みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

「四万温泉ゆったり旅パート5~帰り道」

2011年08月27日 11時07分03秒 | 旅行記

 四万温泉をあとに、榛名山へ行く。095

 ロープウェーイで頂上に登った。

 富士山信仰があり、コノハナサクヤヒメを祀る。縁結びの神様。

 今日は晴れていて、見晴らしが良かった。ちょっと残念なのは、ロープウェーイからしか湖が見えなったこと。

足の不自由な方は、ロープウェーイの終着駅から地上をご覧になるだけでもいいかと思います。視界はいい。

榛名山は、たいへんローカルな場所である。

 山々が見晴らせて、雲がスーッと横に伸びていて、絵になる風景であった。

 訪れていた人は、見惚れて、雲が変わった106_2
感じでいいと述べあっていた。

階段を上がってゆくと、神社に到着するが、094
コンクリートのものだった。

伊香保に向かう。(訂正)徳冨蘆花伊香保記念館に行く。

 徳冨蘆花は大逆事件とのかかわりは有名だが、ここには「不如帰」の資料や、蘆花の成績表とか、兄、徳富蘇峰の書などが陳列されていた。

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思想的なことは、わたしはまだ把握していないし、兄が国家主義者で、弟が左翼運動に携わったということらしいが、詳しいことは知らなすぎる。
 

音信不通だった二人の兄弟は、伊香保で最後、再会を果たした。

 

トルストイとの関係も濃く、粕谷にある(訂正)蘆花恒春園からほとんど伊香保に資料が届けられている感じだった。

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 伊香保には昔は御用邸があって、今はない。

徳冨蘆花の終焉の間が移築されてあって、撮影してきた。

蘆花が、若い売れ出した青年が精神的に患い、神経が衰弱して文章が書けなくなったことを気にとめて、「とかく若い人はそういう精神的に混乱期を経るのだから大人は気をつけて見てあげなくてはならない」と蘆花恒春園に昔書いてあったことを思い出す。

同志社に入り、新島襄に師事した。113
トルストイとは書簡のやり取りを交わしているし、世田谷の粕谷の蘆花恒春園は小さいけれど、資料館が充実していたことに気がつく。

そこから、水沢観音に行く。

 仁王門の像は、迫力があった。

 本堂、六角堂などを拝見。

  近くに、樹齢700年を経た37メートルの水沢の杉があった。

 

坂東三十三番札所中第十六番。021

 六角堂は、下層は、回転式になっており、祈りをこめて廻すと願いが叶うと言う。

 角面に地蔵菩薩像を安置し、上層に大日如来が鎮座している。

 下層は禅様式である。

 六角堂では護国を祈った。

 自分の生まれた時の守護像もあり、ひそかにお祈りし、水を蛙にかけると願い事がかなうというところでは、ちょっと両親の病気のこともあり、自分の親について祈った。

 

世の中には天命と言うものがあるが、それを全うするまで、明るく生きてほしいと思った。

 

わたしももういい加減よい年だ。115
若くはない。でも、ボケないように生きていきたい。
 

確かに老人ではないけれど、それまで何かしなくていいか悩む。

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 守護像のお守りをいただく。

これを「心の法」の源にしたい。 

 

足ることを知ることも大事かなとも思えた。

 

四万温泉では兄弟がぼうっとしておいでと言ってくれたが、なにやかや考えることも多かく、欲張って疲れた半面、お湯が良かったと思う。

 

日本の東京と言う都会を離れれば、違う世界があり、そこには知らない人が違う生き方を見せてくれる。

 

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精いっぱい今を生きる。先々はわからないけれど、そういうことが大事かなと思った。

一隅を照らす、広大無辺、という観音堂の言葉に、どこか救いを求める心があった。

みんな、それぞれに重い荷を背負って、それでも笑顔で生きている。

祈る姿は美しい。

両手を合わせるとき、そこには誰かを威嚇する態度はない。

これと言って特別なことは書けなかった四万温泉ゆったり旅だったが、旅を契機に思案したり、違う世界で教えてもらうことはあるのだろうと思った。

 

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「四万温泉ゆったり旅パート4」

2011年08月26日 17時15分07秒 | 旅行記

 「四万たむら」という宿へ向かう。004
室町時代から600年ほど続く老舗旅館で、たくさんいろいろなお風呂があって、アミューズメントパーク気分になって湯めぐりをした。
 

