みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2002年出雲と松江旅行記パート12完結編

2009年02月25日 12時28分25秒 | 旅行記

さて、明々庵に到着して、前回にこの茶 室建立の話と、Img_0013 数奇な運命をお話したが、今回は、実際に中身を見てみましょう。

 「明々庵」は南堂清欲禅師に古喝「明々古仏心、的々師意」(みなりん思案:目の前にはっきりと見えている自然界には古い仏の慈悲の心が見え、そこに明らかに真実の教えが現れている。森羅万象に古からの仏の要点が見てとれるということ)から命名したと言われます。
 不昧29歳の時のもの。

 大戦後、管理が行き届かず荒廃していたのを、昭和41年、不昧公150周年祭を機会に現在の赤山の台に移されました。
ここに、不昧公の直筆で、宗易南坊連名の茶会大法七箇条Optio430_02032830_127 の懸板を掲げます。そして、「明々庵」三字の自筆は、安永8年の銘があります。釜・雲板・水屋の甕にも、みな自筆「明々庵」の三字が刻まれているそうです。

 庵の旧形を残すのに苦心の痕がが随所にあり、壁竹の中に鉄線を入れて堅牢にし、柱梁棟などすべて楔止めなく、ひとつも釘を用いなかったのです。
 その鎖の間の床の屋根には、京の小瓦を用い、庵の後方の屋根の裾には出雲古瓦を用いました。

また、鎖の間の南面の袖垣を新たに設け、表土壁、裏杉皮として、その欄間に芝天徳寺内の不昧翁廟にあった彫刻を入れたことらしいです。あるいは一説に名工小林如泥の作であろうと伝わっています。

 一応、こんな解説しか書けないのですが、詳細はよくわかりません。
庭にも灯籠はじめ、有名な方のものがごろごろ昔はあったようですし、美しい庭だったらしいのですが、今はどこがどれかよく自分には理解できませんでした。
 
 わたしは、隣接の「茶室百草亭」で、お茶と和菓子をいただきOptio430_02032830_128 ましたが、もてなしてくださった、にこやかな女性の感じが忘れられません。
わたしはここでしか販売されていない干菓子を友人のお土産のために購入しました。

想像するに、「百草亭」という名も、禅語の「明々百草頭、的々師意」という言葉の「百草」から命名されたのかなと、思いました。

 さて、ここからが友人を説得するのに苦労した場所で、長い道のりを歩いて、普門院へ参りました。友人が怪訝に思っていたのは知っていましたが、ここの茶室も見る価値が有るというと納得してくれました。観田庵は、今回諦めざるをえませんでした。

 普門院は、累代藩主の祈願所として尊崇を集めた場所でした。今から400年前松江初代藩主堀尾吉晴公が、松江城鎮守のために開いたと言われています。
不昧公の信任篤い、三斉流の荒井一掌の好みだそうです。
そして、小泉八雲はこの観月庵でお茶の手ほどきを受けたらしいのです。。

普門院の附近に、小豆磨ぎ橋というところがあって、それがOptio430_02032830_131 右の写真になります。
夜毎、ここに女の幽霊が出没し、「杜若」という謡を謡うと、怒って祟ると言われていました。
最初は、きちんとした由来があったそうですが、今ではわかりません。
ある時、物に動じない侍が堂々とここで謡い、何もなかったと笑って帰宅すると、門前に綺麗な女が立っていて、文箱を差し出します。
侍が会釈をして受け取ると、女は消えてゆきます。
侍が箱を開けてみたところ、幼児の生首が入っており、侍が家に入ると、客間の座敷に我が子の胴体が転がっていたという、顔がひきつくような恐いお話でした。
一瞬、通るとき緊張しました。

ただ、この寺には日本野鳥の会の生みの親である中西悟堂氏が住職を大正時代なさっていて、多くの詩人・文学者が訪れたらしいです。

最初、訪問すると、チャイムが鳴るまでどなたもお出でに なりません。
「お茶室を拝見させていただきたく、東京から参りました」
と述べると、中に通してくださり、お庭を拝見していますと、
「昔は、ここで松平不昧公が観月をなされたが、今では、前にマンションが建ってしまってね。もういや・・・」
と言葉を濁しておいででした。

不昧公は、二帖の席に一間の深い庇をつけた内露地のあたりを賞したと伝えています。
席は、二帖隅炉と四畳半の席を組み合わせていて、中に書の額が飾ってありました。
東側に腰なしの障子二枚が開き、ここから東の空の月を眺めたとされます。

