みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

吉野梅郷

2008年03月26日 08時11分35秒 | まち歩き

「吉野梅郷」                         Dsc08358   

君と肩を並べて、梅の神仙世界を歩きたい
待っても盆栽の冬至梅は咲かなかった
夏の日差しが熱く、君は心身疲れたからね
梅の香りで彼は君を思い出すことはなかった
君も桜を待ち、梅は女性の友人たちと鑑賞したり
できるだけ違うことを思案し出している
吉野梅郷のあの印象派のような色具合を見たかい
来た甲斐があったじゃないか
たとえ人は忘れても花は咲く時期を覚えている    Dsc08386_2

君はそこで主人公さ
みんな梅を眺めながらナルシストになる
遠くに緑の松が眺められる
梅は散らないね、散り敷かないね
色合いも微妙で色のハーモニーになっている
君はもし楽器を弾けたら音にすることだろう
ドビッシーの曲をピアノで弾いてみようか
フォーレのチョロソナタを僕は弾いてあげよう
君の肢体を抱くように音を奏でる
君は歌うだろう
梅に何を歌う
桜を歌う人は大勢いるのに
梅を歌う歌手はいないね
なぜだろう                          Dsc08389
君の笛がいいかも知れない
赤、ピンク、白、なんて淡くて優しい色合いだろう
情熱より、思いやりの色だね
眺めた人の心を癒す

若い頃はそう興味をもたなかったけれど
年齢を重ねるほど梅は味わい深い
吉野梅郷は丘になっていて
上から見下ろすと素敵だね
まるで花の丘という感じだ
一度に春が来て、みんなを歓迎している

吉川英治の記念館があったね                   Dsc08399
君は山岡荘八と勘違いしていた話もあったね
そうだね、君がわくわくした鳴門秘帖はヒット小説第一弾
新・平家物語はドラマになったね
苦労したんだね、吉川英治は
母ほど悲しいものはないって書いていた
君も自分の母を思いだしただろう
東大寺に瓦を献上したらしい
濁世には汗ばむ るしゃな仏
宮本武蔵の中で
自分のことは浅く思い、世間は深く思うという言葉があるらしい
なんだか含蓄ある言葉だね
大人になってじっくり読んでみたいね              Dsc08469
吉川英治はなぜ梅が好きだったんだろう
桜よりも梅の里を選んだのだから
知ってみたいね

君は欲張りだから桜も梅もいいわって言うだろう
そう二つそれぞれ美があって違う
ほんとうは松竹梅に桜が入ると、なんか粋な感じがする
でも、君と僕もぱっと咲いてぱっと散らない関係でいたい
そう人生をあさき夢みしと思いつつも
味わってゆっくり歩いて生きていきたい
梅の種のように核があると人生いいね             Dsc08452
寺のしだれ梅、見事だったね
みんな行き交う人がいい顔していた
梅を見て心騒ぐのではなく、どこかほっとしたんだね
そんな里、吉野梅郷

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金沢文庫三度目記2007年

2008年03月22日 22時27分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

続編

うーん、金沢文庫と行くとお勉強をさせられます。     Dsc024742_2

「藤の枝の金沢文庫 謎多し 水路走りて江都の碑あり」

*5月になって、埼玉県牛島に行き、藤の花は真言宗の弘法大師のお手植えの藤の名残かも知れないと、思いました。弘法大師ではなくても、そういう藤を植える習慣があったのかも知れません。称名寺は、真言律宗ですよね。昔の伽藍のあとに、野生の藤木がありますが、なかなか人の目につかないようです。

「金澤へ神風吹かず 実時の姓は平と 記載せしなり」

「動かざる山の如しと 走ること千里を行くと旅行けり」    Dsc00657_2

「兵法は戦わずして勝つといふ 孫子第一教えなりしか」

「金澤の 僕に関係ないけれど 信号機鳴る 人事のよう」

「頂上は金沢八景見晴らして 造船所まで海眺めをり」

「金澤の水面浅し鏡池 木々まで映り朱の橋照りぬ」

「称妙寺 ライトアップ 金と朱の太鼓橋をも池面に映し」

「人は人わたしはわたし 君は西吾は東とまた逢う日まで」  

「まだ知らず金澤文庫あれこれと 歴史の奥は深かりしこと」 Dsc02529


まず、すぐ目に付くのは、誰も見ない橋の傍の忠魂碑。
明治27年から昭和9年まで日清戦争から始まった陸軍・海軍の戦没病死者を慰霊する碑があるのです。昭和10年からは、靖国神社に祭祀されますが。昭和10年、あの226事件が起きて、日本の情勢は変わります。

