みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

京都新緑旅行記パート2酒蔵のある伏見の街を行く(続き)

2013年06月20日 10時00分00秒 | 旅行記

寺田屋の門の奥には、第一回寺田屋事件で、公武合体派の島津久光による革新的尊王攘夷派の薩摩藩士鎮圧の時の殉死の方々の慰霊碑があるそうであるが、閉まっていた。有栖川宮の筆による。殺されかけて生き延びた薩摩藩士は、明治になって要職についている。

 

寺田屋事件は二度あり、さらに伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件がある。

現在の寺田屋は、再建であり、実物は鳥羽伏見の戦いで焼失した。

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薩長をむすびつけた坂本龍馬は偉かったというのを否定する気はないが、会津藩と縁があるのかと叩かれ続けた人としては熱狂的にも受け入れていないまま、淡々とした目を持っている自分がいた。 

しかし、NHKの「龍馬伝」は見て、福山雅治の演技も良くて、描き方に好感が持てた。 

個人的に、あれこれ雑音を気にしなければ、「同じ日本人だから今更何も言わない」というのが自分の信念である。

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伏見は、月桂冠の大倉記念館で生水をいただくと、ほんとうにやわらかくて水がおいしかった。灘の男酒、伏見の女酒と言われる。

 月桂冠の方は親切で、入場料を払うとお土産にお酒をくださった。 利き酒も無料で、吟醸酒はおいしい。記念館は見応えがあって、上品な酒蔵であった。 

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昭和天皇の何かのお祝いにお酒を奉納したと言う立派な写真があった。 

しかし、月桂冠の方は腰が低く、丁寧で品があったので、感心した。 

この時、ここに来て良かったと思えた。

 

十石舟に乗ったために、閉館間際に伺い、ゆっくりと見学できなかったのは惜しまれる。

酒屋の杉玉は、奈良の大神神社からいただくのだと、何かの本で読んだ。

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街をぶらぶらと歩いて、黄桜の蔵元へ。しかし、蔵の見学はできずに、閉館されていた。

河童の夫婦の漫画で有名になり、資料館で絵を楽しむ。

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Dsc04569_2街を歩くと、会津の駐屯所跡、土佐藩邸の跡、いろいろと説明の看板があった。

歴史は皮肉である。

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こうして、曾孫の私がこの町を平和になって歩いている姿を、曾祖父は想像できただろうか。けして、幕府がたいへんな悪と言うわけではなかったけれど、時代は大きく私の小さな頭に入れないほどの思惑や深慮が働き、動いていく。

あるいは、宿命というものもあるのだろうか・・・。

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それから、薩摩の大砲があったと言う御香宮神社へ向かう。 

伏見桃山時代の絢爛豪華な装飾的な色合いが美しい。 

ここに、薩摩藩が陣を取ったと思うと、理由もなく、この場所に茫然と佇み、寂寥感に襲われた。

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鳥羽伏見の戦いで、伏見も戦場になり、幕府滅亡の決定的なものになる。 

私は以前なら、解説したかも知れないが、今はできない。 

 

私は無知でこの時代には疎く、私以外の方でご存知の方は多いと思うものの、関連本を少し読んだ。

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もう日本人同士殺し合ったり、傷つけあったりするのはやめよう。 

いつかこの言葉が世界平和にも通じる言葉、同じ人間同士傷つけあうのはやめようと言いたい。 戦闘よりも話し合いを進め、外交で国同士つながりたい。

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今は静かでお酒のおいしい穏やかな土地が、戦場でまみれた過去を忘れまい。

 

もう二度と日本人同士、闘わないようにと。 

世界でも同じだ。戦争で敗戦した国は惨めだ。憎しみの連鎖はなくしたい。

心の中で呟いて、暮れた御香宮神社を後にした。

後香宮神社の安土桃山文化の装飾の色合いが見事であったのを心にとめた。

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「京都新緑旅行記パート2~酒蔵のある伏見の街を行く」

2013年06月20日 09時35分07秒 | 旅行記

 私にとって、行く前は、伏見は血の騒ぐ場所で心穏やかにはなれなかった。十石舟が河を滑るように通り、乗船してみて、川からの岸辺の風景を眺めた。

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私の血には少し会津若松の血が入り、曾祖父は戊辰戦争で亡くなった。 

だが、ほかの血も流れているわけで、三代東京人である。 

一方の祖母は生粋の東京人で、そちらの曾祖父は昔から江戸にずっといたと言う。 

縁はあっても福島は故郷ではない。

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「伏見の由来は『伏水』だとする説がある。文字通りの伏し水、伏流水である。

注ぎ込む水は無数の細流に分かれ、田圃に引かれ、池や沼に満ち、入江や沢に溢れ、地下でも飽和して滲み出し、湧き水・溜まり水になって至る所に偏在した。

河流のあたりは一面に草の生い茂る湿地帯である。

ウズラの名所だった深草の里もこの近くだ。

この地に営まれた貴族の別業は水景に臨んだ山荘であり、人々が足を延ばして観月や狩猟を楽しむ近郊の別天地だった。

・・・(途中略)・・・中世以後は、伏見宮家の荘園として長く相伝された。

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番外編:江戸時代の高瀬川工事について。慶長16年。

角倉了以と息子素庵による。

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この里の景色を一変させたのは豊臣秀吉の大土木工事である。文禄4年(1595)、伏見桃山城にともなう長大な堤(太閤堤)が築かれる前は、宇治川は巨椋池に流入していた。