Img_0001

 左の中窓から見る月が素晴らしかったらしく、窓は天井まで大きく開けてあって、二帖の席には大きすぎるほどであったのです。

 住職さんに撮影していいですかと許可を得て、必死に手短にシャッターを切っていました。芸術性は高くないものの、大事な記念なので、こちらは懸命でした。

 わたしは、最後に深々と頭を下げて、お礼を申し上げて去りました。
もうこれで、松江も最後の一日の終わりで、飛行機に乗らなくてはなりません。
バスに乗り込むと、河原に子ども達が集まって、「えい、やー」と剣道の練習をしていました。頼もしい感じを受けました。
 宍道湖の傍を通り、ああ、夕日を見られなかったとか、ほかの寺に行きたい場所もあったのに・・・・と悔しい気分でしたが、今度来るときはレンタカーが必要だと思ったものです。

 ただ、お茶室に飾られてあった、「和」と言う言葉が頭に焼き付き、松江がこれ以上、近代化されすぎて、良き景観が失われないことを願いました。
ああ、わたしが旅を出来るのは今度いつだろう。
そう言えば、島根県出身の方では、永井隆先生、中村元先生など、立派な方がおいでになります。

昔は、古事記や日本書紀など、ここには神様や祟りがあるというところに、実は製鉄の産地であったり、非常に重要な産業地帯に一般の人が立ち入らぬようなお話がたくさんあったことを知ります。
古代、そういうことを日本の天皇はすべて把握なさっていて、読み解けた方であったと思います。

慌ただしい旅で半分も拝見できず、残念です。これは2002年のお話で今は様変わっているのでしょうか。
弟が言うのは、どこまでも地平線が続き、海の幸山の幸に恵まれた古代人には住み易い場所で、トンネルがあればすぐ他県の大都会へ出られるのに、ぐるっと廻っていかざるをえず、だからこそ、古代の遺跡や古い風習が残っていたのであろうと話していました。

Img_0002

さようなら、出雲、松江。また機会があれば、伺いましょう。

 最後に、これは現在、最近知った内容ですが、小泉八雲は、東京大学の講義で、生徒にシェークスピアの「リア王」を最高傑作と見なしたと述べたと言うのは、怪談のあの悲しい世の不条理というか、言葉や論理で説明できないことが世の中には多数有ると言いたかったように感じます。
 また、喜劇で一番いいと推薦した作品「尺には尺を」から、

「かつてこの世に生きた者は、みな一度は罪のためにOptio430_02032830_136 失われた。ところが当然罪を与えてよいはずの神様は、かえってあがないの道を示して下さった。・・・・それを思えば、おのずと慈悲の言葉もそのお口から漏れようはず、新しく生まれ変わった人にふさわしく。」

という台詞を聴いて、なんだかハーンのキリスト教嫌いが違う根拠になるように思えてならないのです。
まだ、「尺には尺を」を読み終えていないものの、リア王も内容もそうですが、倫理の規範や人間の愚かしさや本来のありべき姿を冷静に描き出しているようで、ハーンが褒め称えるのも無理はないと思います。
ハーンは、生徒に「わたしはイギリス人です」と自分を紹介していました。
そこには、こういう文学を持った自国にも誇りを持っていたのでしょう。

ただ、彼は、日本に自分の母親を想起させるギリシャを思い、Optio430_02032830_137 慕っていたのかも知れないと思います。

先日、能の「葛城」を鑑賞し、雪深い山に雪女が物寂しく登場し、橋懸りをづしづと去る後ろ姿に、ハーンがもし知っていたなら、父親と離縁して自分と離れて去った実母を、雪深い松江で想起しただろうと、なんともいいがたい風情を感じました。怪談の「雪女」の発想もこのあたりに感銘を受けていないでしょうか。
能をハーンが拝見したというのは、わたしの読んだ本からあったかわかりませんが。

みなりん要約

出雲再訪より

○私が出会うのは(この出雲へ来てまた思った)、旧時代の日本Optio430_02032830_138 最後の面影だろう。古き良き日本は滅び、西洋人にとっての古代ギリシャのように、人の信仰(こころ)と芸術の物語に永遠の生命を得るであろう。この世の日々の美しさを楽しみ、自然の四季折々の詩に満ち足りて、仏教の慈愛の教えにひたすら帰依する古き日本よ。・・・・・単調な軍国主義的な扇動に煽られた、新しい日本はわたしを呑み込もうとしている。これからどうなるのか。

