みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

厳島神社および広島原爆ドーム見学記

2008年01月23日 10時36分14秒 | 旅行記

広島女一人旅

場所(地域) 広島
場所(詳細) 厳島神社
時期 2002年10月22日
ワンポイント 平和学習と、観光

「広島ひとり旅」
 紅葉狩りをするために、安芸の宮島へ参りました。Img_0001_2 夜のライトアップが海面に映えるそうで、それにも心惹かれながら、友人の薦めもあって、広島のプリンスホテルに夜は宿泊しました。夜は、大きな窓から月を眺めて、ぼうっとかぐや姫のように夜景を眺めていました。夜の帳が下りて、小舟が汽笛をぼーっと鳴らして穏やかな内海を通っていました。

あれはたぶん、海上自衛隊の警備船ではないかとぼんやり静かな夜のしじまの中、思いを寄せていました。静かな夜、それは平和な時間でした。月光が海のさざ波に長く金色の裳裾のようにゆらゆら煌めいていました。                             Img_0006_2

 その日、わたしの弟が学生時代に宮島には秋の紅葉の頃に山に登って感動した話を胸に秘め、宮島は展望台に登るように勧められた通り、行こうと決心していました。

本心を申しますと、厳島神社は明らかに過去の遺産という感じでしたが、建築物の作りを眺めていますと、昔の人の心を込めた想いも伝わって来ました。

わたしは、航空機を下りて、広島へ入り、広島原爆資料館を見学しました。何もよく地理を理解しないまま、平和記念公園を訪れたわたしには、原爆ドームは想像していたものより、はっきり申しますと、実にスケールが小さなものでした。

 これは個人の感覚ですから、わたしが鈍感なのかも知れないのですが、修復中ということもあり、船の骨組みのような痩せこけた感じの建物が歴史的な建造物に指定されていることが、実際目にすると違和感がありました。これは、現在の都会の超高層ビルを見慣れた人間の感覚なのでしょう。

 
 ただ、原爆資料館で一面焼け野原になった模型を眺めた時に、これ以外はもう何もない広漠とした殺伐とした光景で、ここで大勢の人が苦しみもがいていたんだと確認することで、よくここまで今広島が近代的に復興できたなあと感心しました。草も何年も生えないだろうと言われていた街で、今は植物が生い茂り、商店街やデパートがImg_0010_3 ひしめきあっているのです。現在の日本が不景気とはいえ、あの時の時代を生き抜いて来た人から見れば、どんなに良い時代でしょう。

  平和記念公園は、今年原爆投下の日に政府関係者を招いて花を捧げられた場所まで行きますと、「え?こんなに小さな場所だったのかしら」というショックと、のどかに鳩が餌をついばみ、綺麗な可愛い像の建ち並ぶ、あまりにのどかな、何もこれと言って驚きはないところで、千羽鶴を折って公園中に飾ってみたい衝動に駆られました。今は、ふつうのどこかにある公園のようでした。テレビで映し出されて、広島市長がなぜあんなに怒ったのか、今の若者には理解できないだろうと、ふと思ってしまうほど、のどかすぎていました。

原爆資料館をつぶさに眺めると、井伏鱒二の「黒い雨」や様々な平和学習で読書した、あの凄惨なイメージとは違うこぎれいな展示室でした。黙祷室で、Img_0007_3 淡い壁面の絵を眺めながら、誰も来ない空間で「行ったら、衝撃がひどいだろう。見たくない」というほどではなく、ここでなくても今のテレビ番組のほうがずっと迫力があると思わせるもので、わたしの心は空虚になって参りました。

  死体が累々と重ねられ、焼けただれた皮膚がはがれて、黒い人影が見られる、妖怪まがいの人間像。そういう視覚では再現したくない映像はなかったのです。写真が奥のほうにあり、隠されて設置されていたようで、なんでこういう世界でまたとなく悲惨な光景がまるで見ないように工夫されたかのようにあるのか、怒りがこみ上げて来ました。

  誰にむかってか、それは戦争の現実を抹殺するかのような事実についてです。日本人は、自ら行った朝鮮人強制労働や大虐殺、沖縄の人々の自決をそれほど全面に出さない代わりに、自ら被害者として世界に例のない、残虐な大量殺人をされながら、自らその過去を封じ込めていることに、ここはいったいどこの国なんだろうという怒りと屈辱と、非を黙認して消そうとする気持ちが混在する複雑な構図に、わたしは身の毛がよだつのでした。広島平和記念公園を見学して感じたのは、「ここはいったいどこの国なんだ」という思いでした。子供がここを訪れて、怖いという印象はそれほど受けまい、世界の人々にももっと見ていただきたいことがある、これが正直な感想です。                                 Img_0005_3

 原民喜の手記や、おぼろげながら昔読んで知った人の名前を確認し、展示室の細かい道具をほんとうに目を皿にして見て、見知った名前を本で確認しないと、平和学習にはならない、と確信しました。

 長崎で、神谷美恵子さんが「なぜわたしでなくてあなた方なんですか」とハンセン病患者さんに向かって叫んだように、信仰篤い長崎だからこそ・・・・と胸にたたみ込んだ気持ちで被爆者が過去をのみこんで堪え忍んだ、これはおそらく恐ろしい屈曲した感情で、日本人が復讐だとか怒りの拳を間違った方向に持っていかないための気持ちでしょうが、暴力を暴力で向かう非情さをふさぐ気持ちに、永井隆先生のような「この信仰篤い長崎に」という言葉があったのでしょう。そういうやりきれなさを、「人間の不条理」として認識していただくために、破壊的なショック(これは原爆投下は世界であってはならないという大前提)を緩和するため、ここに感想を書きます。美しいものを美しいと思うように、恐ろしいものを恐ろしいと思う気持ちは大事にしたいのです。

 マスコミで報道されていますが、昔から戦闘状態になって治安が乱れると、どこの国の
兵士も犠牲になったり、逆に加害者になったり、血迷ってしまった市民も暴動を起こしたり、強奪・強姦など、あらゆることがどさくさになって起きます。それは、日本の国だけではありません。至る国にもそういう歴史があります。日本は敗戦したのです。

