みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

源氏物語を考察する~光源氏のモデル論ほか

2008年07月15日 05時08分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

「源氏物語を考察する~光源氏のモデルなど」

1 「源氏物語 光源氏 」

わたしは、この先日、京都へ行って参りました。
詳しくは、後日エッセイにしたいと思います。

現在のJRの広告や有力説として、光源氏は実在の人物ではないものの、モデルに源融(とおる)ではないか、というので、清涼寺や大覚寺では祀っていて解説にもありますが、わたしは学生時代に折口信夫の貴種流離譚と捉えていたので、源融がモデルと言い切ってしまうことに少し躊躇いました。

わたしは更衣を母とする、源高明(たかあきら)が有力かなと思っていましたが、在原業平の「伊勢物語」のように、モデルとする人物が複数存在し、物語を紡ぎだしている気がしてなりません。

そういう論文がもうあるかも知れませんね。ただ、断定して源融にしてしまうのはいいものか疑問でした。
しかし、清涼寺や、源融という人の魅力はあったでしょうし、光源氏に似ていたかも知れません。ただし、高明という人もなかなか魅力的な貴族でした。

いつか語る機会があればいいなあと思いますし、大覚寺は見応えがあり、清涼寺に行き、王朝絵巻のような大覚寺に行くと、源氏物語へのイメージが膨らみました。

2「源氏物語 光源氏のモデル推察 1」

わたしは日本文学の平安朝文学専攻ではないので、素人に近い。「源氏物語」もところどころ知っている程度でお粗末であるが、光源氏のモデルは誰か、ちょっと気になった。

清涼寺や大覚寺で、源融(とおる)がモデルであると、はっきり書いてあったので、わたしがそうかなあと疑問に思ったことを記述したい。

まず、源融がなぜモデルかというと、源融は六条院のわたりに広大な邸宅を営み、邸宅は「六条河原院」と言われたのだ。六条の御息所の邸宅の跡に、鎮魂の意味で光源氏が設けた六条の邸宅があったのと同様であり、巨万の富で河原院や山荘棲霞観などを営んだことから、有力モデルと書かれた看板があった。

嵯峨天皇皇子で、嵯峨一世源氏。仁明天皇の養子になり、源朝臣を賜り、臣籍降下。左大臣から正一位追贈される。
しかし、「大鏡」に陽成天皇の譲位に際し、皇位を望んだと言われる。
後、河原院は宇多上皇の領地になった。

河原院には、融の霊や鬼が出没したことで有名で、どうも光源氏と全部重ならない。

『江談抄』巻四には、宇多院と京極御息所が宿泊なさると、融の霊が出現して御息所をいただきたいと願い、叱責した院の腰を抱き、御息所が失神し、加持祈祷で蘇生したと言う話がある。

宇多院は、融の霊の苦しみから逃れるため、読経のようなことをさせたり、融の子どもによって、河原院が寺とされ、のちの祇陀林寺に移したと伝記される。
現在、本覚寺と錦天満宮に塩竃社があり、融を祀る。

藤原良房、基経の執政下で政治力はそう及ばなかった。

だが、陸奥の塩竃を模したと言われる景観の六条河原院と言い、棲霞観も嵯峨の風物をいかんなく取り入れた、素晴らしいものであっただろう。

曾孫に親王が生まれ、なかなか素敵な方だったらしく、血筋のつながる源融も魅力的でそれなりの深い教養があり、ひとりの光源氏のモデルとして挙げられるのはそうかも知れないが、実在の人物というのは言い過ぎているような気がした。

実は、昨日金田元彦先生の本を借りて来て、ぱらぱら拝見したところであるが、わたしは「源氏物語」は実際にあった話をあれこれつなぎ合わせ、「女源氏物語」として書かれたものだという認識でいたので、詳細はここでは省くが、多くの公卿の説話や実話を紡ぎ合わせているらしいというのは、金田先生も、わたしは存じ上げない折口信夫先生もお話になっていて、学生時代の講義にそのお話が耳に残っていた。
勉学浅く、こういう程度しか今は述べられないのを恥じながらも、少しづつ書いていきたい。

