みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

優しさと思いやりを思案して~高麗神社から巾着田

2009年04月26日 06時36分15秒 | まち歩き

Dscn4945 友人がどうしても高麗神社に行きたいと言うから、お連れした。

でも、友人って、ほんとうはそんなにすぐ仲良くなれるわけではないんだよね

Dscn4947 韓国語が優れていて、英語を話せて当たり前で、日本語なんて全然意味が通じないから嫌いと、英語の元教員が話す。

反論すると、十言葉が返って来るから黙っていた。

わたしは、どこの国も言葉も大事にしたい。母国語は特に。

わたしは、東京の人だから、東京の言葉なんて嫌いと言う地方の方とも話したことがあるけれど、言いたいことはわかっている。では平安朝言葉で話してみたらどうかと思うけれど、それもできないと言う。自分の話している言葉が一番らしい。

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他国を思いやり、その国の言葉を大事にすることは大切である。

しかし、日本語の標準語を否定する必要もないと思う。

韓国を重んじるなら、なぜ、高麗王のお墓に参拝しないか、わたしには理解できない。ただ、拝見するだけでお仕舞い。わたしはお墓を見学したら、やはり冥福を祈る。

高麗神社には綺麗に桜が咲いていた。ようこそ、高麗の里へと。

大事なことは、信頼関係をいかに築くかということで、相手を思いやり、優しさをどこまで持てるかということなんだよね。

Dscn4952 韓国の歴史は日本以上に激動の日々だった。

折口信夫先生もいらしたのかと確認した。

今泉忠義先生も・・・。太宰治も。

桜に思うのは、どこで咲いていても美しいものは美しい。

そして、心を穏やかにさせる。

韓国語は漢字をなくしてしまった。それは残念である。

日本は、中国との親近感をまだ感じるのは漢字のお陰だと思う。

韓国の方でも在日韓国人の方は聡明な方もいらして、遠い時代に国籍を取得した人もしない人も、今はもう区別がつかない。

英語教育は、必要だろうが、国語ももっと力を入れなければならないだろう。

ただ、英語の教育の必要な人と、必ずしも必要でない方もいる。

どの程度が必要かは、自分にはわからない。やはり、話せることは大事だが、内容もともなわないとならないだろう。

Dscn4955 宮司さんと話す女性。枝垂れ桜は、もう終わりである。花から葉桜に変わっている。

高麗住宅が見える。中に神棚が飾ってあった。ここは韓国の人だけのものでもなく、日本というのともちょっと違う。

それは聖天院で感じた。

韓国独立運動の記念の建造物がある。

戦争で多くの方が外国人始め亡くなった。

日本軍による虐殺も凄かったらしい。しかし、日本人もしなくていい犠牲をあまりに残酷な結末で迎えた。東京大空襲は、ほんとうに必要だったか。原爆投下は必要だったか。

パゴダ公園に宗教指導者らが集い、「独立宣言」を読み上げることを計画したとされる。非暴Dscn5006_2 力を求め、日本に真の友好関係を訴えたとされる。

日本人として、申し訳ない気持ちを抱きつつ、韓国ファンが、単に韓国人は綺麗だからとか、そういう外見でしか韓国人を見ないのは気の毒である。

日本語は、日本人の祖先が苦労して創り出したものであり、そこには深い意味がやはりある。

韓国の方には様々なことは、胸に去来するだろうが、それでも彼等は同じ人間であり、いい方も大勢いらっしゃる。巾着田へ道案内してくださったおじさまは、丁寧だった。地元の方だろう。