 広島はイギリス領でした。そして、最近知ったことで恥ずかしいのですが、女子パウロ会のシスターの優しさにより、カテドラル教会聖マリア会堂へ伺って、東京大司教区とケルン大司教区の友好50周年記念の冊子をいただきました。あの広島の世界平和記念聖堂にドイツの多大な援助があったそうで、そういうことが世間にもっと広まらないのはなぜだろうと、不可解な気分でした。
 わたしは、教会のステンドグラスに心惹かれるのです。それは、わたしが一時画家になりたいと思ったたせいかも知れません。教会の聖歌隊にも心惹かれるのです。音楽と絵画に非常に興味があるからです。
だから、沈黙して教会の中にいるのはたいへん心地よく、安らぐのです。佐久間彪先生の「預言者」という詩を読まなければ、心の潤いも宗教に感じなかったかも知れません。
人との出会いというのは、不思議なものです。

 わたしが広島に行こうと思ったのは、大江健三郎さんの「あいまいな日本のわたし」を読んで、決心しました。大和魂は、軍国主義のスローガンだったらしいのです。わたしは戦後生まれでよく知らないことです。

 わたしが知っているのは高度経済成長期であり、テレビがカラーになったということで、もう電話は当たり前にありました。狭いながらも楽しい我が家で、日曜日は家族団らんで、稀に祖父母の家で明治や大正時代の香りを嗅ぐことがありましたが、 家には軍事に関するものは全くありませんでした。古くさいものは、大きな振り子時計と神棚と仏壇と線香と、三味線と大黒柱と、茶釜と畳でした。

   三井文庫で、お雛様の飾りを見学しました。お顔が端正でこじんまりとして、白皙のお顔に柔和な笑顔が上品でした。こういうのを「雅やか」というのであり、恐ろしい戦いや血なまぐさい匂いはありません。いつから日本は変わっていったのでしょうか。わたしにはよく理解できず、把握できないで、大正時代の浪漫で精神的なイメージの中に漂っています。戦後生まれであることの感謝が沸きます。
 

  さて、広島は市街へ出て、安い寿司屋にランチのため寄りました。鮨職人と店の常連がうわさ話を展開していました。
「厳島神社で万札入れる人間がいるんだとさ」   Img_0009_3
「へー。そうれは豪勢な。この時代にな」
「目の前で入れているのを見たら、俺なら拾ってかえるわな」

そういう類の話で、鮨のネタはそう期待したほどではないが、うらさびしい観光客の来ないようなふつうの駅ビルの寿司屋で、気のいい職人と口でなにやかや言ってもそうはしない平凡な客の軽い話題でした。

  不況のつらさが、会話から滲み出てきて、どこの店でも連れとの会話はこういう今の不況を不安と失望で嘆くものが多いようです。
聴いている自分も、一生に一度は宮島の紅葉を、と願っての旅で、財布の底をはたいて観光しました。複雑な心境です。
                                                                                            Img_0011

   宮島へはフェリーで海を渡りました。天候は非情に良好で、青空は広がり、海は空を反映して紺碧です。潮風が頬をなでて心地よい。
ブロンドの女性と日本人の女性が英会話を繰り広げて観光をしていました。日本人女性の英会話は発音が美しい。ソニーのビデオを回していた。手軽そうだ。やがて、厳島神社の朱塗りの鳥居が見えて来ました。昨年修復されました。

 

   船着き場を下りると、すぐ傍まで鹿が座っていたり、とろとろと歩いていました。
優しい瞳が子鹿のバンビのように可愛らしい。観光客慣れしておとなしい。海は引き潮時で、Img_0008_2 砂浜のようになったところを観光客が歩いていました。神社の目の前は海です。今は鳥居のあたりまでしか水はない。建造物に近づくにつれて、回廊が長く朱塗りで続いているので、やっとここまで来たという感慨に浸りました。神社入り口には白馬の木製がある。これは、神仏習合の印だと何かの本で読みました。

 宮島の展望の看板には、平清盛は海運と貿易で国が栄えるように海洋民俗のシュメール人の用いた印を用いて、いろいろ策を練っていたらしく、その名残りがあるらしいのです。
詳しくは理解していないので、破れた平家は歴史上は悪人のような「奢れる者」であったが、史実は今となっては勧善懲悪とすぐならないものなのでしょうか。

 神社の回廊には灯籠がぶら下がって、静かに歩んでいくと、鏡が池と呼ばれるしゃもじのように柄がついた丸い池が正面右手の回廊の途中にありました。ここで、公達は、池に移った月を鏡のように眺めて、水面に妖しく揺れてちろちろとさざめく金色の光の円を眺めて管弦の調べでも演奏して視覚と聴覚と、さらには香でも燻らせて、五感でこの世の生きているはかない生命を慈しんでいたのでしょうか。月にいる兎が不老不死の薬を作っていると半ば信じていたのでしょうか。

正面には能舞台があり、海の見える舞台で雅楽を舞っていた方々がいて、大勢の人が見学して楽しんでいました。               Img_0012_2

  わたしは、あの古典的な音楽が耳に心地よくて、東儀秀樹さんのファンで、一番辛い時期に東儀さんのCDをずっと聴いていました。

   わたしは、東儀さんの古典的な調べのほうが好きです。「君が代」は、音楽だけがいいと思います。どの国の音楽も、歌詞は恐ろしく戦闘的だったりしますが、音楽だけで聴くと、そういう、自分は天空へ舞い上がって、ただ丸い地球を見ているのがいいと思ってしまいます。

 禅宗の達磨は、実は瞳が青かったと円覚寺の古い書に書いてありました。そして、去年拝観した時、僧侶が重要文化財の江戸の建築物の中に、実は瑠璃色の球が入っているのですよ、と話しておいでて、そうかあと納得しました。

達磨はインドアーリア民族ですから、青い目である可能性もあります。これは、定かではありません。達磨太子が葦の一葉に乗って、海を渡って日本に来たというのを知って、今度お札になる樋口一葉さんは、ペンネームを「一葉」と名付けました。そして、長野にゆかりの深い島崎藤村から姉のように慕われていました。これは、「樋口一葉日記」に書かれています。島崎藤村は、「夜明け前」を書き上げ、英語の勉強の必要性を感じて遊学しました。彼は、たぶんドストエフスキーを読んでいたという一葉さんの影響を受けていたと思います。