東京へ向かうわたしの心に写るのは日本のかつての古き良き面影のみである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしは、思いました。時代が変貌しても、日本の古典文学は子どもに読み継がせなくてはならないし、世界の古典文学も知っておくべきだろうと。

過ぎ去った良き思い出は、「こころ」の奥に秘めておくべきものだからと。新しい時代のためにも忘れてはならない大事な教えもあるのだからと。

終わり


2002年出雲と松江旅行記パート11

2009年02月24日 07時20分41秒 | 旅行記

田部美術館には、松平不昧公の祖母が伏見宮邦永 親王の王女だったため、展示室に、親王筆の和歌が掛け軸として、かかっていました。皇室とも縁が深いのです。

「通しありて めくみあまねき 世の春に たれもたのしむ 心をそしる」

さて、松平不昧とは、どういう意味か。実の名は、治郷(はるさと)と言います。「不昧(ふまい)」の号は、南宋の無門慧開禅師の著、『無門関』の中から、不落不昧(*みなりん訳:間違っていたらごめんなさい。・・・すたれることなく、むざぼることはない)からとったもので、禅学の師である麻布(訂正)天真寺九世、宗碩禅師から授かったとされます。

日本は、古より皇室を重んじてきた過去Img_0003 があり、明治時代には、出雲大社でもそれは例外ではありません。

「霜雪にしをれぬ松の操こそ 春の光にあらわれにけれ」第80代出雲国造千家尊福公詠

この歌は、手水鉢の柱に記載されていたものです。

右の写真は、大国主命の銅像です。この方が因幡の白兎を助けた方になります。わたしは、ここまで来たと思うと感動しました。

 当時、出雲に赴任した外国人講師で松江の島根尋常中学校教師だった小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、生徒に作文をかかせたところ、生徒達の多くが「いつか天皇陛下のために命を捧げる」と書いていることに驚き、それを頭から否定するのではなく、軍隊へ入って命を捧げることがすべてではなく、何が大事か、お別れの日の言葉にこういうようなことを述べています。

○ハーンの生徒へ贈る言葉(みなりん要約)

要するに、みなさんの作文を読んで思ったのは、天皇陛下のために死にたいという希望は尊いが、成長し賢くなれば、重大な国家的危急の時に天皇や国家がみなさんの血を要求することがあるかも知れないけれども、わたしは日本にはそういう時はけして来ないと信じています。

そこで、気高く国民生活の指針ともなるべきみなさんの願望は、「国のために死ぬことではなく、国のために生きることです」。

どんな職業の人でもその仕事の発展向上に最善を尽くす人なら、義務のために命を捧げる軍人に負けない忠実さをもって、天皇と国とに命を捧げることになります。

つまり、軍人になって死ぬことは非常事態のみであって、あってはならないことで、生きぬくことを思案することが大切なのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

 わたしは、はっきり申して、茶道に詳しくなりたいものの、経済的な理由で、習い事はできません。奥は深く、習っても日本のお稽古は月謝以外の心配りが必要だからです。でも、茶道は禅に通じていて、和歌とともに日本の大切な伝統Img_0025 になります。

 *突然ですが、写真で探していたら、武家屋敷の井戸の光景のある写真が出てきたので、お見せしましょう。右です。

わたしの古い東京の家にも、中庭に井戸があり、そこはまるで東京ではないような光景でした。実際に今でも使用できますが、昔はそこで水を汲んで、祖母と洗濯をしたものです。薪を割り、風呂で焚き火をしたことを懐かしく思い出します。

○本題に戻ります。

 昔の武士は、お茶室に入る前に刀を預けて(下の写真がお客さんが刀を置いて待つ場所)、にじり口からどんなに偉い人でも扇をまず入れて、頭を低く下げて、謙虚な気持ちで茶室へ入ります。そして、そこでは殿様も臣下も関係なく、風雅を味わい、深い中身のある会話を交わしたようです。日本人にとって、茶道はきらびやかな着物を着て外交辞令を述べるのではなく、そういう謙虚で慎ましOptio430_02032830_080 い修身の場・身分を越えた交流の場でもあったと思われます。

 「武士道とは死ぬことと見つけたり」というのを勘違いしている方もいるので、敢えて知っている方の前で言いますが、これは「いつも死ぬことを念頭に置いて最後まで恥ずかしくないように身を引き締めて生きなさい」というような意味で、「忠君のため死になさい」という意味ではありませんよ。