日本と韓国が真に友好関係を結ぶように祈らずにはいられない。

Dscn5024  この菜の花畑をご覧になって、日韓友好の日に遊びにいらしてくださいとのこと。

遠くて伺えなかったけれど、みなさんが幸福に歩める時代になりつつあり良かったと思う。

もう春なんだ。桜も遠くに見える。

でも、国語(日本語)なんて、という時代にまたなった。

英語教育をするなら、聖書も読まなければならないだろう。

わたしは人をいやだなと思うと、そう述べてしまう自分を恥じる。

聖書にふさわしくない人間だと悔やむ。じっと堪える。

朝、日が射すと、人を許せる時は許さないといけないと思い直す。

これから自分にはどんな試練が待っているのだろう。わからない。

でも、物事をなるべく良く思案する習慣を身につけないといけないと思った。

でも、どこか友人とちぐはぐにかみ合わない時があって、淋しい気分になる。でも、元気出さないとね。


皇居周辺のお花見(桜)とご成婚記念馬車

2009年04月21日 06時42分37秒 | まち歩き

Dscn5096 皇居前を友人と散策すDscn5098 る。花見がてらである。

天皇・皇后両陛下のご成婚50周年の前日だった。

江戸城の名残が見える。

枝垂れ桜がお堀に映える。

さて、和田堀公園にて、お写真を拝見する。むきたての玉子みたにつるつるお美しかったと言う新聞社の記事が印象的な皇后陛下。

わたしは今上天皇のことはあまり存じ上げないが、美智子様のことはなんとなく理解しえる。ほんとうにご苦労があったと思う。

東宮御苑に入って、三の丸尚蔵館にて、煌びやかなDscn5106 屏風絵などを拝見する。国華というもの。                 

Dscn5103 わたしの友人は共和国になってほしいと言う。うーん、難しい。

わたしは今上天皇のご成婚記者会見のお言葉が印象的だった。

御製歌は、拝読することがあるが、庶民を随分思案なさり、実は昔知り合いだった共産党の方も感心しておいでだった。戦争はお嫌いである。

和歌に戦後の平和を詠われた歌がおありだった。

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ご自分の意志でなんでもおできDscn5115 になるわけでもなく、日程は管理されている。わたしの父母がのんびりしているのに、全然違う。

皇居は花が咲いていて、綺麗であった。一時整備中で、拝見した時と違うイメージであった。

池面に、遠く、皇居が見えるほどの高いビルが建っている。これが景観の邪魔になる。

景観を損なわないようにするのは大事なことである。

Dscn5117 桜の他に、シャクナゲが綺Dscn5119 麗に咲いていた。

春爛漫という感じである。皇居の中の売店では、雅子様のお印のハマナスの模様の小箱があったり、宮内庁では全力を挙げて、雅子様に心配っておいでだ。

美智子様が失語症になられた時、実はわたしも声が出なくなると言う時期があった。仕事柄、マイクを持って苦しいけれど人に話していたから、人ごとではなかった。ストレスか、なんだか自分でもよくわからなかった。

Dscn5120 もう、つつじが赤く咲いていDscn5127 た。

昔はここまで一般の人は入れなかったのよと、友人は言う。

氷室という場所があり、昔、ここに大奥の女性で折檻を受けた方が入れられたらしいが、なぜ残っているかわからない。

ただし、城の石垣は凄いと思う。どんな山城でも石垣は立派で、どうやってここまで建てたか、非常に不思議である。

皇居の車が出入りする場所である。友人は眼がよく、黒塗りの車に7・3に髪を分けた方がDscn5133 

乗車していたとのこと。ただDscn5137 し、貨物車も入る。

元近衛師団の建物の傍を通る。

わたしは、僭越ながら、皇太子ご夫妻に、誠実で口の堅い、趣味を同じにするご夫婦でおつきあいのできる友人のような方々が必要だと思う。

ダイアナ妃のようにならないため、雅子様には個人情報のきちんと守れる、影のような方も必要であり、そこに今上天皇と皇后の意向を伝達する役目も必要になり、人選が難しいかと思われるものの、大事なことである。