まだまだ光源氏にはモデルと言われる人物がいる。
次回は、源高明(たかあきら)について書きたいと思う。

3「源氏物語 光源氏のモデル推察 2」

わたしは、単純に源高明やそのほかの源氏の方々の物語をつなぎ合わせたのだろうと、最初思っていた。いや、紫式部に紙を与え続けていた藤原道長の、栄華へ通じる話だとも思っていた。
しかし、金田元彦先生がいらしたら、「勉強が足りなくて恥ずかしくないの?」とお叱りを受けるところである。

①嵯峨天皇、仁明天皇の時代は?
②宇多天皇はどういう方?
③源氏にはどういう流れがあるか
④光源氏の邸宅は?
などなどを知っておく必要があった。

浅学な身には、これはまた「無知の告白」になるが、致し方ない。
気軽にみなさんが読めるように、そうおかしくない程度に簡単に書いていこう。

今回、複雑になるので、女源氏については極力話題を避けたいと思う。(ほんとうは不十分だが・・・)

(以下、参考:折口信夫氏と金田元彦氏)

まず、源融説であるが、先帝(せんだい)という物語の言葉に注意する。
ある天皇と系統の違う天皇のことであり、今では天子の系統から遠ざかっている前の人ということで、つまり、直系ではなく、傍系の筋の前の天子を言う。

わたしはしばらく本を眺めて思案した。利口でないので、思考回路が躊躇っていた。

結論から言うと、「源氏物語」は「王氏」つまり王家の氏のお話の謎が隠されていたというのである。
宇多天皇の父方は、嵯峨天皇・仁明天皇・光孝天皇と続く血統であり、母は桓武天皇の王孫の斑子女王で、父母ともに王氏の出身であった。
宇多天皇は、桐壺の巻に実名で登場し、さらに「前朱雀院」の名称で再登場するからである。

源融と宇多天皇との確執が霊になってあらわれるほどであるなら、それは源氏物語の若菜の巻の裏側にある、朱雀院と光源氏の家督相続の争いが理由であった。
そういう意味で、源融は光源氏のモデルと言えるのだろうか。

なぜ、源融の六条河原院が宇多天皇に献上されたかは不明なものの、王家へ財産が譲られていく。宇多源氏へ継承される点を思案しなければならない。
宇多天皇から血筋は、醍醐天皇へと続く。

そう考えると、先帝の系譜と考え合わせて、女三の宮と結婚することで父帝朱雀院の財産を光源氏は得て、さらに前坊の北の方である、六条の御息所と関係したことで、御息所の財産が、当然自然な形で入ることになる。

「源氏のほんとうの財産は、二条院である。(これは、後にモデルとして、藤原兼家があげられる根拠になる)」

さて、平安時代の「女御・更衣」制度は嵯峨天皇の時代に固定された。
そして、嵯峨天皇の御子の中から、源氏姓を賜り、一世源氏、あるいは一世の女源氏が成人して、宮廷で活躍した頃である。

嵯峨天皇の御子、仁明天皇の後宮は、父の嵯峨上皇、母の檀林皇太后を後見として、華やいだ。
それが、源氏物語の冒頭部の華やかな記述と一致する。
「女御・更衣あまたさぶらひ給ひける」時代。

嵯峨天皇には50人ものお子さんがいらして、嵯峨源氏として臣下に下した。
そいういう意味では、源融説は、醍醐天皇の皇子より有力になるが、明石・須磨に行く源氏の姿などを想像し、他の部分において思案すると、有力モデルのひとりということになる気がするのである。

今日は、下手な解説ながら、ここまで。次回こそ、源高明のモデル説へ行きたい。
さらに、藤原兼家に進みたいが、脱線するかも知れない。
専門家が読んだら、これでいいのか?と青ざめるかも知れないが、わたしの知識のなさと、字数の関係もあり、失礼します。

5「源氏物語 光源氏のモデル推察 3」

源融説は有力ながら、源高明をはずして思案はできない。
しかし、その前に宇多天皇という方のことをお話しなくてはならない。

平安時代の歴代の天子と違って、生母が純粋な王氏の方であったことが、宇多天皇の御名を後世の人に語り伝えさせる一因になっている。
そして、宇多天皇の人生自体が古代物語の主人公にふさわしいのである。