 

   平清盛は、女性から見れば薄情な人です。京都嵯峨野のImg_0015_2 祇王をも捨てた話はあまりに有名です。平家で海に入水した建礼門院もけして生き残って幸せではなかったと思います。
 平清盛は、厳島神社を篤く信仰し、海洋貿易をしていました。商人の素質はあったかも知れません。が、今となっては史実は曖昧です。「祇園精舎の鐘の音、諸業無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、豪奢必衰の理あり」
庶民にとっては、頭が誰になっても苦しい時代だったと思います。

 

   さて、今回の旅を振り返ると、広島の原爆資料記念館の見学では、たいへんショックでした。残忍な被爆の伝え方が不十分だったからです。わたしが灰谷健次郎の本や井伏鱒二の「黒い雨」を読んだショックとは比べものになりませんでした。 その後に、安芸の宮島に参り、180度海で視界が開けていて、わたしImg_0014_2 が感じたのは、次の漢詩でした。
 
国破れて山河在り
城春にして草木深し

この漢詩が、この宮島のパノラマを目前に浮かんで来ました。日本は敗戦したのです。

 このあと、呉に参りまして、昔の海軍幕僚本部の屋敷を見て、ちまちまとした錦のままごとのような綺麗な小さな家を前に、ため息が出ました。あの巨大なアメリカをこの程度の規模の国が相手にして戦ったんだと。

  漠然として、負けるとわかっていても戦った方々のことを思うと、帰宅して、学校の教材の夏目漱石の「こころ」を読み、涙があふれて、胸が痛みました。
 
 東郷平八郎の別荘は、凄くつましやかで質素Img_0003 でした。
どうして、開戦したかはいろいろ説はありますが、ともかく巨人に死にもの狂いで戦っていったのです。
 
 

 その後、さらに竹原に行きました。商人の街として栄えました。
 ここで素晴らしい商家の花嫁衣装や、たくさんの琴、箏を見学して、さらに複雑な思いでした。文化はここに息づいていて、ここに「死」の恐怖はないからです。

 軍人は、国のために死んで、贅沢はしていなかったのに、これだけ日本人に嫌われて、何のために死んだんだろうと。まあ、朝鮮人や中国人で強制労働された人や殺された人もいるし、軍人はいいことをしたと思えないけれども、この落差は何?と複雑な気分で、しばらくぼうっとしてしまいました。

                                                               Img_0002
 広島の原爆ドームや平和記念公園は、わたしには平和呆け公園としか思えない感じでした。これじゃあ、広島市長があんなにアメリカを怒る理由がわかるのです。ただ、日本の皇国史観を賛美はできません。負けるべくして負けたのですが、原爆の投下は日本人としては納得がゆきませんでした。

 軍人になって死んだ人も、国民みんながもう戦争を起こすまい、あなた方の犠牲を無駄にすまい、あなた方の不幸を無駄にすまい、と願わない限り、日本はまた同じことを繰り返すかも知れません。

もう戦争はこりごりです。誰も幸福にはなりませんでした。

 ただ、安芸の宮島では、つきぬけるような青空と広がる水平線に、自由を感じます。頂上で眺めた青い海と、浮かんでいる島々の壮大なパノラマに、まだまだ日本には美しい自然が数多く残っていると感じ、それを心ゆくまで堪能しました。          
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2002(C)みなりん





 


「伊勢志摩、岐阜の養老天命反転地の旅」

2008年01月15日 00時05分32秒 | 旅行記

「伊勢志摩、岐阜の養老天命反転地の旅」

ゴールデンウイーク旅行のお話をします。
決意して参りました。

一日目は英虞湾に面した賢島に向かいました。     Img_0053
有名な志摩国際観光ホテルで軽いランチをいただきました。
ここは、伊勢えびのフルコースがあまりに有名ですが、
これは老後の楽しみにとっておきます。

ホテルのメインダイニングからは、英虞湾の静かな入り江が正面に見え、ムーミン谷の湖にある小屋のようなものがぽつんとあって、桟橋があります。

藍色の海と、薄青色の空はどこまでも明るく、風が強いので、海面には白いさざ波が、きらきらとガラスの破片をまき散らしたかのように紺碧の中に広がっては消え、広がっては消えていきました。
入り江の廻りを新緑が生き生きと囲んでいて、箱庭の池のような印象があります。
海の真ん中には真珠の養殖のための長方形の網型の木々が幾つか
浮かんでいました。
そして、空にはとんびがゆったりと羽を広げて飛んでいました。

ここのホテルのお料理はやはりおいしい・・・・・。
高くても納得するでしょう。

その後、英虞湾遊覧は風が強かったけれど、甲板に立って、四方の海を眺めていますと、日本はきれいな静かなところだな、とほんとうに思いました。

その晩は宝生苑というところに宿泊しました。    Img_0002_2  
ここの露天風呂からの眺めは最高に気持ちいいものです。
英虞湾が見渡せて、潮風が吹き抜けます。
夜入ったら、お月見も出来たかも知れません。
家風呂も大きく、ゆったりとした作りです。

わたしは、日もまだ高い頃入ったので、景色を見晴らしながら岩に腰掛けてぼんやりしていました。

   夜は宝生の鼻の湧き水のちろちろ流れる音だけが部屋の中まで聞こえました。
夜は日が暮れ始めて、月が昇っていくまでは、部屋の窓から松島のような小島と海と遊覧船のイルミネーションと真珠養殖のための長方形の木組みが、日本の静かなひっそりとした海辺の見事な景観を見せてくれました。
やがて夜の帳が降りると、月明かりが皓々と闇夜を照らし出しましたが、こんなに月が明るいとは驚きました。

しばらくの間は、夜は薄墨色に薄明るい状態でした。
まるで、王朝絵巻の源氏物語の須磨・明石の浜の描写の一場面のようです。
ここにいたら、日本画家になれることでしょう。
部屋には「傾国傾城漢武帝・・・」とあり、書が大きく「為雲為雨」と書かれてありました。

