みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

瀬戸内の旅行記~しまなみ海道、とびしま海道を行くパート5「御手洗へ」

2012年06月19日 16時00分48秒 | 旅行記

とびしま海道は、2008年に呉から下蒲刈・蒲刈・豊島・豊区という安芸灘諸島を連結した、正式名「安芸灘とびしま海道」と言います。

この開通で、御手洗まではかなりスムーズに200 往き来できるようになりました。

御手洗は平成6年重要伝統的建造物群保存地区に指定されていますが、もともとは有名な港町で、大崎下島の東南端にあり、廻船で栄えたところです。

参勤交代の西国大名や琉球やオランダのの使節も立ち寄り、港町には必ずあった遊女の集まった場所でもあります。

この日は晴れわたり、爽快なドライブから始まりました。

全部で安芸灘には今は七つの橋がかかっています。

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千砂子波止(ちさごばと)は、上の左。江戸時代に築かれた御手洗の防波堤。上の右は、もともと左の先端にあった、有力な庄屋が寄進した高燈籠。

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1672年河村瑞軒によって開発された西廻り航路は、この御手洗を天然の良港として発展させました。潮待ちの港として、米や昆布・ニシンを東北や陸前から北前船が運んで入港し、瀬戸内屈指の港になって活気つきました。

1829年千砂子波止場が完成し、上の写真の住吉神社は、その鎮守として、広島藩御用達の大阪の豪商鴻池が堺の住吉神社をそのまま正写したものを寄進したものです。

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240 遊郭や遊女の寄進で、この大東寺の奥の本堂の欄干は、極楽の鳥の色彩豊かなものが描かれていて見事でした。

最初はどれがそれかわからないまま、本堂にあがって、拝見させていただきました。

遊女の名入りの絵が残っています。

さて、次は、町並みをご覧いただきましょう。

江戸時代初期に開かれて、18世紀前半の町家や豪商の館、そして洋館の町並みが独特の雰囲気を醸し出しています。

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映画「ももへの手紙」にも登場した松浦時計店は明治から続くお店で、奥には家一軒分の値段の140年前のアメリカ製の柱時計があります。

あの赤い時計が映画で印象的です。

ずっと上のピンクの建物は昔の映画館だった乙女座。

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301 常磐町通り。白壁と黒い瓦の商業の中心地。

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下は北川家。「北仁」

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ところで、この土地の「御手洗」の地名の起源は、その昔、神功皇后の三韓征伐(今は侵略と言われる)の時、皇后がこちらで手を洗ったためという。

明治時代に入ると、それが菅原道真にとって代わられて、道真公が大宰府へ左遷される時、天神山の麓で手を洗い、口をゆすいで祈ったため、そこから菅原道真公ゆかりの井戸が、地元の方が正月の書き初めの若水をここから汲んで書いたという。

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「われたのむ人をむなしくなすならば

天が下にて名をやなかさむ」

(菅原道真)

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映画「ももへの手紙」で、ももに見つかった妖怪たちが最初、自分たちは道真公の使いと述べたのは、この地で親しまれていたここの道真公のことを指していたのです。

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これは御手洗最大の遊郭跡。「若胡子(わかえびす)屋跡。」

昔は大名を始め、豪商たちがやってきて、ここやおちょろ船で、遊女たちが男たちの相手をつとめさせられました。

ほとんどが貧しい家の女の子を全国より集めて、ここである程度の教養を身につけさせて、格式高い遊郭でもあったというが、全部でこの土地にわかっているだけで四軒もあったと言います。悲しい逸話もたくさん残っています。

「御手洗港を素通りすれば あの妓が祈るか風変わる 

チョロ(遊女を乗せた船)は出て行く かもめは帰る

色の港に灯りはうつる」

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少し行くと、南朝山満舟寺。ここに昔、琉球王朝の使節がやってきて歓迎されたようです。

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映画で、撮影地がなぜここになったのか知りませんが、少女少年たちの健全な育成を望むなら、児童虐待や児童買春などから大人が守ってあげなくてはならず、新しい街おこしの御手洗では、過去の繁栄の陰に、悲しい史実もあって、隠しもしないで、これからの未来の子供たちのために大人にも子どもにもこういう悲劇が二度起らぬように、訴えかけていました。

