みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

旧岩崎邸見学記五度目記

2007年09月17日 17時02分29秒 | 日記・エッセイ・コラム

2007年3月 ある日の旧岩崎邸庭園

訂正個所があるので、注意してください。責任はすべてもちかねますが、無責任にはしたくないと思っているのは、ほんとうですが、直接三菱と関係ないので、いい加減事実関係を調べるのは疲れました。

*最後に東京都に伺って知ったことを補足します。

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(日本の貴重な建築技術の粋をゆく)

岩崎邸庭園に久しぶりに行ったら、破壊活動がなされていた。(?)

三菱の倶楽部として、和室だけが開放されていた時は、ここまでひどくはなかった。
破壊と言うのは、第三段階に想定される。
ネット情報ではまったく情報は得られない。

(実際は、改修するまでほったらかしだったらしい)

東京都(台東区)に保管が移ってから、岩崎邸庭園の内部がだいぶ雰囲気を変え、イスラムの象徴である緑の美しく映えるビリヤードハウスに敷き詰められたタイルは、全部剥がされてしまったと思う。

*友人と、あの緑の色が印象的だったと話しながら行ったのに、ないから二人で驚いて、職員に尋ねたのに、「ほったらかしでした」「緑というのは、夢でしょう」と言われて、ふたりで唖然とした。
最近、記憶がみんなで確認しないと夢だと決め付けられてしまう。

今からでもいいから、岩崎邸に行って、ビリヤードハウスの前の剥がされた形跡を確認するがいい。あの何もない正方形の石の部分にイスラム建築を象徴する緑の美しいタイルがはめ込まれていたのに、誰か剥がしたようだ。違うと、東京か台東区に文句を言われても困るから、そんな気がしたと記載しよう。事実か夢か読んだ人が判断すればいい。

*数ミリへこんでいるのがわかる。数ミリにタイルが敷かれていた。

(東京都に最近聴いてみたら、後から、壊れた部分を含めて、新しいコンクリートタイルと一緒に埋めたことが、最近判明した。色はうす茶色。そうだっかな?)

東京都(台東区)職員も事実はよく知らないようだ。学芸員なら教えてくれるかも知れない。

岩崎邸の洋館もどこか前と違う気がするが、どうと今記憶が定かでなく、説明できない。
書棚にある本を、熱海の別邸に運んだというメッセージを読んで、しばらく思案した。
諸橋轍次は有名な漢和辞典を編集したが、あの書棚にあったのは、真新しい本ばかりであった。岩崎小弥太は、ケンブリッジ大学に、もし、ほんとうに入学していたなら、彼の蔵書はもっと古い江戸・明治の本で当然である。
岩崎弥太郎の商売のやり方は知らないが、漢詩を知っているくらいだから、この漢和辞典だけで満足するはずがない。

*諸橋轍次は、明治19年くらいの生まれで、昭和40年くらいまで活躍していたから、戦後の活躍が多いはずだ。

(諸橋さんの本は、普及本で展示に耐えられると思ったから置いていったらしい。ほんとうに貴重な古典籍は世田谷区の静嘉堂文庫に多く保存されている。)

*諸橋轍次さんは、静嘉堂文庫の室長だった。「大漢和辞典」の編集に30年の研究をかけた方で、三菱の知恵袋みたいな人だった。最初、知らなかった。戦前からいらした。すみません。

東京都(台東区)の案内は正しいのだろうか。

和室に描かれていた、橋本雅邦の絵が、ほったらかしにしていたから遜色したという。
橋本雅邦の絵が、ただ遜色してここまで後退するはずがない気がしたが、嘘を言うはずがないだろう。
ふくろうの絵の描かれた扉(廊下の)は、鮮やかな色で残っている。

ここは、かつて最高裁判所の寄宿舎になっていたらしい。
それだったら、文化的な価値を知らない、裁判所の怠りである。

(事実、最高裁の研修所時代がほったかしで文化財保護策をとっていなかったらしい)

*いや、なにか事情があったのだろう。

狩野永徳あたりが、今でも奇麗に保存されているのに、後の時代の橋本雅邦の絵がここまで損傷するはずもなく、うっすらと残る跡絵を見ると、この壁は明らかに白くペンキか塗料を塗られた。
六枚はぎに新しい壁紙も貼られているのもよく見ればわかる。

(これは、実は、汚れた襖を綺麗に落とした結果、ここまで修復できて、もう橋本雅邦の遜色はこれ以上、修復できないそうである。別にペンキは塗られていない)

①GHQの接収になっていたから、日本画など目障りで、白くペンキを塗ってしまった可能性が高い。

(違った??)

