みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

2009年長崎紀行記~パート5 出津教会・大野教会ほか外海を行く

2009年06月12日 22時40分18秒 | 旅行記

わたしが伺った時、旧出津救助院は工事中でした。これからD30_7793 観光コースとして多くの方がおいでになる準備でもありましょう。

夕陽丘をあとにして、ドライブを進めてやって来ました。

ここは、もと授産・福祉施設で、明治16年に授産場が竣工し、マカロニ工場を建設し、明治18年に鰯網工場(ド・ロ神父記念館)を建設したそうです。

場所は、西彼杵半島の西端。

途中、子どもを遊ばせる公園があって、和やかな雰囲気で、みなさん、今は穏やかにお過ごしなのでしょうか。このあたりは、昔は非常に貧しくて、ド・ロ神父様がいろいろなことに挑戦し、住み易い場所へとお導きなさったようです。        Img_1435

これから左は佐賀と書いてある碑の傍に、ド・ロ神父記念館があり、お子さんは勿論いらっしゃらないけれど、この出津の子どもたちを非常に可愛がっておいでだったそうです。

子どもとよく草履並べをして、歌をうたっておいでだったらしく、子どもはもとより、お産で苦しみ命を落とす妊婦のために、いろいろなお産の道具や妊婦の人体模型などをわざわざフランスからお取り寄せになりました。

わたしは知識がなかったので、夥しい医療器具に圧倒されました。

コレラが流行った時、ド・ロ神父様は薬の調合までなさったりして施したり、民衆を避難させたり、面倒をよくご覧になったそうです。頭が下がるような献身でした。

仕事として、刺繍を女性に教えたりなさったのでしょう。そして、ド・ロ神父様の司祭服をフランスの姉妹の方が刺繍なさったという貴重な服も展示されていました。

土木・建築・医療・教育など、様々な分野に知識Img_1453 をお持ちだったようで、敬服しました。

シスター橋口様が、オルガンで賛美歌を歌ってくださった時、わたしはとても遠くの場所、時代を超えた異空間に来たようで、涙が知らずと零れました。懐かしい音楽です。

シスターは、オルガンを穏やかなお顔で黙って、にこやかにお弾きになり、見学を許してくださいました。

さて、明治15年3月19日創建の出津教会を右に撮影しました。

壁面は煉瓦造りで、構造は木造桟瓦葺き棟の和小屋造り。

平天井の造りは、台風の被害を避けるためでしたが、和洋折衷風で、日本人の心に親しみさを覚えさせたようです。              Img_1441

出津教会は明治24年、明治42年と二度の増築を重ねました。

鐘楼の上の聖母像と、アンゼラスの鐘はド・ロ神父様がフランスから取り寄せたそうです。

しかし、鐘は昭和18年に軍に没収されました。

わたしが思うより、壮絶な歴史があったようで、観光客にはのどかな風景にしか見えない現代ですが、著作物を読むと、いかにド・ロ神父様が大切な事業をなさってきたか、また外海の方々の苦労が偲ばれ、ここは大切な信仰の場であることを忘れてはならないなあと肝に銘じました。

さらに車を走らせ、大野教会へ。誰も来る様子のないような場所に静かに佇んでありました。

明治26年(1893年)創建。会堂部周りは、当地産玄武岩割石を漆喰モルタルで固めた特異な壁体(ド・ロ壁)を築き、その上に真束(キングポスト)を持つ木造小屋組を架けてあります。                            D30_7859

側面の窓は上部を半円アーチ形の煉瓦造り。ド・ロ神父様の建築創意がいたるところにみられるので、貴重です。

D30_7856_2 多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助氏は、ド・ロ神父様からいろいろものを教えていただいたらしいのですが、当時モルタルは非常に高価で、     D30_7865_3

石灰と砂だけで煉瓦壁の下地

D30_7861塗りをつくりなさいと指導したと言われています。

謙虚で偉大なド・ロ神父様。

肩書きは凄くなくても、生きた足跡は大きく、聖書の言葉を黙って実践した方なのだなあと思いました。

わたしでも誰でも、大きな「でんでん虫の悲しみ」があって、

一番言いたいことは言えないし、素直に正直にいつもいられず、悲しく言葉を濁すこともあるけれど、大きな慈愛の光を受けて人は生かされることもあるのだと改めて思いました。

ただ、人間はいつも孤独から逃れられず、哀しみに満ちるけれど、ド・ロ神父様はじめ、多くの方の大きな業績が、日本に人権という思想・自立という考え方を植えてくださったのだと思うと、大和民族だけで「日本」という国はあるのではなく、多くの外国人の恩恵を受けて今があることを認識せずにはいられませんでした。