ここには、神様が子どもを見守っていると信じたいと、子どもらの無事成長を祈る現在の町の人たちの篤い思いがみなぎり、ここを観光に来る人にも注意を喚起しているようでもありました。

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652 若い人は眩しいくらいに美しい。だから、よい年をした大人の中には、どうしても食指を動かして何とかしたくなる人がいて、その気持ちは多少わかるが、これからの未来を担う若い人たちが真実の純粋な愛情により結婚して新しい生命を宿してくれるように、見守る役目をきちんと果たさなくてはならないと思います。

おいらん公園から壮大な展望をみて、彼女らが真実の愛によって家庭を持ちたいとほんとうは思っていたであろうことを汲み、大人は「性と聖」との葛藤のすえに未来ある希望の若い人を精神的に導くことを推進することを約束したいと思います。

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瀬戸内海は晴れ渡り、最高の贈り物を天から受けてきました。

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ふがいない私ですが、最後に、朝鮮通通信使を迎えてもてなした料理を陳列した下蒲刈の松濤園をご紹介して終わりにしましょう。

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世界は広く、こうした写真の世界のように、日本もほかの国もまだまだ美しい世界があります。

私は日本人として生まれて、いわゆる自虐史観508 に近いものは持っているかもしれません。しかし、その時その時真剣にどう生きるか模索し悩み、精いっぱい生きてきた人間を思うと、日本もそう悪い国ではなく、こうして旅していて、いいなあと心から思えます。

「御手洗」ではないけれど、遊女にも会ってみたいという反面、人間にはこの人の生き方を自分が汚すことはできないと思いとどまる勇気も持っています。

下を見ればきりがなく、上を眺めればきりがなく、でも地に足をしっかり踏みしめてまじめに生きて、みんなが生きてゆく上で避けて通れない問題をひとりの人間だけではなく、みんなで解決していこうとする気概は持っていたいものです。

瀬戸内海の島を巡る旅もこれでおしまいです。


瀬戸内の旅行記~しまなみ海道、とびしま海道を行くパート4「竹原」

2012年06月17日 07時41分51秒 | 旅行記

国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されて423 いる竹原へ向かいました。

家族がまだ行ったことがなく、わたしは二度目の訪問ですが、恥ずかしながらここが製塩業で昔は栄えた町であったことを今回知りました。

頼山陽の父の春水や親戚がいた町であり、頼山陽自身は大阪江戸堀生まれ。

また、竹原の生まれのウイスキー造りで有名な竹鶴政孝の生まれ故郷であります。

しかし、なぜ、この地に頼山陽の銅像が建てられたのかと言えば、明治と言う国家思想の基盤は、この頼山陽の学問的な著述から構築されたようなものらしいのですが、頭のよくない自分には理解できないので、余計なことは書けません。

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戦前はその著述が江戸後期からベストセラーになり、有名な人でしたが、戦後はただの尊王思想家として見なされて以来、歴史の中に埋もれてしまったようです。詳細は不明です。425

わたしがあれこれまた勘違いして間違ったことを書いてはいけないので、よく知らないことを明記した上で、思想とは離れて、赤穂の塩田技術を採り入れて、昔はこの地帯はずっと塩田であったものの、後に道工家の新興商人の出現を得て現在に至りました。

そして、頼家は、その豊かな経済力の家から頭角を現した学問の家となりました。今も竹原の誇りだと言われています。

さて、竹原で有名なもう一人と言えば、サントリーの創業の匠であり、その後ニッカウヰスキーの創業者になった竹鶴政孝の生家がありました。親戚は今も日本酒の居酒屋を開いていて、政孝さんは竹原を去って、小樽で新しい酒造りをイギリス人の奥さんと始めた、「革新的な開拓者」だったのかも知れません。

一方、頼山陽は漢文が凄く、わたしはついていけない・・・・・だからこれ以上は書けないので、ただ、建築物をご覧 いただくことで旅の雰囲気を味わってください。

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064 左は、竹原歴史民俗資料館。昔は、「竹原書院」という郷塾があったところで、竹原の町人文化の学問所だったのです。