①お生まれになった時が一世の定省王
②源氏姓を賜って、源定省と名乗る
③定省親王になる
④陽成天皇の御代には侍従職になる。
⑤皇太子となって帝位につく
(陽成天皇は不快だったらしいことが「大鏡」に見受けられる。)
⑥上皇になられてから、出家なさって仁和寺に籠もられる。
(朱雀院が女三の宮の降嫁を決定して西山の御寺に籠もられるのと似ている)
⑦女三の宮と過ちを犯した柏木が大切に持っていた横笛は、なんと陽成天皇御所蔵のものであった!(宿命的な暗示)

なお、鷹司の上、藤原倫子は宇多源氏であり、兄の左大臣藤原雅信の系統で、押しもおされぬ権力者、藤原道長の第一夫人(正室)である。
そのため、宇多源氏の流れを組む方々の説話が、源氏物語に数多く投影されている。

紫式部にとっては倫子は又従姉妹であり、お仕えしていた彰子の母である。
従って、宇多源氏の男性の方々で、源氏物語のもとになるお話も多いのである。
今回は、細かいモデル分析は時間がないのと、金田先生のお考えである故、ここでは避けたいと思う。

さて、大事なお話は、源氏物語に山ほどあるが、ここではいわゆる一般的なモデルを思案してみたいと思う。

辞典には、源高明を古くから光源氏のモデルと言われ続けられ、書かれている。最近は変わったようだが・・・。

「源高明」、平安中期の公卿。西宮左大臣と称される。
醍醐天皇の皇子。母は、更衣の源周子。
源氏姓を賜り、元服の翌年に従四位上で出身。参議となり、累進して冷泉天皇の左大臣に昇ったが、翌年安和の変で失脚。太宰権帥として配流された。

右京四条の広大な西宮第は配流後炎上するが、この邸のことは「池亭記」にも記されている。

琵琶の名手で、和歌にも秀で、朝儀、故実に精通し、一世源氏の尊貴さもあって、朝廷に重きをなし、恒例、臨時の儀式、政務を記した「西宮記」は以後の貴族政治における重要な典拠の一つとされ、現在も王朝政治・文化研究の貴重な史料である。

九条流の故実の祖、右大臣藤原師輔に信頼され、その三女を室とし、その娘が亡くなると、五女を室としたが、師輔が早く亡くなると、後援者を失ってしまったのである。

高明の娘は、村上天皇の皇子にに嫁いだが、藤原氏に忌まれて、皇位から疎外される。

高明は帰京し、封戸も賜ったが、政界へ復帰しなかった。

晩年、娘の明子が藤原道長の室になり、数子をもうけた。
その息子たちは政界で活躍する。

源高明の三男は、関白藤原道隆の信任を得て蔵人頭になり、藤原道長の傍で累進し、権大納言に至る。政界で活躍したが、最後は出家した。

儀式、政務に明るく、詩文の才能もあり、藤原公任らとともに、四大納言と称された。

異母妹の明子は道長の室であり、彼も光源氏に似て、道長から見て、その父の源高明は憎い存在ではなく、親近感があったのではないかと推察する。

かなり一般論になったが、次回は藤原兼家の紹介に行ければと思う。

6  「源氏物語 光源氏のモデル4」

源氏物語の設定から、「花鳥余情」*1では、おおかた、藤原兼家の二条院を念頭に置きながら、書いたのではないかと推定されている。

*1 一条兼良(1402~1481)による中世の『源氏物語』の注釈書。応仁の乱を避けての奈良滞在中に書かれ、文明四年(1472)成立した。
 龍門文庫本は、その六年後の文明10年(1478)に、後土御門天皇の勅命に応えて書写されたもので、第一冊(巻1・2)は、兼良の自筆である。
 貞治4年(1365)奥書のある『紫明抄』5冊と共に同じ木箱に収納されている。

紫式部は、光源氏の本邸を二条院として、物語を始め、光源氏はここで生まれ、桐壺更衣はここで亡くなる。

そして、光源氏が六条院を完成した後、空蝉と末摘花は二条院に迎えられ、女三の宮の御降嫁の後、数年後、紫の上は発病し、再び二条院にもどってから亡くなる。なぜか、二条院には「もののけ」が登場し、ここで亡くなる方の死は尋常ではない。