ド・ロ神父様は、故郷ノルマンディーを懐かしく思われながらも、とうとう日本で亡くなられ、フランスへは戻らず、ここ出津に永眠なさっています。続く

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2009年長崎紀行記~パート4 外海(遠藤周作文学館、教会巡り)

2009年06月11日 22時34分53秒 | 旅行記

外海へドライブを始め、綺麗な紺碧の海を眺めD30_7759 ながら車は走ります。
ガイドブックを片手に、知識もないけれど、フランス人宣教師ド・ロ神父様ゆかりの地へと赴きました。

まず、黒崎教会へ

1571年にガブラル神父らが初めて布教をし、激しい弾圧の中でも子孫に伝えて来たそうです。教会の歴史はひたすら苦難を経て、1897年(明治30年)ド・ロ神父の指導のもと聖堂建設を計画し、途中資金難を克服して1920年(大正9年)ロマネスク様式の赤煉瓦聖堂が完成されました。

いろいろな方のお名前を実は書かなくては本来いけないのですが、どうも頭の整理ができていないのと、信仰に触れて失礼があってはならないので、あえて、当然わかっていることしか書くことができません。                 D30_7767

教会は綺麗に補修されていて、新しい感じがしましたが、みなさんの苦心の賜らしいのです。
マリア様がお綺麗で、教会には温かい雰囲気が漂っていました。
中は、拝見できますが、祭壇を撮影しないように苦心しました。ここで、絵はがきを購入するといいと思います。
海と山の見える小高い場所をお選びになったそうで、ここからは海がよく見えました。

さて、ド・ロ神父様は、外海、特に出津(しづ)に布教と福祉慈善事業などをなさった有名な方だそうです。
まず、わたしは申し訳ないことに、悪気はなくても仏教徒D30_7771 であり、キリスト教にあまり詳しくないことを前置きしましょう。

この神父様は、マルコ=マリ・ド・ロッソというお名前で、フランスのノルマンディ貴族の末裔だったそうです。しかも富豪でした。
最近、白洲次郎氏ブームで流行った言葉、カントリー・ジェントルマンのようなお家柄だったようで、大農園を経営なさっていた傍ら、ご両親は子ども達に様々な職業的な実技を仕込んだそうです。ご自分で何でも職人のようにできるお子さんで、ただのおぼっちゃまではなかったのです。

                                     D30_7776                                    
フランス語には、「ノブレス・オブリージュ(高貴な者にはそれにともなう義務がある)」
という言葉があり(お詫び:訂正・・・森禮子氏の著作の言葉より引用)、貴族の師弟は国家社会に奉仕するため、聖職者か軍人になる訓練を若い頃から躾けられていたらしいのです。

お写真で拝見すると、ほんとうにお美しいお顔建ちで、惚れ惚れしてしまうような綺麗な方だったことでしょう。
この方は、布教という大きな使命を帯びて、こんな果ての日本までおいでになったのです。

わたしはやがて、「夕陽が丘そとめ」という場所で一休みImg_1426 しました。

下に見えていたのは、遠藤周作文学館で、わたしはキリシタン弾圧と聴くと、卒倒しそうになります。あまりに美しい景色に心奪われ、よく日本人は「松島」の眺めが素晴らしいと言うけれど、ここはほんとうに悲しいくらい綺麗で、そうそう知って来る方もそうまだ多くいない雰囲気でした。

わたしはキリスト教の深い奥義はまだわからないので、貧窮し病気で苦しんでいた出津の方々の救済に私財をなげうって全生涯を捧げた方という敬意をこめて、ド・ロ神父様は軽くご紹介するに止めます。右が、遠くから拝見した出津教会です。

遠藤周作の本も、実は話題が重く、読んだ本は限られImg_1427 ていましたが、せっかくなので、立ち寄り、見学させていただきました。

「フランス人はホロコーストを行ったドイツ人を嫌いつづけるだろうか・・・」という内容だったか、とても重要な手記があったのに、時間の関係でゆっくり判読していられませんでした。

肩にずっしりするものを感じたけれど、ドライブインに入る方々は割と軽快な足取りでした。

わたしは、長崎の方々に複雑な気持ちがあるとすれば、理解できないと思います。神道や仏教しかなんとなく知っていない人間には、カクレキリシタンやほんとうのクリスチャンの方々の深い意味での信仰の篤さは、やはり理解できると思う方が不思議な気がします。

遠藤周作の碑がありました。ここに刻みつけられている言葉はどの本に書いてあるのか知りたかったのですが、本にはないそうです。どうか、異教徒でここの記載に失礼がありましたら、お許しください。

「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

自分が仏教徒であるとここで言うことが重たすぎて、申し訳ないようで、こんなに辛かったのは初めてです。海の碧さに、魅了されながらも、心の中はしとしと小雨が降っていました。続く