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これから、山陽の祖父の頼惟清(これすが)の紺屋の屋敷と、御庭をご紹介します。頼山陽にとって、この竹原は、心の故郷であったようです。

都会に出てしまい、ここに帰ると都会の塵にまみれた自分が恥ずかしく、ここで心身洗われ、すがすがしい山を仰ぐ・・・・というような内容が碑に刻まれていました。

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次は竹原の文化を伝える役割を果たした照蓮寺です。

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小早川隆景が幼児の学問所であった照蓮寺に寄進した高麗鐘もあって、静かな浄土真宗の御寺。

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114 西方寺は浄土宗。狭い階段をどんどん昇っていくと、小早川隆景が、京都の清水寺を模した普明閣が右手にありました。

この高い場所から見降ろした竹原の町並みは壮観です。

普明閣には木造十一面観音立像が安置されているそうです。

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竹原の誇りの頼山陽がどういう人物かわたしにはまだわかりませんが、おもしろいエピソードがあります。しかめっつらしい学者ではなく、漢詩を教えるのにこういう俗謡を学生に披露しました。

京の四条の 糸屋の娘   (起句)

姉は十六 妹は十四     (承句)

諸国大名は 弓矢で殺す  (転句)

糸屋の娘は 目で殺す   (結句)

以上で、絶句(四行漢詩)の平易な並べ方をこういう風に示して、頼山陽を嫌っていた人もこれには「うまい」と唸ったそうです。

平明で急所を突いた説明をしたと言われます。

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さて、次はこの竹原の名士だった塩の商人、森川邸です。

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屋敷の中は大変広くて、竹原でももっとも大きく飛びぬけた造りで、この窓から眺めた風景が何ともいえず良かったので、むこうのお部屋を主がそっと眺めて、たとえば客人をもてなしたり、采配をふるっていたような気がしてならなかったのでした。

日本家屋は見通しがよく、誰から見られても誰から話を聞かれても困ることなく、昔は厳しく子どものころから躾けられたのだろうと想像に難くなく、明治生まれの祖母が子どもが足を崩すと物差しをもってきてぴしゃりと叩いたという有名な逸話を我が家でも持っています。

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148 瀬戸内は、製塩業を営むのに大事な海水があり、温暖な気候や海上交通の便に恵まれて、古くから製塩業の先進地したから、その恩恵を受けた商人がこうしていました。

中世、機内の社寺は「塩の荘園」を設けたのです。製塩方法は、汲塩型の揚浜式塩田でした。

近世は、潮の干満を利用した入浜式塩田があちらこちらで造られました。

播磨・赤穂の塩田が1646年、その技術を利用して安芸・竹原が50年に、瀬戸内海一円には元禄年間までには広がったそうです。

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158_2  塩の過剰生産が価格の暴落を招き、瀬戸田の製塩業者が休浜法(冬季作業を休業)を提唱したそうです。                

製塩費用の40パーセントが人件費、50パーセントが燃料費だったのです。

薪による燃料は都市の発展とともに費用が急騰したことで、日本で最初に石炭を使用した産業が製塩で、「燃料革命」の先駆となったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・徳仁親王は、弓削島にも行かれたようで、ここは年間生産量が三万五千石にも上ったらしいのです。

浩宮様は、この瀬戸内の港町から船が運んだ荷物のほとんどが米と、高い比重で塩であったことに着目し、さらに塩はどこの港町(船籍場)からどれほど運ばれたかなど詳細に資料にあたり、検討なさり、当時は大きな第一級の資料の納帳が見つかった後、論文の中に船の積載品目の名前の中にただ米と書いてあるものと、地名表示しかないものがあって、地名表示だけのものは塩であることをいち早く目をつけて証明なさったらしいので、学問的に高く評価されています。          169

こんな大雑把な説明ではよくないものの、徳仁親王は再びかな?昭和57年の10月に発表された論文で、納帳より問丸を考察し、15世紀半ばの兵庫北関の問丸の具体的な在り方について示唆に富んだ知見を示したと、神戸大学の神木哲男氏から称賛を受けていました。

