みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2009年長崎紀行記~パート2 出島付近と稲佐山

2009年05月29日 15時28分46秒 | 旅行記

わたしは、軍艦島上陸を終えて大波止から、出島へ向か296 いました。時間的に余裕がないので、さっと歩いて行きました。

出島橋

この橋は明治43年(1910年)に旧出島橋の老朽化に伴い、現在の場所に移設されました。もともとは、中島川の河口に明治23年(1890年)にあったのです。

構造は、ボルトで結合されたプラットトラスで、架設工事はアメリカから輸入され、日本人監督者のもと日本土木会社が行いました。一般に使用されている道路橋としては日本最古の橋梁になります。

珍しいので、撮影しました。

傍には、和蘭商館跡という史跡が建っていました。指定は大正11年10月になります。

295_2 出島は、1636年(寛永13年)、江戸幕府はポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、約1万5千平方メートルの人工島を築き、そこにポルトガル人を収容したのです。

1639年、鎖国令によってポルトガル船の来航が禁止され、出島は一時無人島になりましたが、1641年平戸オランダ商館が出島に移転して以来、1859年(安政6年)まで218年間、出島は西洋に開かれた日本唯一の窓口となります。

ここは、貿易の拠点であり、商館員たちの住居があったものの、自由な出入りは禁止されていました。

近くに、ミニ出島がありましたが、ここは1820年当時を再現したもので、川原慶賀の描いた「長崎出島之図」をもとに模型化され、昭和51年完成しました。

縮尺は15分の1になります。
そして、平成13年と平成18年に五棟づつ建築物が復元されて、建物が10棟建ちました。
もともとは扇形をした面積15000平方メートルの敷地でしたが、明治37年の港湾改良工事により、その姿を失いました。

250 249 ミニ出島の様子です。

綺麗に復元されています。

見ないで行こうかと思いましたが、入ってみて良かったと思います。

わたしは、オランダというと、今度グスタフ・レオンハルト氏のチェンバロ演奏会があり、もう胸がどきどきして緊張していました。

だって、高名な音楽家で、家族から「君のような人が一番レオンハルトが嫌いなタイプだと思305 うから、他人のふりをする」と言われていました。

もうどうしようか、何を着て行こうか、咳をしたら大顰蹙だからたいへんだ、万が一眠くなった場合どうしたらいいか、誰かに何か言われたらどうしようと、もう頭がいっぱいでした。

しかし、これはみな杞憂だったのです。(レオンハルト氏は温厚な紳士でした)

そして、会場のみなさんも人をあれこれ言うような方々ではありませんでした。

右は、未来の国王ウイレム・アレキサンダー皇太子殿下の植樹のハナミズキの樹木です。これだけ大きく成長しました。日本の皇太子ご夫妻ともお年が近く、良い友好関係が結ばれていることと推察します。

オランダへは行く機会がありませんが、きっと素敵な国なのでしょう。

急ぎ足で、旧長崎内外クラブへと向かいました。

255 トーマス・グラバーのご子息である倉田富三郎氏と荘田平五郎氏らが発起人となり、長崎に住む外国人との交流の場としました。
明治36年(1903年)F・リンガーによって建てられた洋風建築です。右、緑の縁のある建築物がそこです。

ここの窓から、外を撮影しました。周囲はこんな感じです。

311 309 左が旧出島神学校で、右が水門などのある建物の方面です。

旧出島神学校は1878年(明治11年)に建築された日本最古のプロテスタントのキリスト教の神学校です。

綺麗に撮影したいなあと思いつつ、いろいろな角度から外から撮影してみました。

お気に入りを333 披露します。

243_2 外国人の男性が聖書を読んでいます。

夕日が静かに沈んで行く中、なにか静謐で、我を悪から救い給えと祈りたくなるような光景です。

カピタンの部屋にも行きましたが、豪華なものの、やはり本国とは違って、身体の大きな外国人の方々には窮屈な場所だったかも知れないですね。

325 323

ブロンズ製12ポンド砲

この青銅製大砲は、昭和29年(1954年)浦上河口付近で発見されました。

オランダ船の絵姿と、オランダ東インド会社の社章「VOC」及び「AMSTERUDAM ANNO 1640」と刻まれていることから、鋳造界の名門アスウェーラス・コスターによって製作され、アムステルダム支部所属の船舶に搭載されていたと推定されます。

