遠山記念館の二階の一般公開があるというので、 家族と伺った。
ここは、埼玉県川島町出身の日興証券の創立者である遠山元一氏が、一時没落した生家を再興させるとともに、女出ひとつで子どもを養育し、元一氏とは離ればなれになっていた、苦労の人、母美以さんの安住の住まいとして建設した。
昭和8年より、まる2年7ヶ月を費やして昭和11年4月に竣工したが、あと少し時代が遅れていたら、国家総動員法の下で、この家は建設されなかっであろう。
総監督を元一の弟芳雄さんが、設計を建築家の東京帝大卒の室岡惣七がつとめ、全国から集めた銘木をふんだんに使用して建設された。
東棟はかつて梅屋敷と呼ばれた豪農の趣を受け継ぐ。茅葺き屋根、欅造りの建築。囲炉裏を切り、縁無畳の18畳の居間が田舎風である。 約63坪。
畳は今、現代アートを取り入れて斜めに畳が入っている。事情を知らない人は??という言葉を発する。さすがに居間は立派な神棚がある。奥には、女性の化粧台や衣装箱があった。
中棟は一階中央の18畳の大広間は伝統的な書院造りで建てられ、貴顕の来客を接待した。隣の10畳の次の間には、毎年節句人形が飾られる。
二階は、今回は一般公開をしていた。
調度品も立派で、夜光貝、真珠、珊瑚、翡翠を散りばめた飾り棚には圧巻された。ソファー・ベッドの生地などは高島屋から調達した上等品である。
途中、自分の覚え書きから・・・
遠山元一氏の著「幾星霜」を読みました。
現在の日興コーディアル証券の基礎をなす、日興証券の創立者の方です。
もっと詳しく申しますと、上野の文化会館の民間人最初の館長で、昔の桐朋学園の学園長遠山一行さんのお父様です。
私は、この小さな本に胸を打たれました。
もし、著書がその人を表すなら、この方は立派な方だったのでしょう。
ご自分より周りの方への気遣いや、大切にしている言葉は重要です。
教育とはこういうものか、苦労人とはこういう方で、こういう発想をなさるのか、と感じ入りました。
お父様の代で放蕩の末に没落し、名家で富農だったお坊ちゃんが窮地に立って小学校を卒業してから丁稚奉公し、山本有三の「路傍の石」 の主人公が成長したらかくあれかしと思うように、どん底から這い上がった人です。
長く書くと、今日は時間がないのですが、大事なことだけ書くと、元一氏の外祖父が、「遠山は悪いことをしていないから復興も早かろう」と述べたことです。
引用します。
「この祖父には一種の哲学みたいなものがあって、人生の真面目は平和にあり罪をつくらないことであるとしていた。・・・・・(途中略)・・・・私の父に対しても、愚かでおひとよしで何も取り柄のない蕩児ではあるが、根は善良で他人を害し又他人と事をかまえような悪人ではないということを正しく認めていたようである」
従って、元一氏が家を再興するのを早くも予見し、これは「良い人生を正しく生きて来た人の動かぬ信条であった。」と書いています。
私は、元一氏はクリスチャンであることを知りました。
謙虚で自分には厳しく、他人には寛容で親孝行な人です。
元一氏のお母様が苦労の末に女手ひとつで兄弟を養い、元一氏はその苦労を理解し、「母の偉大さ。心がけあってこそ」と正しい道を歩もうとしたのです。
家族の教訓は、「からだは小僧になっても魂は小僧になるな」というものでした。
佐竹家とも遠縁で、家柄は良いので、矜持を持っ ていたのです。
家を再興するのが使命だと認識していました。
ただ、それだれではありません。引用します。
「東京に出た私が、どうにか働けるようになって、月々郷里の父へ何がしかの仕送りをはじめることになるまで、ともかくそうした居喰い生活でやっとこさ凌いで来られたというのも、考えれば『古川に水の絶えない』先祖の余沢であり、近郷近在、事情を知った人々の善意の賜物であったと感謝の意に絶えない。」
いろいろな方に「感謝」しています。
誰にも文句を言わず、ご自分が歯を食いしばって頑張ったから成功したとは、けして言わないのです。
頭が下がりました。
息子さんたちの教育も、自分の父親の甘すぎた育てられ方を見て、自分と母の立場を思案し、教育や家制度を思案しています。