 自分の身を処すことを武士は重んじて、こういう茶室で、心静かに人と心の交流をし、自分を戒めたのでしょう。

茶室の掛け軸には、禅の法語が書かれてあるのはそういう心得の確認でもあったようです。

 「不審庵」という出雲の茶室には、不昧公自筆の「庭前栢樹子」という一行書が蔵されているそうですが、現在はどうなっていることでしょう。

また、和歌をここでもお詠みになり、

「常磐なる松のみどりも春くれば今ひとしほの色まさりける」

と認めたそうです。

 不昧流の茶室はどういうものかと尋ねられれば、不昧は諸流みな我が流であるという根本の上に立ち、何流を問わず、その茶道の本旨に適い、「清楚質朴」で「侘び」の体が十分に備わり、露地その地勢に適応して「雅趣」を具するものは、すべてみな不昧公の好みであると言われています。

 茶室も、廃材を有用に使用して利用するようなものが、不昧公の意に適っていると言います。これは、自然環境に優しく、実に現代人に必要な心構えですね。

*参考書「松平不昧公傳」

もし、それを強いて不昧公の好みの茶室を具体的に示すものがあれば、大崎名園内の為楽庵始め、その他園内にある茶室でした。これは大名茶苑として江戸第一と賞賛されていましたが、幕末の激動の中、幕府の命令により、東京の大崎にOptio430_02032830_086 砲台を設置するため、なんと取り壊されてしまったのです。

 節の多い、長柄の橋杭の古材を用いたことで知られます。惜しく思った方々により、当時の拝見記など基礎資料によって、平成3年に出雲文化伝承館に「独楽庵」を復元した(右の写真)のです。これによって、晩年の不昧公の数寄心を探れると、元出雲文化伝承館館長の藤間亨氏は述べていました。

右の写真は独楽庵です。

 さて、わたしは、その後、明々庵に伺いました。塩見縄手から坂道を上り、到着すると、真っ正面に松江城を遠く望むことができました。

 不昧公好みの茶室のひとつであり、明々庵は、もと家老の有澤弌善(かずよし)のために設計したもので、松江殿町の本邸にありましたが、明治維新後旧藩士渡辺善一の手に渡り、その荒廃するのを恐れて、松原瑜洲がこれを求めて、Img_0055_3 東京都の現在の原宿の自邸に移しました。

 その時、松原氏の知人であった日本郵船会社の社長の岩崎男爵にこれを相談し、日本郵船に託して海路幾百里、たいへん丁寧に茶室を輸送しました。

会社は知らなかったため、多額の運賃を請求しましたが、岩崎男爵はすでに亡くなり、困っていたところ、その夫人が知っていたので、海上の賃金200金は岩崎家が負担して払ったと言うことです。

 松原氏が払ったのは、東京湾から原宿までの運賃と建立費で済みました。
 松原氏は、この厚意に謝意を表し、自邸に客が来ると、この話を語ることを必ずしたと言われます。

 その後、大正4年11月松原氏は、公従三位に贈位されて不昧公への感慨が深まり、ついに意をけっして松平家に献納することになります。
 現在は、ここ島根県の松江のここへまた戻されると言う数奇な運命を辿りました。

上の写真が、明々庵から拝見した松江城です。綺麗に撮影できて、非常に嬉しく思います。お茶室については、また今度。続く。
                                    

 


2002年出雲と松江旅行記パート10

2009年02月22日 09時26分39秒 | 旅行記

さて、武家屋敷から、田部美術館へ向かう。

美術館では写真を撮影するわけにはいかなかったので、しかたなく、右の写真は、足立美術館にあったお茶室の写真をみなさまに楽しんでいただきます。「寿立庵」。

田部美術館は、日本屈指の山林王、田部家のコレクションの中から、特に茶器類を中心に展示されている。

布志名焼(江戸時代は松江藩御用窯として開かれた窯場Optio430_02032830_004 で不昧公好みであり、海外へも輸出されたが、一時廃れた。バーナード・リーチらによって英国では高く評価されて、その後、英国風に復興)や楽山焼(松江市西川津町の楽山公園の一角にある窯元。楽山は松江藩ニ代目綱隆以来、藩主の別荘地であったところで御山ともいわれ、楽山焼は御山焼とも呼ばれたが、一時廃れて松平不昧が再興した)の器が多く、松平不昧公の愛蔵品などが数多く陳列されている。

 もうほとんど記憶がないが、松平不昧自ら焼いた黒い茶器が心に残り、これに抹茶を入れて、若草色が引き立つかと想像していた。楽形茶碗で口周りを五岳につくる半筒茶碗。不昧24歳の作。布志名の土屋雲善が焼いたものであろうとされる。

