みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

「岩手花巻旅行記」

2025年03月25日 23時27分26秒 | 旅行記

仕事の合間に、去年は岩手県の花巻に家族と旅行しました。

わずか二日間の短い旅でしたが、非常に良い体験ができました。

 

私の恩師は桜の花が咲くと太平洋戦争に散った同期の仲間を思い出したそうで、小学生の時にその先生の存在はいたく心に印象を留めました。教師が子供たちを前に泣いていたのです。

私は戦時中のことを胸に子供のために骨を折って教育の現場に立っていた先生を思わずにはいられなかったのですが、先生はおそらく現実を批判するのではなくて、逃げ出さずに未来へ向けて子供と本音で向き合ったのでしょう。

 

その先生は宮沢賢治の作品をよく読ませました。私も教科書だけではなく、自ら読書を広げて作品を読みました。

擬態語、擬声語が多く用いられて、作品の発想も斬新で、それでいてファンタジックでもあり、表現力豊かでした。

宮座賢治記念館に行きたいという思いで伺いました。

東北新幹線は、よく乗った東海道新幹線と比べて停車した駅が簡素で、何かのローカル線の間違いではないかとおもったほど違いました。私は東北へ行くのはかなり久しぶりだったのです。

 

宮沢賢治記念館では休息場所にモニターが置いてあって、そこにはその記念館の職員の方が作品をもとに描いた動画が流れていて、その美しい絵や、個性的な猫たちの描き分けに見入りました。

そして、その近くの窓からは、今やたいへん人気のあるメジャーリーガーの大谷翔平選手の出身である花巻東高校がよく見えて、立地条件が良いのです。

受付の先に合ったロビーの窓からはきれいに赤く紅葉した葉が見事に一枚の錦絵となって眺められます。

 

宮沢賢治が鉱物に興味を持っていたこと、自然科学に強い関心があったこと、様々な情報を得られます。賢治の使用した楽器も陳列されていて、なんだか国立自然博物館に言ったような気分になります。

現代的な新しい施設で、詳細な展示なので、時間を気にしながら見ていました。

 

文学作品については書物で読めばいいのですが、宮沢賢治について知りたいなら、ここはやはり良かったと思います。しかし、わたしの記憶力がそれほど優れていないので、ここですべてお話しすることはできません。

やがて、宮沢賢治が手掛けた庭園のあるお屋敷に伺ってお昼をいただきました。

庭園の存在は、園芸を自分も好むので非常にうれしくなりました。

色とりどりの花がこぢんまりと咲いていました。

文化財のような建物の中でハンバーグをいただきましたが、中の造りも座敷が広く立派でした。

 

 

その後、近くの神社のそばを通り、この地で重要文化財に指定された大門を見学しました。

 

いかにも古そうな感じでした。

このあたりに城跡があります。

 

そこから、日本とアメリカとの懸け橋になりたいと国連でもご活躍した新渡戸稲造記念館へ行きました。ここは10年前から行きたいと思っていました。

途中、車道でなぜかクジャクが美しい羽を広げて佇んでいて、珍しいなあと眺めて、歓迎されたようで楽しく感じました。

記念館の前に植えてあったモミジが真っ赤に燃えるように色づいて綺麗でした。

 

 

そこは新渡戸家のご先祖についての展示が主にあって、この地に関わりが深くありました。

毘沙門天をたいへん尊崇なさっていたそうです。

稲造さんはここから他家にご養子になっていったのです。

ハンセン病治療の医師だった神谷美恵子さんが「稲造のおじさまは優しい方だ」とおっしゃっていました。内村鑑三さんは謹厳な方だったようで、美恵子さんは新渡戸稲造さんに親近感を抱いていたようです。

 

夕方が迫ってきたので、今は大ブームで盛り上がっていた大谷選手の母校に立ち寄りました。花巻東高校です。メジャーリーグの碑があるというので見学して旅館へ向かいました。

テレビを見ると、軍隊の兵士や隊員は制服組と言われるように顔に個性を感じないが、野球選手は同じユニフォームなのに顔が輝いて笑顔も見せるから個性的で明るい。軍隊は指揮下にいて命令は絶対であるが、野球選手にチームワークは必要だが、個人プレーも楽しむものなので個性的で表情が豊かであると感じました。自由と個性的であるということは通じるものがあります。

 

さて、旅館で泉質のすばらしさを堪能して、休みましたが、旅先で興奮したせいか、なかなか寝付かれませんでした。家族が言うのは、草津も良かったが、ここはいいお湯だと感心していました。

 

翌日は銭形平次で有名な野村胡堂記念館へ行きました。家族と10年前から行くよと宣言していましたが、車がないと行きにくいので二の足を踏んでいました。

 

