でに なりません。
「お茶室を拝見させていただきたく、東京から参りました」
と述べると、中に通してくださり、お庭を拝見していますと、
「昔は、ここで松平不昧公が観月をなされたが、今では、前にマンションが建ってしまってね。もういや・・・」
と言葉を濁しておいででした。
不昧公は、二帖の席に一間の深い庇をつけた内露地のあたりを賞したと伝えています。
席は、二帖隅炉と四畳半の席を組み合わせていて、中に書の額が飾ってありました。
東側に腰なしの障子二枚が開き、ここから東の空の月を眺めたとされます。
左の中窓から見る月が素晴らしかったらしく、窓は天井まで大きく開けてあって、二帖の席には大きすぎるほどであったのです。
住職さんに撮影していいですかと許可を得て、必死に手短にシャッターを切っていました。芸術性は高くないものの、大事な記念なので、こちらは懸命でした。
わたしは、最後に深々と頭を下げて、お礼を申し上げて去りました。
もうこれで、松江も最後の一日の終わりで、飛行機に乗らなくてはなりません。
バスに乗り込むと、河原に子ども達が集まって、「えい、やー」と剣道の練習をしていました。頼もしい感じを受けました。
宍道湖の傍を通り、ああ、夕日を見られなかったとか、ほかの寺に行きたい場所もあったのに・・・・と悔しい気分でしたが、今度来るときはレンタカーが必要だと思ったものです。
ただ、お茶室に飾られてあった、「和」と言う言葉が頭に焼き付き、松江がこれ以上、近代化されすぎて、良き景観が失われないことを願いました。
ああ、わたしが旅を出来るのは今度いつだろう。
そう言えば、島根県出身の方では、永井隆先生、中村元先生など、立派な方がおいでになります。
昔は、古事記や日本書紀など、ここには神様や祟りがあるというところに、実は製鉄の産地であったり、非常に重要な産業地帯に一般の人が立ち入らぬようなお話がたくさんあったことを知ります。
古代、そういうことを日本の天皇はすべて把握なさっていて、読み解けた方であったと思います。
慌ただしい旅で半分も拝見できず、残念です。これは2002年のお話で今は様変わっているのでしょうか。
弟が言うのは、どこまでも地平線が続き、海の幸山の幸に恵まれた古代人には住み易い場所で、トンネルがあればすぐ他県の大都会へ出られるのに、ぐるっと廻っていかざるをえず、だからこそ、古代の遺跡や古い風習が残っていたのであろうと話していました。
さようなら、出雲、松江。また機会があれば、伺いましょう。
最後に、これは現在、最近知った内容ですが、小泉八雲は、東京大学の講義で、生徒にシェークスピアの「リア王」を最高傑作と見なしたと述べたと言うのは、怪談のあの悲しい世の不条理というか、言葉や論理で説明できないことが世の中には多数有ると言いたかったように感じます。
また、喜劇で一番いいと推薦した作品「尺には尺を」から、
「かつてこの世に生きた者は、みな一度は罪のために 失われた。ところが当然罪を与えてよいはずの神様は、かえってあがないの道を示して下さった。・・・・それを思えば、おのずと慈悲の言葉もそのお口から漏れようはず、新しく生まれ変わった人にふさわしく。」
という台詞を聴いて、なんだかハーンのキリスト教嫌いが違う根拠になるように思えてならないのです。
まだ、「尺には尺を」を読み終えていないものの、リア王も内容もそうですが、倫理の規範や人間の愚かしさや本来のありべき姿を冷静に描き出しているようで、ハーンが褒め称えるのも無理はないと思います。
ハーンは、生徒に「わたしはイギリス人です」と自分を紹介していました。
そこには、こういう文学を持った自国にも誇りを持っていたのでしょう。
ただ、彼は、日本に自分の母親を想起させるギリシャを思い、 慕っていたのかも知れないと思います。
先日、能の「葛城」を鑑賞し、雪深い山に雪女が物寂しく登場し、橋懸りをづしづと去る後ろ姿に、ハーンがもし知っていたなら、父親と離縁して自分と離れて去った実母を、雪深い松江で想起しただろうと、なんともいいがたい風情を感じました。怪談の「雪女」の発想もこのあたりに感銘を受けていないでしょうか。
能をハーンが拝見したというのは、わたしの読んだ本からあったかわかりませんが。
みなりん要約
出雲再訪より
○私が出会うのは(この出雲へ来てまた思った)、旧時代の日本 最後の面影だろう。古き良き日本は滅び、西洋人にとっての古代ギリシャのように、人の信仰(こころ)と芸術の物語に永遠の生命を得るであろう。この世の日々の美しさを楽しみ、自然の四季折々の詩に満ち足りて、仏教の慈愛の教えにひたすら帰依する古き日本よ。・・・・・単調な軍国主義的な扇動に煽られた、新しい日本はわたしを呑み込もうとしている。これからどうなるのか。
東京へ向かうわたしの心に写るのは日本のかつての古き良き面影のみである。
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わたしは、思いました。時代が変貌しても、日本の古典文学は子どもに読み継がせなくてはならないし、世界の古典文学も知っておくべきだろうと。
過ぎ去った良き思い出は、「こころ」の奥に秘めておくべきものだからと。新しい時代のためにも忘れてはならない大事な教えもあるのだからと。
終わり