広島女一人旅
場所(地域) 広島
場所(詳細) 厳島神社
時期 2002年10月22日
ワンポイント 平和学習と、観光
「広島ひとり旅」
紅葉狩りをするために、安芸の宮島へ参りました。 夜のライトアップが海面に映えるそうで、それにも心惹かれながら、友人の薦めもあって、広島のプリンスホテルに夜は宿泊しました。夜は、大きな窓から月を眺めて、ぼうっとかぐや姫のように夜景を眺めていました。夜の帳が下りて、小舟が汽笛をぼーっと鳴らして穏やかな内海を通っていました。
あれはたぶん、海上自衛隊の警備船ではないかとぼんやり静かな夜のしじまの中、思いを寄せていました。静かな夜、それは平和な時間でした。月光が海のさざ波に長く金色の裳裾のようにゆらゆら煌めいていました。
その日、わたしの弟が学生時代に宮島には秋の紅葉の頃に山に登って感動した話を胸に秘め、宮島は展望台に登るように勧められた通り、行こうと決心していました。
本心を申しますと、厳島神社は明らかに過去の遺産という感じでしたが、建築物の作りを眺めていますと、昔の人の心を込めた想いも伝わって来ました。
わたしは、航空機を下りて、広島へ入り、広島原爆資料館を見学しました。何もよく地理を理解しないまま、平和記念公園を訪れたわたしには、原爆ドームは想像していたものより、はっきり申しますと、実にスケールが小さなものでした。
これは個人の感覚ですから、わたしが鈍感なのかも知れないのですが、修復中ということもあり、船の骨組みのような痩せこけた感じの建物が歴史的な建造物に指定されていることが、実際目にすると違和感がありました。これは、現在の都会の超高層ビルを見慣れた人間の感覚なのでしょう。
ただ、原爆資料館で一面焼け野原になった模型を眺めた時に、これ以外はもう何もない広漠とした殺伐とした光景で、ここで大勢の人が苦しみもがいていたんだと確認することで、よくここまで今広島が近代的に復興できたなあと感心しました。草も何年も生えないだろうと言われていた街で、今は植物が生い茂り、商店街やデパートが ひしめきあっているのです。現在の日本が不景気とはいえ、あの時の時代を生き抜いて来た人から見れば、どんなに良い時代でしょう。
平和記念公園は、今年原爆投下の日に政府関係者を招いて花を捧げられた場所まで行きますと、「え?こんなに小さな場所だったのかしら」というショックと、のどかに鳩が餌をついばみ、綺麗な可愛い像の建ち並ぶ、あまりにのどかな、何もこれと言って驚きはないところで、千羽鶴を折って公園中に飾ってみたい衝動に駆られました。今は、ふつうのどこかにある公園のようでした。テレビで映し出されて、広島市長がなぜあんなに怒ったのか、今の若者には理解できないだろうと、ふと思ってしまうほど、のどかすぎていました。
原爆資料館をつぶさに眺めると、井伏鱒二の「黒い雨」や様々な平和学習で読書した、あの凄惨なイメージとは違うこぎれいな展示室でした。黙祷室で、 淡い壁面の絵を眺めながら、誰も来ない空間で「行ったら、衝撃がひどいだろう。見たくない」というほどではなく、ここでなくても今のテレビ番組のほうがずっと迫力があると思わせるもので、わたしの心は空虚になって参りました。
死体が累々と重ねられ、焼けただれた皮膚がはがれて、黒い人影が見られる、妖怪まがいの人間像。そういう視覚では再現したくない映像はなかったのです。写真が奥のほうにあり、隠されて設置されていたようで、なんでこういう世界でまたとなく悲惨な光景がまるで見ないように工夫されたかのようにあるのか、怒りがこみ上げて来ました。
誰にむかってか、それは戦争の現実を抹殺するかのような事実についてです。日本人は、自ら行った朝鮮人強制労働や大虐殺、沖縄の人々の自決をそれほど全面に出さない代わりに、自ら被害者として世界に例のない、残虐な大量殺人をされながら、自らその過去を封じ込めていることに、ここはいったいどこの国なんだろうという怒りと屈辱と、非を黙認して消そうとする気持ちが混在する複雑な構図に、わたしは身の毛がよだつのでした。広島平和記念公園を見学して感じたのは、「ここはいったいどこの国なんだ」という思いでした。子供がここを訪れて、怖いという印象はそれほど受けまい、世界の人々にももっと見ていただきたいことがある、これが正直な感想です。
原民喜の手記や、おぼろげながら昔読んで知った人の名前を確認し、展示室の細かい道具をほんとうに目を皿にして見て、見知った名前を本で確認しないと、平和学習にはならない、と確信しました。
長崎で、神谷美恵子さんが「なぜわたしでなくてあなた方なんですか」とハンセン病患者さんに向かって叫んだように、信仰篤い長崎だからこそ・・・・と胸にたたみ込んだ気持ちで被爆者が過去をのみこんで堪え忍んだ、これはおそらく恐ろしい屈曲した感情で、日本人が復讐だとか怒りの拳を間違った方向に持っていかないための気持ちでしょうが、暴力を暴力で向かう非情さをふさぐ気持ちに、永井隆先生のような「この信仰篤い長崎に」という言葉があったのでしょう。そういうやりきれなさを、「人間の不条理」として認識していただくために、破壊的なショック(これは原爆投下は世界であってはならないという大前提)を緩和するため、ここに感想を書きます。美しいものを美しいと思うように、恐ろしいものを恐ろしいと思う気持ちは大事にしたいのです。