 18歳で正式に茶道を石州流3代伊佐幸琢から学ぶ。この頃Optio430_02032830_007 から、大名数寄者の小堀遠州の茶風に傾倒し、その美意識に私淑している。

ただし、違う書物から、不昧は幼少の頃、遠州流不知庵の高弟であった、雲州茶道頭の正井通有について茶を学ぶと記載されている。どういうことで、こう記述に違いがあるかわからない。

 不昧は、憎いくらいの心遣いで、松平不昧の奥方が茶道の席で、茶碗に口紅の朱色が残るのを恥じて、紅を落として茶室へ伺うのを知ったので、安心して紅をつけられるように、茶器を清めるため使用するふくさの色を、赤にしたという有名な逸話が残っている。

 茶器を多く集めたことで有名だが、その保存でもいたく配慮なされた。贅沢と言うより、和敬静寂を基本にする茶道を大事にし、「名物は天下古今の名物Optio430_02032830_006_2 にして、一人一家一世のものにあらず」と述べていていたが、大正以降はそれが離散する憂き目に逢う。しかし、それまでは文化財保護の規範というべきものだったらしい。

 田部美術館には短時間しかいられず、うーんと目を凝らして眺めていたが、自作の黒い茶器が妙に印象的だったとしか記憶にないのである。禅宗に目覚め、「知足悟道」を心がけたと言われる不昧公だが、日本は宗教とともに「礼節」を大事としたと言う。

  幸いなことに、日本の観光名所のお茶室で、「わたしは茶道の心得がないので、失礼を致します」と一言述べると、綺麗な和服を着こなされた女性はにこやかに、こちらへ恥をかかせないようにして接してくださる。出雲・松江でも、茶道をしている友人と、心得のないわたしを区別することは全くなかった。

  どこの国へ言っても、まず言えるようにすべきなのは、大事な「ありがとう」と言う言葉であると思う。

 今回は、若いお嬢さんと一緒で、旅は道づれと言うから、彼女はほんとうは嫌だったかもしれないが、わたしは内心一緒にいてくれて、「ありがとう」と感謝したい。  

 

 


2002年出雲と松江旅行記パート9

2009年02月18日 10時55分52秒 | 旅行記

Optio430_02032830_116 松江城のお堀の周りをぐるっと廻って、武家屋敷のほうへ向かいました。

桜が綺麗に咲いていて、春爛漫でした。松江は視界を遮る高層ビルはほとんどなく(いや、なかったと言っていいほど)、昔の日本各地もこういう感じかなあと思いながら、松江の街を歩いていました。大都会の高層ビルに見慣れた目には、穏やかで静かな街という感じで、なんだかほっとしたものです。

 超高層ビルは、なんだか異様な感じに思えて、わたしなどは恐いと思うことがあります。夜景は綺麗ですが、「ここから富士山が江戸からよく眺められた」という立て看板は東京の至る場所で見かけますが、今では実際見るのはなかなか難しいです。それほど、視界がきかないのです。ここでは、初めて出雲へバスで移動中に、Img_0016 窓から平地や田畑が広がって見えて、のどかな場所へやって来たと思いました。

 武家屋敷は、写真でご覧の通り、綺麗に保存されています。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の旧居跡もありました。まず、拝見した武家屋敷は、昔の様子が伺われ、貴重な建築物でした。古い大きな井戸があり、人が昔よく身投げしたという恐いお話も井戸にはあるということを想像させるような、非常にりっぱな井戸でしたが、ここではそんな実話はないことでしょう。

Img_0015_2昔は、家の中が薄暗く、畳も小さく、みなさんこじんまりと静かに生きていたのだと理解できます。こちらのお屋敷は大きなほうで、撮影を全部できなかったのは残念です。そう言えば、昔は一年に一度は必ず障子を貼り替えたりしたもので、襖が破れると、母と桜模様に切り紙をして張り付けたものです。こういう経験は、都会のマンション暮らしになるとなくなってしまいましたが、まだ日本間のあるお宅にはある習慣かも知れません。

Img_0018 左の写真は、吉川幸次郎氏が・・・と書いてあって、あれっと思い、撮影した石碑です。立て看板がありますが、有名な漢文学者の方の記念碑です。

右から読んで、「瀧川君山先生・・・・」と書かれた石碑になります。 塩見縄手の武家屋敷の母屋の裏手の庭にありました。

瀧川君山氏は、中国前漢の武帝の時代に編纂された「史記」の解釈をなさったので、それを顕彰したのです。幕末に松江藩士の子として生まれ、青春時代をここで過ごしたと言われます。