この納帳の解明は、15世紀半ばの瀬戸内海の水運の実態を明らかにするのに必要不可欠だということです。この論文も昭和年代のもので、今の最新の論文ではずいぶん解析されているのかもしれませんが、徳仁親王のあまり世間で知られていない横顔ということで、ご紹介いたしました。

わたしなりに、瀬戸内の塩の歴史がよくわかって、興味深く思いました。

竹原は塩で町人文化が花開いた町と言うのも、今回よく理解しました。建築物だけではなく、その文化の発展に経済的な力が背景にあったことを深く記憶にとどめました。

続く。


瀬戸内の旅行記~しまなみ海道、とびしま海道を行くパート3「尾道」

2012年06月14日 17時27分23秒 | 旅行記

昔、「時をかける少女」という映画を見て、380_2 大林宣彦監督と尾道の存在を知りました。

私は、昔は、たいへんか細い感じの女の子で、大人しく、異性に声をかけるなんてとてもできなくて、好きだった男性に同級生が話しているのをいいなあと遠くで眺めているような感じでした。

あの映画を見て、「桃栗三年柿八年」という言葉を覚えて、待つことのできる女になろうと思いました。

私は何度どもある男の子と出会っては別れ、出会っては通り過ぎて、ある日、長い歳月を経て、ふと身近に感じるようになったことがあります。

私は映画の少女のようにその人が誰かわからないままではなく、理解して最後に声をかけたのでした。それが大人になった私です。

彼は、わたしの青春そのものです。深い孤独を抱いた人でした。

私は高校時代の友人たちを一番懐かしく001 思っていましたが、もうそう逢うことはないでしょう。

尾道はあいにく雨がしきりに降っていました。

千光寺のロープウェイへ行きました。

上まで上がって、徒歩で降りました。

展望台からの風景はけぶっていて、視界がきかず、ぬかるみを歩いて文学の小道を行くと、山口県生まれでこの尾道に住んだこともある林芙美子の碑文がありました。

この尾道の風景を眺めて懐かしさが胸に迫ってきたというような内容が刻んでありました。

この千光寺には、家族から後に聞いたのですが、浩宮徳仁親王もいらしたことが昔あったようで、「浄土寺へも行ったらしいよ」と聞きました。

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私は実は雅子様と同じ年代なのです。私がお料理教室へ通っていた時、独身の皇太子は話題の人で、傍に座った女性が「わたしの理想の男性」と言っていて、みんなにへーとか感心されて、「雲をつかむようなお話ね」と違う人に言われていました。

私の感想は、皇太子は清潔でおっとりした、377 律義な感じのすごくまじめな方というイメージを持ち、自分には全く縁があるはずもないので、皇太子がヨーロッパの旅行から帰国して、テレビに映った姿がなぜか眼に焼きつきいたのか不思議なくらいで、世界が違うなあとつくづく思いました。

話が脱線して申し訳ありません。さて、千光寺ですが、真言宗でお経を読んでいただいて、手を合わせて火伏せの観音様に向かいました。

大きな鐘があったり、巨岩に大きな珠が置かれてあり、尾道を明るく照らす仏の光なのでしょうか。弘法大師が開基と言われています。

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きっと皇太子は大学の卒論を書くために胸をときめか せながら、この場所で尾道水道を感動をもってご覧になられたことでしょう。

家族が「皇太子の論文は瀬戸内海の海運のことだろう」と語っていましたので、こっそり調べてみました。あとで、大事なことを知ることになります。

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365 千光寺から石畳を降りて、天寧寺まで降りて、三重塔を見上げました。境内にはボタンの花が妖しくも美しく咲いていました。ひっそりとした寺は、昔は臨済宗、今は曹洞宗です。

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そこから是非とも、小津安二郎監督の映画「東京物語」に写った尾道の風景が見たくて、必死に散策路を歩きました。

御袖天満宮の長い階段は、歩くのがきつかったけれど、一枚岩で階段が一番上だけを残して全部できていて、最後の上の部分だけ「何事も完璧ではない」という意味で継ぎ足してあると言います。