マスコミで報道されていますが、昔から戦闘状態になって治安が乱れると、どこの国の
兵士も犠牲になったり、逆に加害者になったり、血迷ってしまった市民も暴動を起こしたり、強奪・強姦など、あらゆることがどさくさになって起きます。それは、日本の国だけではありません。至る国にもそういう歴史があります。日本は敗戦したのです。
広島はイギリス領でした。そして、最近知ったことで恥ずかしいのですが、女子パウロ会のシスターの優しさにより、カテドラル教会聖マリア会堂へ伺って、東京大司教区とケルン大司教区の友好50周年記念の冊子をいただきました。あの広島の世界平和記念聖堂にドイツの多大な援助があったそうで、そういうことが世間にもっと広まらないのはなぜだろうと、不可解な気分でした。
わたしは、教会のステンドグラスに心惹かれるのです。それは、わたしが一時画家になりたいと思ったたせいかも知れません。教会の聖歌隊にも心惹かれるのです。音楽と絵画に非常に興味があるからです。
だから、沈黙して教会の中にいるのはたいへん心地よく、安らぐのです。佐久間彪先生の「預言者」という詩を読まなければ、心の潤いも宗教に感じなかったかも知れません。
人との出会いというのは、不思議なものです。
わたしが広島に行こうと思ったのは、大江健三郎さんの「あいまいな日本のわたし」を読んで、決心しました。大和魂は、軍国主義のスローガンだったらしいのです。わたしは戦後生まれでよく知らないことです。
わたしが知っているのは高度経済成長期であり、テレビがカラーになったということで、もう電話は当たり前にありました。狭いながらも楽しい我が家で、日曜日は家族団らんで、稀に祖父母の家で明治や大正時代の香りを嗅ぐことがありましたが、 家には軍事に関するものは全くありませんでした。古くさいものは、大きな振り子時計と神棚と仏壇と線香と、三味線と大黒柱と、茶釜と畳でした。
三井文庫で、お雛様の飾りを見学しました。お顔が端正でこじんまりとして、白皙のお顔に柔和な笑顔が上品でした。こういうのを「雅やか」というのであり、恐ろしい戦いや血なまぐさい匂いはありません。いつから日本は変わっていったのでしょうか。わたしにはよく理解できず、把握できないで、大正時代の浪漫で精神的なイメージの中に漂っています。戦後生まれであることの感謝が沸きます。
さて、広島は市街へ出て、安い寿司屋にランチのため寄りました。鮨職人と店の常連がうわさ話を展開していました。
「厳島神社で万札入れる人間がいるんだとさ」
「へー。そうれは豪勢な。この時代にな」
「目の前で入れているのを見たら、俺なら拾ってかえるわな」
そういう類の話で、鮨のネタはそう期待したほどではないが、うらさびしい観光客の来ないようなふつうの駅ビルの寿司屋で、気のいい職人と口でなにやかや言ってもそうはしない平凡な客の軽い話題でした。
不況のつらさが、会話から滲み出てきて、どこの店でも連れとの会話はこういう今の不況を不安と失望で嘆くものが多いようです。
聴いている自分も、一生に一度は宮島の紅葉を、と願っての旅で、財布の底をはたいて観光しました。複雑な心境です。
宮島へはフェリーで海を渡りました。天候は非情に良好で、青空は広がり、海は空を反映して紺碧です。潮風が頬をなでて心地よい。
ブロンドの女性と日本人の女性が英会話を繰り広げて観光をしていました。日本人女性の英会話は発音が美しい。ソニーのビデオを回していた。手軽そうだ。やがて、厳島神社の朱塗りの鳥居が見えて来ました。昨年修復されました。
船着き場を下りると、すぐ傍まで鹿が座っていたり、とろとろと歩いていました。
優しい瞳が子鹿のバンビのように可愛らしい。観光客慣れしておとなしい。海は引き潮時で、 砂浜のようになったところを観光客が歩いていました。神社の目の前は海です。今は鳥居のあたりまでしか水はない。建造物に近づくにつれて、回廊が長く朱塗りで続いているので、やっとここまで来たという感慨に浸りました。神社入り口には白馬の木製がある。これは、神仏習合の印だと何かの本で読みました。
宮島の展望の看板には、平清盛は海運と貿易で国が栄えるように海洋民俗のシュメール人の用いた印を用いて、いろいろ策を練っていたらしく、その名残りがあるらしいのです。
詳しくは理解していないので、破れた平家は歴史上は悪人のような「奢れる者」であったが、史実は今となっては勧善懲悪とすぐならないものなのでしょうか。
