みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

軽井沢の旅パート2~堀辰雄文学記念館「風立ちぬ」ほか

2013年09月15日 12時47分28秒 | 旅行記

私は、軽井沢町大字追分にある堀辰雄文学記念館に行きました。

まだ映画「風立ちぬ」が封切られる前で、空いていました。

私は、以前、「風立ちぬ」以上に「大和路」のお話が印象的だったので、早く関連資料を拝見したいと願いました。                                

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125追分宿本陣門(裏門)。

もともと中山道の三番目に大きな宿場町だったのです。

追分宿の本陣は、明治11年9月に明治天皇の北陸御巡幸の際に行在所として明治天皇に使用されましたが、明治26年信越本線全線開通により、追分宿は廃れて行きました。

しかし、この本陣門は江戸文化を象徴する遺産として、ここに保存されました。

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私は、父に「おまえは、やれお釈迦さまがどうの、キリストがどうのと気が多すぎる。俺はそういうところが嫌いだ。」とよく言われていますが、高校時代は新訳聖書を持っていたので、頭の中がいろいろな宗教が混在して自分でも戸惑うことがあります。

高校・大学時代、新訳聖書と日本国憲法前文は最高に美しい理想だと思っていました。

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130私はまだクリスチャンでもなく、教会には所属していません。

神道や仏教の関連の学校や職場に長いこといたせいか、知識があちこち飛んでしまって、自分でよくわからなくなることがあります。

しかし、音楽の好みは変わりません。家族とはクラシックを聴くのが同じ趣味です。

音楽から聖書の精神を想起することが多々あります。

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堀辰雄邸。  昭和29年建築。                               

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大正12年8月室生犀星に連れられて、軽井沢に初めて堀辰雄は訪れました。

以下、堀辰雄夫人の堀多恵子さんの書物「野バラの匂ふ散歩道」を参考にしています。

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132軽井沢は、ショーと言う宣教師が別荘として開いた土地で、記者から降りるのは半分以上が外国人で、異国情緒が強かったと言います。

日曜日は安息日なので、教会へ行く人が多く、お店は閉まっていたりましました。

堀辰雄は麹町の生まれで、向島で育ちました。

軽井沢に来たころ、高校生で、ここの生活をのぞいて、ちょっと東京へ帰って関東大地震に遭いました。

その時、母親を亡くしたそうです。

大正13年、室生犀星が堀を頼むと、芥川龍之介に頼んで、両者が初めて会ったそうです。

さて、「風立ちぬ」の麦わら帽子の結核の少女には、昭和8年に知り合って、昭和9年に婚約して、昭和10年に富士見の療養所に二人で行きました。

そして、その年の11月にその女性は亡くなってしまうのです。

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堀辰雄が暮らしていたのは、ほとんど追分の油屋さんだったということで、たいへんお世話になったと回想しています。

171昭和12年奥様の多恵子さんは、ここ油屋に体調を悪くしていて、堀辰雄と知り合い、そこに亡くなった結核の少女の父親が妹を連れて訪れて、多恵子さんと辰雄さんが話している姿を見て、この二人を結婚させてはどうかと思い、室生犀星に相談しに行き、やがて二人は勧められたこともあって、結婚したらしいのです。

多恵子さんは、「風立ちぬ」をこう言っています。

「死と隣り合った生活をしながら、その中でお互いにできるだけのことをして、助け合って生きていこうという気持ち」を描いた作品だと。

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中村光夫が戦争中に、戦地へ送られていく青年たちの多くが「風立ちぬ」を読んでいて、荷物にこの一冊を入れていたと書いていて、それを知った堀辰雄は、感動して、この小説を書いたことが無駄ではなかったと述べたと言います。

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136「風立ちぬ」については、堀辰雄が妻の多恵子さんへの手紙に大事なことが書かれてありました。

「綾子(麦わら帽子の亡くなった前妻)は死んでゆく前に、僕のいる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言い残していったのです。それがもう最後の言葉になるんじゃなかと思ううほど、死を前にして苦しんでいましたが、それから突然

『お父さんも本当にいい人だったし、辰ちゃんも(堀辰雄)本当に好い人だったし、私、本当に幸福だった』

となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になって、それからそのまま最後の死苦のなかに入っていきました。・・・・(途中略)・・・・・・・

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240241_3書斎。

「・・・・(途中略)・・・・・・・

それがたとい生き残った者たちへの気やすめに言ったにせよ、私達のために本当に幸福だったと最後に言われたら、その瞬間からその生き残った者たちはこの世の中に幸福というものはあるのだということを信ずることような気になると見えますね。----僕は元来、いろいろな本を読んできたせいか、人生に対してかなり懐疑的で、ともすれば

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・生きていることの不幸を信ぜさられてきていましたが、その時から僕は人間の幸福ーー少なくとも誰でも幸福な瞬間をもち得るものだということを、すこし逆説的にいうと、みんなもっている不幸の最高の形式としてそういう幸福の瞬間をもち得るということを信ずるようになりました。

・・・・・(途中略)・・・・そういうものをこのせちがらい世の中に求めている男であるころがよく分かっていて下さったら、僕の仕事そのものの事なんぞあんまり分かって下さらなくともいいのです。寧ろよく分からないなりに、それが決して馬鹿馬鹿しいものではないという事だけ信じてくれたらそれが一番好い。」

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春の大和路の碑。

さて、私は、堀多恵子さんから、この堀辰雄の手紙を教えてもらって、「風立ちぬ」の真の意味をここで知った気がしました。

宮崎駿さんも、この堀辰雄の心境に近く、自分の最新映画のことをよくわかってもらえなくてもいいけれど、よくわからないなりに、映画を見たあとに、人生は生きるに値することをわかってもらえれば・・・・・・と述べたような気がしたので、宮崎駿さんの作品への思い入れを自分なりに噛みしめました。

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堀辰雄の「風立ちぬ」の素晴らしさは、今生きている人が、死ぬ間際に「ありがとう」と周囲に感謝して死ねれば、生き残った人は生きていれば幸せを見出せる、ということです。私も、そういう生き方をしたい、と思えました。

なるほど、堀辰雄さんに、私も感謝します!ほんとうに文学館を訪問して良かったと心から思えました。

私の軽井沢旅行記はこれでおしまいです。ここまで読んでくださってありがとうございます。



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