みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

客船コスタアレグラの出港風景

2008年08月23日 21時36分05秒 | 船の写真

「2008年6月29日東京港へ初入港、30日夕方出港のコスタアレグラ」

イタリアのコスタ社の豪華客船コスタアレグラ(2万8597トン、乗客定員800人)が東京・晴

海ふ頭に初入港し、30日には出港し、レンボーブリッジを通った。

 当初、晴海埠頭に行こうか迷ったが、レンボーブリッジへ直行した。

Dsc088292  コスタアレグラは92年就航、

2006年に貨物船を改装し、主

に日本や韓国、中国などアジア

地域でクルーズを行っている。

外見も変わった趣であったが、

珍しくて撮影した。

 お台場を背景に、クルージン

グする姿は綺麗だった。

 当日休暇を取り、夕方待ちかまえる。

 何人か男性がいたが、みな撮影に集中した。

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夕闇にさざ波立ちて船は行く

       夜景煌めくお台場後に

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昨今の殺傷事件に想起したこと

2008年08月10日 04時27分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

○「孤独の中で畏敬の念を棄てないこと」

わたしは、モンテーニュの言おうとするところを簡単に書いておこうと思う。

"自分がどんなに孤独でも、常に自分より徳のある人を思い浮かべ、畏敬の念を抱いて、羞恥心と自分自身を大事にする心を持ち、己を律する心を喪失しなければ、誰一人自分を理解せずとも自問自答する習慣を身につけ、「分別」を身につけることだろう。
誰かにこうしてほしいとか、誰かの言葉を待たなくても、得られた教養の中に自分で大事にしたいと思うものを持っているので、自分で自分に満足できる。
しかし、仕事につくのであれば、退屈な仕事ではなく、やり甲斐のある仕事につくことが幸福感につながる。"

秋葉原事件で、加害者本人が特殊な例でないとしたら、それは雇用と仕事の質の問題でもあるかも知れない。
ただ、やはり彼の「分別」と「教養」がどの程度だったか、それはその個人の問題であり、解明が待たれる。自分を愛せなかったことは事実のようである。

おとといの朝、リサイクルゴミの回収にきびきびと働く若い青年の姿を見かけた。
ゴミ出ししていた人が彼に丁寧にお辞儀していた。
わたしも重い荷物を軽々と両手に持ち、使命感で溌剌とした生気のある、穏やかで凛とした彼の顔つきに引き込まれ、道すがら笑顔で会釈した。
すがすがしい感じだった。

仕事の質だけで人間性が全部決まるとは限らない。
自分の仕事がどういう仕事でも、責務を負っているという自覚とその心映えで、いかに違うか彼を拝見して頭が下がった。
それは、政治家、官僚、大手企業のサラリーマンより遙かに素敵な青年に見えた。
彼の仕事も、ありがたいとさえ思った。
彼の人徳だろう。

教養とは、こ難しい読み物が読める、読むだけのことではない。
彼には、しっかりした「己」というものを持ち、仕事に使命感を確かに感じている人にある、やり甲斐のある顔つきだったのである。
彼のような人がどういうものに関心を持ち、どう人生を歩んでいるか、それは学歴などよりずっと興味を持った。
ただただ、わたしは彼のその顔つきに強い好感を得たのである。
そういう日常の人々の生活を蔭で支えてくれている方々への興味に人々の関心が集まらず、無差別殺人者の分析や報道だけでは、今度の事件の原因究明はできないだろうと思った。

○「愛と幸福を巡って 」串田孫一
わたしは、自分を卑下しすぎる人は、非常に高慢な人と同じく嫌いである。
神経が過敏にトゲトゲしている気がして、怖い人だなと思う。
「どうでもいい」という言葉も嫌いである。
「何でもいい」と言われるのも嫌いである。
投げやりになるのは、一番危険で不幸であると思う。