②三菱の倶楽部があったときも、確か絵はなかった。ということは、壁の絵がないのは今の東京都のせいではない。

(修復前で、絵が全く見えない状態だった。東京都が文化庁と一緒に現在修復中)

③だが、ビリヤードハウスのタイルは剥がされた(記憶がある方々は確認したほうがよいと思ったが、現在は急遽新しいタイルと一緒にはめ込まれた)。

(現在調査中らしい。確かにあったと言う。壊れた部分があり、簡単につまらないタイル(コンクリート)が新しくはめ込まれた。文化価値はそうない)

大広間だった、和室が書院造なども今復元される最中なのか、昔のだったぴろい部屋ではなく、仕切られていた。

和室が、柱、鴨居(天上に近い、扉を開け閉めする木の部分、よく、背の高い人が頭をぶつけそうになる頭の上にある木)は傷だらけであった。
推測するのに、木刀か鋭いもので、叩いたりしないと傷はここまでつかない。
細かい傷がいたるところにあり、ここで本能寺の変でもあって刀の切り合いがあったかのようである。

(木造建築の場合、雑に扱えばすぐ傷がつくし、さらに宮大工の指摘で、木造建築は毎年のように手入れをし、かんなをかけたりしていないと痛みやすいそうである、放置していたので、こうなったらしい。最高裁の研修時、なにか大きな機械を入れて、鴨居に傷をつけたらしい??ほんとうか全く知らない。東京都の言葉はそうだっただけ。たぶん、痛み具合から最高裁のはずはないと思うが、事情はわからない)

①岩崎家は、犬養毅と政治の談義していたから、515事件の際、首相官邸や日銀・政友会などを襲撃する際、岩崎家へ向かって(これは推測。根拠は今ない)、斬りあいになり、壁や襖は血の海になった可能性がある。
血しぶきが飛び散って、もう人が利用されないくらい、穢れた可能性が、まずひとつ。

(違うらしい??)

②あとは、やはりGHQの接収で、大広間にされて、書院などは叩き壊されていたと考える。使い方が荒く、損傷がひどい。

(違うらしい???)

515事件の際は、三菱は犬養と一緒にいた、もっとも憎い相手だから、何をされたか想像にかたくないが、論証が今はない。

③GHQの占領下でも、岩崎家は太平洋戦争の時に戦闘機や軍用艦を製造していた会社だったから、憎悪の対象になったはずである。

イギリスと交流のあった岩崎家が、貿易をしていて、欧米の広さ・凄さを知らないわけがない。ケンブリッジ大学に留学してた白洲次郎がアメリカに宣戦布告した時、「日本は負ける」と鶴川に田舎で百姓を始めたのと対照的に、軍部から協力を強制され、負けるのはどう考えても理解していたのに、協力させられたのだろう。
どっちにしても、いい結果にならない。

ビリヤードハウスは内部が今回公開されていたが、めちゃくちゃに破壊されていた。故意に破壊した跡である。
こうして、財閥は悪者だと徹底教育した結果、財閥は庶民から見たら貴族でしゃくだけれど、文化の創造者としては高い功績を残したのに、無残にもとことん叩かれた。

三菱を擁護してもいいことはない・・・・。

④戦後のどさくさに、憤った民衆が、家を荒らした可能性もある。今はどっちかわからない。

⑤三菱が、倶楽部を完全に明け渡すとき、高価なタイルを剥がしたのか???それならどうしてこうなったか、説明があっていいのに。

(どうも壊れたらしい。原因は不明)

3~5年前に行ったことがある人はもう一度どうなっているか拝見なさるといいと思います。
以上、視察して来ましたが、以前と雰囲気が違っています。ただいま、修復中なのが和室です。

いろいろ感じたことはあるけれど、かなり日本史の細かいことになるので、今確証がなくて言えないのは、大正天皇と三菱が交流があったと紹介していること。一度にどっと知識が流れて、整理するのに戸惑っている。

*東京都が現在修復中で、タイルがあったことは事実であり、和室は最高裁の研修時に雑に扱われたので、遜色や傷が多いのだそうだ???いや、違うだろうと思った。
タイルについては、現在東京都が調査している。
新しいタイルをとりあえず、埋め込んだのは最近らしい。非常に安上がりな方法で、新しいタイルには全く文化価値はなく、文化財に携わった人は嘆いていた。
古いタイルはだいぶ痛んでいる。どれが古くてどれが新しいかすぐわかる。

*(なお、美しい緑色のタイルを一階のロビーの暖炉に見かけた。非常に美しい緑だった。こちらと勘違いしたのだろうか。ともかく建築はすばらしいものだった)