菅原道真公が大宰府に流される時に立ち寄ってここで歓迎を受けたと言われています。

道真公はお礼に村人に袖をあげて、それが祭られてるそうです。

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仁王門に大きなわらじが吊るされている真言宗の寺である西国寺を眺めて、ああ、列車の時間がないなあとため息をついて、境内の中まで行けなかったので、ご紹介できずにすみません。天平年間の行基の草創と伝えられています。

白河天皇初め、天皇家の力をいただいた古刹で、薬師如来を本尊とし、非常に格式高い官寺で、本来は参拝すべきところ、ほんとうに申し訳なく、もったいなく思いました。

なお、浩宮様に関係して浄土寺へ行こうとしたのではなく、全く当時は知識がないので、家族から後で教えてもらい、随分皇太子も健脚であると思った?次第です。

どんどんと歩いてゆくと、尾道の林芙美子出身の尾道東高等学校が見えてきて、その前に日本最初の交通安全標識と認識された、頼山陽の字による往来安全燈籠を見つけました。

「為往来安全内海自得建之」(往来の安全、内海おのずと得る、これ建てるなり)

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林芙美子の新宿にある旧宅に行ったことがあり、素晴らしい家で、自分で見つくろって建築したそうで、「放浪記」が爆発的にヒットして売れて、当時の売れっ子作家になりました。夫が画家であり、アトリエもあって、昔は各地を放浪していろいろな職業をしていたけれども、夫と結婚して落ち着いたということしかまだ知りません。

小林秀雄が、「作家で林芙美子001 ほど純粋な作家はいない」とかなんとか書いていたような気がしますが、わたしには評価など読んでもいないのにできません。家族はまじめなので、全部読んで、君に読みやすい文体だと思うよと言っていました。

浄土寺に着いた時には、さすがに時間を気にして たいへん駆け足で見て、なんだか余裕がなく、境内をはね回っていました

それから御堂に入り、御茶室の「露滴庵」を聴いて見学したいと思ったものの、安土の伏見城から移築した茶室で、「ここでお茶が点てられたら最高だ」という方がご使用になり、現在は一般には非公開だと伺い、失望しながら、しかたない、宝物館を拝見させていただこうとお願いしました。

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中はまさに宝。全部書けないけれど、聖徳太子が建立した寺だそうで、聖徳太子像が三体あります。

あとは、わたしは曼荼羅と、源氏物語扇絵をざっと見て、もう専門家が見たら、真っ青になる慌てぶりで、ずぶぬれになりながら、JR山陽本線を目指したのです。

足利尊氏ゆかりの寺と言いながらも、尾道浦商人の篤い帰依を受けて栄えた寺であることを後で知り、頬が無知の限りに赤くなりました。

朱塗りの本堂と多宝塔は国宝、山門、阿弥陀堂は国の重要文化財。

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聖徳太子がいないと言う本の出現で、一時、目の前が真っ暗になったことがあります。

私は聖徳太子を尊敬していたのです。

「和をもって貴しとなす」

徳の政治哲学と実践、日本と言う国が出現し、体制を構築した偉大な人物だと思っていました。

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浄土寺のあたりの風景を小津安二郎監督が映画「東京物語」に写したのはなぜか、私なりに思案してみました。

義理の(息子の嫁)娘に尽くされて、喜ぶ舅・姑。

自分は亡くなった夫(彼らの息子)を今ではもうほとんど思い出さず、新しい何かを期待している嫌な女ですと告白する原節子の嫁。

「いいえ、あなたは再婚して新しい幸せを見つけなさい」と述べて、東京で世話をみてくれたお礼をする親たち。

謙虚・素直・正直・感謝という美徳を身に付けた善人をどうしてもこの浄土寺の近くに住んでいる住人ゆかりの人ということで、この世の「浄土」とは、人の心の在り方の美しさに見えるものだと訴えていたように思えます。

笠智衆と奥さんが、「わたしたちはほんとうに幸せ者ですよ」と述べるあたり、どんな境遇でも感謝し、自分の置かれた立場に幸福を見出せる人の姿が仏様のように穏やかで素晴らしい。