なぜだろうか。それは、藤原兼家の説話が、源氏物語に投影された必然性を思案してみよう。
「がけろう日記」の著者は、兼家の妻であるが、なぜか、兼家は著者55歳で亡くなる間、すくなくても15年間は夫の生活の一部始終を見聞していたのに、ある期間、日記にはしたためておらず、夫の死後20年生き続けながらも日記を公開せず、異腹の長男関白道隆が積善寺供養をした翌年、著者は亡くなる。

書かれなかった15年間の間、二つの大きな事件が起きている。
花山天皇の御退位の事件であり、もうひとつは女三の宮との結婚である。

兼家は、年来の妻時姫と死別し、やもめ暮らしに近かった。
そして、村上先帝の御女(むすめ)三の宮には、末摘花、女三の宮とはなんと共通する大事なことがある。
おふたりとも、琴(きん)の名手であった。

七弦琴の名手は、紫式部の執筆時期には、中国から伝来した古楽器であり、ほとんど演奏者のないまま伝えられていた。この楽器を演奏できるのは、光源氏、末摘花のほかに、光源氏が直接教えた、女三の宮しかいないのである。(源氏物語で)

ところが、現実は、村上天皇の皇女、女三の宮も琴(きん)の琴の名手であった。
女三の宮は、父君の村上天皇が姫19歳の時に亡くなり、祖父の左大臣も姫22歳で亡くなり、母御息所の消息も行方不明で、末摘花のような廃墟にお住まいだった。

藤原兼家は、その姫と、宮37,8歳の時に結婚し(たいへんな晩婚)、宮は一年間の結婚生活で亡くなった。御年39歳である。

話を二条院に戻すと、「大鏡」によると、女三の宮のもののけが交じっていたと言う。
女三の宮は結婚一年足らずで尼になり他界した。
女三の宮は兼家を恨み、死後、もののけとなって、兼家を狂わせたと言う。

兼家は、44歳以降、権大納言になった時以来、時々気持ちが落ち着かなくなったと「かげろう日記」にも見受けられ、それは晩年まで続く。

藤原氏が、もっとも恐れていたのは、さまざまな形で不孝な一生を遂げた女性の怨念ではなかっただろうかと、金田元彦氏は述べている。
紫式部の叔父の仁海は、名僧で「もののけ」の退散呪法に長じていたと言う。

「河海抄」*2によると、村上天皇の皇女、選子内親王(女三の宮の異母妹)の命を受けて、上福門院(彰子)が紫式部に源氏物語を書かせたとされている。
不幸な女性への鎮魂をこめていたのかも知れない。
女三の宮に関心が深いことがおわかりになることだろう。

*2 「河海抄」は、源氏物語のいわゆる古注のなかで最高の水準にあるものとされる
著者:四辻 善成(よつつじ よしなり)、南北朝時代から室町時代中期にかけての公家・学者・歌人。号は松岩寺左大臣。父は尊雅王。祖父は四辻宮善統親王。順徳天皇は曽祖父にあたる。

*2  順徳天皇の末裔で代々「四辻宮」を号した。妹に石清水社祀官・紀通清妻、智泉聖通がおり、その女良子が足利義満・満詮の生母となる。1356年(延文元年)源姓(順徳源氏)を賜り臣籍に下る。関白二条良基の猶子となり、その庇護を受けた。

*2  将軍足利義満・管領斯波義将の後援があり、1395年(応永2年)に左大臣となり、まもなく出家した。

*2  歌人・古典学者としても知られ、若いころに河内流の源氏学者で二条派歌人の丹波忠守の薫陶を受けた。大臣や将軍をはじめ、地方国人にも古典を講じて人望があり、「正六位上物語博士源惟良」の筆名で、貞治年間、「源氏物語」の注釈書である「河海抄」を将軍足利義詮に献じている。

 
 折口信夫は源氏物語のもとの形は、「女源氏の物語」ではなかったかと推定されているが、源氏物語の本質は、女性の宿命の悲しさを描きながら、不幸な一生を送って亡くなった、さまざまな女源氏の物語と思案するのが不自然ではなく、折口先生は見事に卓見なさっていると金田先生は述べられる。
わたしがこのHPで省略してしまった、女源氏の物語、ご興味があれば、金田元彦氏の本でお読み下さい。たいへん詳しく書かれてある。