Dscn5142さて、庶民のわたしはこういうDscn5144_2 話題はこれくらいにして、千鳥が縁を目指す。

花見は、これで最後であろう。それにしても明日は天皇・皇后ご成婚50周年、よく桜がもったと、めでたい気分がいやでも高まる。

天皇制がどうかと言うより、おふたりが連れ添っておいでで、美智子様の懸命なお姿を拝見し、やはり心打たれるものがある。

わたしは両親の金婚式に何かしてあげたい。それにはもっと稼がないと・・・・。

Dscn5148日本橋三越の春の院展へ10日に伺う。閑散としていた。 Dscn5164

しかし、ご成婚写真展のほうは人混みが凄かった。

パレードに使用された馬車が一階にあった。拝見する。

ご成婚時は華やかで、シンデレラというより、国のため非常なご覚悟で想像を絶する家庭環境にお入りになったことと思う。

わたしたちは、申し訳なさでいっぱいである。いや、よくわからない。

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パレードのコースを歩くイベントを企画しようとしたら、わたしの家族以外に仕事がいってしまって奪われた。そこで、もう関係なくなった。

しかし、このルートは家族と歩いたことがある。

最終地点は、渋谷の常磐松(國學院大學前辺り)である。東宮仮御所があった附近である。

ここは道幅が狭く、当時はどうだったか、気になっていた。ここを歩くのは、今は大勢では楽ではない。

まあ、歩こう会は難しいかなと判断したが・・・。

Dscn5154横から鑑賞すると、下記のようで、前から拝見すると Dscn5168

左のようになっている。

また、大きさは思ったほどではなかった。

華奢な感じで、上品である。

後ろから拝見すると、下記の左である。角度を変えると、右である。

ひとひとりの背の高さよりそう高すぎず、遊園地の観覧車くらいの空間にお席がある。

Dscn5165 Dscn5169日本橋三越デパートは華やかさで満ちていた。

わたしは院展の凄い日本画を鑑賞し、とりあえず、写真展は見られず帰宅したのであった。

馬車が見やすかったのは幸いだった。

皇太子ご夫妻が、こうして何十年か後に、良かったわねと述べられるように、早く雅子様のご容態が良くなられることをお祈りします。


池上本門寺の笹部桜と五重塔特別拝観~春爛漫

2009年04月20日 08時26分51秒 | まち歩き

Dsc01351_2 4月8日は花祭りで、その前に池上本門寺(日蓮宗)で、笹部桜を鑑賞したり、五重塔のご開帳を拝見しました。

境内には、お釈迦様の誕生日と書かれた白い象の人形が運ばれて来たり、僧侶の方々から参拝客に甘茶がサービスされていました。

ちょうど、北朝鮮のミサイルが発射されるという4日の警告の日で、わたしはラジオのイヤホンを耳にして、散策しました。

子どもがいたり、抹茶のお席があったり、のどかな寺に、みなさん、顔は明るいようで、とてもそんな危険が迫っているとは思えないほどです。

Dsc01395 Dsc01327 急な階段を上りきれば、そこが山門になります。

桜が満開でとても綺麗でした。

わたしは、以前、ここで笹部桜を拝見して、親切なご高齢の男性に境内を案内していただいて、たいへん楽しかった記憶があり、花は人をみんな優しい気持ちにさせます。

笹部桜は、笹部新太郎翁の苦心の賜物です。笹部氏は人生の大半を山桜や里桜の保護育成に捧げた方で、昭和60年新種の桜を「笹部桜」と命名されたそうです。昭和天皇ご在位60周年記念に皇居吹上御所に五本献納され、ここに平成三年寄贈されたそうです。

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大きな古木で、染井吉野はピンク色なら、笹部桜は白いのです。純白の大輪。

以前、伺った時、快晴だったので、その時の写真もあります。

「吉野桜が木綿なら笹部桜は絹である」と言われているそうです。

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わたしは、「朝日に輝く山桜かな」と言うのを拝見したかったのですが、家から池上は遠くて無理でした。純白の花嫁姿のような女性を彷彿させる桜で、ここには潔白さ・純粋さがあるようで、眺めて飽きないものがありました。