 わたしは、ちょっと感動して、撮影しました。敬意を払ったからです。

 わたしがわかったのは、そこまでで、以下は、「松江市メールマガジン●第65号●  だんだん かわら版 2005/03/20」の文化財課の岡崎さんの文章を紹介します。

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 松江中学から東大文学部へ進み、、仙台の第二高等学校(現在の東北大学)の教授として30年勤務し、大正2(1913)年「史記」の研究考察に取り掛かり、20年間にわたり心血を注ぎ、6,000頁に及ぶ原稿を書き上げ、「史記会註考証」130巻としてまとめられ昭和初期に刊行されました。

 「史記会註考証」は、それまでの中国、日本の研究論文を集大成し、「史記」を時代別に解釈したもので、県立図書館に所蔵されています。昭和30(1955)年中国において復刻されるや、中国、ソ連(当時)をはじめ世界各国で高い評価を与えられています。

 ・・・・(途中略)・・・

 文章は中国文学研究の権威、吉川幸次郎先生、書は同じく中国文学者の小川環樹先生、石は香川県広島の青木石(御影石の一種)です。

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 わたしは、イスラム教徒の方に、「日本では昔、横文字を右から書いたので、アラビア文字と同じですね。」と述べたところ、その方はそうですか、と驚いておいででした。わたしはもう古い人間かも知れませんが、昔は封筒の自分の住所氏名は右側に書いたものです。最近は左側に書きますね。ほんとうは真ん中に書くのが正式らしいですよ。時代が変わると、書式も変わるものです。その昔昔はイスラム文化と日本文化とは、どこか似たところもあると思います。

脱線しましたが、小泉八雲の旧居へ戻ります。Img_0017 一見変哲がないようですが、中は必見です。

 資料館もあるのです。わたしは詳しいことは知らないものの、ハーンはヘルンさんと地元では呼ばれて慕われていました。学生は一目置いていて、ハーンが東京大学で教鞭をとった時、非常に人気が高く、後任についた夏目漱石がハーンと違う教授法で、だいぶ批判されて、たいへん苦労したそうです。

 静かに優しく教えるタイプで、今でいう英語の単語帳を日本人の奥さんと一緒に、子どもの教育のため作ったらしく、そういうものの展示がありました。ギリシャ人と同じく、日本人は昆虫を愛でる民族として愛すべき国民であると、日本人が喜ぶような誉め言葉が日記に書かれてあります。虫かごもあって、日本人のコオロギの鳴き音を愛でる習慣は美しいという人でしOptio430_02032830_118 た。わたしは、子どもの頃、都会にいながら、墓地へ出かけて、蝉を捕まえたり、コオロギを捕まえたり、虫かごに入れて飼ったことがあります。懐かしいものです。

日本庭園をこよなく愛し、その住まいもそのままの感じに残っています。わたしが子どもの頃、小泉八雲と言えば、「耳なし芳一」という恐いお話があり、怪談で震え上がったことがたびたびあり、いったいどうしてこんなお話をするのだろうと、こわごわ読んだものです。

 一番、震え上がったのは、民間伝承の話で、子どもをOptio430_02032830_122 負ぶったお母さんが峠を越えると、なんと無事にすんだとほっとしたものの、子どもを見たら、その子どもの首がなかったというので、ショックで青ざめた記憶があります。日記を読むと、全然恐くないのに、怪談話は凄まじい感じで、日本の伝承の怖さも知っています。わたしは、赤ちゃんのお守りをしながら、いつも負ぶっていると、後ろを振り返り、心配で心配でたまりませんでした。だから、大人になるまで、ハーンが慕われている理由がよく理解できなかったので、出雲・松江に行く際も、凄く恐い思いが半分ありました。

 ただ、幼稚園生の頃、お寺で地獄の話を聴いて、別に何も悪いことをしていないのに、怖さのあまり眠れなくなり、悩んでいたところ、転居して神社で「オオクニヌシノミコト」のアニメ映画を拝見したのです。そこで因幡の白兎の話を知り、ああ、神道って恐くないと思いこんだのです。神社アレルギーがないのは、そのせいです。ただし、日本の過去にも人柱の話など、全く恐い話がなかったわけでもないのですが、まるでギリシャ神話にそっくりな話の展開に驚き、子どもの頃は神話に夢中になったことがあります。日本神話とギリシャ神話は似ていておもしろい、と思ったのです。

