2007年3月 ある日の旧岩崎邸庭園
訂正個所があるので、注意してください。責任はすべてもちかねますが、無責任にはしたくないと思っているのは、ほんとうですが、直接三菱と関係ないので、いい加減事実関係を調べるのは疲れました。
*最後に東京都に伺って知ったことを補足します。
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(日本の貴重な建築技術の粋をゆく)
岩崎邸庭園に久しぶりに行ったら、破壊活動がなされていた。(?)
三菱の倶楽部として、和室だけが開放されていた時は、ここまでひどくはなかった。
破壊と言うのは、第三段階に想定される。
ネット情報ではまったく情報は得られない。
(実際は、改修するまでほったらかしだったらしい)
東京都(台東区)に保管が移ってから、岩崎邸庭園の内部がだいぶ雰囲気を変え、イスラムの象徴である緑の美しく映えるビリヤードハウスに敷き詰められたタイルは、全部剥がされてしまったと思う。
*友人と、あの緑の色が印象的だったと話しながら行ったのに、ないから二人で驚いて、職員に尋ねたのに、「ほったらかしでした」「緑というのは、夢でしょう」と言われて、ふたりで唖然とした。
最近、記憶がみんなで確認しないと夢だと決め付けられてしまう。
今からでもいいから、岩崎邸に行って、ビリヤードハウスの前の剥がされた形跡を確認するがいい。あの何もない正方形の石の部分にイスラム建築を象徴する緑の美しいタイルがはめ込まれていたのに、誰か剥がしたようだ。違うと、東京か台東区に文句を言われても困るから、そんな気がしたと記載しよう。事実か夢か読んだ人が判断すればいい。
*数ミリへこんでいるのがわかる。数ミリにタイルが敷かれていた。
(東京都に最近聴いてみたら、後から、壊れた部分を含めて、新しいコンクリートタイルと一緒に埋めたことが、最近判明した。色はうす茶色。そうだっかな?)
東京都(台東区)職員も事実はよく知らないようだ。学芸員なら教えてくれるかも知れない。
岩崎邸の洋館もどこか前と違う気がするが、どうと今記憶が定かでなく、説明できない。
書棚にある本を、熱海の別邸に運んだというメッセージを読んで、しばらく思案した。
諸橋轍次は有名な漢和辞典を編集したが、あの書棚にあったのは、真新しい本ばかりであった。岩崎小弥太は、ケンブリッジ大学に、もし、ほんとうに入学していたなら、彼の蔵書はもっと古い江戸・明治の本で当然である。
岩崎弥太郎の商売のやり方は知らないが、漢詩を知っているくらいだから、この漢和辞典だけで満足するはずがない。
*諸橋轍次は、明治19年くらいの生まれで、昭和40年くらいまで活躍していたから、戦後の活躍が多いはずだ。
(諸橋さんの本は、普及本で展示に耐えられると思ったから置いていったらしい。ほんとうに貴重な古典籍は世田谷区の静嘉堂文庫に多く保存されている。)
*諸橋轍次さんは、静嘉堂文庫の室長だった。「大漢和辞典」の編集に30年の研究をかけた方で、三菱の知恵袋みたいな人だった。最初、知らなかった。戦前からいらした。すみません。
東京都(台東区)の案内は正しいのだろうか。
和室に描かれていた、橋本雅邦の絵が、ほったらかしにしていたから遜色したという。
橋本雅邦の絵が、ただ遜色してここまで後退するはずがない気がしたが、嘘を言うはずがないだろう。
ふくろうの絵の描かれた扉(廊下の)は、鮮やかな色で残っている。
ここは、かつて最高裁判所の寄宿舎になっていたらしい。
それだったら、文化的な価値を知らない、裁判所の怠りである。
(事実、最高裁の研修所時代がほったかしで文化財保護策をとっていなかったらしい)
*いや、なにか事情があったのだろう。
狩野永徳あたりが、今でも奇麗に保存されているのに、後の時代の橋本雅邦の絵がここまで損傷するはずもなく、うっすらと残る跡絵を見ると、この壁は明らかに白くペンキか塗料を塗られた。
六枚はぎに新しい壁紙も貼られているのもよく見ればわかる。
(これは、実は、汚れた襖を綺麗に落とした結果、ここまで修復できて、もう橋本雅邦の遜色はこれ以上、修復できないそうである。別にペンキは塗られていない)
①GHQの接収になっていたから、日本画など目障りで、白くペンキを塗ってしまった可能性が高い。
(違った??)