  翌日は移動しました。                    Img_0003_2          

伊勢スペイン村は借景のせいもあって、結構雰囲気も落ち着いて楽しいテーマパークでした。

この隣の写真は、乗り物かImg_0051 ら撮影したもので、非常に遠くまで見晴らせて迫力がありました。                                                                                              

スペインの町並みに似せて造られた建築物で、家々の壁とかは白壁だったり、小綺麗に花々や色とりどりのお花が飾られて、ちょっとした異国にいる気分になって家族で楽しめます。

パレードが華やかで、ディズニーランドのように楽しくImg_0054 風景を生かした開放感がたまらない魅力でした。青空の下、なんて自由だって!って叫びたくなるようなわくわく感でした。

ランチにソーセージなどを食べたり、アドベンチャーワールドのようになった城で、ちょっと一息、大滝詠一の歌のようにアイスティーを飲んで、休暇を満喫し、ここがほんとうにスペインだったりいいなあと思って、ほんとうのスペインをぼんやり回想しました。

日本では、模擬店のようなものだとわかっていても、楽しめました。

鳥羽は、お決まりのコースで、御木本とか水族館を見学しましImg_0001_2 た。

海女さんが海にもぐる実演をしてくれていました。真珠って、たまらなく魅力的ですが、いいものはなかなか手が出ません。ため息が出てしまいました。

巨大な水族館では、北海道に生息するクリオネを生まれて初めて拝見できて満足でした。

 

 移動して、高台の鳥羽国際観光ホテルのラウンジから紅茶をいただき、海を一望し、その風光明媚な有様に目を細めました。
わたしは、潮路亭の方に宿泊して温泉に浸かりましたが。

 ヤマハリゾートグループは今赤字で経営建て直しを検討すると、日経のその日の記事にありまして、皮肉なことに宿泊している所なので、関心を持ちましImg_0002_3 た。

 

 さて、伊勢神宮は荘厳な感じですが、やはり観光バスも来るほどですから、開けすぎで、昔を想定するImg_0050 のはイマジネーションが大事です。

 おかげ横町など、町興しの模範になったところは、時間の関係で、ざっと通っただけですが、おもしろそうでしたよ。

 

 

神宮徴古館や神宮美術館にその後向かいました。
農業資料館では、稲と養蚕など、日本独自の大切な農業の存在を確認しました。
養蚕は、蚕一万匹で女性一生分の晴れ着ができると言わImg_0049 れます。
現代人よりも豪奢な気がします、資産家は。
ただ、あとで人から聞いたところによると、真相は、

「さすがにそんなには持たないでしょうね。
蚕は1つ3g程度で、糸の長さは1500m弱ぐらいです。
一反の着物を作るには2500~3000匹程度の蚕が必要なので、1万匹では3~4着分しか作れませんね。
でも、晴れ着ならそれぐらいで十分かも。」
と言われて納得しました。

神宮美術館は、建築家が有名な片山東熊(迎賓館の設計者)です。

神宮徴古館では、一般見学の許されていない内宮の模型を見ました。
今の内宮は平成5年建築で二十年で遷宮します。建築物の価値は実際拝見していないので、見ていないわたしは、あれこれ言えません。わかりません。ただ、建築技術は継承されているのでしょう。

斎宮博物館は時間の都合で行けませんでした。
残念です。
以前横浜市立博物館の「斎宮展」で少し勉強したので、Img_0052 まま仕方ないとあきらめました。

お伊勢参りは、日本の心とは何かと考えました。

外宮の警備官の黒い制服と居ずまいの良さを見ると、国家に対する姿勢が窺われ、明治時代にいるような錯覚にもなりました。

もともと、内宮の天照大神のお食事を奉納するため、他国から招かれて外宮の豊受大神はご奉仕しています。

 昨年5月は、諏訪大社へ御柱祭りの時期に行ったので、上社下Img_0048 社の由来など、さまざま訪れると、日本の伝統や風習が学べて楽しいものです。

伊勢神宮は、ずっと奥までは一般の人は入れませんが、神宮の付近を流れる川の水のすがすがしいほど清らかさには心打たれました。

その後、名古屋に出て宿泊し、次の日は岐阜にある養老天命反転地という公園に行きました。
現代アーティスト荒川修作と詩人マドリン・ギンズとの構想による公園です。

後ろに山々をひかえて、お椀のように公園は窪んでいます。
そこに日本列島を象ったアルミ板や仕掛けのある小さな建物がぽつんぽつんと建っていたり、現代美術作品が点在して一種奇妙な風景が出現しているのです。
この作品全体(公園で歩けますが)が地球を象った天地なのです。
この日は晴天でしたから、公園の廻りを一周すると、景観が壮観でした。                             Img_0002_4

Img_0005_3

 

 

 

  その後、駒野という駅から行基寺という松平家の菩提寺にもImg_0001_3 なっていた、別名隠れ城ともお月見寺とも言われる寺を拝観しました。
元は、僧の行基(東大寺建設に参加した奈良時代の僧)がここに、夢のお告げで「寿の水」という病に効く湧き水があると言われて、ここに守護霊場を創設したのが始まりです。
ここの湧き水もいただいてきました。
寺の庭園が見事で、四方の山々と美濃・紀伊・尾張の三国が見晴らせます。

 

 その日は春霞のせいで、うすぼんやりと名古屋のツインタワーのImg_2 白いビルが光って見えたものの、冬の時には知多渥美半島の山々まで見えると大黒(僧侶の妻)さんがおっしゃっていましたけれど、今回は見えませんでした。

 いわゆる回廊式借景庭園ですが、庭のつつじや緑に加えて、いくつもの飛び石が配置され、遠方の大平野を遙かに見下ろすことを思うと、近郷の人が言ったという「西山の極楽」というような錯覚。

 掛け軸の菩薩絵の傍に濃いピンクの牡丹の大輪の花が、一輪艶然と咲き誇っていました。
緑の中庭には、小さな滝が流れていました。
そして、静寂の中に、襖に描かれた大きな葵のご紋だけがにぎにぎしい感じを受けました。

 

 ここから、山崎という無人駅までの3キロの道すがら、「杖つき坂」という、日本書紀でヤマトタケルの尊が最期のほうで、杖をついて登ったほど当時は急坂だったという碑のあるところを通りました。                               Img_3