Dsc01379 五重塔は、厳島神社の五重塔と同じ様な建造では、東日本では最古らしいです。

下が、和風、二層が唐風になっていると言うことです。

ちょうど、珍しいご開帳がなされていました。

僧侶の方の説明を伺って、撮影しました。

桜に煙る五重塔は、ここがどこか忘れるくらい綺麗でした。

展望台からの眺めは見事で、ここが東京都とは思えません。特別ご開帳を拝見して、拝みました。

春爛漫というのはこういうのでしょう。「ミサイルが発射されました」という速報が(誤報でも)入っても、誰も平然としていました。Dsc01373

Dsc01374_2ただ、わたしは、黙って本殿のほうへ向かいましたが、すぐ誤報であることを知りました。

こんなうららかな日、しかもお釈迦様の誕生日に近い日に、何と言うことをするのだらろうと内心は怒っていましたが、桜と五重の塔が心を静めてくれました。

ほんとうに、日本で何事もなく済んで良かったと思いました。

わたしは釈迦堂へ伺ったり、ほかにもいろいろ拝見し、参拝しましたが、春の寺というのは、なんとなくいいものです。

洗足池のほうにもあとで、伺いましたが、たいへんな人出でした。ここは静寂で、まだ人も少なく、あちらこちらに咲き乱れる桜に、ああ、日本人の心の 拠り所になるような穏やかさであるとおもったものです。

Dsc02049 霊園のほうも、頭上は桜がこぼれるように咲き誇っていました。

日本の戦没者の慰霊碑などもあり、ここは静かな場所です。

戦争で亡くなった方々の鎮魂を祈りました。

何思ふ五重の塔佇んで衆生見守り花乱れ咲く

絹の白笹部桜に見惚れては花を愛でたる人優しき眼

のどかなる池上の春花曇り釈迦の掌中に花俯きぬ

 


コスタ・クラシカ~東京港晴海埠頭初入港

2009年04月18日 23時41分27秒 | 船の写真

Dsc01568 Dsc01429 2009年4月18日コスタ・クラシカが日本の東京港へ初入港した。

わたしは、慌てて出立して向かう。どこから撮影しようか思案した。

ちょうどレンボーブリッジを通過するところの前から撮影開始。

今日は午後曇天、少し晴れ間。

マンションがどうも撮影に邪魔で綺麗に見えなくさせる。都会だからしかたないが。

慌てて、走って行き、シャッターを切るが、焦っていてなかなか綺麗に構図が決まらない。

ちょうど、橋の真下のコスタ・クラシカ。

白い船舶は、海に映えて綺麗である。形は端正。わたしは、以前、イタリアのベニスでこの船を見かけたので、久しぶりの再会である。

わたしが、充実感あった頃の見慣れた船。

就航年は1991年、改装年は2001年。約53000トン。幅は約31メートル。

イタリアは、ほんとうに見所が満載で、ヨーロッパに行って、非常に良かったと思う。バチカンに伺えて、感動し、そこから消印を押していただいて手紙を友人に出したことがある。

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海は広く、世界に通じていると思うと浪漫が広がる。

撮影は完璧ではなく、素人であるが、時間的にもう少し余裕があれば良かったと反省した。

東京港は横浜港に比べて交通が不便で、華やかさにひとつ欠ける。しかし、静かで撮影するのには良い。

Dsc01452 歓迎放水を受ける船。甲板には大勢の乗客が立っている。

デザイン的に、美しい形をしているなあと思う。

この右下の写真で旋回するとは思っていなかったが、直に向きを変えた。旋回して、反対側に向き直る。(左の写真)

これから何回か東京港Dsc01469_2 へまた立ち寄るらしいから、珍しくないかも知れないが、わたしは懐かしい。

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イタリアの町並みの保存の良さに感心し、わたしは国内旅行しかエッセイにしていないが、海外は、日本にはもうない、遙か麗しい古い町並みが残っていて、内心は世界の国々の人の自国の文化への高い関心度の違いを感じている。