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2009年長崎紀行記~パート3 三菱重工業造船所史料館

2009年06月08日 21時54分21秒 | 旅行記

わたしは、三菱重工業造船所史料館へ見学に伺いましImg_1382 た。

とても印象に残ったのは、鬼畜米英と言われていた第二次大戦近い時に、この長崎でアメリカの映画を上映したことです。あとで、ご紹介しましょう。

三菱家と渋沢家はよく比較されますが、わたしはどちらがどうかはよくわかりません。しかし、三菱は結束が強いなあと言うのが感想です。

玄関前はこんな感じで、あの有名なマークと建築年明治31年が刻まれています。ここで、戦時中、戦艦「武蔵」が建造されていました。

わたしは、よく日本人で、北朝鮮と昔の日本はそっくりだったという方がいるけれど、戦時最後はそうだったかも知れないけれど、軍部に独占されて狂気になる前はちょっと違った雰囲気だと思いますよ。

そういうと怒る方もいるかも知れないけれど、わたしは船のマナーを見聞きするにつけて、海外へ留学し、上流の外国人とも交流し、きちんと教養Img_1391 必要な軍事知識を得た将校さんが、ただ威張りくさって、竹槍で外国人と戦って無理だということを一番知っていたと思うのです。

わたしは、黙って戦艦「武蔵」の進水支網切断の斧と支え台を拝見していました。戦前は、海軍戦艦の進水では所長が支網切断をするのが慣例となっていました。こういう細かいマナーをきちんと守っていた礼儀正しい軍人が、ただ野蛮で残虐な人物だと想像できないのです。

これは、日本人だからえこひいきをするのかも知れませんが、まだ山本五十六や東郷平八郎など、多くの海外留学生らが生きていた時代は、狂気の軍人とは思えないのです。ほんとうにごめんなさい。(被害を受けた方々へ)

戦艦「武蔵」の支綱を切ったのは、小川所長で、右の板に斧のあたった跡があります。

1938年3月29日に起工し、1940年11月1日進水。

1942年8月5日に呉にて竣工。日本が建造した最後の戦艦です。1943年2月12日連合艦隊の旗艦となりますが、この間に連合艦隊司令長官山本五十六が戦死します。

船の生活は節制が厳しく、Img_1384_2 戦艦が沈むときは船長は最後まで残るそうで、そういう意味では実に痛ましいことでもあります。1944年にシブヤン海にて沈没。かなり奮闘したらしく、連合国軍には戦艦「大和」攻撃への警告にもなったと言われます。(日本から見れば・・・すみません)

軍艦島に似た戦艦「土佐」の写真がありましたのでありましたので、ご紹介しましょう。わたしは軍国主義を鼓舞するのではなく、こういう時代もあって、戦うときはこうであったという事実だけを述べています。

アニメでも有名になった名前の戦艦「大和」の写真もご紹介しましょう。これは、戦艦「武蔵」の弱点をさらに補ったのに、残念ながら(・・・ごめんなさい)航空機の前に殲滅しました。

Img_1387日本軍があのまま勝っていたら怖かったという日本人は大勢います。

ただ、本気で自分の国を守ろうと思って出向いた方々の気持ちを思うと、教育と世界情勢への配慮のなさ、指導者のふがいなさなどが心に浮かび、眼をふせてしまいたくなります。

これだけの船を製造できた技術国が、違う意味で国際貢献できたらどれほど素晴らしかったことでしょう。今後の教訓にするしかないです。

ただ、日本人としては亡くなった方のご冥福を祈ります。

そうそう、三菱会館では、昭和13年アメリカのユニバーサル映画「天使の花園」が上映されていた証がありました。この写真を拝見して、この時期までまさか日米開戦が起こるとは、民間人は誰も思っていなかったのです。開戦、これこそ、悲劇でなくてなんでしょう。

Img_1395 Img_1396

ほんとうは日米仲良くいたのでした。これが昭和13年までのことです。この時まで「鬼畜米英」などと言うはずもなかったのです。

わたしの母親は都会にいて、ドイツ人だかフランス人だかの方々に着物姿を「可愛い」と褒められたことがあったそうで、祖母も教会へ遊びに行き、外国人神父様を別に怖いとも思っていませんでした。

第二次世界大戦は、地方の方が思うほど怖い人種が相手などと思っていた日本人はそう多くなかったのです。だから洗脳教育というのは怖いものです。

今は時代考証も変わり、日本が一方的に悪かったImg_1398 ことになっています。ほんとうにそうであるかも知れないけれど、どうしてそうなったか、もう繰り返さないようにしないといけないと思います。

ただ、律儀で礼儀正しく好奇心旺盛な民族とザビエルが見た日本人が、凶悪な民族へ変貌してゆくのはほんとうに遺憾であります。

今後日本は、軍国主義ではなく、平和のためにその技術を生かしてゆく必要がありましょう。

そう思って、三菱重工業造船所を後にしました。続く