みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2007年水戸弘道館ほか見学

2008年01月01日 16時48分58秒 | 日記・エッセイ・コラム

027_2 「巧詐は拙誠に如かず」(徳川斉昭書)

水戸の弘道館内の売店でひとり水戸拓を刷り続ける北澤彦一さんの一番お気に入りの言葉である。

もとは茶道の心得だが、すべてのことに通じると思うとおしゃっている。

不器用な自分には有り難い言葉だった。わたしが水戸と言うと偕楽園を思い出す方のほうが多い中、梅を観賞して名所として印象深いのは、弘道館のほうのお庭の梅でした。

偕楽園の好文亭は、こじんまりとしながらも、三階まで上がると、いかに遠方の湖や白や薄いピンクの梅木の森も拝見できる風光明媚な場所かわかる。
松林も見える。
好文亭の中の日本画の襖絵も見事であった。
菊の間、楓の間、松の間、梅の間など、どのお部屋もこじんまりしていながら、趣があり、当時の日本人の宿泊場所は、小さな空間だった。
庭も、造りが見事である。
大正天皇、秩父宮さま、三笠宮さままでは実際宿泊し、使用なさったらしい。

話戻って、弘道館。しだれ梅初め、偕楽園にはない花が咲き乱れて、品格のある感じでした。てっせん梅という茶せんのような枯れたイメージの古い梅から、侘び助という椿も咲いて、趣が深いものでした。

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弘道館の居間に一歩入ると、「尊攘」というイデオロギーだが、字体と勢いは見事な大きな筆がまずどっと目に入る。
弘道館、別名「遊於芸」と額があった。
「ゆったりと余裕をもって学ぼう」
ということらしい。

弘道館で最後蟄居なさった徳川慶喜の部屋で正座して弘道館の拓本を部屋で眺めていました。(拓本が見事)
ここは至善堂という間。
拓本を読みたくても、時間が許さない。016

弘道館は14歳に入学して、卒業がないらしく、40歳になると入場制限があるそうです。下級武士は、出世するには、必死で勉学したそうです。そのひとりが藤田東湖です。水戸学を知るには、彼を知らなければならない人です。

弘道館の中には、拓本は、美しくとられていても、原本になる碑は、太平洋戦争で爆撃にやられしまうものあって、拓本だけは今でも綺麗に読めるので貴重である。                               019

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ネット参考解説 Wipidekia

藤田東湖

常陸国東茨城郡水戸(茨城県水戸市)城下の藤田家屋敷に生ま、1827年(文政10年)に家督を相続し、彰考館編集、彰考館総裁代役などを歴任する。当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。

1829年(文政12年)の水戸藩主継嗣問題に当たっては徳川斉昭派に加わり、同年の斉昭襲封後は郡奉行、江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進し、1840年(天保11年)には側用人として藩政改革に当たるなど、藩主斉昭の絶大な信用を得るに至った。

しかし、1844年(弘化元年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、同年9月には禄を剥奪される。更に1846年(弘化3年)斉昭が謹慎解除されるとそれまでの責めを受け江戸屋敷に幽閉、翌年謹慎処分となる。

1850年(嘉永3年)にようやく水戸に戻ることを許され、1852年(嘉永5年)には処分を解かれている。

藩政復帰の機会は早く、翌1853年(嘉永6年)ペリーが浦賀に来航し、徳川斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。1854年(安政元年)には側用人に復帰している。

1855年11月11日(安政2年10月2日)に発生した安政の大地震の際、一度は脱出するも火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ると東湖も後を追う。落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることに成功するが、自身は力尽き下敷きとなって圧死する。享年50。

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藤田東湖の筆跡は、なかなかの個性的な字。線が鋭く、いかにも利発で、はっきりと物を申し上げそうな鋭さが字体にある。
徳川斉昭の奥方との往復書簡は美しく、
奥方さまの字は女性らしい麗しい字だった。実は、有栖川宮の皇女を妻となさっていたので、優美で何流か、非常に美しく書き散った字体である。

吉田松陰が、ここを訪問し、世話になった礼状を送っていて、その吉田松陰の字も拝見できる。こういう字体なのかと、感心して拝見した。
ただし、斉昭や東湖ほど、字体が整っているわけではなく、まあ、そこそこ普通の字なのに、割とのびのび大きく字を書き、素直で、はっきりした直な人柄とを想起する。

裏には、鹿島神宮の宮司さんは梅の神木から自ら作った梅のみがご奉仕にと置いてある。孔子廟の横に楷木があった。
儒学は、武士の必読。
水戸は「大日本史」の編纂で有名である。いつか読もうと思いながら、高校時代で忘れていた。
八角堂は、八卦から由来する。
武家にふさわしい。

水戸藩の尊皇攘夷の思想は過激だと言うイメージを持っていた。

わたしは、彦根藩の伊井直弼のことをずっと気に止めて、桜田門外の変を学校時代から気に留めていたので、桜田門というと警察庁より井伊直弼をすぐに思い出し、いつもここから歴史は大きく転換したと記憶にとどめている。とても気になる日本の事件だった。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

徳川斉昭(とくがわなりあき)/寛政十二年~万延元年(1800-1860)