わたしは日本人だから、日本の良さを認めたいが、それでも海外では日本とは違う、眼を見張る風景や建築物があって、自分の故国だけ愛しなさいという教育は、もはや今の日本人にはもう通じないだろう。

それだけ国際化したのである。一昔、わたしの父母の時代は、渡航は若い頃、自由ではなかった。日本は敗戦し、ほんとうに貧しく、独立も危うかった。

Dsc01533_2   

わたしは、ここから、晴海埠頭へ向かう。そこで、最初に見たのは勿論、船体ではあったが、わたしがこだわったのは、右翼ではないが、日の丸の旗だった。

Dsc01588  ハンサムな男性らしき方が佇んでいたが、勿論、その方が目当てではなく、旗に注目したのである。彼は、外国人であり、偶然いらしたのである。

コスタ・クラシカが日本へ帰航したと言うことである。家族は旗を見ても何も感じないらしいが、わたしには国旗が掲げられることに、戦後生まれでも特別な思いを抱く。

GHQ占領下、日本の国旗が掲げられない時期があった。それは日本という国が今とは全然違う姿になるかも知れない、そんな不安定な時期だった。

今が良かったかどうかわからないが、独立国であることがありえたかどうか(今も蔭ではどうか知らないが)、全く推測もできない時代を経ていた。

愛国心は、いや、愛郷心は自分の国だけが良ければいいとは思わない。加藤周一氏には敬意はあるが、違う感覚も持っている。

自分も愛せる、だから人も愛したい、自分と同じく他人も同じように思ってあげようと言う気持ちが沸く。自分なんて、自分の国なんて、どうでもいいのです、そういう考え方は怖い。

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「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」

という儒教の教えの通りである。

遠くに、レインボーブリッジが見える。

甲板はどうなっているか、展望台へ上って見る。どうも見えづらい展望台である。これが、全部綺麗なただのガラス張りならと思ったが、残念である。

Dsc01606 上は、こんな風で、プールになっている。ちょっと写真では見えにくい。

ここでも旗を見てしDsc01616 まう。綺麗に、旗が翻っていないか、シャッターチャンスを待っていたが、なかなか来なかった。

なんどかシャッターを切った。

わたしたちの国が植民地になっていたら、昔の黒人の方々と同じように、今よりもっとひどい人種差別を受けただろう。時代は変わり、アメリカの大統領も白人ではない。人種差別は少しづつなくなりつつあるが、国境はなくならない。どこの国ではなく、地球という思案をみんなが持っているわけではない。

Dsc01565 Dsc01593 白人と言われる方でも素晴らしい方は大勢いるし、人種は本来関係ない。確かに白人の方で惚れ惚れするほど美しい方は多い。しかし、違うと言われる人種が悪いわけでもない。

ただ、海外へ出ると、菊の紋様のパスポートを握りしめ、初めて祖国とはどこか思い知らされることは経験がある。

どの国も良いところがあり、ステキであるが、やはり自分が多少気楽にいられるのは、生まれ育った場所だったりする。しかし、他国に馴染める方もいるし、日本より気に入る国があっても全く不思議ではない。

ただ、わたしは自分の国の言葉や文化に馴染みがあるせいか、日本にはやはり特別な気持ちを抱いて、離れる気持ちにはなれない。

ただ、世界は丸く、みんな海や陸でつながっていて、ものすごく長い年月を経て、いつか世界はみな同じ人間だと認識し、国境もなくなるかも知れないし、それでもいいのかも知れない。

だが、間違った道を行くと、戦争が広がり、人間は滅亡する。そうならないことを願いつつ、やはり国境があり、世界に憎しみや差別がなくならない限り、自分の国は大事に思わなくてはならないだろう。今回は、ちょっと自分の主観が入ってしまい、読みづらかったかも知れませんが、最後までおつきあいくださった方、ありがとうございます。


