見晴らしの良い場所に出ると、その先まで行く方はそう多くはいないのですが、今回お山を巡ってみました。
坂が多くて、結構疲れます。
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塚がいくつもあって、非常に摩訶不思議な空間です。
稲荷は「イナリ」と言って、語源は穀物のことらしいのです。
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専門書などを読むと、韓国語まで出てきて、いろいろ解説されていますが、要するに日本には昔から渡来人が多くて優秀な彼らに従った民衆は、その豪族の祀った神を崇拝していました。
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朱塗りの鳥居は、今はただのペンキの色かもしれませんが、昔は高価な色であったと推定します。
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仏教では女性は不浄であると教えられ、因果応報の縁から抜け出せず、苦しんだ民衆は稲荷権現さんに願いを立てて、悪しき因果から解き放たれて救ってくださいと願いました。
それはかなうとされましたし、稲荷権現は怒りに触れると祟る神でもありました。
もともとは秦公伊侶具(はたきみいろこ)が驕って、弓の的に餅を使って射ったところ、白鳥になって飛び立ち、山の峰にたどり着くと、「伊禰奈利生(イネナリオ)」いた、とだけ記されていました。
つまり、思案するに、白鳥の降りた所に稲が生えた、と言う意味に取れます。
伊禰奈利(イネナリ)から、「イナリ」へ。
さて、驕っていた秦氏は、これを悔いて、秦氏の子孫は稲荷山のお社の木を抜いて、家に持ち帰って、植え直して御祀りしました。今でも、その木を植えて地に根づけば吉、枯れれば凶とします。
参詣者がお社の木(験の杉)の枝を家に持ち帰って祈願したのが、信仰習俗の由来のお話になると言います。
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稲荷神社の「朱の鳥居」は、まず鳥居は「雷神の使いの鳥を止めるための止まり木と言われる」し、「朱」は「あけ」つまり「明け」=太陽で、生命の始まりの力の象徴で、また、丹塗りは、炎の色です。
稲荷山のお塚信仰というのは、「塚」というのが、もともとは神蹟と称される神祭りの場のことであることを前提としています。
京都伏見区深草のあたりは早くから稲作地帯として開発されました。
深草に倉がたち、秦氏は稲荷信仰と田の神の信仰を同化したと言われます。
農事の始まりに狐が同時期的に山から降りてくる時期と偶然一致したため、山の神(オオカミ=大神)が狼となり、稲荷社の弮属たる狐神のこととしたとも言います。
覚束ないメモから書いたことで、分かりにくくて申し訳ないのですが、「稲荷信仰事典」8山折哲雄・編)戎光祥出版を参考にしたもので、うまく説明できていなくて申し訳ありません。気になった方は、ご確認ください。
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なお、大和岩雄さんが述べるには、狼は田の神が山に帰ってから出没する(時期は冬)ので、これは違うでしょうと述べ、白い狐は白い鳥(白鳥)にかさねあわせて、人間が何か目に見えるものを神の姿と安心したいがゆえに狐を呼び出し、実際は鳥から連想される「羽振る」=「葬」からお塚信仰になったのではないかとも思案されます。
この山を本気で信仰なさっている方は、1日に毎回参拝するそうです。
多くの塚の中に、御自分が大事にする、決まった塚があるそうです。
迷路のような鳥居を巡っていると、なぜか方向感覚が鈍って来て、どちら周りかわからなくなって、狐につままれた気分になります。
実際、この日は「狐の嫁入りの日」で、晴れているのに小雨が降り、なんとなく、妙な気分でした。
鳥居を最初から最後まで離れることなく、お山を登る時は重い足取りが、下る時は肩の荷が下りました。
女性は憑き物がつきやすいので、鳥居から離れないようにと地元の人が教えてくださいましたから、下り終わってほっと安堵しました。
伏見稲荷に限らず、秦氏のゆかりの神社はほかにもあり、神社の起源を探れば、そこには大陸との関係が見え隠れします。
日本が元寇で、国民一丸となって闘う必要ができて、「神の国」という思想が生まれてきましたが、もともと神道は一言で説明できるようなものではなく、大和王権に負けた豪族すらも祟らぬように祀る要素があり、複雑に時代時代の情勢を反映した宗教だったように思えました。神は同じ名前の神様ではなく、多様なのは、多くの文化圏を受け入れてきた日本の国の在り方にあるようです。
私個人の感想は、鳥居をくぐるたびに、何か洗礼を受けているようで、ここが信仰の場であることをいつも念頭に置いて、お山めぐりをしていた感じです。
伏見稲荷大社の宮司さんが、稲荷信仰のあることは、朝鮮半島ともつながりが深くて、神道が国粋主義ではなく、実はとても国際的な場所であると、本で仰せでした。
また、鍛冶屋の信仰を稲荷大社は集めていて、能の「小鍛冶」などに、そういう影響を受けたものがあるといことらしいです。
わたしは、お塚の要所で、蝋燭の火を点して、こうして伺えたことに感謝の念を祈りました。
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続く。