・・・(途中略)・・・・

秀吉は、宇治川左岸に堤(宇治堤)を築いて川の流れと巨椋池を切り離した。宇治川は独立河川に変わり、さらに下流の淀との間にも堤(淀堤)を築いて伏見を整備した河港とし、大阪への舟運ルートを作りだした。

・・・(途中略)・・・・大阪と京都は伏見経由で最短距離で結ばれるに至った。」

(参考;野口武彦「鳥羽伏見の戦い」中公新書)

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御香宮神社に佐藤栄作元首相の碑があり、読んでいて辛いものがあった。

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何も、歴史を恨み、違ってほしいと言うのではなく、日本人同士の血が合戦で無残にも流れたことを嘆くのである。

 

しかし、伏見は酒蔵で有名であり、月桂冠・黄桜の醸造元を巡った。 

また、現代人として冷静に寺田屋や御香宮神社まで見学したのあった。

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戊辰戦争は壮絶だった。

確かにあそこで日本は大きな転換がなかったら、あの近代国家ができていないで、日露戦争には準備が間に合わなかっただろう。

 

家族は、吉田松陰を幼い頃尊敬していたと言う。 

私はどこかひっかかりがあり、勉強は不足しているが、今は少ずつ知ろうとしている。 

水戸へ以前出かけて、吉田松陰の東北への遊説のことを知るようなことがあった。

 

こういう複雑な気分を持っている中で、寺田屋を見学する。

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京都新緑旅行記パート1伏見稲荷(続き)

2013年06月12日 12時00分00秒 | 旅行記

見晴らしの良い場所に出ると、その先まで行く方はそう多くはいないのですが、今回お山を巡ってみました。

坂が多くて、結構疲れます。

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塚がいくつもあって、非常に摩訶不思議な空間です。

稲荷は「イナリ」と言って、語源は穀物のことらしいのです。

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専門書などを読むと、韓国語まで出てきて、いろいろ解説されていますが、要するに日本には昔から渡来人が多くて優秀な彼らに従った民衆は、その豪族の祀った神を崇拝していました。

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朱塗りの鳥居は、今はただのペンキの色かもしれませんが、昔は高価な色であったと推定します。

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仏教では女性は不浄であると教えられ、因果応報の縁から抜け出せず、苦しんだ民衆は稲荷権現さんに願いを立てて、悪しき因果から解き放たれて救ってくださいと願いました。

それはかなうとされましたし、稲荷権現は怒りに触れると祟る神でもありました。

もともとは秦公伊侶具(はたきみいろこ)が驕って、弓の的に餅を使って射ったところ、白鳥になって飛び立ち、山の峰にたどり着くと、「伊禰奈利生(イネナリオ)」いた、とだけ記されていました。

つまり、思案するに、白鳥の降りた所に稲が生えた、と言う意味に取れます。

伊禰奈利(イネナリ)から、「イナリ」へ。

さて、驕っていた秦氏は、これを悔いて、秦氏の子孫は稲荷山のお社の木を抜いて、家に持ち帰って、植え直して御祀りしました。今でも、その木を植えて地に根づけば吉、枯れれば凶とします。

参詣者がお社の木(験の杉)の枝を家に持ち帰って祈願したのが、信仰習俗の由来のお話になると言います。

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稲荷神社の「朱の鳥居」は、まず鳥居は「雷神の使いの鳥を止めるための止まり木と言われる」し、「朱」は「あけ」つまり「明け」=太陽で、生命の始まりの力の象徴で、また、丹塗りは、炎の色です。

稲荷山のお塚信仰というのは、「塚」というのが、もともとは神蹟と称される神祭りの場のことであることを前提としています。

京都伏見区深草のあたりは早くから稲作地帯として開発されました。

深草に倉がたち、秦氏は稲荷信仰と田の神の信仰を同化したと言われます。

農事の始まりに狐が同時期的に山から降りてくる時期と偶然一致したため、山の神(オオカミ=大神)が狼となり、稲荷社の弮属たる狐神のこととしたとも言います。

覚束ないメモから書いたことで、分かりにくくて申し訳ないのですが、「稲荷信仰事典」8山折哲雄・編)戎光祥出版を参考にしたもので、うまく説明できていなくて申し訳ありません。気になった方は、ご確認ください。

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なお、大和岩雄さんが述べるには、狼は田の神が山に帰ってから出没する(時期は冬)ので、これは違うでしょうと述べ、白い狐は白い鳥(白鳥)にかさねあわせて、人間が何か目に見えるものを神の姿と安心したいがゆえに狐を呼び出し、実際は鳥から連想される「羽振る」=「葬」からお塚信仰になったのではないかとも思案されます。