桜!桜!日本の春と一葉女史のお墓

2009年04月14日 01時18分44秒 | まち歩き

わたしは、花もちのいい日に、長い期間桜の鑑賞を楽しめまDscn5034 した。京王線沿線は穴場スポットがあります。これは、杉並区の神田川緑道です。非常に綺麗で

Dscn5036 「桜上水」からも、松本清張が住んでいた「高井戸」からも近いのです。

昔、井の頭線の電車から、清張の部屋の灯りが煌々と点っていたそうで、まだ起きて文筆か読書していたことがわかったそうです。好奇心と真実探求心を持った方だったようです。

可愛い八重桜が咲いていたり、染井吉野のほかに山桜が咲き乱れ、散ると粉雪のようでした。桜が目の前に迫って来て圧巻でした。静かな住宅街にあります。

Dscn5029 Dscn5040近所の方々が散策なさるだけのようです。

川には、ほのかにうっすらと赤みを帯びた、赤ちゃんのほっぺんのような色合いの花びらの絨毯ができていて、錦の布を浮かべたようで、見事でしたよ。

緑道を愛する方々の手入れがよく、道は綺麗に清掃、整備されていて、とても歩いて気分が良いのです。桜が開花する三月は、「夢見月」と別名で言われます。

川には錦鯉が泳いでいます。桜の花に埋もれていました。

Dscn5041

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桜の花の異名は、「夢見草」と言われます。

夢を見ているかのように浮き立つかららしいのです。

わたしは、ふらふらと歩いては、上を眺めていました。夢心地でした。

子どもが桜吹雪の中、桜の花びらを袋に集めていたり、のどかでした。               

自分は東京の人だから、地方にはもっと素晴らしいところもたくさんあるけれど、身近に憩える場所を知っているのはいいことだと思います。Dscn5068 わたしのDscn5070 住んでいる地域ではないけれど、さまざまな思いを抱いて多くの人が歩くと思うと、桜は優しく微笑んでいるような気がしてなりません。

京王線に乗っていた時、以前気分が非常に悪くなり、駅員さんに話すと、優しく医務室のようなベッドで休ませてくださったことがあり、ほんとうに感謝しています。

吉祥寺もまれに行くのですが、紹介はまたにしたいと思います。

中央線もよく乗りますが、人身事故が多く、たいへんそうです。でも、中央線沿線もなかなか楽しい場所が多くあります。

さて、ここをあとにして、樋口一葉さんのお墓のある築地Dscn5082_2 本願寺和田堀廟所に行きました。

Dscn5073桜並木のトンネルを行くと、そこに一葉さんのお墓がひっそりとあります。

標識があるだけで、小径に樋口家の墓とあるだけです。

「桜の花を手折るのは嫌いだわ。ただ眺めているのが好きだし、風流だわ」というようなことを日記にしたためていて、さぞかし、一葉さんは桜のもとで喜んでいたことでしょう。              

Dscn5079 誰かお参りに来た人がいたようで、わたしは黙って合掌しました。

ここで一葉忌はなぜかしないようです。

一葉さんはこれでたぶん幸せだと思います。ほんとうに一葉さんが好きな人は、黙ってここへ来ることでしょう。

わたしは塩田良平氏を尊敬していました。一葉研究者です。あと、一葉を認めた森鴎外も嫌いではありません。凄い方です。わたしは、鴎外ももっと多くの方が親しめばいいと思います。

Dscn5085_2 ただ、どうも文体が難しいのかも知れません。桜の花が綺麗に散っていて、なんだか一葉さんと魂が触れ合いそうな気がして、まるで親族のように愛しいのです。

桜の花びらを嬉しくてかき上げて、手に掬いました。花びらをもって、一葉さんに見せてあげたくなりました。

お釈迦様が温かく見守っておいでのようです。この陽気で、桜が4月10日まで見頃でしたもの。

一葉さんが目指したものは何か、もっと知りたいと思いました。

こうして、京王線に乗り、帰ったのです。