女性も自立すべきであると思案なさったことで しょう。
私は、自分の仕事に対して、ふがいなさを感じています。従って、元一氏のお母様はほんとうに立派であると思いました。貞婦、教養ある職業婦人でした。
母親孝行をかねて、田舎に豪邸を建てました。大きいのではなく、銘木を集めて意匠を凝らし、お客様接待の別荘のように仕上げていました。金ぴかではなく、センスのある渋い造りです。登録有形文化財にもなっています。
先祖の血というのでしょうか、祖先の生き様をしっかり客観的に見て、よく物事を思考する姿に心打たれました。
ある特殊な理由で、私がお世話になっていたのに不義理をした方がいて、自分が仕事で挫折した翌年に亡くなったことを最近知って、たいへんな衝撃を受けていました。もう自分は駄目だ、駄目だ、死んでも死んでもお詫びできないと思い詰めてしまっていました。
ただ、この本を拝見して、遠山元一氏がほんとうにこういう方か、父に尋ねてみたところ、「ああ、お名前は存じ上げているよ。あれだけの方だから、実際お逢いしたことはないけれど、立派な方だったんだろう」と述べていました。
私は、晴れやかな気分になりました。
(日興証券関係では、残念ながら、元一氏の息子さんのひとりがパリへ出張中、飛行機が墜 落して亡くなりました。
しかし、亡くなってもその方のご意志はほかのお子さん方によって生きていると思います。)
遠山記念美術館にて「幾星霜」100円で販売されています。
人生は、挫折、失望、無念は付き物、でも、それを乗り越えてこそ生きる輝きを得るものだと教えてくれました。
私に足りないのは、愚痴と後悔ばかりで、先に進めない意志の弱さです。
遠山元一氏は、そういう自分でも改善して受け入れなさいと述べておいでのようで、私の心に強い感銘を残してくれました。
「遠山記念館2~中棟二階和室の書『攖寧』」
遠山記念館には中棟に和室があるが、普段は二階は非公開である。
ここの部屋に、あまり目立たない窓際に近い場所に、「攖寧(ねいえい)」という書が飾ってあった。
頼山陽の「日本外史」から採ったものらしく、「攖寧」は、「平常心を保つ」ということ、「心を乱すことをしない」という意味であると解釈した。
頼山陽がどういう箇所で、これを使用したか、参考文献はわからない。
「攖」は「つなぐ」「乱す」「もどる」「ぶつかる」などの意味がある。
一方、「寧」は「やすらかにする」「おだやか」「いずくんぞ(どうして・・・であろうか)」という意味があって、「おだやかにつなぐ」とも「いずくんぞ乱さんや(どうして乱すのであろうか、心平安に)」と理解できる。
ただ、私は素直ではないから、「寧」にはこういう意味もある。
「嫁いだ娘が里帰りして父母の安否を問う」という意味で、つまり「嫁いだ娘が里帰りをして父母の安否を問うことは家を乱す」つまり、「嫁して家に戻らず」という「女三界に家なし」ということや、元一さんのお母様のことを想起し、母の 美 以さんが里帰りして安住できなかったことと、だぶって見えた。
まあ、これは深読みだろうが、たぶん、普通に思案して、「心を穏やかにさせなさい」という教訓として「平穏心」という言葉を眺めていたのだろう。
しかし、その想いに到達するには、母の存在を無視できず、複雑な気分でこの書を眺めておいでだった気がしてならない。
しかし、朝香宮様がご宿泊を希望なさり、隣室のアール・デコ様式の洋室が迎賓館として使用されていたから、読んだ殿下は普通に「平常心」と解釈なさったであろう。
さて、真相は単純なものかも知れないが、私個人は数学と漢文が特に得意だった遠山氏が、その漢字の奥に感慨深いものを感じて敢えて選んだ気がしてならない。
「母の恩」に報いるためというのはあながち、ただの立身出世という名誉欲とは違うものだろうと感じた。
また、陸軍の朝香宮様と逢いながらも、心に外祖父の言う善人の道「平和」というものを社会に反映させようとした心意気を感じた。
屋根瓦に、鳩の像があったことを記しておく。