なお、六条院の方も、JRや京都観光協会に嫌われそうだが、宇多天皇亡き後、寺になるまで荒れ果てて、やはりもののけが出て、実は身よりのない藤原氏の女性たちを収容した
場所であった。女が大勢集まり、どう過ごしたか。

光源氏はただのプレイボーイではなく、多くの女性を愛しながらも、けして最後まで見捨てることはない、頼りがいのある男性であったことを考慮されたい。
 当時、夫に見捨てられたら、生活にこと困った姫君たちにとって、複数の奥さんを持つのが当たり前の時代でありながら、だれに対しても行く末に心配った光源氏は、救いの存在で理想の男性に見えたことであろう。

多くの女性が晩年出家するのは、実に現代から見ると、光源氏の罪のようだが、当時は30歳で「床離れ」が常識であった。
仏の道で晩年心穏やかに過ごし、自殺した女性がひとりもおらず、天命を全うしたことは、けして当時は不幸なことではなかったと思案すべきであろう。

ざっと駆け足で、書いてきたが、大事なことは、この「源氏物語」は、さまざまな伝承説話をもとに構築されていて、「光源氏」という実在の人物はひとりいたわけではないが、全くの絵空事ではなく、荒唐無稽な話でもなく、多くの大事な王朝の実話が秘められているということである。

そして、紫式部は、「かな」で嵯峨天皇から、藤原道真の時代までの日本紀を書いてみたかったのかも知れないが、史実がリアルだと支障があるので、いろいろ脚色をしながら、書いたものであるのだろう。

おおざっぱで申し訳ないのですが、以上、源融から始まって、モデルの重要な部分だけ取り出してみました。

7「「源氏物語の美学の本質を推察する」

「源氏物語」の美学の本質として、金田元彦先生は、こう述べられている。
「源氏物語」は季節と人生との関わりが実にうまく描けている文学であり、その美学は宇多・醍醐朝の美学を理想としている。

宇多・醍醐朝の美学とはなんだろう。一言で言えば、「古今和歌集」の美学である。
醍醐朝に完成した「古今集」の美意識と季節感が「源氏物語」の骨格を作っている。

紫式部は、娘時代、曽祖父の造った邸宅に住んでいた。4,5千坪あった邸の東側に数千本の桜が植えられていて、紫式部の少女時代、毎年美しい花を咲かせ、式部の詩情ををはぐくんだと思われる。

花の季節には、それにふさわしい装束を着るのが、平安時代の貴族のならわしである。
それを「襲ねの色目」と言う。(醍醐朝の歌合わせの記録に、この華麗な色目の記述が眼に付く)

早春なら「紅梅襲ね」、桜の頃は「桜襲ね」、次は「山吹襲ね」、「藤襲ね」・・・。
折々の花を装束に移してたしなむのが、平安時代の美学である。

この風習は、「古今集」ができあがる前後から平安貴族ではやった「歌合わせ」のためで、年々盛んになり、歌合戦がファッション化して服装がだんだん洗練され、季節の花を歌に詠むばかりではなく、服装のデザインの上にも季節の花を取り入れるようになったのである。

当時は、「歌合戦」というと、青組と赤組であった。(白と赤というのは源平合戦以後の対抗色である)

 桜が大好きだった紫式部は、自分の好きな女主人公の登場する場面には、必ず、美しい桜の花をびらを散らした。
それは、平安朝の「桜の園」にはぐくまれた紫式部の心のよりどころが、「源氏物語」にも美しく投影されているせいかと思うと、金田元彦氏は述べていらしゃる。

 また、嵯峨天皇を語らずにはおけない。嵯峨天皇の唯美主義的なところは、似ている部分がたくさんある。金田先生は、万事に心配りが行き届き、先の見通しもよい、嵯峨天皇と光源氏が同一人物かと思うほど似ていると言う。
「文華秀麗集」が撰進され、文学の美そのものを求めようとする唯美主義的文学観が打ち出された。類題として、新しく、「艶情」を部として設けているのも新しい試みであった。

ほかに、嵯峨天皇は、天子の常の服を「黄櫨染の御袍」と定められた。この規則は千年以上も生き続け、今日でも古式にのとった儀式には必ず、天子はこれをお召しになる。
さらに、嵯峨天皇は「花の宴」の創設者であった。
現在もなお、「観桜会」という形で残っている。
また、嵯峨天皇は舞楽をお好みになり、男子の朝服の裾は唐風の短めから、平安朝には膝を越えるほど非常に長くなったらしい。