オランダは、布教を目的とせず、貿易のみを重視したせいで、ほかの国以外とは違って特別待遇を江戸幕府から受けていました。

詳しいことはよくまだ勉強していません。

314 315 左は、珍しい陶器製の門柱。

右は、水はけの良い△へこみの下水口。

そして、蔵がふたつありました。これらは古い建造物です。

案外見落とされがちです。

旧石倉

安政の開国後に、大浦天主堂やグラバー亭を建設した小山316 秀之進によって施工されたと言われた石造倉庫を西半分、昭和36年(1956年)に復元したものです。

新石倉

慶應元年(1865年)の石造倉庫。昭和51年(1976年)復元されました。

319わたしが驚いたのは、内外クラブの中にあった名刺入れの木製の家具でした。今も昔の人の名前が残されていて、ここは華やかな社交場だったのだろうと視察されました。

長崎は国際的な都市であったことをよく理解するには、南山手や東山手へも行き感じましたが、ここでもやはり学ぶことが多々ありました。

最後に、この日は稲佐山の夜景をご覧頂きましょう。非常に設備が完備されていて、眺望はよく、ロープウェイに上って行くと爽快な感じがします。

登り下りは、稲佐山神社のところを通って行きます。日本の山々は必ず、日本の神社が至る所にあるので、やはりここは異国情緒が漂っても日本なのだと確認しました。続く

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2009年長崎紀行記~パート1 軍艦島上陸篇

2009年05月17日 08時11分25秒 | 旅行記

「軍艦島(端島)上陸」

この日は快晴。上陸公開開始がされてまだまも239_3 ない。凪も穏やかだった。

端島は、テレビで全国放映されて全国に知れ渡った。
わたしはテレビ放映される前に、長崎を訪問する予定で調べていたが、ちょっと前まではその存在すら知らなかった。

にわか勉強を始める。
その驚くべき建築技術と炭坑地の実体を知る。

(大波止の港の風景)

6ヘクタールほどの小さな面積に、1ヘクタール当たり、800人から1300人という超高密度居住が実現し、日本最初の鉄筋コンクリート造の高層アパートが現存している。

(軍艦島へ向かうマルペルージャ号)             233

島へのアクセスは、長崎港大波止桟橋から高島を経由して1時間ほどの行程である。

(お詫び・・・明らかな間違いがあり、訂正しました)
軍艦島ー長崎県西彼杵郡高島町端島は、長崎港から約18キロの海上に浮かぶ、南北480メートル、東西160メートル、面積約6.3ヘクタールの実に小さい島であった。

船の中では寝ている人もいて、どれほど知識があるかよくわからない。
しかし、中にはここに昔住んでいたという方もいた。
わたしも行きは、ぼんやりと船内でくつろいでいた。

(三菱造船所の昔、戦艦「武蔵」が建造されていた234 ターミナルを撮影。グラバー亭からよく見えた)

(グラバーのご子息は、自宅から三菱造船所が見晴らされたため、スパイ容疑で軍部に眼をつけられ、監禁されてノイローゼになり、終戦とともに、不眠に悩まされて、とうとう自殺したという悲劇がある。)

年表で事実だけ書いてみよう。

1810年に露出炭が発見。
1870年(明治3年)天草の人が小山某開鉱に着手する。この時期に岩崎彌太郎が九十九商会を設立した。
1882年(明治15年)鍋島藩深堀領主鍋島孫次郎氏の所有となる。
1890年(明治23年)三菱社が端島炭坑を買収。
1891年(明治24年)蒸留水機を設置し、各戸に飲料水配給。製塩も行う。
1893年(明治26年)私立尋常小学校設立。       231

(船の中から島々が見えて、長崎らしいマリア様像と白亜の教会が見えた)

1907年(明治40年)高島、端島に海底電線ができる。
1916年(大正5年)日本最古のRCアパート(三十号棟)建設に着手する。
1918年(大正7年)RC9階建アパート(16~20号棟)建設。海底ケーブルにより端島坑内外の電力輸送を実施。
1921年(大正10年)端島が軍艦「土佐」に似ていることから、長崎日日新聞が「軍艦島」として一般に紹介する。

(船内から拝見した軍艦島)                     065
1937年(昭和12年)二十号棟の屋階に社立幼稚園開設。
1938年(昭和13年)電話通信開通。
1939年(昭和14年)朝鮮人労働者が炭坑夫として集団移住を開始。
1941年(昭和16年)年産41万1千100トンの最高出炭記録。