串田孫一の言葉
「愛は利己的なものであってはいけない。その愛が立派にみのる時、自分もまた幸福になれるような、そういう愛でなければ本当ではない。
うっかり口から出てしまう「私はどうでもいいのです」という言葉の中に、私は単純に自己否定や犠牲を見ることは出来ない。
それは、すねているか、からかっている言葉である。
愛する人のために自分を否定して、どうして愛の力が生まれるであろうか。愛する人の歓喜を、すなおに自分も悦べる用意がなければ、その歓喜も、愛の完成もなく、生命の触れ合う幸福も望めない。
「私どもは愛する人々の幸福をねがうのは当然である」と言った後で、バートランド・ラッセルは次のように続ける。
「だが自分たちの幸福を棄ててまでこれをねがうべきではない」

*1915年、東京生まれ。哲学者、詩人、登山家。東京帝国大学文学科哲学科卒業。
上智大学、國學院大學、東京外国語大学教授を歴任した。
父は串田万蔵。(三菱銀行初代会長)

○愛の漢字の意味
漢字の意味・・・胸に満ちる愛情の意。
        行き悩む意。愛でる。
①いとしい。
②大切にする。
③情け
④かわいがる。
⑤慈しみ
⑥慕う。
⑦惜しむ。

仏教の煩悩という意味を抜かせば、要するに、自分や人を慈しみ、人を慕うことや、情けがあるかどうか、ということ。

自分を愛してほしいという気持ちより、誰かを愛したいという気持ちではないか。
愛するがゆえに葛藤する気持ちでもある。

○「漱石のモチーフ~沈黙」

マスコミの秋葉事件の解説を読んだり、聴いて、自分なりにこのところ思案している。
犯罪と、人々の取り上げ方についても思考してみた。

江藤淳氏の著書を読み返して、なるほどと思った。
わたしも自分の内面世界で感じたいろいろなことを自己表現する際に、絵や音楽・文学など様々興味を示すけれど、こういうことに通じていたんだなと思う。
以下、江藤氏の言葉を簡易に説明する。

  夏目漱石の小説活動のモチーフは、小説を「ただの話で済ませるものか」という決意 であった。
漱石の中には「人生は筋書ではない。」「人生は一篇の筋書きには帰省できない」という考えが頑としてあった。

あらゆる人間は、どんなに世間に知らずにひっそり人生を送っている人でも、社会面や週刊誌の記事に載る時は、この人はこういう人だったという陳腐な筋書きで説明されてしまう。しかし、その人にもやはり「沈黙」があって、犯罪者であろうが、売国奴であろうが、娼婦であろうが、泥棒であろうが、みんなそれぞれの沈黙を持っている。
これは容易に言語化できないものだ。
それらをすべて言語化すれば小説が書ける、文学作品が出来るという思いこみがあれば、とんでもないことだ。
しかし、ロゴスの世界に生きている人々にとって、宗教的な直感を得るための手段としての沈黙はあってもいいけれど、知性の発達の発言はすべて言葉で説明できなければいけないという前提にたっている。

漱石が異文化と激突し、そこで受けた深い傷は何だったかというと、自問自答し始めて、
「そんなはずはない」「沈黙こそが人間の本来の姿だ」ということではなかったか。
「沈黙」とは空虚ではなく、ひたひたと何ものかを堪えた沈黙である。
その沈黙と辛うじて釣り合うような言語世界が出来れば、それがただ一つありうべき筋書きになるかも知れないが、ただの言語の集積だけかも知れない。そんなことを、あれこれ試行錯誤したのだろう。

だから、漱石は、小説以外の形式を自己表現にも模索した。
絵を描いたり、書を書いたり、漢詩を作ったり、なんとかして沈黙に釣り合う言語の世界を構築しようとした。
絵だって、絵画的言語という一種の言語だ。
漱石はそのように表現形式を多様化することで、初めて十全な自己表現をできると考えていたのではないか。

・・・・という文章を読み、うまい言葉が見つからないが、自己と向き合い、自分のやり場のない気持ちを発露し、あるいはほかの人からのメッセージを汲み取ることができる感受性があれば、あらゆる場所で発信されている、「人は共通・連帯する同じ孤独や意識を持って堪えている」ことに気が付くのではないか。
そこから、自分を大事にし、他人も大事にしたい「慈しむ」心が全くなくならない限り、人はそうそう人間らしい優しさを捨てないと思えるのだが、どうも下手な解説しかできない。