やがて、この場から少し行ったところから、ヤマトタケルの尊が白鳥になった伝説が有名ですね。

右の写真がその碑です。

さて、わたしの旅のお話は、だいたいこんなところで、終わりたいと思います。


蓼科ホテル滞在記

2008年01月14日 22時41分58秒 | 旅行記

「蓼科ホテル滞在記」                 Img_0004  

1997年くらいのお話です。

先日は蓼科に避暑に行きました。
宿は、スキーリフトに近い小さなホテルでした。
これは、ある雑誌で紹介されていて、貸し切り展望風呂の広告に惹かれて予約しました。

山の天気は変わりやすく、麓は青空で山頂方面は雨だったりしました。
そのホテルは見たところペンションか山小屋風でしたが、木の重い扉から少女のような小柄の女性が、呼び鈴を鳴らすと、笑顔で出迎えてくれました。
一階は玄関と小さなロビーでした。
女性に階下に案内されました。
木の階段を降りていくと、地下一階は食堂でした。
そこの奥にはカウンターと暖炉とソファがありました。
受付をすまして、また更に階下に通されました。

部屋は105号室でした。                     Img_0003
部屋に入ると、白を基調として、ベージュのカーテン。
白い椅子とテーブル。
全面には白樺の木が緑の葉をそよがせていて、角部屋のために、もう一枚の窓からは山々が望めました。
曇っていたために、山に霧がかかっていました。

次に展望風呂に通されました。            
ふたつあり、どちらも24時間いいそうです。
一つは、木の香りと木を使った明るいお風呂で、大きな窓から白樺の梢が見えました。
あとから入って眺めたら、お風呂の中からは遠くの山も見えます。
お風呂は六角形の白いバスタブで、脚を伸ばしてもいいし、ジェットバスになっています。
わたしは、ジェットバスの慌ただしい感じよりも、静かに浸かっているほうが好きです。
薬用温泉で、浸かってみると、肌がすべすべします。
窓の採光のせいで、お風呂が明るく、広く感じます。
実際、入ってみると、なかなか気分がよくて、わたしはひとりで三回朝も数えると入りました。

夜6時半に夕食でした。                   Img_0001
食堂のテーブルには、六組のお客さんだけです。
座って、斜め前の大きな窓から外のベランダに出ることができま
すが、木組みのベランダには、三つの木のテーブルと椅子があり、山々の連なった景色を眺めていると、ここはほんとうに日本かしらと思ってしまいます。
蜩の声も聞こえます。
夏と言っても、旧暦ではすでに初秋でしょう。
初めはぼんやりと穏やかな山の景色を見るともなく、食事をしていました。
シャンパンをいただいて、オーナーの手作りのあっさりしたコース料理(トマトを使ったイタリアン風のお魚料理とクリーミーなスープとよく煮込んだ牛肉のImg_0002 シチュー、出来立てのパンなど)をいただきました。
気がつくと、窓の景色は刻々と日が落ちるに従って、見事な色彩
を見せてくれます。
最初は、薄暗くなって来たと思いましたら、ペールブルーの山の稜線の近くの空の更に上は、桜色がシルバーの細くたなびく雲の合間に彩られ、春の景色、やがて日が山吹色に輝いて、最後に黄金に輝いた頃には、グレーの雲の合間の空の色が朱を薄く引いたように活気づくと、更に色濃く変化し、やがてハイビスカスのような燃える灼熱の赤になって、空の雲はシルバーブルーになって、
真夏の景色を燦然と輝かせて見せました。         Img_0005
暖炉の奥にあるソファーの傍の窓から眺めましたら、雲海の中にこのホテルがあるようでした。
雲の渦巻く向こうに山々の頭が浮かんで見えるのです。
何だか、天上にいる感覚でした。

朝は、部屋で目が覚めると、かっこーの声とホトトギスの声がかすかに聞こえます。
まだ6時前でしたが、ベッドから飛び起きて、ベランダに出ると、緑が爽やかに揺らいでいます。
山の遙か向こうまでよく見晴らせました。       Img
ブルーバードの車のコマーシャルのように、山にカーブを綺麗に描いて、つーと山道がそこだけ白く続いています。
まれに車が通りますと、さぞかしドライバーも気分がいいことでしょう、と思います。
遠くの山々の連なりは、薄墨を引いた山水画の景色のようです。
近くの山は、ベージュ色に緑の色合いが幾何学的に模様となっています。
目前は緑の木々の梢で、小鳥の鳴き声が盛んにします。
こんなに新鮮に鳥の声を爽やかに聴くのも久しぶりでした。

ホトトギスというのは、初夏を代表する鳥ですが、梅の梢に
鳴く姿を彷彿させるので、山の中で聴くのも珍しく感じました。

さて、このホテルの部屋は、窓が二方向に望め、たいへん得した気分でした。


「河口湖女きままひとり旅」

2008年01月13日 08時32分29秒 | 旅行記

「河口湖きままひとり旅」その一

 7月中旬、仕事も一段落して、平日女ひとり旅に出ました。
 甲州の人は強いなあ、さすが武田信玄の生まれた国らしいと思いました。
 これは、太宰治の碑から感じたことです。これは後ほど述Img_0024 べます。

 都内から近い河口湖湖畔のリゾートホテルに宿泊しました。なかなか女性のひとり旅でいい宿泊場所を見つけるのはたいへんです。

 わたしが今回宿泊したホテルは、オルゴールをかけて歓迎してくれて、大きなベッドのある柔らかいベージュを基調とした配色の客室に案内してくれました。
 ホテルには、油絵が幾つか飾ってありました。「k.oya」 のイニシャルがあり、ロビーにはアッシジのサン・フランチェスコ修道院教会かしらと思う絵が描かれてありました。 また、ロイヤル・コペンハーゲンの独特の綺麗な青い飾り皿も幾つか飾られて並べてありました。

 でも、一番気に入ったのは、少し高台のホテルの部屋から、河口湖が目の前に広がっていて、とても見晴らしが抜群だったことです。 緑に縁取られた湖の眺めは、7階の部屋から見ると、実に優雅な気分にさせてくれます。          Img_0032_3