1946年(昭和21年)端島労働組合結成。炭鉱向け特別物資の配給決定。
1947年(昭和22年)公衆電話架設。
1948年(昭和23年)人工4千526人に急増。
1957年(昭和32年)海底水道完成。

(上陸のため船を岸につけたところ)              009

1958年(昭和33年)電気釜、冷蔵庫、テレビなど流行。
1963年(昭和38年)緑化運動のきざし。屋上、空地利用の花壇、温室等。
1964年(昭和39年)従業員約1千人から約5百人に減員。人工約4千9百人から約3千3百人に急減。
1963年(昭和44年)三菱高島炭鉱株式会社発足。
1974年(昭和49年)1月15日をもって閉山。4月20日離島完了。

日本資本主義を代表する大企業による、地縁的単一社会。しかも、第二次世界大戦終戦前には完全な管理社会であって、生産と生活が島で営まれていた。
昭和のノスタルジーを感じる方がいるだろうか。わたしには、この現代の東京を見慣れている眼には、けして古い遺跡を見るような眼では拝見できなかった。

(聳えた建つような廃墟のビル。高台にあるのが高級036 社員の寮。正面が学校の建物)

地下垂直1000メートル下の海面には坑道が網の目のようにつくられ、そこで厳しい自然環境のもと、人々が村社会のようにひしめき生きて来た。
職業的な階級差がはっきりとあり、高級社員と技術者、底辺は隣国の強制労働者始め、この島での慰安婦(娼婦)も居住し、住む場所も待遇も違っていた。
住民のための娯楽施設もあり、一見楽しそうな写真を見せられたものの、捕囚の島とも呼ばれていたように、戦前は徹底した管理社会であり、ミニチュアの近代日本の都会の姿が浮かび上がって来る。

マイナス面では、「水一滴が血の一滴」と言われたように厳しい生活環境であった。生活雑水は雨水が使用され、今の蛇口を捻れば水があるような社会ではない。更にプライバシーもあったものではない。職階層は厚く、その壁は大きい。

(風化しているとは言え、昔の名残が垣間見られ038 る。しかし、かなり崩れている)

プラス面では、戦後に労働組合もできて、住民による生活工夫がなされたことだろうか。また、ここは戦前でも最初は三分の一ほどの大きさの島であったが、居住者たちによって埋め立てを炭のくずを用いて六回なされて護岸堤防の拡張を繰り返し、住居環境を広げていったことだろう。これは今では考えられないことである。人間社会の工夫と創意を厳しい環境でもなし、必要な物質を格闘して得て暮らす人間の知恵を垣間見られるのは、たいへん救いがある。

わたしが驚いたことには、現場で上陸してわからなかったことだが、ここは全部がコンクリート造りや金物ではなかったということである。
海に囲まれていて、塩害には気を使い、サッシュ、手すりなどはほとんど木製であったということである。侵入した海水の排出に対する工夫のあとが、随所に見られた。

(島の中。見学場所は三カ所に大きく分かれて020 いて、公開はごく一部)

ただし、資本経済の様相の変容とともに生活は激変し、創造と破壊・風化が激しく、今は神話のようにぽつんと残っているのだが、足を踏み入れれば、住んでいた方々にしかわからない「住めば都」なのか、複雑な気持ちであろうし、ただの観光客が想像で勝手にあれこれ言えない場所でもあり、それをどう解釈して良いか、わたしの筆舌には尽くしがたい。

わたしは、現在東京にいるが、高度経済成長時代、大地がアスファルトに覆われ、巨大ビルが出現し、今は鉄筋コンクリートのビルの老朽化が進み、借り手もいなくなったビルをよく見かけるし、これだけの不況の時代に、バブルの時に建築した高層ビルがどうなっていくのか、この軍艦島を拝見して、どんな文明も繁栄とともに衰退があり、それがわたしの目の前に突きつけられたような気がして、東京の、そして都会群のビルの未来のような気がして来たが、果たしてどうなってゆくだろう。

軍艦島は時とともに、昔の雑誌で拝見したより025 も遙かに風化が進み、潮風に崩れてゆく運命にある。
ガイドのある方の、「残念ながら世界遺産にはなりえません。風化が進み、本来の姿のまま止めるのは無理があります。今のこの現状がさらに進んで風化してゆくのです」という言葉が耳に木霊するのだった。

あと、何年もすればもっと崩れてゆき、わたしたちの子孫に残して今の状態を見せることはもうできないだろう。

なぜ、もっと早く公開に踏み切れなかったのか、そこに行政の思惑があるのか、ちょっと理解しがたい現実があったが、非公開のままであったのは事実である。
貴重な体験となった。