神社の回廊には灯籠がぶら下がって、静かに歩んでいくと、鏡が池と呼ばれるしゃもじのように柄がついた丸い池が正面右手の回廊の途中にありました。ここで、公達は、池に移った月を鏡のように眺めて、水面に妖しく揺れてちろちろとさざめく金色の光の円を眺めて管弦の調べでも演奏して視覚と聴覚と、さらには香でも燻らせて、五感でこの世の生きているはかない生命を慈しんでいたのでしょうか。月にいる兎が不老不死の薬を作っていると半ば信じていたのでしょうか。
正面には能舞台があり、海の見える舞台で雅楽を舞っていた方々がいて、大勢の人が見学して楽しんでいました。
わたしは、あの古典的な音楽が耳に心地よくて、東儀秀樹さんのファンで、一番辛い時期に東儀さんのCDをずっと聴いていました。
わたしは、東儀さんの古典的な調べのほうが好きです。「君が代」は、音楽だけがいいと思います。どの国の音楽も、歌詞は恐ろしく戦闘的だったりしますが、音楽だけで聴くと、そういう、自分は天空へ舞い上がって、ただ丸い地球を見ているのがいいと思ってしまいます。
禅宗の達磨は、実は瞳が青かったと円覚寺の古い書に書いてありました。そして、去年拝観した時、僧侶が重要文化財の江戸の建築物の中に、実は瑠璃色の球が入っているのですよ、と話しておいでて、そうかあと納得しました。
達磨はインドアーリア民族ですから、青い目である可能性もあります。これは、定かではありません。達磨太子が葦の一葉に乗って、海を渡って日本に来たというのを知って、今度お札になる樋口一葉さんは、ペンネームを「一葉」と名付けました。そして、長野にゆかりの深い島崎藤村から姉のように慕われていました。これは、「樋口一葉日記」に書かれています。島崎藤村は、「夜明け前」を書き上げ、英語の勉強の必要性を感じて遊学しました。彼は、たぶんドストエフスキーを読んでいたという一葉さんの影響を受けていたと思います。
平清盛は、女性から見れば薄情な人です。京都嵯峨野の 祇王をも捨てた話はあまりに有名です。平家で海に入水した建礼門院もけして生き残って幸せではなかったと思います。
平清盛は、厳島神社を篤く信仰し、海洋貿易をしていました。商人の素質はあったかも知れません。が、今となっては史実は曖昧です。「祇園精舎の鐘の音、諸業無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、豪奢必衰の理あり」
庶民にとっては、頭が誰になっても苦しい時代だったと思います。
さて、今回の旅を振り返ると、広島の原爆資料記念館の見学では、たいへんショックでした。残忍な被爆の伝え方が不十分だったからです。わたしが灰谷健次郎の本や井伏鱒二の「黒い雨」を読んだショックとは比べものになりませんでした。 その後に、安芸の宮島に参り、180度海で視界が開けていて、わたし が感じたのは、次の漢詩でした。
国破れて山河在り
城春にして草木深し
この漢詩が、この宮島のパノラマを目前に浮かんで来ました。日本は敗戦したのです。
このあと、呉に参りまして、昔の海軍幕僚本部の屋敷を見て、ちまちまとした錦のままごとのような綺麗な小さな家を前に、ため息が出ました。あの巨大なアメリカをこの程度の規模の国が相手にして戦ったんだと。
漠然として、負けるとわかっていても戦った方々のことを思うと、帰宅して、学校の教材の夏目漱石の「こころ」を読み、涙があふれて、胸が痛みました。
東郷平八郎の別荘は、凄くつましやかで質素 でした。
どうして、開戦したかはいろいろ説はありますが、ともかく巨人に死にもの狂いで戦っていったのです。
その後、さらに竹原に行きました。商人の街として栄えました。
ここで素晴らしい商家の花嫁衣装や、たくさんの琴、箏を見学して、さらに複雑な思いでした。文化はここに息づいていて、ここに「死」の恐怖はないからです。
軍人は、国のために死んで、贅沢はしていなかったのに、これだけ日本人に嫌われて、何のために死んだんだろうと。まあ、朝鮮人や中国人で強制労働された人や殺された人もいるし、軍人はいいことをしたと思えないけれども、この落差は何?と複雑な気分で、しばらくぼうっとしてしまいました。
広島の原爆ドームや平和記念公園は、わたしには平和呆け公園としか思えない感じでした。これじゃあ、広島市長があんなにアメリカを怒る理由がわかるのです。ただ、日本の皇国史観を賛美はできません。負けるべくして負けたのですが、原爆の投下は日本人としては納得がゆきませんでした。
軍人になって死んだ人も、国民みんながもう戦争を起こすまい、あなた方の犠牲を無駄にすまい、あなた方の不幸を無駄にすまい、と願わない限り、日本はまた同じことを繰り返すかも知れません。
もう戦争はこりごりです。誰も幸福にはなりませんでした。
ただ、安芸の宮島では、つきぬけるような青空と広がる水平線に、自由を感じます。頂上で眺めた青い海と、浮かんでいる島々の壮大なパノラマに、まだまだ日本には美しい自然が数多く残っていると感じ、それを心ゆくまで堪能しました。
2002(C)みなりん