 Img_0020 国家神道は、明治以降になってからでしょう。宗教の自由を認めながらの矛盾が当惑の種です。出雲大社に行けば後醍醐天皇直筆の書があり、「神に祈って(あるいは誓って)自分は・・・する」と記載されていますから、天皇=神という考え方を天皇自身が昔は持っていたのではなく、天皇は祭司だったと再確認しました。明治初期では、日本人の庶民の大半は、天皇を崇拝するどころか、半信半疑で見ていたくらいで、ハーンが天皇の写真に向かって敬礼した時、学生たちが驚愕したらしいです。

 当時の政府が恐くて、やがて誰も何も言えない時代へ突入します。大正時代は、美濃部達吉はじめ、思想的にも自由な議論をできる雰囲気があり、やはり昭和の軍部独走による統制が、神道を非常に恐ろしいイデオロギーにしてしまったのではないかと認識します。確か最右翼の方に仏教徒もいましたから、神道だけに責任を押しつけていいかわかりません。

 上の写真は、南天の木が見えていますね。大人になって、ハーンの言うことは、半分は理解できます。なぜ、怪談を書いたかは、まだ理解していません。勉学不足です。

 資料館には、ハーンのパスポートがあり、小村寿太郎Optio430_02032830_120 だっただろうか、名前が外務大臣と記載されていました。片目が悪く、高くしつらえた机に座って、机に顔をつけるような感じで座ったようです。その机と椅子は今も残っています。

 ハーンが宣教師や外国人教師の方々に嫌われたのは、キリスト教徒らしからぬ発言をしたせいらしいですが、孤独な中、東京大学を去り、早稲田大学で教鞭を取ります。いつか出雲へ行こうと思いつつ、なかなか実現できないでいました。わたしはキリスト教を理解しようと努めています(まだよくわかっていない)が、神社仏閣が全部なくなればいいと思っていません。

 現在の皇后陛下はキリスト教への造詣も深く、東大寺の僧侶の方はイスラム文化の研究もなさっていたと記憶します。現在はカトリックの神父様でも日本文化にお詳しい方もおいでになり、みなさん、お互いの良さを知り、排他的にならないように、努力を惜しんでいないように思います。

 ただ、どの国も、最初は素朴で純粋な信仰だったものが政治的に利用されてしまう恐ろしさは感じます。

 人の弱みにつけこんだり、扇動するような宗教は恐いです。「宗教を利用する人間」が恐ろしいのです。

 松江では、ハーンが蛙の置物を愛していたので、外国人にしては珍しいと感心して葉書を購入しました。

聖書では、蛙のことを災いのひとつとして記載され、「蛙のように汚れた霊」(ヨハネの黙示録より)と書かれていますから。ただし、ヒレア・ベロックというイギリスの文学者は、

「The Frog is justly sennsitive to epithetes like these」

(皮の薄い蛙がそのような罵り言葉に敏感なのも無理はない)

と悪口を警告しているそうです。思いやりに満ちた言葉だと思いました(?)が、ベロックについて知識はありません。

*痛烈な皮肉かも知れない。ベロックの言葉もよく理解しがたい。

(参考:ピーター・ミルワード氏の著作から西洋の蛙の概念の話を引用した)

日本人は、その鳴き声を万葉集時代くらいから、もう愛でていて、蛙は中国でも悪い意味はありません。

ハーンは、わたしにはまだ謎が多くて、これ以上の記載はできないので、今日はそっとここまでにします。続く。

 


2002年出雲と松江旅行記パート8

2009年02月07日 23時02分19秒 | 旅行記

  松江城に戻りました。別名は、「千鳥城」と言いますImg_0023 。桃山初期の荘厳雄大な姿です。

千鳥が羽を広げたような三角形の屋根を千鳥破風といい、天守閣の美観を構成する重要な部分です。

三層の中央にある寺院様式の窓は「華頭窓」と呼ばれて、一種の飾りで、本天守閣の美観の特色は、ほとんど飾りを用いないで屋根・破風・窓などにより均整のとれた構成美を出していることです。

鬼瓦は、後世のものとは違って角がほとんどなく、各一枚ごとに異なった珍奇な表情をもっているらしいのです。下見板張りは姫路城や彦根城の白壁(塗籠造り)は少なく、大部分が黒く厚い雨覆板でおおわれて古い様式を保っています。