晴れた空、島々が綺麗に浮かぶ四方の海。この島で、人々はどのような心境でこの海の向こうを眺めていたのだろうか。

わたしは教育に関心があり、学校の校舎の風景046 を納めた。病院も理髪店も娯楽施設も大事だが、ここでの教育内容にもほんとうは関心を寄せた。自分の国の歴史、自分の郷土をどう教えられていたのだろう。

東京で言えば、高島平団地に似たような風景で、しかもそれが昭和ではなく、明治・大正に建造されたというのは、やはり驚異である。

敗戦直後、日本中が飢餓で悶えていた時、ここでの配給額は当時5円。米も酒も振る舞われた。恵まれた環境であったと言えよう。

しかし、高波が押し寄せて来ると、反対岸まで飛沫が飛び、嵐のような中で、人々はじっと何を胸に耐えたことだろう。

石炭から石油にエネルギー資源がとって変わり、ここはもう今や必要とされなくなってしまったが、日本の近代産業の根幹になった場所で、そのために費やされた人々は、日本の発展のためにほんとうにたいへんなご苦労をなさったのだろう。

観光客がはしゃく場所ではなく、しっかりとその033 意義を胸に刻み込んでおきたい。

白い灯台が見えるが、これはここが無人島になっってから設置されたもので、暗くて危ないので、これは新しいものである。

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やがて、船に戻り、島々を間近に拝見して撮影したが、見学した場所がごく一部であったことはよく理解しえた。

祠が見える。ここに信仰の場所もあったことがわかる。やはり海難など災害を恐れて、自然への畏怖の念は抱いていたことだろう。    113

それにしても、ここにこれだけの要塞のような炭坑地がこうして営まれていたとは、わたしたちは社会の華やかな表舞台しか知らないでいいものではないことを認識させられた。

わたしは思う。つねに社会は煌びやかな一面の蔭にこうした地道な裏方のような方々の活躍があり成り立っている。

自分がどちらの役割を果たす人間か大人になって思い知るが、それもこれもなくてはならないのである。社会の頂点に立つ人間は、綺麗な清潔な部分だけではなく、底辺や裏方へ思いが及ばなくてはならない。

多くの大衆という名で埋もれてゆく無名の方々へ077 の感謝は忘れてはならないだろう。彼等がたとえ物質的にはそう貧窮していなかったとは伝えられても、住んでみなくてはその環境の閉塞感は拭えない。

家族的で良かったと言う一面もあるだろうが、そうばかり言えない悲しいことも伝承されないだけであったであろう。

しかし、世界の建築学上、これは希有である。そういう面も合わせ持つ。都会のビルを見慣れた人間には驚きは薄いが、これが時代的な古さを思うと、驚異である。

多角的に冷静に、この軍艦島を拝見したいと思った。

遠ざかる船、シャッターをしきりに切る方々。みなさん、実は自分より詳しい方々かも知れない。                        

日本旗がひらめく時、ずーっと軍艦島が視界から076 遠ざかってゆく。その光景はなんとも言えない気分であった。

離島する際に、住民の方々は、せつないようななんともいいがたい気分を味わったのだろうか。

そんなこんなで、紺碧の海を眺めていると、あっという間に時間が過ぎて、大波止に近づいてしまった。

島々が見えて、今は炭鉱からリゾート地へ変身した温泉保養地も見えて来たし、町並みがひしめきあう。

今は大きな橋を建築中で、開通されれば、また便利に人と物が行き来、することだろう。

「さようなら、軍艦島」

デッキに立っていた人もしばらく静かに腰を下ろしていた203 が、三菱造船所を目の前にまた立ち上がる。

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三菱のあの△マークが眼につく。綺麗に撮影できたから、掲載する。ここは明らかに現代。昭和38年の世界のような軍艦島の雰囲気から、いっきに平成21年に戻る。

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のどかな港風景と思いきや、漁船のほかに、物騒な船(イージス鑑)が修理に出されていた。