*(昭和4年、昭和11年まで、三菱にはアメリカ人役員がいたのに、帰国せざるをえない国内情勢だった。岩崎家の胸中は暗かったに違いない。闇商人とは違うと思った。)

以後、気がついても、もう三菱に関与しないことに決めた。

わからないことが多すぎるから。


金沢文庫三度目訪問記

2007年09月13日 23時03分56秒 | 日記・エッセイ・コラム
うーん、金沢文庫と行くとお勉強をさせられます。

「藤の枝の金沢文庫 謎多し 水路走りて江都の碑あり」

*5月になって、埼玉県牛島に行き、藤の花は真言宗の弘法大師のお手植えの藤の名残かも知れないと、思いました。弘法大師ではなくても、そういう藤を植える習慣があったのかも知れません。称名寺は、真言律宗ですよね。昔の伽藍のあとに、野生の藤木がありますが、なかなか人の目につかないようです。

「金澤へ神風吹かず 実時の姓は平と 記載せしなり」

「動かざる山の如しと 走ること千里を行くと旅行けり」

「兵法は戦わずして勝つといふ 孫子第一教えなりしか」

「金澤の 僕に関係ないけれど 信号機鳴る 人事のよう」

「頂上は金沢八景見晴らして 造船所まで海眺めをり」

「金澤の水面浅し鏡池 木々まで映り朱の橋照りぬ」

「称妙寺 ライトアップ 金と朱の太鼓橋をも池面に映し」

「人は人わたしはわたし 君は西吾は東とまた逢う日まで」

「まだ知らず金澤文庫あれこれと 歴史の奥は深かりしこと」


まず、すぐ目に付くのは、誰も見ない橋の傍の忠魂碑。
明治27年から昭和9年まで日清戦争から始まった陸軍・海軍の戦没病死者を慰霊する碑があるのです。昭和10年からは、靖国神社に祭祀されますが。昭和10年、あの226事件が起きて、日本の情勢は変わります。

昭和10年と日付があり、称妙寺の寺近くの車庫の傍の碑は、廃れていた称妙寺に大橋新次郎が寄進し、寺を復興させたとあります。
金澤 住職 小林 某と記銘
新潟県長岡市 諸橋(けん)次 謹呈

現在、行きますと、仏像展を開催していますから、次のことが理解できます。
*注1

次に、古い山門近くにある碑は、読んで見ると、寛政6年(寛政異学の禁があり、天明の大飢饉のあとの寛政の改革後)の日付けがあったので、なんのことかなあ、碑文を睨んでいましたが、どうも、下記のことを書いてあったようです。碑、金澤貞次の名が見えます。違ったかな、もうひとりは名前を判読できませんでした。
*注2

日蓮宗の昔の反体制主義は凄い。
大和朝廷を「皇倭」と述べている。驚いた。
その記載だったのでしょう。
読めない部分もあって、ちょっと不安。

あまり余計なことは言えないな・・・・。
争乱、国は敗北し、国乱れ、一家離散、そんな時期があったそうです。
碑の文に、平(北条)顕時が金沢文庫を置いたという記述は間違いありません。
この記述はどういうことだろうか。

その前に北条実時(平実時)につていの記述もあります。
漢文に自信のある方は、ご覧ください。
そのほうが確かです。

後、(北条)平・顕時は、出家して金澤顕時となります。北条貞顕の父です。

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注1 出典 抜粋http://www.zephy.com/Masamichi.htm

法華宗真門流
丹波 立正山 妙法寺
兵庫県丹波市青垣町佐治 妙法寺 住職   竹内 正道氏のHPより

法華経を最も尊重して最澄の意を伝えようとしたのは道元と日蓮ですが、道元が禅を重視したのに対し、日蓮は法華経の行者として法華信仰に生きました。

また常行堂中心の阿弥陀信仰は、恵心僧都源信が浄土教を説きます。世は末法の世で天変地異が相ついで起こり、流行病がはやり戦乱の続く世相でありましたので、この世では救われない人々が、せめて来世は安楽な世界へ生まれたいと願ったのです。

 法然はどんなに貧しい人々も南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土に往生できると浄土宗を、親鸞は浄土真宗、一遍は時宗をはじめました。阿弥陀堂の建立はいたるところで流行したのです。

 寺社奉行をつとめていた足立遠元も鎌倉の阿弥陀堂奉行でありました。
 空海は中国より密教をもち帰り真言宗をはじめましたが、加持祈祷によって病気・出産・財産・位階・戦勝までが霊力によって得られるとして信じられました。この宗派は朝廷、貴族に受けいれられ、さかんに造寺造仏がなされました。