玄関口には、神棚があって、神様を祀ってあって、おいでなさいませ、神様もみなさんのことをご覧になっていますよと言う印象だった。

 

玄関の近くに襖が開いてあり、ずっと和室が奥まであって、古い年月を経た宿である名残を残していた。

 

番頭さんたちは、日帰り温泉をしたいのですが、というと、親切にまず、釜めしを注文してから湯めぐりをしたほうがいいですよと教えてくれた。

 奥のガラスケースには、群馬県中之条町の登坂昭夫さんの天蚕館を2010年8月ごろ見学なさった天皇・皇后両陛下もご覧になったという山繭が陳列されていて、薄い緑色の山繭に見入った。

また、お隣には、根付けコレクションをなさっていた高円宮憲仁親王の、高円宮賞を得た、象牙の根付け「恋文」(群馬県出身の阿部裕幸さんの作品)を拝見。荒波を乗り越えて鯉が文をくわえて、泳ぐ姿だった。003

ユーモアがあって、みなさんから慕われたという高円宮様のお人柄も伺われるような作品で、若くして亡くなったことに胸が痛んだ。

「韓国と日本はお友達になりたいと思います」と高円宮様の声がNHKの放送で流されたことがあり、新しい視点で、皇室の在り方をお考えだった様子だったのに・・・。

 四万たむらでは、せせらぎの湯が非常に気持ち良く、緑の木々の中の滝を眺めてお湯に浸る気分は最高だった。

また、御夢想の湯は、確かにここでひとり入っていると、木のぬくもりに穏やかさを感じて、まるで仏堂の中で湯に入っているようで、哲学者になりそうだった。 

やがて、ここで温泉三昧して、ランチをいただいて、温泉街をぶらぶらと散策した。

 

閉まっていた店が多かったが、白百合が咲き、川のせせらぎを耳にしていたが、今、「悲しみを言いつくすより唇に歌を歌おう」と言う「千と千尋の神隠し」のテーマソングを思う。

 子ども連れの家族が写真を撮ってくださいと言う。079

いい夏休みを過ごしてほしいと心から思った。

私は、自分がこうしてのんびりしていられることに弟への感謝の念が湧いた。

 宿に戻ると、今日はゆっくりお風呂に入って食事を待った。

に帰ったようなくつろぎを感じた。

大きなお風呂はたくさん入ったけれど、宿にしていたお風呂はちょうどいい大きさで、混んでいなくて、ゆっくりできたし、仲居さんも打ちとけると、いろいろ配慮してくださって、居心地が良かった。

 ここのお湯はなかなか良かったし、自分の別荘みたいな気分に浸れた。

本で調べると、四万温泉は、上信越高原国立公園の標高600メートルにある温泉で、泉質は含石膏弱食塩泉で、胃腸病・神経痛に良いらしい。だから、私の病気に良かったようだ。

新湯には、桓武天皇の800年ごろに征夷大将軍012
坂上田村麻呂が蝦夷征討に来てこの地に泊まり、入浴したのが最初という言い伝えがある。

ある人に四万温泉ってどこ?と尋ねられたので、あまり知名度は高くないけれど、静かな温泉街だった。

 翌朝、ドライブして、榛名山へ向かう。 

天気は快晴。道の途中で写真撮影などをする。

榛名山は、若い頃、デートした記憶があって、楽しい場所だった。

 

ここの榛名山の頂上にある(訂正)富士山神社は、縁結びの神様。デートの相手は良い人だった。

東京から日帰りができて、お勧め。024_2

榛名山を見てからだったか、山道の途中で伊香保の街もよく見晴らしがきいた。

記憶が曖昧)

竹下夢二は、晩年、榛名湖畔にアトリエを構えたが、結核で亡くなった。

美しい榛名山と湖を眺めて、人が心惹かれる理由を理解することができた。

 

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「四万温泉ゆったり旅パート3」

2011年08月25日 07時32分48秒 | 旅行記

 今日は温泉三昧にした。

 まずは、奥四万湖の近くにあった002_2
日向薬師堂へ向かう。

 1598年に真田信幸の武運長久を祈って建てられた茅葺寄棟作り寺院建築で、県内唯一の寺院建築の重要文化財になる。

 湯治客が前にあるお籠堂に入って、念仏を唱えて病気平癒を祈ったと言う。

渓流沿いに御夢想の湯があって、渓流を眺めながらゆったり湯に浸かれる。わたしの母は入って、気持ちが良かったと述べていた。

 正門は、禅様式が伺われる。 

やがて、長いトンネルを通るとそこは温泉街だった。

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積善館を見ようと、早く湯に入ろうと張り切った。赤い欄干の橋は、確かに「千と千尋の神隠し」のあの絵の橋のようで、千尋がハクと走って来そうな雰囲気だった。