昭和10年と日付があり、称妙寺の寺近くの車庫の傍の碑は、廃れていた称妙寺に大橋新次郎が寄進し、寺を復興させたとあります。
金澤 住職 小林 某と記銘
新潟県長岡市 諸橋(けん)次 謹呈

現在、行きますと、仏像展を開催していますから、次のことがDsc024443 理解できます。
*注1

次に、古い山門近くにある碑は、読んで見ると、寛政6年(寛政異学の禁があり、天明の大飢饉のあとの寛政の改革後)の日付けがあったので、なんのことかなあ、碑文を睨んでいましたが、どうも、下記のことを書いてあったようです。碑、金澤貞次の名が見えます。違ったかな、もうひとりは名前を判読できませんでした。
*注2

大和朝廷を「皇倭」と述べている。驚いた。

読めない部分もあって、ちょっと不安。

あまり余計なことは言えないな・・・・。
争乱、国は敗北し、国乱れ、一家離散、そんな時期があったそうです。
碑の文に、平(北条)顕時が金沢文庫を置いたという記述は間違いありません。
この記述はどういうことだろうか。

その前に北条実時(平実時)についての記述もあります。
漢文に自信のある方は、ご覧ください。
そのほうが確かです。

後、(北条)平・顕時は、出家して金澤顕時となります。北条貞顕の父です。

歴史は奥が深く、にわか勉強ではおぼつかないものですね。

夜、ライトアップした称名寺と庭園を拝見して帰宅しました。

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・・・・・・・・・・・・・・・・・
注1 出典 抜粋http://www.zephy.com/Masamichi.htm

法華宗真門流
丹波 立正山 妙法寺
兵庫県丹波市青垣町佐治 妙法寺 住職   竹内 正道氏のHPより

法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元と日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。

また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。

 法然はどんなに貧しい人々も南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に往生できると浄土宗を、親鸞は浄土真宗、一遍は時宗をはじめました。阿弥陀堂の建立はいたるところで流行したのです。

 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。
 空海は中国より密教をもち帰り真言宗をはじめましたが、加持祈祷によって病気・出産・財産・位階・戦勝までが霊力によって得られるとして信じられました。この宗派は朝廷、貴族に受けいれられ、さかんに造寺造仏がなされました。

 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。

 頼朝は終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。

そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時や足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。

・・・・・・・・・・・・・・・

*注2 前と同じ出典
「弘安合戦と平禅門の乱」 

 安達泰盛は妹が時宗に嫁してのちの執権貞時を出生してから幕政の中枢にありました。
時宗は弘安7年に急逝したのですが、その時の評定衆は泰盛父子のほかに平(北条)顕時、北条政長などの安達家の姻族が6名もおりましたし、引付衆にも泰盛の弟が2人(長景、時景)のほかに二階堂氏、大江氏などの姻族が4名おりました。

 このように安達氏とその姻族は幕府の最高職の半数以上に就任しており、施策の決定は泰盛の思いのままで、その権勢は強力なもので、得宗中心に北条一門と安達氏一族の有力御家人による政治が運営されていたのです。

 しかし幕政の実態は、蒙古の襲来以来戦時の総動員体制は継続しなければならないし、異国警固番役の負担は重く、恩賞に対する不満もあり、御家人困窮は深刻であり、御家人の利益を守ることにも限界があり、御家人との合議で幕政運営をすることに反対である御内人の平頼綱とするどく対立していました。

 侍所所司をしていた頼綱は、その地位を利用して兵を動かし、弘安8年(1285)11月17日、出仕してきた泰盛を捕えて斬殺し同時に安達邸を襲い一族を殺害、安達氏一族のみならず泰盛についていた御家人を捕えて斬首するという恐怖政治を展開し、得宗専制政治を開始しました。

 武蔵、上野中心に五百を越える御家人が斬首され、自害してはてることとなり、

「争乱も常陸、信濃、播磨、筑前にまで波及し、」
多くの御家人の所領が没収され、文永、弘安の役の恩賞として配分されました。

 足立氏も遠元の孫遠親の子の時代となっていましたが、足立宗家の太郎直元左衛門尉は敗北して足立郡の所領も没収され、自害しました。自害者の中に和泉六郎左衛門尉もいますが、天野景村のことで、遠景の子孫までこの事件に連座していますので、足立、安達同族のすべてをまきこんだ争乱でありました。