これらは、金田元彦氏の晩年の本の抜粋でもあるが、たいへん参考になる。

良き先生の良さを十分理解し、己をわきまえるには時間が必要だった。
あまりに長い歳月と辛苦が・・・。

この説明に、わたしの説明不足が多く見られるので、ご注意願いたい。

そして、小林秀雄氏の話で言うと、「源氏物語」は「もののあはれ」ですよ、と折口信夫先生が述べられたそうである。
これを説明するのはここで至難の業であるので、勿論省略する。

源氏物語は、ストーリーだけではなく、その背後にある歴史的なことを考慮になさると、ただの遊び人文学ではない、非常に美学的、教養的な文学であることなど、さまざま理解できる。
わたしは須磨帰りしてしまうような学生だったから、源氏の講義をできるような身分ではないが、そんなところに着目して、是非専門書もご覧下さい。

8「女源氏と、歌舞伎・鳴神上人(雷神不動北山櫻)」

今日は、「源氏物語」のふだんの視点と全く違う方面から、歌舞伎の世界にも登場する女源氏である姫君を紹介しましょう。

*参考:金田元彦氏の本

「源氏物語」には、「女源氏」と呼ばれる方々が登場する。
「女三の宮」「藤壺の女御」などの貴種の女性方である。
折口信夫氏は、「源氏と同様に、女の皇族であって、臣下に下った人」という意味で、「女源氏」と称されるのだと説明なさっている。

「女源氏」の一番最初の方々が、嵯峨天皇の皇女、貞姫、潔姫、善姫などである。
藤原良房(藤原冬継の二番目の子)がまだ11歳の時に、嵯峨天皇は皇女潔姫を嫁がせた。
まだ4,5歳であった。
やがて、父冬継は、右大臣になり、良房は、後に太政大臣になり、潔姫の娘の明子は文徳天皇の妃になると同時に、惟仁親王が帝位につく。(兄、惟喬親王は出家する)
これは、皇位継承問題を思案して画期的な事件であった。
潔姫をめぐる方々は栄華を極めてゆく。

潔姫には「琵琶」の才能があり、名人であったそうである。仁明朝には、藤原貞敏のような優れた琵琶の名手が宮仕えしていて、直伝をうけたか定かではないが、唐から伝来した秘曲の数々を聴く機会には恵まれたようである。

珍しい説としては、折口信夫氏が、古く、「源氏物語」は琵琶の伴奏で語られていたのではないかと述べていた。

さて、潔姫の家系を見てみよう。
潔姫の母は、当麻氏の娘である。
妹は、全姫と言い、清和朝の尚侍になっている。
潔姫と同時代人として、嵯峨・淳和・仁明・文徳の四朝に影のようにお仕えした女性に、当麻広虫がいるのを記憶にとどめておこう。

彼女は、嵯峨朝の後宮に「とものすけ」として入内、仁明朝に典侍になり、文徳朝に尚侍になった。一生80歳まで独身。古式ゆかしい、宮廷の高級巫女だった。

当麻氏の根拠地は、大和の国・葛城の郡の西、二上山の麓にある、小さい村である。
中将姫伝説始め、鳴神上人(今年一月の海老蔵主演の新橋演舞場の歌舞伎の破戒僧)に恋をいどむ、雲絶間姫も、「当麻」のあて字ではないかと折口信夫氏は述べている、新旧の伝説に包まれた、ものさびた美しい村だそうである。

当麻の家の女性が宮廷に入内したのは、古くは用明天皇の時代からで、「日本書記」を編纂した舎人親王の妃、淳和天皇の生母も、当麻家の女である。

さらに、当麻家の人が、文武元年から61年の国史編纂に携わったと言う。

当麻家の人々は身分は低くても、女性は宮廷へ古くから入内、男は国史の修撰に参加するなど、天皇一代の伝記、また宮廷の叙事詩に、最も深い職掌にあった。

つまり、宮廷の学問が進んで、宮廷の神聖な叙事詩が口頭文章語から文字に記録される時、当麻家の人々の力を借りざるをえなかったと考える。(金田元彦氏)