②三菱の倶楽部があったときも、確か絵はなかった。ということは、壁の絵がないのは今の東京都のせいではない。
(修復前で、絵が全く見えない状態だった。東京都が文化庁と一緒に現在修復中)
③だが、ビリヤードハウスのタイルは剥がされた(記憶がある方々は確認したほうがよいと思ったが、現在は急遽新しいタイルと一緒にはめ込まれた)。
(現在調査中らしい。確かにあったと言う。壊れた部分があり、簡単につまらないタイル(コンクリート)が新しくはめ込まれた。文化価値はそうない)
大広間だった、和室が書院造なども今復元される最中なのか、昔のだったぴろい部屋ではなく、仕切られていた。
和室が、柱、鴨居(天上に近い、扉を開け閉めする木の部分、よく、背の高い人が頭をぶつけそうになる頭の上にある木)は傷だらけであった。
推測するのに、木刀か鋭いもので、叩いたりしないと傷はここまでつかない。
細かい傷がいたるところにあり、ここで本能寺の変でもあって刀の切り合いがあったかのようである。
(木造建築の場合、雑に扱えばすぐ傷がつくし、さらに宮大工の指摘で、木造建築は毎年のように手入れをし、かんなをかけたりしていないと痛みやすいそうである、放置していたので、こうなったらしい。最高裁の研修時、なにか大きな機械を入れて、鴨居に傷をつけたらしい??ほんとうか全く知らない。東京都の言葉はそうだっただけ。たぶん、痛み具合から最高裁のはずはないと思うが、事情はわからない)
①岩崎家は、犬養毅と政治の談義していたから、515事件の際、首相官邸や日銀・政友会などを襲撃する際、岩崎家へ向かって(これは推測。根拠は今ない)、斬りあいになり、壁や襖は血の海になった可能性がある。
血しぶきが飛び散って、もう人が利用されないくらい、穢れた可能性が、まずひとつ。
(違うらしい??)
②あとは、やはりGHQの接収で、大広間にされて、書院などは叩き壊されていたと考える。使い方が荒く、損傷がひどい。
(違うらしい???)
515事件の際は、三菱は犬養と一緒にいた、もっとも憎い相手だから、何をされたか想像にかたくないが、論証が今はない。
③GHQの占領下でも、岩崎家は太平洋戦争の時に戦闘機や軍用艦を製造していた会社だったから、憎悪の対象になったはずである。
イギリスと交流のあった岩崎家が、貿易をしていて、欧米の広さ・凄さを知らないわけがない。ケンブリッジ大学に留学してた白洲次郎がアメリカに宣戦布告した時、「日本は負ける」と鶴川に田舎で百姓を始めたのと対照的に、軍部から協力を強制され、負けるのはどう考えても理解していたのに、協力させられたのだろう。
どっちにしても、いい結果にならない。
ビリヤードハウスは内部が今回公開されていたが、めちゃくちゃに破壊されていた。故意に破壊した跡である。
こうして、財閥は悪者だと徹底教育した結果、財閥は庶民から見たら貴族でしゃくだけれど、文化の創造者としては高い功績を残したのに、無残にもとことん叩かれた。
三菱を擁護してもいいことはない・・・・。
④戦後のどさくさに、憤った民衆が、家を荒らした可能性もある。今はどっちかわからない。
⑤三菱が、倶楽部を完全に明け渡すとき、高価なタイルを剥がしたのか???それならどうしてこうなったか、説明があっていいのに。
(どうも壊れたらしい。原因は不明)
3~5年前に行ったことがある人はもう一度どうなっているか拝見なさるといいと思います。
以上、視察して来ましたが、以前と雰囲気が違っています。ただいま、修復中なのが和室です。
いろいろ感じたことはあるけれど、かなり日本史の細かいことになるので、今確証がなくて言えないのは、大正天皇と三菱が交流があったと紹介していること。一度にどっと知識が流れて、整理するのに戸惑っている。
*東京都が現在修復中で、タイルがあったことは事実であり、和室は最高裁の研修時に雑に扱われたので、遜色や傷が多いのだそうだ???いや、違うだろうと思った。
タイルについては、現在東京都が調査している。
新しいタイルをとりあえず、埋め込んだのは最近らしい。非常に安上がりな方法で、新しいタイルには全く文化価値はなく、文化財に携わった人は嘆いていた。
古いタイルはだいぶ痛んでいる。どれが古くてどれが新しいかすぐわかる。
*(なお、美しい緑色のタイルを一階のロビーの暖炉に見かけた。非常に美しい緑だった。こちらと勘違いしたのだろうか。ともかく建築はすばらしいものだった)
*(昭和4年、昭和11年まで、三菱にはアメリカ人役員がいたのに、帰国せざるをえない国内情勢だった。岩崎家の胸中は暗かったに違いない。闇商人とは違うと思った。)
以後、気がついても、もう三菱に関与しないことに決めた。
わからないことが多すぎるから。