 しかし、足立の本家遠親の三男元氏の子孫は逃げのびて、後に北条貞時13回忌法要に円覚寺へ参詣し、足立家の惣領足立左衛門入道として供物を進上しています。北条氏の被官となって得宗家で活躍していたのです。

 同様のことは安達家にもあり、泰盛の甥宗顕は21歳で泰盛の一件で殺されましたが、息子の時顕は救われて後に秋田城介となり執権北条高時の外戚として幕閣で重きを成しました。

 平頼綱は恐怖政治で独裁し、ついには次男の助宗を将軍にしようとしました。

永仁元年4月13日

「関東に大地震があり、将軍御所をはじめ諸大寺が倒壊、炎上し、死者2万3千余という大惨事となりました。」

 この世情不安の中、22日未明、執権貞時の兵が経師ヵ谷の平頼綱邸を襲い、頼綱、助宗父子をはじめ一族を滅亡させます。
この一族90余人が自害しますが、世人は泰盛を討滅し、日蓮聖人を迫害した報いとうわさしたとのことです。

 日蓮聖人と頼綱は何度も対面していますが日蓮聖人をにくみ、徹底して迫害し、法華門徒を全滅しようとしたのが頼綱です。文永8年9月10日に対面した時も、聖人に「理不尽なあやまちによって同志討をくりかえし、外国より侵略の難を受ける」と諫言され、「物に狂う」ようになったのです。

 松葉ヶ谷庵室を襲ったのも、竜の口で斬首しようとしたのも、佐渡流罪で殺害しようとしたのも頼綱です。文永11年4月8日にも対面しますが、聖人に「権力によって心をば随えられたてまつるべからず」と精神の自由を説教されたのですが、理解できず「物に狂」うたような恐怖政治で法華門徒を弾圧し続け、自滅した得宗御内人だったのです。


金沢文庫二度目記

2008年03月20日 21時40分07秒 | 日記・エッセイ・コラム

2007年2月?                                                                                        Dsc02522_3

先日は、天気が良くて金沢文庫へ訪問したことのない友人を連れて訪れた。

わたしの著作権などないのに等しいのになぜ書くのか、それは先輩たちから受け継いできた日本を思う気持ちである。

密教が「古事記」を解き明かす聖教(佛教書)などが現在、陳列されている。

非常に古いぼろぼろの書に、「天照大御神は日輪の神で、豊受大神は月輪の神」であると記載されていました。
右翼がいるとしたら、わたしは右翼かも知れず、宝刀をめったに抜かない右翼でもある。日本国憲法を読めば、左翼であるかも知れぬとも思った。

仁王門の傍の大きな朽ちた「けやき」を眺め、称明寺の古くから残った、古を黙って見据えてきた木々であった。
称名寺には、朱塗りの橋が半分かかったままで、寺内には巨木はDsc00715_2 ない。
久々の訪問であった。

寺の中ほどに、誰も顧みないでひっそりとした「孔木」を眺める。ここと、足利学校、湯島聖堂にあるが、ここが一番古い。
有名な牧野富太郎博士が、見出した。
同姓の牧野伸顕伯爵を想起する。親戚ではないようだが、わからない。

226事件の決起で処罰された、少尉歩兵高橋太郎の部下への遺書を出雲の黄泉の国で拝見させていただいた。綺麗な字だった。部下に巻き込んですまないと言う内容だった。

皇道派が「名を汚してもよい、地位も富みも命も天皇陛下のため決起する」と述べていた。彼らには、彼らなりの言い分と正義があったのだが、一応手紙を拝見させていただいた。別に北一輝とか名は無く、だれそれのせいではなく、自分の独断と我が名も地位も汚しても天皇陛下のため国のため、命惜しまずと綴っていた。ちょっと困った。判断には困るが、言い分は聞く。
このあと、東条英機が登場する。
歴史の視点は難しい。

跡地へ行く時間が無く、資料館金沢文庫へ向かう途中に釈迦堂を一瞥して、日蓮宗と関係のあった地蔵や碑を横目にしながら、金堂で一応軽く合掌する。
弘法大師空海の像を拝見したかったが、残念ながら拝見できなかった。