城を支える石垣は、牛蒡積みと言われ、石の大きな部分Optio430_02032830_105 を内面に、小さな面を表に出して、見た目は粗雑でも石組にしては非常に頑丈です。勾配は力強い直線ですが、中腹は窪んでおらず、古い様式です。

 全国現存の12天守閣では、大きさは二番目、古さは六番目です。1611年に出雲領主堀尾茂助吉晴が5年の歳月で完成させました。

 明治8年、場内の建物は全部取り壊されたが、天守閣だけは有志の奔走によって免れたそうです。

わたしは、天守閣まで上り、松江市内を眺めてみました。ちょうど、この写真の通りです。松の町並みは高層ビルが少なく、宍道湖までよく眺められました。

 城内を歩いていると、椿の木をたくさん見かけました。椿は、油にしてよし、炭にしてしてよし、いろいろ役立つ優れものだそうです。そのため、城内に多く植えたようです。

 Optio430_02032830_109_2 城内をぐるりと廻って、城山稲荷神社へ向かいました。出雲地方は、ずば抜けて稲荷神社が多いと言うし、小泉八雲はそれに非常な興味を持っています。つまり、出雲地方の方々は、昔、ヨーロッパのカトリックの農民のように神話をつくるところがあるので、いわゆるほかの地方の稲荷信仰とは異質であるとも述べています。

どういうことかと言うと、必ずしも稲荷信仰は「稲の神様」ではないという意識で、超自然的なものを畏れる気持ちから崇められていたと述べます。その起源は中国にあり(チェンバレン氏の著作から)、神道の国日本に、仏教的な呪術とともに変容して入り込んで溶け込んだようなのです。

 おもしろいことに、松江の武家屋敷には稲荷大明神のOptio430_02032830_115 祠があり、彼等は狐を善の神と信じていました。国語語源辞典でも調べてみたのですが、狐というのは、中国語の「コ」という音、つまり「コンコン」と鳴く声からきたようで、人々は、「コンコン」と鳴く狐は善の狐、「クワイ、クワイ」と鳴く狐は悪い狐と区別していました。人に憑依する悪い狐とは区別したようです。

 小泉八雲が出雲地方の狐を特に愛したのは、その素朴さだったようです。いわゆるうすら笑ったような端正にできていない部分に原始的な信仰の姿(恐怖を持って畏怖したであろう)を見いだしたのかも知れません。100体近くあるものの、90近くは鼻がないのはなぜかというと、写真をご覧になってわかるかと思いますが、鼻先はないのですけれど、原因は子どもの悪戯らしいのです。

 その中で、珍しく鼻先がある狐の像があって、これを八雲がOptio430_02032830_113 特に愛したとありますが、わたしが読んだ本には特にそういう区別はなかったように感じました。しかし、記憶が定かではありません。狐信仰ゆえ、金持ちの家には狐を祀ることで、なかなか結婚できない娘がいたとか、迷信ゆえの不幸もあったようです。

 けれども、小泉八雲は名言を残しています。彼は狭い度量の人ではなかったと思います。なぜなら、迷信ゆえに束縛された民衆が、その自縛から解放されるのは、「宗教」ではなく、「教育の力」であるとはっきり明記しているのです。

近代科学教育の力は、迷信をうち砕くのです。宗教では、まだ西洋でも悪魔の存在を否定しませんが、公立学校の普及により、迷信に捕らわれていた出雲の地方の人々も多少変化しました。

 最後に、彼がキリスト教をただ疎外したのではなく、西洋Optio430_02032830_111 にも残っていた迷信や宗教の盲信による危険をよく熟知していたからだと思います。彼自身がキリスト教の土壌で育ちながら、日本の仏教を嘲笑し揶揄する学生を制して仏教を重んじていたし、神道にも理解を示しました。でも、どれかひとつの宗教だけを大事にしたということは彼の日記からは示されていないようです。わたしはそういう面では、平田篤胤神道と小泉八雲を結びつける考えはないのです。そう感じたからです。

勉学不足からかも知れませんが、彼は偏狭的な思想の持ち主ではないことを次に示します。彼は、実に現実的な人物でありながら、人道主義者だったのではないでしょうか。彼の神道観は、偉大なる自然への畏怖の念だったと思います。

Optio430_02032830_114 「狐神の鼻をいたづらにこわす小さな手が植物の進化や出雲の地質学について作文をものにすることができる。新しい研究によって新しい世代に啓示された美しい自然界には、妖狐の居場所はない。全能なる祈祷師にして改革者は『子ども』である。」

(参考:「神々の国の首都」小泉八雲著)

今日はここまで。続く。