わたしが伺った時、旧出津救助院は工事中でした。これから 観光コースとして多くの方がおいでになる準備でもありましょう。
夕陽丘をあとにして、ドライブを進めてやって来ました。
ここは、もと授産・福祉施設で、明治16年に授産場が竣工し、マカロニ工場を建設し、明治18年に鰯網工場(ド・ロ神父記念館)を建設したそうです。
場所は、西彼杵半島の西端。
途中、子どもを遊ばせる公園があって、和やかな雰囲気で、みなさん、今は穏やかにお過ごしなのでしょうか。このあたりは、昔は非常に貧しくて、ド・ロ神父様がいろいろなことに挑戦し、住み易い場所へとお導きなさったようです。
これから左は佐賀と書いてある碑の傍に、ド・ロ神父記念館があり、お子さんは勿論いらっしゃらないけれど、この出津の子どもたちを非常に可愛がっておいでだったそうです。
子どもとよく草履並べをして、歌をうたっておいでだったらしく、子どもはもとより、お産で苦しみ命を落とす妊婦のために、いろいろなお産の道具や妊婦の人体模型などをわざわざフランスからお取り寄せになりました。
わたしは知識がなかったので、夥しい医療器具に圧倒されました。
コレラが流行った時、ド・ロ神父様は薬の調合までなさったりして施したり、民衆を避難させたり、面倒をよくご覧になったそうです。頭が下がるような献身でした。
仕事として、刺繍を女性に教えたりなさったのでしょう。そして、ド・ロ神父様の司祭服をフランスの姉妹の方が刺繍なさったという貴重な服も展示されていました。
土木・建築・医療・教育など、様々な分野に知識 をお持ちだったようで、敬服しました。
シスター橋口様が、オルガンで賛美歌を歌ってくださった時、わたしはとても遠くの場所、時代を超えた異空間に来たようで、涙が知らずと零れました。懐かしい音楽です。
シスターは、オルガンを穏やかなお顔で黙って、にこやかにお弾きになり、見学を許してくださいました。
さて、明治15年3月19日創建の出津教会を右に撮影しました。
壁面は煉瓦造りで、構造は木造桟瓦葺き棟の和小屋造り。
平天井の造りは、台風の被害を避けるためでしたが、和洋折衷風で、日本人の心に親しみさを覚えさせたようです。
出津教会は明治24年、明治42年と二度の増築を重ねました。
鐘楼の上の聖母像と、アンゼラスの鐘はド・ロ神父様がフランスから取り寄せたそうです。
しかし、鐘は昭和18年に軍に没収されました。
わたしが思うより、壮絶な歴史があったようで、観光客にはのどかな風景にしか見えない現代ですが、著作物を読むと、いかにド・ロ神父様が大切な事業をなさってきたか、また外海の方々の苦労が偲ばれ、ここは大切な信仰の場であることを忘れてはならないなあと肝に銘じました。
さらに車を走らせ、大野教会へ。誰も来る様子のないような場所に静かに佇んでありました。
明治26年(1893年)創建。会堂部周りは、当地産玄武岩割石を漆喰モルタルで固めた特異な壁体(ド・ロ壁)を築き、その上に真束(キングポスト)を持つ木造小屋組を架けてあります。
側面の窓は上部を半円アーチ形の煉瓦造り。ド・ロ神父様の建築創意がいたるところにみられるので、貴重です。
多くの教会堂建築を手がけた鉄川与助氏は、ド・ロ神父様からいろいろものを教えていただいたらしいのですが、当時モルタルは非常に高価で、
石灰と砂だけで煉瓦壁の下地
謙虚で偉大なド・ロ神父様。
肩書きは凄くなくても、生きた足跡は大きく、聖書の言葉を黙って実践した方なのだなあと思いました。
わたしでも誰でも、大きな「でんでん虫の悲しみ」があって、
一番言いたいことは言えないし、素直に正直にいつもいられず、悲しく言葉を濁すこともあるけれど、大きな慈愛の光を受けて人は生かされることもあるのだと改めて思いました。
ただ、人間はいつも孤独から逃れられず、哀しみに満ちるけれど、ド・ロ神父様はじめ、多くの方の大きな業績が、日本に人権という思想・自立という考え方を植えてくださったのだと思うと、大和民族だけで「日本」という国はあるのではなく、多くの外国人の恩恵を受けて今があることを認識せずにはいられませんでした。
ド・ロ神父様は、故郷ノルマンディーを懐かしく思われながらも、とうとう日本で亡くなられ、フランスへは戻らず、ここ出津に永眠なさっています。続く