 写真を撮ろうと待っていると、子どもを連れた家族連れが、「千と千尋の神隠し」のテーマソングを楽しそうに歌って、橋を渡って行った。 

渓流沿いにあり、日本最古の湯宿と言われている。1691年から続く。

 

千と千尋の神隠しのモデル宿は、日本各地にあるから空想の創造物だし、ここはそんな怖いイメージは全くなかった。

 宿の人はとても親切で、町の案内などをしていたし、古い武家の家が湯宿になっていて、資料や奥さんの髪留めなどが陳列してあって、奥には昔のままの部屋がそのまま残っている由緒正しい宿だった。

「易経」の中の言葉、「積善の家に余慶あり」と書かれた額が飾ってあった。

わたしの入れるお風呂は、大正時代の面影の残る外湯に近い、正面近くのお風呂場だったが、中に入ってすぐ脱衣場があり、中は非常に明るく、丸い形の湯船がいくつもあって、映画と同じようなお風呂を見かけた。

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お湯の熱さが入る風呂によって違い、非常にぬるい湯と、非常に熱い湯と、普通のちょうどよいものと分かれていた。

 

ここを入ってご覧になると、「千と千尋の神隠し」のイメージをなんとなく感じるかも知れない。

 

風呂に入って、近くでラムネを買って飲み、非常においしかった。

 

温泉街の人は親切で、温泉まんじゅうの販売のお店は、暑い中、長い時間クーラーボックスもないのに車に入れておいたら、人間じゃなくてもまんじゅうだって腐ってしまうから、すぐ帰れないなら売れないと言う。

商売だけで儲けようとしない気持ちに快く感じて、群馬県特産の甘納豆を買った。

そこのお店の人はちょっと微笑んでくれた。

 酒屋に入って、日本酒も眺め、四万川という日本酒を購入。お店の人はぐすぐず決めかねているわたしにいやな顔をせず、待ってくれていた。

 温泉街は、渓流沿いに花が咲き、金魚が水槽に泳いでいた。

のどかで、古いノスタルジーある007_2
温泉街である。

 

四万グランドホテル傍はなかなか渓流を眺めるのに良かった。

 ここにも公共の湯があった。

水は綺麗で、眺めていたら、いやなことを洗い流してくれそうだった。

 

さて、それから、次の宿へ温泉に浸りに行くことになった。

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四万温泉ゆったり旅パート2

2011年08月22日 16時09分38秒 | 旅行記

途中、四万湖に出くわす。水の色が綺麗な色をしている。

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わたしは慰霊塔を眺めて、18歳から63歳までの方が5人ほど亡くなっていうのを知り、黙とう。家族は、「黒部ダムなんか、どれほど死んだと思っているんだ。昔だから造れたんだ」と言う。

ダム建設は今では歓迎されず、帰宅して調べ回ってわかったことは八ツ場ダムのもめた経緯や書物は出版されているが、ほかのこの四万ダムなどのダム建設工事についての是非論を書いた一般向けの出版物は皆無だった。

書店員に尋ねると、専門的な論文はあるが、086
ダム建設に関する過去の出版は取り扱っていないとのこと。行政の本ならありますが、民間人の記述は見当たりませんと。

国民はダムの建設是非に関して、知る権利はもうないのかと妙に思ったが、時の政治とはそういうものか。あまり、政治に関与したくなかった。ダム建設無用論が今は主流を占めている。

過去のダム建設の論争は、一般人には閉ざされて、かろうじて八ツ場ダムの本だけは今も多少販売してある。

旅の最中は、そういうことは認識外だった。

初日、宿に到着すると、早速夕飯にすると仲居さんが言うので、やむなく、20分で風呂に入りに行く。

湯の質はさらっとして、熱すぎず、ぬるすぎず。宿に不満はそうなかったし、温泉は気持ち良い作りでゆったり浸れたのでどうも言うことはないのだが、部屋係の仲居さんはたまたまか、わたしの部屋付きが群馬県の土地の人ではなかった。

夕飯に群馬県特産のギンヒカリが出てきて、038_2
お刺身になっていた。料理はもてなす料理人の気持ちがこもっていて、味は薄く、ほどよい感じ。今までいろいろなところに和室の宿に泊まったけれど、ここの夕飯はおいしかったと思う。高いか安いか、の問題ではない。