この山を本気で信仰なさっている方は、1日に毎回参拝するそうです。

多くの塚の中に、御自分が大事にする、決まった塚があるそうです。

迷路のような鳥居を巡っていると、なぜか方向感覚が鈍って来て、どちら周りかわからなくなって、狐につままれた気分になります。

実際、この日は「狐の嫁入りの日」で、晴れているのに小雨が降り、なんとなく、妙な気分でした。

鳥居を最初から最後まで離れることなく、お山を登る時は重い足取りが、下る時は肩の荷が下りました。

女性は憑き物がつきやすいので、鳥居から離れないようにと地元の人が教えてくださいましたから、下り終わってほっと安堵しました。

見稲荷に限らず、秦氏のゆかりの神社はほかにもあり、神社の起源を探れば、そこには大陸との関係が見え隠れします。

日本が元寇で、国民一丸となって闘う必要ができて、「神の国」という思想が生まれてきましたが、もともと神道は一言で説明できるようなものではなく、大和王権に負けた豪族すらも祟らぬように祀る要素があり、複雑に時代時代の情勢を反映した宗教だったように思えました。神は同じ名前の神様ではなく、多様なのは、多くの文化圏を受け入れてきた日本の国の在り方にあるようです。

私個人の感想は、鳥居をくぐるたびに、何か洗礼を受けているようで、ここが信仰の場であることをいつも念頭に置いて、お山めぐりをしていた感じです。

伏見稲荷大社の宮司さんが、稲荷信仰のあることは、朝鮮半島ともつながりが深くて、神道が国粋主義ではなく、実はとても国際的な場所であると、本で仰せでした。

また、鍛冶屋の信仰を稲荷大社は集めていて、能の「小鍛冶」などに、そういう影響を受けたものがあるといことらしいです。

わたしは、お塚の要所で、蝋燭の火を点して、こうして伺えたことに感謝の念を祈りました。

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続く。


「京都新緑旅行記パート1~伏見稲荷大社」

2013年06月12日 11時45分44秒 | 旅行記

  私は、長い間京都へ旅しながら、伏見稲荷には行ったことがありませんでした。 

今回はみなさんに馴染みがあって、たぶん多くの方がもう訪れておいでの伏見稲荷を振り返ってみましょう。

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古代民間祭祀として、古代王権祭祀と対極をなすことを、大和岩雄氏が述べておいでで、著作があります。

大和氏は、青春出版社の創業者の方と言えばいいでしょうか。

古代史研究家でもあり、いわゆる学説とは違うようですが、参考になります。

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まず、伏見稲荷大社は、高天原の神(天照大御神を祀る大和王権の天つ神=現皇室)に対して、葦原中国の神(天照大御神ほか従属する神をまつらない国つ神=旧豪族)のほうです。

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今と昔と神道は随分内容が変わっているのをご存知でしょう。

 

「神道とは何か」というちょっと難しい本を読んで、全部理解したわけではないけれど、日本では神道は仏教と融合していた時代があり、それから明治に入って国家神道になって廃仏毀釈されて、形式は様変わりしました。

 

今は、神社も仏教も昔の歴史をひも解くのが赦されていますが、時代時代によって、宗教の内容も変容していることを念頭に置く必要があります。

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Dsc04320荷田春満旧宅と一緒に公開されていたお茶室正面玄関先。

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伏見稲荷大社にいた荷田春満(かだのあずままろ)と言う国学者の旧宅や、お茶室が公開されていました。素晴らしく立派で、お茶室は必見ですが、写真撮影は禁止されていました。宿坊には襖に棟方志功の絵画が描かれてあったり、閑静なところで、庭の手入れも行き届き、蛙が遣り水で泣いていたりしてのどかな上、品のいいところでした。 

思った以上に植えられた樹木も多く、落ち着きます。

 

荷田春満は、伏見稲荷大社の社家の東羽倉(荷田)家に生まれます。

 

元禄・享保年間に、中世的な和学の中から近世国学を成立させた人です。 

特に、和歌の中から日本の心を見出そうとして、和歌の普及と研究に尽力し、国学者として初めて神道・国史・律令・文学を研究する国学の学校を創設するように幕府に働きかけた人物です。しかし、明治になるまでは実現しませんでした。(明治には、皇典講究所<今の國學院大學>が設立された)しかし、彼の研究は後世に功績を残したと言われます。

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それにしても、お稲荷さんとは、お塚(古墳)の上に稲荷社を祀ったものがほとんどのようです。 

信者さんは、御自分の決まった塚に参詣しています。 

私は、稲荷信仰をしていると言いながら、実は実態をよく知らないでいました。

 

両親が、その親から受け継いだ参拝の習慣をそのまま受け継いで、郷愁を誘われるように足を運ぶのでした。

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伏見稲荷は、渡来人の秦氏(朝鮮半島の人)が祀ったところです。

 こちらの古墳の被葬者は、秦氏ではないものの、信仰の対象となりました。

 多くの先進技術を日本にもたらした豪族です。

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さて、伏見稲荷の私個人の感想は、鳥居の中をくぐって行くと、まるで神様の体内を巡っているようで、血管の中を歩む様な、不思議な気分になります。

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