尾道はゆっくり散策したい街で、風景に心洗われるような場所でした。

続く。

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瀬戸内の旅行記~しまなみ海道・とびしま海道を行くパート2「しまなみ海道」

2012年06月13日 20時00分00秒 | 旅行記

138 尾道に宿泊して、翌朝しまなみ海道をドライブをしました。

昔は、船でしか芸予諸島を巡ることはできませんでしたが、今ではドライブで島を往き来できます。

その分、随分定期船の数が減り、船で移動を思案しては港から船が出ていないことを知り、愕然としました。

結局、しまなみ海道を車で移動することにしました。最初、時間の関係で全部の道を走ることはできないと思っていましたが、そこがみなりんらしく、今治まで強行突破して戻って来ました。

まるで今年の映画「ももへの手紙」のももみたいな女ですね。お父さんに最後もう帰って来なくていいと喧嘩別れして、父親を事故で亡くして、母とふたりで大三島へ身を寄せるももという女の子。映画の最後が山場で、お母さんを助けるために橋を嵐の中走って行きました。まさに、なんとかしてしまおうと言うところが似ています。

しまなみ海道は、六つの島、向島・因島・生口島・大三島・伯方島・大島を10の橋で結んでいます。総長59.4キロ。1999年に開通しました。

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わたしはまず車を飛ばして、大山祇(おおやまずみ)神社へ伺うことにしました。染色家の吉岡幸雄さんがここに鎧甲冑の凄いのがあって・・・と本に書かれていて、大三島は宝の島とも呼ばれるので、是非実物をみないでいられようかと思った次第であります。

「運転手は君だ、助手(車掌)は僕だ」と歌いながら?爽快なドライブでした。

道に沿った風景が素晴らしく、もう少し晴れていたら最高なのに、と思ったほどです。

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上の「大山祇神社」と書いた方は、有名な書家、大三島出身の村上三島氏で、平成14年のものです。もう残念ながら故人になりましたが、朝日新聞社主催の現代書道家の展覧会でお名前を真っ先に覚えた方です。三日坊主に近いのに、わたしの書道への憧れを深くした方でした。

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境内へ進むと、大きな楠野木が御神木としてあり、この大山祇神社を祭っている乎知命(おちのみこと)の御手植えの木で、樹齢2600年になります。

奥の神社は、思った以上にこじんまりとしていましたが、016 古びた荘厳さがありました。

当初はこの神社は山の神と鉱山神として信仰があったが、中世に伊予の三島水軍を引きいた河野氏と、神社神職の世襲なさっている越智氏が連携し、瀬戸内へ勢力を伸ばした結果、海神の信仰を強めたため、三島水軍の支援を受けた源氏などの武将が武具・甲冑類を寄進し、多くの国宝や文化財が日本のその武具・甲冑などの宝の8割を占めて保存されています。

義経が奉納した赤い甲冑、斉明天皇奉納の禽獣葡萄鏡などをまじかに拝見できて、感動しました。ほんとうに美しいのです。

この神社に、全国の修学旅行生が集まっていいと思うほど、貴重なものばかりでした。

最近の風潮は、若いうちに海外を見せたほうがいいと修学旅行に海外旅行へ行く高校が多いそうですが、教科書を読んで「借景庭園」って何?とか、神社のどこがいいの?とか、日本ってどういう国か全然知らないのに、日本人という若者が海外で馬鹿にされないか心配になりますから、基本的な日本の知識を得てから海外へ踏み出してほしいような気がします。

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以前、湯島天神へ行き、頭を地面にこすりつけて、やたら頭を下げる中学の生徒が大勢いて、傍にいる教員は何を指導しているんだろうと不思議で内心憤ってしまいました。馬鹿丁寧に頭をただ下げればいいというものでもないからです。後で、正しいお辞儀を習う時、大人になって恥をかくのは子どもなのです。

知らなくて恥をかくのは、自分のような大人一人で十分で、知っている大人は子供に正しく参拝を教えるべきだと思いました。何も信仰まで強制はする必要はないのですが、教会で手を組むのと同じような作法を知るというのも、また教えると言うのも大事なことだと思いました。