 暑い中歩き回って、昼間汗をかき、温泉にまず入りました。ここの温泉は、無臭のさ
らっとした温泉で、肌にべたつきません。浴槽もほどよい広さです。
 アロマテラピーのマッサージを予約して行きましたが、今までになくリーズナブルな値段で、長い時間気持ちよく応対してくれます。思わず、うとうとしてしまいました。

 夕食は、昼間の黒のカジュアルなパンツ姿から 少しドレスアップして、フランス料理のコースをいただきました。エビのスープがコンソメ味でとてもおいしく、ホロホロ鳥のお肉は驚くほど肉質が柔らかで、お料理は満足できるものでした。

また、女性ひとりのわたしにメニューの紹介をしてくれながら、淋しくならないようにと言う配慮なのでしょうか、ホテルの方々がうるさくならない程度にさりげなく声をかけてくれるのが、とても嬉しく感じました。

 ロビーのソファに座って新聞を広げれば、さっとホテルの方が冷たいハーブティーをグラスに運んで来てくれます。
 送迎もにこやかに電話一本ですぐ来てくれます。
 女性ひとりに優しいホテルは、実に有り難いものです。

 河口湖の周りは、最近新しい美術館などがたくさんできていて、ひとりでいてもあきない楽しさがあります。

 一日目は、与勇輝常設展がある河口湖ミューズ館に行きました。森林伐採を嘆く「ニングルストーリー」のお人形は、妖精の可愛らしさが溢れていましたが、特に印象に残ったのは、作者が人形を「いつも笑っていたら、人形の疲れてしまう。だから、笑った顔にはしない」というようなコメントがあったことです。人形にも魂があると感じているから出る言葉なのだろうと思いました。

 わたし自身が最近精神的に好きな人を失ったせいでしょうか、人間の男性を好きになった罰を受けて仲間外れになった妖精の姿がもの哀しく、心を打ちました。好きになってはいけない人に憧れるのは罪なことだけれども、「忍ぶれど色に出にけり我が恋は物や思ふと人の問ふまで」と言うほど、情念は抑えれば抑えるほど妖しく光ってしまうのでしょう。

与勇輝さんの作品は、ご自分の子供時代の思い出のものを郷愁にかられてお作りになったようなひと昔の日本の人々の作品もあり、わたしの明治生まれの祖母を思い起こしました。人形から溢れるこの情感は何であろうと、しばらく飽かず眺めていました。

 この美術館の周辺には、この時期、ラベンダーの薄紫の花々が咲き乱れ、青空と翡翠のような湖面と花々という取り合わせで彩りが豊かで、しばらく夏の暑さも忘れて、名物のラベンダーアイスクリームの奇妙な味を舌で味わいながら、ぼうっと景色を眺めていました。ホテルの方が言うことには、今年の暑さは異常でこちらは雨もほとんど梅雨の時期も降らず、ラベンダーの色が今ひとつ冴えない、と言うことでしたが、もっと例年は色が鮮やかだったのでしょうか。残念なことです。

 この夏の異常な暑さで、京都議定書の件がいつも心にひっかかって、ちょうどこの頃イタリアのジェノバ会議のことを新聞で読んでいたから、どうなるのだろうと気にかけていました。ホテルの方の「今年は雨が少ないし、こんなことはかつてなかった。」と言う言葉に、わたしも最近のこの暑さは、人間にも外国では多大な害を及ぼしているので、日本にも「花」どころかとんでもない事態が襲って来るのは時間の問題だから、のんきなわたしですら身近に危機の兆候を感じました。わたしはアメリカの参加を是非望み、速やかに国々が対応して気温の上昇をくい止めないと、たいへんなことだと思って心痛めました。わたしは今アルバイトで、高校生の時事問題の小論文を添削しているから、ついそういう方向に考えてしまうのです。旅行先でも考えてしまうなあと苦笑しました。

 その後、久保田一竹美術館で辻が花の着物を拝見しました。久保田さんのお父様は、骨董屋さんだったそうで、お父様が収集されていたいろいろな国々のトンボ玉も展示されていました。アフリカなどから久保田さんのお父様が収集したトンボは、昔、とても貴重で、人間ひとりと人身売買して交換したほどでした。今は、相撲の有名な江戸東京博物館の傍の店で見かけたところ、なんと6千円でもアフリカのトンボ玉は入手できてしまいます。時代とともに、需要と供給の関係で商品価値は変わります。

 辻が花は、その模様を照る照る坊主のように布を寄せて絵の具を乗せていくので、完成した構図を緻密に頭で考えて作らないとうまくいかないので、たいへん高度な技術が必要なのだそうです。色鮮やかな富士をテーマにした鑑賞用の着物が何枚も飾られていて、豪華絢爛とした眺めでした。歌手のアルフィーがロックコンサートで辻が花の衣装をまとったそうで、陳列されて紹介していました。

 奥のほうにあったに小さな滝が幾つも流れている盆栽のような日本庭園の見える美術館のカフェは、水の流れる静かなところです。ここのぜんざいは小豆が非常に粒が大きく美味です。わたしは誰にもじゃまされず、のんびりひとりお茶を飲んでお庭を拝見していたら、外で中国人の男性が熱心に移動しながら庭の写真をカメラに撮影していました。彼は、日本庭園がよほど珍しかったのでしょう。係員の人にも中国語で盛んに作品について質問していたのを見かけましたから。

 よく食べるわたしは、ここのレストランで昼食もいただきました。スペインの建物のような雰囲気があり、テーブルに青や緑の一輪挿しのガラス瓶が涼しげで、噴水を眺めながら食事を取りました。

 そして、次に中原淳一美術館に行きました。大正時代に大活躍した美術界の人です。
 ひと口にそう言っていいものかわかりませんが、「ひまわり」などの挿し絵や服のデザインなど、あらゆる創作に携わり、人形作りをきっかけに有名になっていきました。中原さんの作品は、今見ても斬新な感じがしました。色使いが見事で、おしゃれはちょっとした工夫でできるものという持論がありました。

余り布でクッションカバーを作り、可愛い男の子や女の子の顔をパッチワークのように縫製していて素敵でした。良いものは古さを感じさせないものだと思いました。中原さんのエッセイもとても素晴らしいセンスをしています。女の子が女の子らしくありたい、こう言ってもいました。わたしもそう思います。