斉昭は徳川御三家の一つ水戸藩に生れた。30歳で水戸藩主となった斉昭は門閥保守派を一掃し、会沢正志斎や藤田幽谷、東湖ら能力のある下級藩士を登用し藩内革命を推し進めていった。
その激しい気性から彼は「烈公」と呼ばれていた。

斉昭は自ら木綿の着物を着用し質素倹約に努める。これは水野忠邦の天保の改革にも影響をあたえたといわれている。
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学門の面では弘道館を設立。「弘道館記」で建学の精神を述べ、文中に「尊王攘夷」の語も用いた。藤田東湖による弘道館記の解説書「弘道館記述義」によりその水戸学が全国に広まり、幕末の「尊王攘夷」運動など思想的影響を及ぼしていくことになる。

水戸藩は海に面しており、外国船が頻繁に沖に出現、さらには上陸までする事もあった。そこで斉昭は大砲の鋳造をしたり、蘭学者を招いて造艦書を翻訳させたり、間宮林蔵に北方調査を依頼したりと海防に力を入れはじめていく。また神仏分離を推進。しかしここで門閥派と抗争になる。そして幕府から隠居謹慎を命じられ、家督を慶篤に譲ることになってしまう。

嘉永二年(1849)幕政に復活。ペリー来航後の嘉永六年(1853)には老中阿部正弘により幕府の「海防参与」に任じられる。

太極砲(常盤神社)

この時期、江戸の佃島で日本初の洋式帆船「旭日丸」を建造した。
(進水時にバランスを保てず傾き、実用には至らなかったそうだ)
幕府政治における発言力が増していくと、江戸城大奥の質素倹約化を推し進めた。そのせいかどうか、、、大奥ではにはすこぶる不人気だったらしい。

老中阿部正弘の後任に「開国派」の堀田正睦がたつと対立し海防参与を辞任。
また大老に井伊直弼が就任し、日米修好通商条約締結や将軍後継に慶福(家茂)を決めると猛烈に反発した。

斉昭をはじめとする反対派諸大名は一斉に江戸城に登城し直弼に詰問した。しかし、このことで斉昭は謹慎させられる。013
翌、安政六年(1859)、大老井伊直弼による反対派へ処分がはじまった。「安政の大獄」である。
斉昭は水戸において永蟄居、藩主慶篤は御差控、子の一橋慶喜は謹慎処分、水戸藩家老安島帯刀は切腹させられた。

万延元年(1860)三月、大老井伊直弼、桜田門外に倒れる。
襲撃したのは関鉄之助を大将とする水戸脱藩17人と薩摩藩士1人だった。
斉昭はその5ヵ月後、水戸城で没する。享年61歳。

補足
http://members.at.infoseek.co.jp/Bakumatu/mito1.htm 参考

寛政12年(1800年)3月11日、水戸徳川家江戸小石川藩邸で生まれる。長兄で水戸徳川家第8代徳川斉脩の没後、門閥派より11代将軍徳川家斉の第20子恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎える動きがあったが、これを抑え、下士層の支持を得て文政12年(1829年)襲封した。

天保2年(1831年)有栖川宮織仁親王の王女登美宮吉子と結婚。

藩校弘道館を設立し、門閥派を押さえて、広く人材を登用することに勤めた。こうして、戸田忠太夫、藤田東湖、安島帯刀、会沢正志斎、青山拙斎ら、斉昭擁立に加わった、比較的軽輩の武士を用い藩政改革を実施した。011_3

斉昭の改革は、水野忠邦の天保の改革に示唆を与えたといわれる。天保8年(1837年)7月、斉昭は、1.「経界の義」(全領検地)2.「土着の義」(藩士の土着)3.学校の義(藩校弘道館及び郷校建設)4.「総交代の義」(江戸定府制の廃止)を掲げた。また、「追鳥狩」と称する大規模軍事訓練を実施したり、農村救済に稗倉の設置をするなどした。

しかし、弘化元年(1844年)鉄砲斉射の事件について責任を問われ、幕府から隠居の処分を受けた。弘化3年(1846年)に謹慎解除。嘉永2年(1849年)に藩政関与が許される。

嘉永6年(1853年)6月ペリーの浦賀来航に際して、、老中首座阿部正弘の要請により海防参与として幕政に関わったが、水戸学の立場から斉昭は強硬な攘夷論を主張する。

安政6年(1859年)に将軍継嗣問題及び条約調印をめぐり、越前藩主松平慶永と尾張藩主徳川慶恕、そして実子で一橋家の当主一橋慶喜らと江戸城無断登城の上で大老で南紀派の井伊直弼を詰問したため、永蟄居を命じられた。

万延元年(1860年)8月、蟄居処分が解けぬまま心筋梗塞で急逝する。享年61。



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1 コメント

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最近水戸の歴史に興味を持った水戸藩人です。 (あんどう)
2013-08-15 18:46:16
最近水戸の歴史に興味を持った水戸藩人です。
震災前の記述なので非常に内容あるブログだと思いました。
現在は北澤彦一さんは亡くなられてしまい、奥様がお店に居り、拓本をされているとのことでした。

今後も素敵なブログを更新してください。
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