いきなり、漱石を持ち出すところ、とっぴかも知れないが、以前この日記で書いた「人間の良心は沈黙にある」に賛同した答えにはなっているだろうか。はて。さて・・・・。

○貧しさと絶望と歌

マザー・テレサの言葉

貧しさにはいろいろあります。経済的にはうまくいっているように思われる国にさえも、奥深いところに隠された貧しさがあるのです。それは見捨てられた人々や苦しんでいる人々が抱えている極めて強烈な淋しさです。

わたしが思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまって、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。

キエルケゴール
「死に至る病」・・・・絶望

これらの言葉は真実だ。経験がある。

わたしは、誰にも理解されないと思う時、自暴自棄になってもいけない。
歌があって、孤独から抜け出せる。

親が、恋人が、世間が、すべて自分の不幸を他人のせいにしては、自分も周りも全く変わらない。

B’z 「love me, I love you」

♪なんかあいつに期待過剰なんじゃないの
人の心はどうしても何か足りないけれど
そこんとこで得るべきなのは
恋人じゃない親でもない
ねえ、そうでしょう ・・・・・・

Iove me, けちってなにで僕はもっと愛をだせる・・・・

♪都合良いものだけ引っぱり出して
自分の運の悪いところを
そいつにべっとりなすりつける癖
ないかい・・・・

♪けなしてないでたまにゃ海も山も人もほめろよ・・・・

B’zの新しいアルバムの発売。20周年おめでとう!!
そして、歌謡曲からでも、大事なことをしっかり受けとめたい。
自分だけが苦しいのか、そう思いこんでいけない。
みんな、誰もが悩みを持っている。黙っている。

わたしは感受性が壊れた時に、人は凶行に走っているのではないかと危惧する。

○「妬み~兄弟争いの教訓より」
昨今の無差別殺人の被告の「みんなが妬ましい」という感情について、思案してみました。

以前、書いたことがある内容ですが、わたしの幼少時はけして豊かなものではなく、みなさんが不二家でケーキを気軽にお買いになっていた時、子どもの頃、母に買ってもらえなくて、みんなが羨ましいと述べたところ、
「人の家は、中に入ってみないとわからないわよ。」
と母が申しました。そう述べて話した内容に、兄弟争いの民話がありました。

あるところに、目の見えない兄と、健康体の弟がいました。
兄は、弟がいつも自分に芋しか食べさせないので、きっと自分だけいいものを食べているに違いないと妬み、ある日、とうとう弟を殺してしまったのです。
それを見ていた神様が弟を気の毒に思って、目の見えない兄に、弟の腹を割いて、一時目を見えるようにしたところ、弟の身体の胃からは、芋の皮・葉や蔓しか出て来なかったのです。
兄は、自分のしたことを強く恥じて、また泣きすぎたため、目が見えなくなってしまいました。
確か、最後は血を吐くまで泣き続けるホトトギスになったと思いますが・・・。
・・・たぶん、こういうような内容だったと記憶しています。

わたしは、今は幼少時より豊かですが、子どもの頃のように純粋に生きる喜びに欠けてしまったようで、自分を戒めているところです。

わたしは物質的にお困りでない方でもこう述べているので、胸をつかれました。

皇后陛下の講話の中に、新美南吉の「でんでん虫の悲しみ」があり、誰かに次々と自分の悲しみを相談しても、みんなが自分にも大きな悲しみがあると言われて、自分だけが悲しいのではなく、嘆くのをやめようと思ったというのです。

この「みんなの悲しみ」をきちんと理解できないと、誰でもいいから殺してやろうとなるのではないかと思ってしまいます。

あと、ロシアのソログーブの「身体検査」という話がありました。
母親は盗みの容疑をかけられて無罪になった子どもにこう言います。
「何も言えないんだからね。大きくなったら、こんなことどころじゃない。この世にはいろいろな事があるからね」と嘆く言葉があるそうです。

わたしの母も、わたしが嘆くと、「生きてこうして趣味を楽しめるだけいいじゃない」と述べました。そうです。この世には、生まれた時から戦争しか知らない子どもがいます。
今も虐殺されている人がいます。

「馬鹿とはさみは使いよう」という諺があります。
はさみも、使いようによってはいいのです。
馬鹿と言われる人も、ほんとうは違う分野で素晴らしい素質があるかも知れません。