称妙寺は真言律宗。奈良西大寺の叡尊が鎌倉の地を訪れた際、説法をし、感化された北条実時が審海に昔は小さな阿弥陀信仰の称妙寺の初代として有名になった。
新田義貞の挙兵、長尾影虎(上杉謙信の家臣)が責めてきたと解説書にあった。ここは甲斐の武田と縁があるのである。

武士と言うと、「江戸徳川」と連想する人が多いが、鎌倉からあるのを忘れている人が多い。「平家物語」を読めばわかる。
東国武士が全国へ散る。
すでに、武士道はあった。                                                           Dsc00697_5

称名寺は、数奇な運命を辿り、いろいろな時の権力者の下で、あまり省みられなくなる。宗派も違う派が流れ込んで来た。

西国巡礼を真似て、三十三の観音をひとつひとつ和歌を詠みながらぐるぐる巡る。
西国一番は那智山補陀洛山寺と拝見し、一際大きな観音が蓮の花を手にして「困ったわね、あなた」と首をかしげて手を頬につき、ご一緒に日本の混乱を微笑んで試案なさっていた。
「あなただけじゃなく、みんなそう思うと思うの」観音さまの群像がみんなで静かに佇んでいらっしゃる。
「恋」「庭」「仏」「祈り」という言葉が多く用いられていた。
昭和10年10月某日観音群と立て木がある。                          Dscf10962_3
「島村」家のお墓があった。
昭和10年「情」がまだあった時代であった。観音が子供を慈しんでいた。
これは、昭和の太平洋戦争中に軍の占拠により、一般市民は観音めぐりができなくなった。

赤い椿の木々が群生し、六角堂まで行く。
水仙の花が群生して、毅然としていた。
いかにも武家の元管轄であることを偲んだ。
海辺が、金沢八景の美しさを物語っている見晴らしの良さであった。
青空にとんび(鳥)が舞い、青い海も美しく眺められる。

称妙寺に浮かぶ姫と乳母の石が昔あったが、今はここにひとつしかないとガイドがそばで述べていたが、帰宅途中、熊野新宮に立ち寄り、姫君が整然と静かにお座りになっているのであった。よく拝見すると、姫石であった。

戸栗美術館の「明治の書」を数年前に拝見し、大勢の志を読み、自分の教師として命をかけた祖先に申し訳ないと思う。
先輩の教員に「金色夜叉のお宮を足蹴にする貫一の下駄姿が、革靴に描かれ直されている。君、しっかり最前線で頑張ってくれ」と伝言されたことを思い出した。

教壇に立ちながらも、その志を果たせなかった。生徒の心が今はもうどうだったかわからないし、学校経営からも離れていった自分の至らなさを思っては、釈迦堂と新宮と今回行かなかった実時の墓を振り返り振り返り、ゴーンゴーンという寺の閉門時間を知らす時刻を確認しながら去った。

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天狗山 大雄山 最乗寺

2008年03月15日 07時13分05秒 | 日記・エッセイ・コラム

Dsc07815 先日、神奈川県、南足柄教育会が、開祖によって杉Dsc07721 の植林されて褒め称えた、大雄山にある最乗寺へ行きました。

建築物は、昭和になって建築されたり、江戸時代建築で、古い文化財的なものはないのですが、曹洞宗の修行寺になっています。

参堂まで、江戸時代から、ずっと寺や植林のため寄進した人の名前と金額を彫った碑文がたくさん並んで苔生していました。

なにげなく一部の碑文の列を見ると、明治37年、大正11年、昭和10年とあります。戦前一番新しいので、戦前は昭和10年かな、と思って眺めていました。

昭和10年といえば、米騒動があったり、日本は経済的に苦しい時期で、食べるものがほとんどなくて苦しかったのよ、と母が述べて、自分の生まれた頃あたりを回想していました。

太平洋戦争時に、寺にあった金属品はすべて国に回収されたと、Dsc07739 平成元年記載の碑文に書いてありました。
戦後は、昭和37年、と続きます。

江戸時代から植林や寄進をした人は、まさか日本が大戦争に巻き込まれ、本土が焦土と化すとは思っても見ないで、ひたすら平和と祖先の繁栄を祈ったことでしょう。

そう思うと、なんだか祖先の祈りも虚しく、日本で大勢のDsc07772 人が亡くなった現実を痛ましく思う一方、平和を祈念する祖先が最低限の緑を祖先に残してくれて、今生きているわたしたちを生かしてくれることを思い、自分は世間にもずいぶんお世話になっているなあと感じたのです。