 せっかく女性に生まれたら、女性らしさもあって、その良さを生かしたいと思います。中原さんは、戦前軍の意向に反すると言う理由で「少女の友」の挿し絵などからおりました。館内に流れていたシャンソンなどの雰囲気からして、中原さんの美術館は自由を謳歌した大正ロマンが溢れていました。

 
「河口湖きままひとり旅」その二

 二日目、河口湖の近くにあるロープウエーに乗って、天上山の展望台に行きました。
 ここは、別名「カチカチ山」と言います。
 昔の民話にあります。戦前の教科書に載せられていました。

 現在はのどかで動物の置物があったり、遊園地のようです。
 展望台では太宰治のことも大きな看板で紹介されています。
 この山の中腹には、太宰治の碑があります。太宰の作「御伽草子」の中のお話のひとつとして、「カチカチ山」という物語があり、そのお話の中の太宰の言葉が碑になっています。
「惚れたが悪いか」

 ちょっと「カチカチ山」についてお話しましょう。
ご存じの方も多いかと思いますが、お爺さんに捕まった狸が、危うく狸汁にされるところ、お婆さんを逆に殺して婆汁にしてしまうのです。

これを知った、お婆さんたちに世話になったことのある兎が、Img_0026_3 狸に仇討ちするのです。
 薪を背負わせて背に火をつけて、「何の音だ」と尋ねる狸に兎は、裏山がカチカチ鳴っている音だというのです。ここから、天上山はカチカチ山と呼ばれます。

 この話の最後は、狸が兎に舟に乗せられて、河口湖へ沈められてしまうのです。

 太宰治は、兎を男というものを知らない処女に、狸を好色な中年男に見立てて話を書いていきます。男は処女に恋してどこまでもだまされてもだまされてもついてゆくのです。太宰は、兎の仇討ちが「武士道にあらず」と言って、こんなに残酷なことができるのは、兎は青春期の女性で、どこまでもついてゆくのは狸が37歳という40歳に近いことを意識している複雑な心境の男であるからだろうと考えるのです。
 兎が最後に狸を殺そうとする時、狸は「惚れたが悪いか」と言って亡くなります。

 富士山が見事に正面に裾まで綺麗に見晴らせるこのImg_0028_3 展望台は、素晴らしいところです。太宰の碑のある中腹も、やはり綺麗に富士山が見晴らせる場所にあります。

 実は、河口湖を見るのは、ロープウエーの降り口からが一番の眺めとなっていて、展望台からの眺めも素晴らしいでが、こちらもお勧めします。こちらは外れに縁結びや厄除けなどの瓦投げによる的当てがあります。

天上山には昔「古事記」の世界でニニギノミコトが美しい姉妹を妻にして、妹のほうだけを召したため、呼ばれなかった姉の姫が恥じて自ら身を引きました。恨むことなどせず、徳がおありだったため、縁結びの神として祀られています。 これは天上山の看板に書いてあったことです。

 しかし、実際は、姉の気持ちではなく、「古事記」の記載だと 父の国津神が恥じ入って、姉を引き取ったのです。この姉の名前が石長比売(いはながひめ))と言い、天つ神のニニギノミコトに国津神は石のように永久不変の命を授けようとしたのですが、花のように華やかにお栄えくださいと父親が献上した妹の木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)だけを召したために、国津神の呪言によって天皇の寿命は桜の花のようにはかなく散り、長久ではなくなったとされています。 

木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)は霊峰富士山の女神で、「竹取物語」のかぐや姫が最初女神とされていたようですが、後にこの姫が浅間神社で祀られて、富士山の女神はこの方と定まりました。                                                              Img_0029_3

 この婚礼儀礼の話は大和朝廷が隼人の娘木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)を
娶ったので、薩南の辺境まで支配が及んだことを物語っています。
 話を戻しましょう。ちょうど帰国子女らしい年頃の少女が、お母様と一緒のようで、その瓦投げにチャレンジしていました。

 すてきな旦那様や恋人と出会えますようにね、と英語で話して笑顔で娘さんを見守っていましたが、「この子信じてないみたい」と、お母様はわたしに屈託なく笑っていました。展望台には、中国人の方もいましたが、みなさんは富士山が雲に隠れて残念そうでした。やがて、天に昇ったような三つ峠へ向かう手前のこの展望台の見晴らしを一応堪能し、みなさんはロープウエーでお帰りになりました。

 わたしは、帰る前に看板で見た太宰の碑が気になり、20分かけて下山して、割と新しい碑を見て、また20分で駆け上がって登山して、ロープウエーに戻りました。登山していたら、碑を見るために次々と男性がひとりづつ日本人の方々ですが、挨拶してくださったり、「碑まで後何分かかりますか」と尋ねられたりして、すれ違って行きました。最初どこまで降りていいか心細かったわたしは、よくぞひとりで行ったと思いました。

でも、わたしはすっかり大事なことをひとつ忘れていました。それは碑の背に長部日出雄氏が言葉を刻んでいらしたのに、見ないまま戻ってしまったことです。このことはずっと頭に引っかかっていました。
 碑は、太宰の故郷津軽から石を運んだらしいです。新しいことも気になりました。
 さて、それからわたしは河口湖の美術館をまた巡っていったのですが、その話は次回にして、観光を済ました後、また麓まで戻ったことからお話します。

 この辺りの登山道から太宰の碑まで登れるだろうか、と思って帰宅の高速バスの時間を気にしながら、登山道の途中まで行きましたが、上から降りて来た年輩のご夫婦に碑までどれほどかかるか尋ねたところ、往復で時間的に無理なことがわかりました。
そして、「太宰の碑の背には何と書いてあったのですか」と尋ねたのですが、人の良さそうなお二人とも「惚れたが悪いか」と言って、あとは知らないとお答えになっていました。
 非常に気になりました。次回は見てみたいものです。

 太宰治の碑を見たい日本人の方は、ロープウエーで登りだけ行って、あとは徒歩で下山することをお勧めします。これが一番です。紫陽花の頃がImg_0031_3 いいでしょう。
 この話で狸が「かわいそう」とつぶやく娘を自分に似て馬鹿な子だと言いながら、兎のこの狸に対する行為は、太宰は「詭計」であると言っています。