異色の芸術家では、山下清さんなど、絵には天才だったというではないですか。
しかし、実のところは、馬鹿というのは、「馬」と「鹿」を勘違いしても「鹿をさして馬となす」と、頑固に自分は間違っていないと言い放ったまま、謝罪も訂正もできない、忠告した人を恨む自己本位の人を差します。
本来、知的発達障害者はそうではなく、自己中心的な身勝手な人のことを「馬鹿」と言います。「言っても言ってもわからない馬鹿」です。

皇后陛下のお話に戻すと、さきほどの兄弟争いもそうですが、自分のことばかり考えこんではいけないのだと言うことではないでしょうか。

自分だけで生きてきた、そう思うことを転換しないといけません。
多くの人に支えられている、そう感じて生きていく心が大切で、わたしも時々忘れることがあります。
気をつけたいものです。
たとえ、悲しく辛い時期でも、「でんでん虫の悲しみ」「兄弟争いの教訓」を思い出してみたいものです。

○  「人の苦悩」

生きている限り、苦悩と葛藤からは抜け出せない、そういう自覚は大切です。あとは、自立心、難しいかも知れないけれど「克己心」というものが重要視されるのかも知れません。
ただし、社会的な貧困の問題は現代切実であり、多くの富を得る人がいる一方で、無惨で人間の尊厳も奪われる人もいることを、政府および国家は認め、憲法にある「必要最低限の生活の保障」は必ず確保しなくてはなりません。

でも、世の中に、「傷つかない人はいない」「みんな少しづつ意地悪」「人は自分が相手を傷つけたことはすぐ忘れるが、自分がされたことは忘れない」ものです。
はっきり言って、善人だけの人も悪人だけの人もそういない。しかし、時々、みんな自己本位になるのです。それに挫けていたら、生きていけません。

TULIPの歌

「心を開いて」
作詞:財津和夫

「人の口はいつもうるさいもの
とぼけた顔して生きてゆくのさ
いくら悩んでもむだなことさ
だって死ぬまで一人にゃ 
なれないものだから

人生はいつも 見せかけと違う生き物の様に君にのしかかる」

夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の文章の内容に似ている。

人でなしの国にいくわけにもいかない。
だが、苦手な人はいつの時代にもいる。
みんなの欠点を数えていては友人はいなくなる。

「私の小さな人生」
作詞:財津和夫

「歩いても歩いてもいつも一人だった
人はおかしな男と言うけれど
私の小さな人生はこれからどんなに変わるのか

花の開く音も 人の歌う声も
私には淋しく聞こえてくる
できることなら死んで行くその日まで
歌を歌って生きて行きたい」

あんなに有名なトップ・スターの財津さんも、B'zの稲葉さんも、心に大きな悲しみや苦悩があって葛藤してきたのだろうと思うと、自分だけが不幸とは思ってはならないと思えてくる。

みんな孤独だけれど、どこかつながっていて思いやりも持てると思いたい。
意地悪の連鎖に加わらない、でも優しさの連鎖には共感を持てるほど、強く生きるしかない。

これは、わたし自身への戒めでもあり、愛は自分から愛さなくて得られず、優しさも自分が優しくなければ得られない。傍にいる人の善い面を見て、「人間」は「間」を大事に人と接することができなくてはならないのだろうと思う。
人を憎む人は、自分も醜くなり、険が顔に出る。
嫉妬ほどいやな感情はない。
それを抑えるのが、人間の人生修行なのかも知れない。

わたしは、人からよく「あいつは駄目だ。あいつは馬鹿だな」という目で見られがちの方であるので(そういうのは感じるものだ)、人の小馬鹿にした態度は理解できるが、自分は人をそう思ってはならない、見下してはならない、そう自戒したい。
上司で部下を怒鳴りつけたり、解雇をちらつけせたり、罵詈雑言したりする人を見てきた。
怒りを抑える、そういうことは実は難しいが、心がけるしかない。

社会がいたるところで発信している、自分だけが不幸ではないんだ、悲しいわけじゃないんだ、そういう感性を育むことが、とても大事なことだと思う。
そして、どんな人間にもプライドはあり、それを人は否定してはならないのだろう。