朝香宮鳩彦王の「鳩」のシンボルかなという想像もできる。
所沢の陸軍航空士官学校からも昔は近く、殿下はお寄りになりやすかったか、戦時中疎開なさっていたのだろうかと、以上、勝手な想像も含めて書いた。
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西棟は客間3部屋と仏間からなる母美以のための建物。落ち着いた雰囲気の京風の数寄屋造り。約61坪。
この端に、化粧室があり、そこの柱は棟梁の遊び心が現れ、風呂から出た時、母がくつろげるように非常に広く、工夫が凝らされていて、至る所に目新しい造りが見られる。
お茶室は、桂離宮を参考にしたり、ある程度決まり事があるが、こういう化粧室は決まりがないので、斬新なイメージで仕上がっている。
しかし、お茶室は、年と経て下地の墨塗りの塗壁の模様が模様として浮き上がる「わび」「さび」の世界であった。
西棟にはまた立派な玄関もあり、その造りが半端じゃない。ここは母美以の死後、客室として使用されたと言う。
ただし、この邸宅は至るところに掛け軸があるが、客間以外は、その掛け軸のある畳の部分がすり切れていて、ある場所に「ここは懺悔に使用した」と書かれてあり、遠山氏はクリスチャンであり、掛け軸と言っても戦時中は知らないが、ここに毎日違う飾りの書や絵を掛けて、ここで神に祈って頭をこすりつけて祈ったので、畳のへりがひどいのかなと思った。
監督者の弟の芳雄は、満州で盗賊にさらわれ、終戦直後惜しくも解放前に客死した。なかなか利発な方で、東棟の茅葺きを自分で吹き替え たり、かなり手先が器用だったと言う。
また、お茶室の天井の屋久島杉は、鹿児島で手に入れて、途方もない値段をふっかけられた銘木で、岩崎彌太郎だか小彌太の本邸の建築に使用する交渉をしていたらしいが、ご自身で買い付けに来られていなかったので、代理人が躊躇していたところ、芳雄は「売らない」という看板杉を太っ腹で自分の判断で即決して買って持って来たというエピソードがある。
元一氏にしてみれば、苦労し自分だけでなく大事な肉親を亡くし、母の苦労を回想し、いろいろ胸中悲しみに襲われることもあったであろう。
しかし、この邸で故郷に帰り、都会の喧噪を忘れて母と対座し、静かに瞑想をしている時、本来のきまじめで優しい性格が滲み出てくるような感じである。
お客様をお迎えしても、けして出過ぎたりせず、 心のこもった接待をなさったであろうと察する。ただ、廊下を拝見して、カーペットの引いてあるところと、並びに板敷きの部分が並行してあり、これは田母沢御用邸の訪問で知ったが、使用人と主人、お客様の歩く場所が違ったらしい。そういう意味では、高貴な方もご訪問なさり、家人と貴人と同じようには扱えなかったという理由があったように思えてならない。
二階の部屋からは、五月の端午の節句の鯉のぼりがひらめき、お庭がよく拝見できた。
一階には水琴窟もあり、昔の使用した釜はもう破れていて、そっと傍においてあった。今はかすかに鳴るように新たに造り直したようである。水をかけると、風情有る幽かな音が響いた。
遠山氏が言うのは、最初はこの経費の10分の一程度の予定だったが、弟の芳雄さんが奮闘し、職人方が張り切り、故郷の方々の声援に応えているうちに、予想以上豪勢になったと回想なさっている。
母の美以さんは、西棟はひとり淋しいからと、よく東棟の囲炉裏を囲んで昔からの友人と歓談していたと言う話も残っている。
この邸宅の隅には、邸宅に携わった職人の方々の名前が稲荷神社の狐の像の裏に記載されている。手を合わせて、この記念館に携わった方々のご冥福を祈った。
遠山元一氏を拝見して、ほんとうに根性のある方は、学歴も何も関係なくても、実に努力家である。
やすやすと手に入るものはありがたみが薄い。遠山氏の長い遠い道のりと過酷な家族の運命を思うと、現代人は恵まれてすぎているなあとつくづく思った。
鯉は激流の瀧を上る。たくましい少年になるには、「お金を与える」ことより勉強や仕事の「チャンスを与える」ような設定が本来必要ではないか・・・見事な鯉幟を拝見して、そう思った。