私は大川橋蔵が好きで、よくテレビの前にいて見ていました。

また、野村さんはクラシックの評論もお書きになっていて、記念館には古い蓄音機が多く陳列されていました。「あらえびす」というペンネームで。彼のクラシックの愛蔵版を紹介した本を昔読んでいたような気がします。気がするだけで確証はありませんが、父が若い時に日比谷公会堂で聞いたというヴァイオリニストのコンサートの感想はあらえびすの評と同じで、印象が深く残りました。

レコードの収集も多くて、給料のほとんどを趣味に投じていて、なんだか私の家族の趣味の走り方に似ていましたので苦笑し、それでもこの方の程度が並外れていたので、こっちのほうが上手で、家族の理解の深さに感心しました。

神谷美恵子さんと胡堂さんの息子さんとの交流は有名な話で、美恵子さんが胡堂さんを稲造さん以上かな、優しい方だと思っていたらしいので、周囲の方々に優れた方が多かったのだろうと感じました。

銭形平次には胡堂さんが言いたいセリフを好きに言わせていたと展示があったそうで、家族が指摘してくれました。わたしはうっかり見落としたので、感心しました。

 

その後、熊野神社にある昔は国宝だった毘沙門天像を見学に行きました。坂上田村麻呂の化身のようで、文化によって東北に影響を感動を与えたのだと解説をいただき、足元に邪鬼を従えさせ、足元を高く持ち上げられていて、邪鬼を踏んではいないところが特徴です。

昔は日本の軍神とまで言われていたらしく、それしても立派で見事でした。私は軍隊が苦手ですが、この像は威厳があるのに恐ろしさはなく、現在の大谷翔平のようなイメージです。

まあ、翔平さんほど親しみやすさはないが、強いのでしょう。

大谷さんが日本の毘沙門天みたいです。そんな感じを受けました。

 

その後、美術館を見学してから、帰りの途につきましたが、花巻の駅には大谷翔平さんゆかりの品があったようで、疲れていた私は後で家族から聞きました。

 

私はちょっと変わっているかもしれないが、よほどのことがないと夢中にならないで終わってしまいます。見た目ほど単純ではないかもしれません。

こだわると徹底しますが、そういつもそうだと自分が疲れるからかもしれません。

 

岩手にはほかにも行きたい場所がありますが、時間の関係でそれほど見られませんでした。賢治が名を付けたイギリス海岸を見学したのが、この地で最後に見た場所ですが、妙に印象に残りました。

そういえば、宮座賢治記念館の中に印刷所のことを展示したコーナーがあり、昔、図書館学を学んでいて、「出版は紳士の職業」という言葉を思い出しました。売れるから出すというだけではない信条のような決意を想起します。金、というのは魔力だが、それだけで人は動かないということです。賢治が小説家として残っているのも出版社に負うところがあったということです。当初、賢治の本はそれほど売れなかったのです。良書が必ずしも売れるとは限らず、読者がそれなりの素質を持つのも大事なことでした。

私がここで何か書くと、また誰かが知ったかぶりをするとか、ひけらかすとか言われそうですが、岩手にはプラチナ豚と呼ばれるおしい食べものもあって、その魅力を味わいに多くの方に知っていただきたいと思いました。

では、今夜はこれで。

 

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「秋の正倉院展見学と南山城の寺院巡りと奈良の円成寺へ」

2023年11月11日 22時54分17秒 | 日記

「秋の正倉院展と南山城のお寺めぐりと奈良の円成寺へ」 

私は、長年の夢だった、奈良の正倉院展へ行きました。

奈良は亡き父が「昔の国際都市で美しい聡明な女性が大勢いたんだよ。」と「奈」という字を入れた名前を私に名付けてくれました。

父が大切にしていた、並河萬里さんのシルク―ロードの写真展を眺めていて、やはり正倉院展には行かないと後悔しそうでした。

昔、中学時代の修学旅行で奈良の大仏様を拝見して、こういう人と結婚したいと思ったのがきっかけで、今思うと不遜だったと思います。

学生時代にひとり、朝早い時間に伺うと、昔は僧侶が走るように朝のお勤めをしていらして、今と違って多くの侍者である仏像に囲まれた大仏様がいらしたような気がします。

奈良にはのんびりと吉城園を散策してから、ランチを奈良ホテルの三笠でいただきました。大きな振り子時計のそばでアインシュタインが弾いたというピアノを眺めて座っていて、あまり時間を気にしないで過ごしていました。振り子時計の時を告げる音色をしっかり耳にしてから帰ったくらいです。