 また平安末期より、人が救いを求めるとその声を聞いて助けに来てくれる観音信仰がさかんになります。観世音菩薩は南の補陀落山に観音浄土があるとされ、鎌倉にも南に補陀落寺があり、長谷観音とともに信仰を集めました。この頃より三十三観音霊場めぐりが流行して畿内と、坂東・秩父でもその霊場ができています。

 頼朝は終生法華経を信仰して、毎日の読誦をかかさず書写もしていたといわれ、「山王(叡山)の霊威を蔑如してはならない」として天台法華を信仰、また俊乗房重源の東大寺再建にも援助しました。

そして法華経の化身と信じられていた八幡大菩薩を信仰し参詣していました。頼朝に供奉していた北条義時や足立遠元も同様の信仰をしていたと思われます。

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*注2 前と同じ出典
「弘安合戦と平禅門の乱」 

 安達泰盛は妹が時宗に嫁してのちの執権貞時を出生してから幕政の中枢にありました。
時宗は弘安7年に急逝したのですが、その時の評定衆は泰盛父子のほかに平(北条)顕時、北条政長などの安達家の姻族が6名もおりましたし、引付衆にも泰盛の弟が2人(長景、時景)のほかに二階堂氏、大江氏などの姻族が4名おりました。

 このように安達氏とその姻族は幕府の最高職の半数以上に就任しており、施策の決定は泰盛の思いのままで、その権勢は強力なもので、得宗中心に北条一門と安達氏一族の有力御家人による政治が運営されていたのです。

 しかし幕政の実態は、蒙古の襲来以来戦時の総動員体制は継続しなければならないし、異国警固番役の負担は重く、恩賞に対する不満もあり、御家人困窮は深刻であり、御家人の利益を守ることにも限界があり、御家人との合議で幕政運営をすることに反対である御内人の平頼綱とするどく対立していました。

 侍所所司をしていた頼綱は、その地位を利用して兵を動かし、弘安8年(1285)11月17日、出仕してきた泰盛を捕えて斬殺し同時に安達邸を襲い一族を殺害、安達氏一族のみならず泰盛についていた御家人を捕えて斬首するという恐怖政治を展開し、得宗専制政治を開始しました。

 武蔵、上野中心に五百を越える御家人が斬首され、自害してはてることとなり、

「争乱も常陸、信濃、播磨、筑前にまで波及し、」
多くの御家人の所領が没収され、文永、弘安の役の恩賞として配分されました。

 足立氏も遠元の孫遠親の子の時代となっていましたが、足立宗家の太郎直元左衛門尉は敗北して足立郡の所領も没収され、自害しました。自害者の中に和泉六郎左衛門尉もいますが、天野景村のことで、遠景の子孫までこの事件に連座していますので、足立、安達同族のすべてをまきこんだ争乱でありました。

 しかし、足立の本家遠親の三男元氏の子孫は逃げのびて、後に北条貞時13回忌法要に円覚寺へ参詣し、足立家の惣領足立左衛門入道として供物を進上しています。北条氏の被官となって得宗家で活躍していたのです。

 同様のことは安達家にもあり、泰盛の甥宗顕は21歳で泰盛の一件で殺されましたが、息子の時顕は救われて後に秋田城介となり執権北条高時の外戚として幕閣で重きを成しました。

 平頼綱は恐怖政治で独裁し、ついには次男の助宗を将軍にしようとしました。

永仁元年4月13日

「関東に大地震があり、将軍御所をはじめ諸大寺が倒壊、炎上し、死者2万3千余という大惨事となりました。」

 この世情不安の中、22日未明、執権貞時の兵が経師ヵ谷の平頼綱邸を襲い、頼綱、助宗父子をはじめ一族を滅亡させます。
この一族90余人が自害しますが、世人は泰盛を討滅し、日蓮聖人を迫害した報いとうわさしたとのことです。

 日蓮聖人と頼綱は何度も対面していますが日蓮聖人をにくみ、徹底して迫害し、法華門徒を全滅しようとしたのが頼綱です。文永8年9月10日に対面した時も、聖人に「理不尽なあやまちによって同志討をくりかえし、外国より侵略の難を受ける」と諫言され、「物に狂う」ようになったのです。

 松葉ヶ谷庵室を襲ったのも、竜の口で斬首しようとしたのも、佐渡流罪で殺害しようとしたのも頼綱です。文永11年4月8日にも対面しますが、聖人に「権力によって心をば随えられたてまつるべからず」と精神の自由を説教されたのですが、理解できず「物に狂」うたような恐怖政治で法華門徒を弾圧し続け、自滅した得宗御内人だったのです。