潔姫の娘、藤原明子は、後に、「伊勢物語」に業平との恋物語めいた余情を描かれているが、さらに、その娘は、賀茂斎院として禁忌の世界へこもられる。

女源氏を思案すると、わたしは折口先生のようにすべて古代信仰に結びつける思考にはなれないが(勉強不足か)、伝承や歴史的な重要な人物して、注目されていい気がする。
やはり、「源氏物語」は女性が紡ぎだした、宮廷女房文学なのだ、と認識し、女性が宮廷で大いに活躍した時代であることに新鮮さを覚えた。

         
9「学習院創設と、光源氏の教育論」

5月の「文藝春秋」の記事を読んで、不安を覚えました。いわゆる、説明不足と誤解を世間に与えるからです。

① まず、学習院の創設者は、「伊藤博文」というだけの記述は誤りです。
最初は、孝明天皇です。

○以下、学習院の創設と名称について、学習院小史より・・・・・

弘化4(1847)年3月、京都に公家の教育機関として開講し、当初は学習所とも称したが、嘉永2(1849)年4月、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。

この名称が論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている。

明治元(1868)年3月、講義を閉じたのち改称や改編を経て明治3(1870)年7月、京都の旧学習院は終わりを告げた。

明治10(1877)年10月、神田錦町において華族学校開業式が行なわれ、明治天皇より校名を「学習院」と賜わり、次いで「学習院」の勅額が再び下賜された。ここに現在の学習院が創立された。(この時、宮内卿は伊藤博文)

② 瀬戸内寂聴さんは、出家してからは功績があり、そういう見方もあるだろうが、わたしは異論があります。

光源氏より、頭中将のほうが男らしいに異議あり・・・

○光源氏の息子への教育は非常に大事な意味を持つ。(厳格すぎて良くないというのは、どうか。)

○頭中将の娘に、夫が浮気したらすぐ家に帰っておいでというのは、頼もしい男というのはほんとうか。いや、違う。娘の将来、尼になるか、将来、父君を亡くして孤独になる姫、落ちぶれてしまう姫を想像できない父親であってはならないから、そう簡単に言えるはずのものではない。

○頭中将は、夕顔を正室の嫉妬のせいで追い出させた。光源氏は妻にそういうことをさせなかった。頭中将は妻に頭が上がらなかった。それって、男らしいか。

わたしは、光源氏の教育論は、現代にも通じる素晴らしいものだと思っています。

「いいの、勉強なんて出来なくても生きていける。」というマスメディアのよくいう言葉、これって間違っている。人は、みんなに勉強させず、蔭で、こつこつ実は勉強しているものだ。

○光源氏のことば・・・・

「賢い子どもでも愚かな親に勝るためしは、めったにない」

「まして次の次の子孫になると隔たりが大きくなり、遠い行く末を案じる」

「高い家柄の子息として、官爵も思いのままになり、栄華を誇る癖がつくと、学問などで苦労するのは廻りくどくことになるでしょう」

「遊戯にふけり、官位を登れば、権勢に従う者が、腹の底ではせせら笑いながら、世辞を言ったり、機嫌を取ったりするから、ひとかどの人物らしく思えて偉そうに見えるけれど、親に死なれたりして落ち目になって来ると、人に侮られ軽んぜられて、身の置き所がなくなる」

「やはり学問を本として大和魂(応用力の才能)もいっそう重く世に用いられる」

「将来、天下の下支えの器になる修養を積ませれば、親(光源氏が)いなくなってからも安心である」

「親が面倒を見ている間は、まさか大学の貧書生と嘲り笑う者もいないでしょう」

光源氏の時代、つまり、実際の朝廷も、源姓の源氏、それに藤原姓の家臣の中に、素晴らしく才能があった方々がいて、活躍した時代でした。
光源氏の慧眼には感服します。

男の好みは女性それぞれですから、お好きなようでいいですが、光源氏の教育論は、現代にも通じる、素晴らしい見識ではないでしょうか。

源氏物語は、恋愛以外の部分に実は大事なお話が散りばめられています。
そこが、昔から人々に愛され、大事にされた理由ではないでしょうか。

大切に読み継がれたことを、ここに考察してみました。