国が違えば作法も違う。風俗・習慣も違う。だから気をつけて行動するようにという配慮が必要かなと思いました。

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途中、島を回って走ってみたり、瀬戸田への行って走りましたが、平山郁夫美術館や耕三寺は時間の関係でもう閉まっていました。残念無念。

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最後に一番壮大な眺めをご紹介しましょう。

行ってびっくり。見て凄い!雲の中にいるような空中散歩をした気分になる亀老山展望公園です。

たいへん急勾配の坂を車で上がっていきます。

「ももへの手紙」で、イノシシに追われて展望台へ行きますが、そこの風景のようでしたよ。

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ね、ももが素敵な風景で、ここに来て良かったという風景と似ているでしょう。

後に「とびしま海道」でも素敵な展望を見ましたから、お楽しみに。

歩いているうちに、足がすくんでしまって、非常に高い所に来たんだなと実感します。

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映画をご覧になっていない方も、十分写真からその壮大な眺めを堪能できたと思います。

ももを助けた妖怪たちは、この大橋を造った人間たちのように、大きな絆で結ばれていたのです。

あの映画では、とびしま海道の大橋を見たんだと思いますが、橋の意味するものは同じような気がします。

人間には限界があり、人が造ったものは壊れたり、役に立たなかったりすることがありますが、これがなくてはももは島を渡れなかったのです。

人間も、ある意味で創造するのに限度はあるけれど、ひとりの人間ではできないことが大勢の力でできることもあると言うことも教えてくれるような気がします。

自然の脅威の前では無力になりますが、それを乗り越える意志と勇気、自然を敬い、畏敬の念を持ちつつ、その限界を感じる力を持つことも、人間の成長において必要な知識であるはずです。

「バベルの塔」を造ってはならないように、人間の力を過信してはなりません。

しかし、自然と調和し、自然を壊さないように工夫して生かす知恵を学ぶことは大事です。

私は瀬戸内海で、温暖な気候で静かな優しい笑顔を見せてくれた内海に感謝します。

続く・・・

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瀬戸内の旅行記~しまなみ海道、とびしま海道を行くパート1「鞆の浦」

2012年06月11日 16時17分37秒 | 旅行記

私は、家族とふたり、家族が瀬戸内に行ったことがなく、 今回御手洗へ行きたいと言うので、五月に旅行をしました。いろいろ見たいところばかりで、旅の行程表を作るのに手間取りました。

私は、綺麗な瀬戸内の風景をまた眺めてみたいと001 思っていたのですが、あいにく珍しいことに今年の五月は大雨が降り、途中ひやひやしながらの旅になりました。瀬戸内は、本来は降水量も少なく温暖なはずで、晴れ間が多いのですが、今回は別でした。

雨の中、まずは鞆の浦に着きました。

まずは、朝鮮通信使を迎えた、対潮楼へ伺いました。

福禅寺の客殿として建てられた書院作りです。右がその対潮楼から見た風景で、この風景の上に、1711年に、対馬から江戸までの間でここが一番景色が良いと言うので、「日東第一形勝」の書を、上官のイ・バンオンが書いた額があります。

1748年に、正使ホン・ケセは、ここを瀬戸内の眺めがいいから「対潮楼」と命名し、その息子の書家のホン・キョンヘが書を残しました。

003 朝鮮通信使とは、朝鮮国は「偽らず、欺かず、誠を以て信(よしみ)を通(かわ)す」(誠信)という意味が「通信」の意味であったそうです。

鞆の浦は、潮待ちの港町として物資流通の拠点で栄えて多くの船が寄港しました。しかし、後にその経済的な拠点を尾道に譲りますが、今でも江戸時代からの常夜灯、雁木、波止場、焚場、船番所などの設備が残り、全国唯一の保存地区として歴史的な高い価値を持っています。

素人の観光者のわたしが述べていいかわからないものの、日本の歴史がどういうものであったか、今も偲ばれる日本唯一の場所だから、世界中の方に観光に来ていただいて、このまま存続が図れるといいなあと思いましたが、都市整備計画の波が迫っています。