東京大空襲で、隅田川に飛び込み、灼熱の沸騰したお湯のような中で、唸り叫んで虚しく死亡した多くの人は、いったいどんな悪いことをして、あんなに苦しんだんだろう、何も悪くなくても巻き込まれて、あんな目に遭った、自分はいやだと思いながらも、ほんと、最近は戦中フィルムは放映されないし、郷土館でひっそり展示されてまうだけになってしまいました。

戦争が始まってから、自分は加担したくもないし、参加したくもDsc07789 ない、そう思った時には手遅れだったなんてならないかな、と思ったり、そういえば、憲法改正の国民投票の二週間前は憲法について、マスコミは規制される法案がもう可決されたから、これからもっと大事なことを報道もされなくなることになるし、みんなが自分で思案するしかなくなり、このHPでも余計なことは言えなくなるんだなと実感しました。

大雄山のおおらかで緑濃き自然の中で、ああ、ひっそり世界の喧騒から離れて、静かに念仏する空間がまだあるなあ、とつかのまの幸福を味わって来ました。これって大事なことだからと。   

                                       Dsc07828

帰宅途中のバスで乗客たちが話していました。「最近、バスで領収書を書いてくださいって言われて困っています。160円と」運転手さんの気持ちが理解できます。

困ることでしょう。
乗客のひとりが言いました。

「政治家さんかね。そういえば、5万円以下の政治献金は明示しないとか。まあ、ほんとうに悪いことしていないなら、ガラス張りの経費提示してほしいDsc07858 よ。」と述べて、「貧乏人はいつも貧乏人だよ」と嘆いていました。みんな町の人に手を振ったり、ほんとつましく生きているのに、収入そんなにまじめに生きても殖えないなあと思う人は日本中大勢いるのでした。

やっぱり所得格差は感じます。
高いマンションが売れ、別荘まで持つ人がいますもの。海外旅行なんて夢だなと今の時点では思います。
財布を開けて、思案してしまうから、ウインドーショッピングも控える庶民の気持ちは豊かな人には理解できないだろうなあと思ったり、ちょっと虚しくなります。

共産国じゃないからしかたないけれど、庶民の不満は影で膨らんでいます。

Dsc07791 天狗の山で有名な大雄山ですが、わたしは天狗が牛若丸を育てたように、未来に大きな崇高な夢と意志のある、清らかな少年少女を大人が地球防衛隊の一員として踏ん張ってくれるように大事に育ててくれたらいいなあ、自分も支援したいと思いました。

これは夢物語です。最近の子はもうかなりすれてしまって、怖いくらいの子がいます。ただ、そうありたいなあと望みます。

最乗寺から、ボーイスカウトの少年が大勢降りて来ましたが、銃を向けず相手が畏れて銃を納める力を秘めた人になってほしいです。

この寺には、天狗の像があり、赤い高下駄などが置かれてあります。庭園には藤の花が美しく咲いていて、つつじの花も見頃でした。

Dsc07792 瀧には水しぶきが清らかに飛び、木々に囲まれた静寂な場所でした。深閑としていると言えばいいでしょうか。

高下駄の下をくぐると、たいへんな御利益があるそうです。夫婦円満、子宝授けなど。わたしは子どもたちがここをくぐって、誘惑に負けない、勇気ある、元気で利発な子になってほしいと思いました。

このお話は2007年の初夏ですが、今年2008年に大佛次郎さんの「鞍馬天狗」が放映され、昔はいろいろな人が演じたものですが、ああ、ああいう発想って、もう持って小説化されていたんだなあと思い出しました。

父は、生前のお元気な大佛次郎氏と面会したことが若い頃あったそうで、「とてもあんな、ぱかぱかと馬に乗って鞍馬天狗が登場するなんて発想をするユニークな方と言うより、非常な紳士でね、ギャップがあってね、ははは・・・」と笑っていました。そうそうお会いできる方でもなかったのですが、お人柄を親から教えてもらって、ふーんとDsc07801 思って安心してテレビを拝見しました。

テレビで言う、鞍馬天狗の「わたしは不死身なのだ」と言う言葉、これって、理想に燃えた大人が子どもにその大事な理念を伝えて、「葉っぱのフレディ」のように、やがて死んでも次世代へ受け継ぐことなのだと言う台詞と、「自分と同じような人がまた現れる」と言う言葉、是非またこういう小説や「天皇の世紀」などお書きになる方、日本の政治や社会を前進させてくださる方の活躍を願ってやみません。

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