アメリカの傘下のもとにある日本。守ってもらっているのか、そういう名目で居座れていられるのかよく判断しがたい。亜細亜の防波堤として日本は位置づけられている。

自衛権は持つべきだと思う。しかし、軍備増強に向けて過剰な武装配備を国民の多くは望まないだろう。                           240

「戦わなくていい」自衛隊。それがあるべき姿である。イージス艦にも実は内心礼を言わねばならない苦しい日本の現状などは、北朝鮮ミサイル問題などで致し方ない。

しかし、だからと言って、日本が戦闘を開始するようであっても困るのである。わたしは軍事評論家でも政治家でもない。しかし、ぎりぎりの外交努力は重ねていかなければならないだろう。これ以上のコメントはもうやめよう。

子どもに尋ねられたらこう述べよう。

「青い海の向こうには何があるの?」

「敵ではなく、平和への連携を望む世界各地の人との温かい絆がある」

子どもの手を握りしめて、こう返答できるようでありたい。

続く


フォーレンダム号東京港初入港

2009年05月06日 08時54分28秒 | 船の写真

*一部、完全な記憶違いがあって、訂正しました。

5月4日、東京晴海埠頭へオランダアメリカライン、フォーレンダム号(オランダ)が初入港した。

037

今年は日蘭交流年(2000年が日蘭交流400年でした:訂正)で、わたしはいろいろなイベントを楽しみにしている。

天気は割といい方。疲れていて午039 後に撮影。

歓迎放水を受ける、フォーレンダム。水しぶきが黄色であるので、珍しく思って撮影した。

1999年に就航し、6万1396トン。客室716室。

「ロッテルダム」から始まった6万トンシリーズの第2船と言われる。この船の名前はアムステルダムの北に位置する小さな漁村の名前であり、これは3代目となる。

内装のテーマは「花」。17-21世紀にかけての「花」をモチーフに造られたそうである。

撮影していたら、東京港らしく、船が行き来していて、危ういほど二隻が接近。こういうのも珍しい。

038 オランダは、長崎の平戸にまず商館を建て貿易を始め、やがて出島へ移る。

オランダと言えば、ミッフィーちゃんのキャラクターを思い出す方も多いかも知れない。

また、日本の皇室とも今も深い交流がある。

王室の方が町を普通に歩いていらっしゃったり、とてもそれが自然らしい。とても人間らしく、自由でおいでである。

現皇太子も雅子様もそういう皇室のあり方に共感を覚えておいでだったのではないだろうか。今は、天皇を元首にしようという動きも政治040 界にはあるが、天皇陛下ご自身が「日本国憲法を重んじ、象徴」で041 あることを認定し、肯定なさっておいでで、そういう陛下の意向を尊重申し上げたい。

陛下のご意向であり、絶対である。もし、ご意志を尊重する方で有れば。

車から、ガラス越しに正面を辛うじて撮影する。

クイーンメリー2を見てしまった自分としては、やはり小振りだが均整の取れた上品な船である。

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もとはオランダとアメリカを結ぶ大西洋横断の豪華客船で、東京港以外はもうだいぶ日本へ入港しているはずである。

3日は神戸で停泊していて、4日は夜9時に函館に向かう。

時期は明日が端午の節句という時期であるので、046 鯉のぼりが東京港になびいていた。

文部省唱歌「鯉のぼり」

♪いらかの波に白い波 重なる波の中空を

橘かおる朝空に 高く泳ぐや鯉のぼり

♪開ける広きその口に、舟をも呑まん様見えて、

ゆたかに振るまう尾鰭には、物に動ぜぬ姿あり

                                                                            047_3   048_2

夕明かりが灯され、静かに夜のとばりが降りる。

これから夜景が綺麗なことだろう。

わたしは学生時代、日本国憲法と教育基本法をみっちりたたき込まれた。

いや、日本国憲法の理念は素晴らしいものである。わたしはその条文を学生時代暗唱した。

049 わたしはこれをもう改正したいとは思わない。特に九条を改正することは反対である。自衛隊は認めているし、ありがたいと思う。しかし、海外派遣をして戦闘することに参加するのは憲法違反であると思うし、戦争にいい戦争はないと思う。そこは譲れない。

日本人が日本国憲法を改正したら、ほとんどの日本人が宗教もはっきりしない、この漠とした国が背骨をなくすと思う。ただし、わたしは共産主義ではない。

オリンピック誘致がなされている。日本人がこうして平和にいるのは、現憲法のお陰である。

5月3日憲法記念日。5月5日子どもの日。5月4日緑の日。

大人はもういつ死んでもいいが、選挙権もない今の子どもの将来に若い人を中近東などの戦場へ送り出すことは無責任である。自分たちが味わった平和の恩恵を噛みしめるべきであると思う。

そんなことを思いながら、東京港を後にしました。