レストランの窓からも、二階の踊り場からも、興福寺の五重塔がたいへんよく眺められて、樹木の枝に小鳥がさえずっていて、ゆったりとしていながら歴史的に重みのある貴重な時間を感じました。

  正倉院展では聖武天皇ゆかりの遺品が多くあり、眺めながら正倉院の宝物はよく戦後も残ったものだと感心しましたが、どうやって守られたのか不思議でした。聖武天皇の僧衣、楽器、小刀、箱など細かい細工がたいへん見事でした。

鏡は素晴らしい宝石が散りばめられたもので、イランなどシルクロードを経て運ばれたものでできており、琵琶は楽器を奏でる楽人を描いた、紫檀に似せた色の琵琶で、背面はやはり螺鈿が見事に細工されていました。表面には「東大寺」という文字も拝見できました。

私は大工職人の孫なので、モノ作りが好きで、昔、小学校の工芸の先生から、のこぎりの扱いがいいとお褒めをいただいたことがあります。刺繡をしたり、絵具を扱って筆立てをこしらえたりもしたことがあり、今回出品された緑がかった水色に近い色合いの箱の色は、周りの同級生からその色の配合を教えてほしいと同じ色合いを真似されてしまった色合いと同じで、ちょっと嬉しく思いました。懐かしい色です。

小刀も飾ってあり、昔はこういうような小刀で鉛筆の芯を削ったものです。

説明を始めてたらきりがないくらいのものを数々拝見しましたが、最後の方で拝見した光明皇后のお経まで拝見したら、聖武天皇のお顔を想像できない(おそらく大仏様に似ていたらしいということを後に本を読んで知りました。)けれども、法華寺で昔拝見した仏像のことを思い出し、足を今まさに踏み出そうとした姿が光明皇后のお姿を写したそうで、光明皇后のお顔はあの方かと威圧を感じるような権威を感じて思い出しました。皇后の権威は後の藤原氏の繁栄につながっていくのがよくわかりました。古代の戸籍も残っているので、この時代に律令制度の完成をみたという歴史本の解説も納得できました。

聖武天皇の影が薄い印象があったけれども豪華な色を織り重ねた上に黄土色の糸を織り込んだ僧衣に、ああ、実在の人物だったと現実味を覚えました。東大寺のあの見事な琵琶を奏でたのは天皇ご自身だろうかと思いました。

翌日、家族とドライブをして、恭仁京の跡地を通りましたがが、海住山寺の眺めは壮観でした。

川と山のそばにあり、家族は洪水があって危ないのに、どうしてここに都をつくろうとしたのだろうと言うので、不勉強で答えられませんでした。おそらくここまでの間に都を移さないとならない戦禍とかあったのかなあと言ってしまいました。

聖武天皇は飢饉、洪水、疫病の流行など多くの課題があり、何度も遷都された記憶があり、仏教で国を鎮護しようとなさったと学びました。

毎年正倉院展を拝見したくても仕事や舅姑の介護もあってできなかったので、今回は念願がやっとかないました。

 自分が自由になったらもっと仕事をして旅も自由にと思っていたのに、今回は自分が年を意識して生活を余儀なくされて、なかなか思い通りにならないと思いました。

 

 翌日は京都と奈良の県境の南山城の寺院巡りをしました。

仏心熱い娘の伝説が残る国宝の仏像を拝見できる蟹萬寺を訪れて、その後、浄瑠璃寺へ向かいました。

 

南山城の九体阿弥陀仏像や吉祥天像で有名で、以前、今より若い頃に奈良在住の方が連れて行ってくださった場所で、家族にもお釈迦様のお導きの使者のような老紳士だったわと話して、その道をあの時の逆コースで回りました。

 浄瑠璃寺は京都の寺であり、平安貴族が浄土を模した庭園で、藤原道長が昔造営した寺は今、残っていないものの、同じような九体阿弥陀仏像を今も残している唯一の寺です。今は一体が東京国立博物館で一般公開されていて、お留守になっています。

 その後、岩船寺に伺い、まるまると大きなお身体の黄金の阿弥陀如来像を再び拝見しました。世の中が苦しい時こそ大きくなるのですと以前、教わりました。丹塗りの三重塔近くの梵鐘を鳴らして、感謝の意を表しました。

 その後は以前行かなかった、国宝の五重塔のある海住山寺を拝見してから、忍辱山円成寺へ伺いました。庭園も本堂近くもモミジがもう赤く色づいていました。

 