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右は、映画「崖の上のポニョ」のモデルハウスが写っています。後で、尾道へ移動する際に船から撮影したものです。

真ん中の白い家がそうで、監督の宮崎駿さんはこの鞆の浦の保存を守ろうと呼びかけていました。

尾道に行った時、居酒屋のお兄さんが尾道にも都市整備計画が持ち上がった時、町で反対して守ったというお話をお客さんとしていました。

たとえば、常夜灯ですが、見事に象徴として残り、かつての港町の雰囲気を残しています。

010 1867年、紀州藩の明光丸と坂本龍馬らの海援隊のいろは丸が鞆の沖合で衝突し、いろは丸が沈没したため、坂本龍馬も一時鞆の浦に滞在したことがあり、その時の遺品の展示資料館も傍にありました。

坂本龍馬ゆかりの場所が至るところにあり、それを見学する方もいることでしょう。

わたしは時間の関係で早足で進みました。

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鞆の浦の路地はせまく、昔の面影があります。

常夜灯からそう離れていないところに、国の重要文化財に指定されている太田家住宅がありました。

明治時代まで、福山藩の御用酒屋で、保名酒(もち米焼酎の漢方薬酒)の独占製造販売が認められた中村家の屋敷でした。

006 初代当主は1655年、大阪から移り住んで保名酒を販売したと言う。

福山藩は、保名酒を朝廷や幕府に献上し、ペリー来航の際には老中阿部正弘は食前酒として応接に出したと言われています。

中は撮影禁止でご覧いただけないのが惜しいのですが、見事に文化が家の中に息づき、床の間、茶室、掛け軸、ふすま絵など見事なものです。

茶室は、京都から一畳のものを採り入れて、それだけ格式の高い屋敷であったことがわかります。

1863年の8月18日政変で京都を追われた三条実美ら攘夷派公家が長州藩に向かう途中(七卿落ち)、この家で休憩を取ったと言われます。

裏にあった蔵はナマコ壁の白い大きなもので、立派なもので、財宝も多く蓄えたと言われています。

008_2 この中で、保名酒も作られていたので、かなり屋敷は広く、ほかのお宅と比べて別格でした。

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鞆の浦の商家は、以下の写真の通りです。

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そうでした、そうでした。白い馬が写真に見えるのがわかりますか?

こちら鞆の浦では、端午の節句の時、兜や鯉を飾るのではなく、白い馬の人形を男の子のお祝いに飾るのだそうです。

なぜかは、今は記憶が悪くて覚えておりません。

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中には、古い昭和初めの電話器もおいてあり、天井は高くなっていました。

保名酒は今では、鞆の浦では様々な店の商品が売られていて、昔ながらの醸造元は今はそうないらしいのですが、今もその味と作りを大切に町の方々は守ろうとしています。

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さて、三条実美は和歌でこう歌っています。

「世にならす鞆の港の竹の葉をかくて嘗むるも珍しの世や」

(竹の葉は保名酒のこと)

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町を見下ろすところに、鞆城跡があり、ここに足利義027_2 昭が滞留しました。今は鞆公園になり、国の名勝になっています。

公園には、親が福山や安芸の出身の、宮城道雄の銅像がありました。鞆の浦を非常に好んでいたそうです。

新宿区神楽坂に宮城道雄記念館があり、春の海などの曲を作曲し、琴の名手でもある視覚を失った方でしたが、この方のエッセイを読むと感性が鋭敏で豊かで心根は明るく、朝鮮の方々の音楽的な素養を褒めていました。

日本を代表する音楽家ですが、国際的な視野を持った方でした。

さて、船着き場を目指して、鞆の浦を後にすることになりました。

ここから定期観光船で尾道へ行くのですが、あいにくの天気で船の中からほとんど景色はぼけて見えていました。

さようなら、鞆の浦。目の前に・・・

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船が進んで行くと、毛利輝元が再興したという磐台寺阿伏兎観音堂が見えて過ぎて行きました。

今度来る時は鞆の浦はどうなっていうのでしょう。

今度は晴れて、もっと美しい町並みを見せてほしいと願いました。続く。