自分の悪行に対する自業自得なのだからと言いながら、そう解釈した太宰に、長部氏は評論の記載の中で「これは戦前に兎が仇討ちをした忠心の厚いものと教えられていた人は、目から鱗が落ちたように感じた(価値観の転換を覚えた)」というのです。

 わたしは夜眠い目でこの話を読んだせいか変な解釈をひとりでしてしまっていました。長部氏のように感じるものなのか、碑にもそう言ったことが刻まれているのか、と知ることで、やっと一息つきました。

 実は、昼間その評論を見る前の晩に、眠い目で読んだそのお話は、太宰がアメリカ映画に触れていて述べていた箇所だけに意識が行ってしまって、「男女が純真に戯れているけれど、裏ではひどい行為をしている」が拡大解釈の元になり、かわいそうなのは原爆、空襲で逃げまどう「日本」ではないかなどと、余計なことを馬鹿な頭で考えて、太宰研究者に叱られてしまうと思いました。

 日本が昔様々な国際状況から戦争に追い込まれ、パールハーバーで奇襲をして、現在ではアメリカはその事実を知っていたと言う噂もあるけれど、「リメンバー・パール・ハーバー」でとことん叩きのめされました。

 わたしは昭和20年という昭和の占領下で、爆撃に怯えていた太宰は、巧みに言えない言葉を小説にして、発刊したのではないか、などと読んでしまいました。
 日本は世界で唯一の原子爆弾被爆国として、今も広島の原爆ドームは生々しく残っていて、海外から大勢いの方が歴史的な事実を見学にお見えになります。
 太宰治の墓は、三鷹市下連雀の「禅林寺」に森鴎外の墓と向かいあってあります。
 GHQ占領下では、日本人は複雑な思いを抱きながら、過ごしていました。

 『青踏』の平塚らいてふは、男女平等のためにも日本は敗戦して良かったと岩波のホールで上映したドキュメント映画の中で述べておりますが、当時の惨めな敗戦を経験した方々には、残虐な軍人もいたことでしょうが、一般の市民は「贅沢な敵だ」を「贅沢は素敵だ」と落書きしながら戦前は貧しくてもつましやかなに過ごし、廃墟の中で敗戦後死にもの狂いで生きてきたことは、まだ記憶に生々しいことでしょう。

想起しますと、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を読んで戦後生まれのわたし自身も衝撃を受けたように、日本人が物理的、経済的、精神的な打撃など様々受けた事実は否めません。当時のGHQの検閲も凄まじいものだったのです。その中で、太宰治は作品をヒットさせて行きます。
 でも、昼間読んだら、長部さんの言葉が普通なのだろう、と思いました。

 今はわたしにもアメリカ人の友人がいて、アメリカ人と結婚した幼なじみもいて、アメリカを今のわたしが嫌う理由もないわけです。

女性もひとり旅ができるほど、戦後は男女平等思想が幾らか広まって来ました。日本には「国民主権」の取得と、国家総動員法から「自由」になりました。法の下では国民は平等と謳われました。
 疑問に思う方はご自分で「御伽草子」をお読みください。昔、文部省で選定され教科書に記述された数々の寓話がパロディーになっています。

  しかし、あの人の良いご夫婦は地元の方のよImg_0034_4 うで、碑には「ただ、惚れたが悪いか」と書いてありましたよ、と屈託なく笑顔でお答えになっていたので、青空の下富士山が雄大に見える中腹にどんとある碑の言葉は、素直に取ったほうがふさわしいと思いました。

 太宰も作品の中で「惚れたが悪いか」に尽きると締めの言葉にしています。
作品がこの一言で完成されたと言われています。

 あのご夫婦にしても土産物屋、喫茶店の人々にしても、甲州の人は、屈託なく笑顔でいるところが凄い。「動かざること山の如し」と述べた武田信玄のように、どっしりしています。
 天上山には古い伝承があり、興味は尽きないが、たどるには時間が今はありません。

 ここで、狸が河口湖へかちかちと背中に火をくべられて、山を転がり落ちたという民話は、最初は「狸」が「熊」だったそうです。千葉佐倉の歴史民俗博物館の美男子館長平川南先生が、「古代日本文字のある風景」で、館内をガイドなさっていた時、昔は「熊」は「こま」と言って、朝鮮のことであるというようなお話をなさっていたことが記憶にあり、日本の大和王朝成立の話とリンクするのではないかと、今になって思いますが、検証はしておりません。調べているうちに、わたしの人生は終わってしまいそうPhoto_2 です。

 暑い日が続く中、イタリアで京都議定書の件で会見に応じていた小泉首相の顔が何度もニュースで流れているのを家で見ていたら、今回の天上山にまつわる太宰治の戦争中の話などから、靖国神社参拝を前にした小泉首相はどう参拝するのかなあと、その時はちょっと複雑な心境になりました。靖国神社に祀られている方々には、第二次世界大戦で罪もある人、ない人も混在していることを、アメリカ人であるジョン・ダワーも書いております。難しい問題です。

 もうこのお話を読んだ方には過去のお話になってしまっているでしょうけれど、わたしは、詳しいことはよくわからないので、雄大な富士山をのんびり眺めて、他国ともめることなく素直に「今の平和を噛みしめることの大切さ」を大事にしたいと思いました。
 しかし、近況変わって、テロのせいでまた世界が騒々しく危険になって参りました。

近いアジアのことでは、北朝鮮拉致問題、北朝鮮の核爆弾開発問題なども、今の日本人には信じられないような事件が続々噴出しています。大きな戦禍に巻き込まれて、国が廃墟と化したという過去の出来事を日本はもう二度と味わいたくありません。

 現在の世界の出来事に対して、とても一口では今の心情は言い尽くせませんが、古代文字が韓国などアジアという範囲で共同解明する時代になる喜ばしい時代に、過去の悲劇的な過ちは二度繰り返さないことが大事なことです。

 ともかく、今回の旅では、第二次戦争中の悲惨な生活の中で様々な思いが胸に去来したものの、「惚れたが悪いかに尽きる」と言い切った「太宰治」に、日本の文学者の潔さを見た気がしました。

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