「ここは中之条町だよね。出身に小渕恵三がいたじゃない。」

「そう。小渕優子もそうかしらね」

とか、政治の話題が出て、仲居さんに中之条町ですよね、ここは、と言うとここの町は知らないと言う。

家族と不思議で顔を眺めて、仲居さん変わっているね、土地の人じゃないみたいだから、しかたないかと述べた。

仲居さんは笑顔で、「千と千尋の神隠し」の舞台になった宿をご覧になりましたか?と言うので、ええ、通りすがりに少し、明日は行くつもりですと述べた。

健康診断の時、ふと天井を見上げると、トトロのマグネットがついていて、ほっとしたことを思い出す。

明るいことを思案したほうがいいだろう。

仲居さんが席をはずしたので、政治の話とかして疲れてしまったが、そう長い時間ではなかった。

「人柄の小渕さんとはマスコミの評価だが、辻井喬(堤清二)は大平正芳を支持しているよ。」

「そんな昔の話?」

「小渕さんの時はものすごい勢いで法案が国会を通過していた。相当な手腕なのだろう。

怖いくらいだった。いいのか悪いのか自分にはわからないが・・・」

「ここから八ツ場ダムが近いよ。」

思わず無言になってしまった。

「政治の話はよそうか」と切り上げた。

上州牛を恨めしく見て、放射能汚染で牛肉大丈夫かなと心配しつつ、美味で舌を打つ。

もう大気汚染はひどいから、これからの人間はもうあきらめるしかないなあと思う。

いろいろ心配や被害者の方を思うと、028
旅などしている身分じゃ、文句も言えないなあと思うし、兄弟が手はずを整えていなかったら、どこも行く気がしなかった。

邪念はよそう。それにしてものどかで、東京の近場でいいところがあった。群馬県と言うと、伊香保に草津、といい湯がそろっている。

群馬県の特産品は、おいしい。

イノシシの肉も食べたが、料理をゆっくり食べられる喜びをかみしめた。

ここの温泉に浸ったせいか、腕が東京でしびれていて、悩んでいたが、すっかり治ってしまった。下痢にも悩んでいたが、完治した。

万病に効くと書いてあったお湯だが、仲居さんが言うには、胃に良いらしかった。

水は大事だ。

しびれ、痛み、胃の疲れが取れた。温泉の効力は凄いと思った。

「昔の人は湯治客が長い間来ていたんだろうなあ」と家族と話して、こういうところにいると、確かに身体にいいみたいだなあと思った。

伊香保には徳富蘆花が来ていたし、家族は草津の湯もいいなあと言う。

群馬県って、東京から近いけれど、野趣あふれて、新鮮な県だった。

翌朝、奥四万湖へ向かう。

ダム建設がたたえられてあった。

人造湖だが、色合いがとても綺麗だ。

ダムの水質について、福島の五色沼の美しさと同じほどだと書いてあるが、このブルーがどうしてこう発色するか、詳しいことは解明されていないと表示板に書いてあった。

「今の時代に水質の解析不可能なんてありえるのかな。バスクリンでも入れているんじゃないの」と家族は不思議がっていた。023

模型図があって、全体像が見渡せる。史料館で撮影してみた。

四万ダムの橋を歩くと、よくわかって、その通りの地形であった。

四万鉱山は、「ろう石」を採掘していたが、ダイアスポア、電気石(トルマリン)ルチル、チタン石、コランダムも発見されている。

この近くから、デュモルナチ石や雲母も一種のパラゴナイトという鉱物も報告されて、四万川ダム上流のブノウ沢沿いの石英閃石緑岩中には黒褐色の電気石が見られる。

四万温泉の電気石は、場所により、化学成分がずいぶん異なるということだった。

四万温泉の中にはメタホウ酸が多く見受けられるのも特徴である。

・・・ということは、胃に良いというより、皮膚の怪我などに良いと思案していいのではないか。

素人で余計なことは言えないが。

ダムの橋には、ダム建設を中之条小学校の生徒たちが称える絵がタイルになって貼られており、市民あげてのダム建設のような印象を受けたが、実際はどうか調べようがなかった。

四万ダムの奥にしゃくなげの滝があり、行って見ると涼しい水しぶきが上がっていて、勢いよく流れていた。緑の木々に、映えて美しい。035

熊が出現するとあり、鐘を鳴らして近寄り、家族が写真を夢中になって撮影している間、こんこんと鳴らし続けた。

四万温泉は、不思議な湯であるが、何度入っても湯あたりをしないのがいい。

わたしの腕の痙攣はここで完治した。

日本の温泉は、凄い効能を持っていると実感した。

ダム建設は、今、水力発電などで節電をかねて、また話を再燃しようとしているらしいが、家族が言うことには、そこに住んでいる住民の問題であるし、政治に口を出すなと釘をさされた。                     

ダム建設の過去の事例は、058_14
成功と業績をたたえる本しか発売されていないし、ないに等しい。素人にはわからないバリアがあって、よくわからないのが現状である。

過去のダム建設が有意義だったか、ほんとうに住民や近隣に潤いをもたらし、必要だったか、徹底検証する人がルポライターでいてもいいはずだが・・・・・。官民絡んで利権も関わってくると個人の証言など吹いて飛んでゆくのかも知れない。

「前原誠司が八ツ場ダム中止を正式表明したんだから、もうこの話は終わりだと」と呟いた。

さあ、ダムはこれくらいにして、温泉三昧しようと、ダムを離れたのだった。


「四万温泉ゆったり旅パート1」

2011年08月21日 16時03分17秒 | 旅行記

 兄弟の招待で、温泉に行くことになり、群馬県四万温泉に向かいました。

 途中、伊香保を車で通り、旧ハワイ領事館を眺め、そうそう竹下夢二伊香保記念館へ寄りました。

 

大正時代のオルゴールを聴いてから、018_2
建物を巡りました。

 

近年できたばかりの日本家屋には、大正時代のガラス製品が陳列されていて、おもしろかったのは、アイスクリームのガラス製品が、底上げ状態で、当時貴重なアイスクリームという舶来品を珍味に思い、たぶん高価だったため、製品のガラスの上のほうに置くような作りになっていました。つまり、ガラスの底が分厚くなっています。

 

ずらりと並んだガラス食器はまるで絵のよう、ずらりと並んでいましたが、玄関にあった大正スタイルの照明器具のガラス傘は、可愛らしくてデザインが綺麗でした。

 

戻って、記念館へ行くと、館長さんの趣味で豆皿がたくさん収集されていました。

 

ただし、やはり夢二の絵が置いてある特別室で、夢二の「榛名山賦」という名画を眺め、「青山河」の絵や、「遠山に寄す」を三面並べたものを見た時は感動しました。

 

彦乃を山に、自分を川にたとえたと言います。

 

私は、夢二の不幸な女性関係に耐え切れず、017
可愛らしい絵とはどこか疎遠でしたが、イラストレイターとして出発したことを思案し、今回の企画展は、夢二の出世作が『伊勢物語』の「筒井筒」の挿絵だったことを知り、見直しました。

 

夢二の絵のなよなよとした美人は、眼が大きく足が大きく、妻たまきとともに、お葉さんがモデルと言われていますけれど、伊香保の三面は、モデルが彦乃さんで、忍ぶ恋で彦乃さんの憂愁を帯びた表情と、馴れ染めえない仲だからこそ、はかなく美しいような印象を受けました。

 子どもを主人公にした絵画が特に気に入り、父親としての愛情は持っていた人だからいやな感じは残りませんでした。

 

オルゴール室に、友人が寄せた色紙があって、夢二は早死にして不幸だったというかもしれないが、そうは思わない、これだけのことをしたのだからというような内容のものがあって、記憶が曖昧ですが、なるほど、太く短く生きた人だと思いました。

  

夢二記念館は、お茶室にある様式と洋館建築との融合が造園家の誇りであったようです。

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 この記念館は、アンティークな調度品などがあり、1600年代の香りまでもします。

 

可愛い絵とは反対に、榛名山美術研究所を
作って、大量生産ではなく、手作りゆえの良さをデザイン面で世間をあっと言わせてみせようと試みた野心家の男が確かに存在し、一時代を一斉風靡したというのは興味深いです。

  

わたしは、画家になれたら、当世きっての美男子を描いて世間をあっと言わせてみたいような、無謀な夢想に駆られました。無理だ~。言ってみただけ・・・。

夢二という芸名は、尊敬していた藤島武二にあやかって、夢「二」にしたと本に書いてありました。

素敵な美女を自分なりに創造したのですね。

 

デザイナー、素敵な響きです。遊ぶ心はわたしにも健在でした。

 

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