イチゴノキの実も赤くなり、以前出会った老紳士が「一期一会」ですからと別れに述べておいでだったので、その樹木は「一期」と書くのではないかと思いました。孤独に打ちひしがれた時に私の魂を救ったのはその老紳士の言動であり、夫以外にその方にたいへん恩を感じました。日本人男性の節制ある、紳士的な、大きな責任感と見守る視線の優しさを感じました。

老紳士と言っても、あの時はまだ初老だったのかもしれません。家族がどうしてそう親切だったのかと尋ねるので、私がほんとうに仏教に関心があると感じて、秘仏の吉祥天像を是非見せてあげたいと思ってくださったのでしょうと答えました。昔は簡単にここまでひとりで行けなかったからと。あの時、お寺の方々も見送ってくださったのよと説明しました。

日本の秋は穏やかな西方浄土の色合いに染まる夕暮れのように静かで死をも美しく感じさせてくれます。浄土とはあの世だけではなく、この世にも垣間見られるのでした。

山を下りてからは、僧の忍性が再興した般若寺の美しいコスモスを再び目にして、祈りを捧げました。

行き場のない人々をここで救ったと伺っています。コスモスが揺れるたびに、父が好きだった花だったと思い出し、風に吹かれても倒れないこの花は「柔良く剛を制す」という言葉も想起します。

奈良は、『伊勢物語』に「昔人はいちはやき雅をなむしける」と作者が述べた「初冠」の春日の里もあり、あの時代で「昔」なら現代はいったいどうなのだろうと考えてしまいます。

高校時代に伊勢物語を全部読みなさいと古典の先生に言われて読んだのですが、たいへん興味深い作品で、今回の寺院巡りとは違った歴史的な側面も見受けられます。伊勢物語全部はさすがに記憶が最近はあいまいですが、今回の旅で聖武天皇をもっと知りたいと思うようになりました。

では、おやすみなさい。

 

 

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2019年5月頃の奈良紀パート3 葛城の道の九品寺へ

2020年09月12日 23時36分43秒 | 旅行記

近鉄御所駅からバスで猿目箸バス停で降りて歩き始め、ずっと歩いてゆくと、室町時代の六地蔵石仏がある場所へ出た。

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ここからとぼとぼと歩いて、やがてあぜ道へ出て番水の時計を過ぎて、九品寺へと向かう。

誰も歩いていないので、のどかな感じで、遠く奈良盆地を見渡せる。

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九品寺は聖武天皇の時代、僧の行基が開祖で、空海が再興したと伝えられる。

裏山へ行く途中の細い道に千体石仏が並ぶ。

南北時代に南朝に加わった楢原氏の兵士を慰霊するために作られたという2000体の石仏がある。

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石仏にかけられた布が色鮮やかで、何とも言えず圧倒された。

静かな境内には、昔を偲んで来る人を穏やかにさせる雰囲気があった。

来るものを憩わせ、去る者に幸福を・・・という感じであった。

 

ここからさらに歩いて、一言主神社へ向かう。続く。

 

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2019年の5月頃の連休の奈良記2~大津皇子の古墳

2020年08月29日 21時58分03秒 | 旅行

奈良の当麻寺から歩いて、中将姫ゆかりの石光寺へ向かう。

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この寺には、中将姫が当麻曼荼羅を作るために、糸を染めたと言われる場所があります。

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使う糸は傍の糸掛け桜にかけられて、染の井で姫自ら染めました。

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寺は牡丹が見事に咲き誇り、藤棚も美しく咲いていました。

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静かな時間を過ごした後、いよいよ大津皇子のお墓へ向かいます。

二上山の頂上に正式なお墓があるのですが、私が調べたところ、ほんとうの墓は、鳥谷口古墳だと

言われていて、時間の都合でここまで足を運びました。

途中、人々が安楽往生を祈ることになった傘堂を見学しました。

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さて、いよいよ凄ーく歩いて歩いて疲れ切ったのに、どうしても大津皇子のお墓に行きたくて、

石光寺から延々と歩きました。

実は、中学生の時に万葉集が教科書に記載されていて、有間皇子と、大津皇子の姉の歌があって、

その悲劇性に魂を揺さぶられるような強い印象を持ったのです。

有間皇子(孝徳天皇の子)

  「磐代の浜松が枝を引き結びま幸(さき)くあらばまた還り見む」

  「家にあれば笥(け)に盛る飯(いひ)を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」

 

大伯皇女(おおくめひめみこ・・・天智天皇の血を引く大津皇子の姉で、伊勢の斎宮だった)

   「うつそみの人なる吾や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む」

 

 この奈良朝最大の天皇家の悲劇は、皇子たちが腹違いの息子を持つ義母に謀反の疑いをかけられて

死ぬことになったと言うことです。私はそう習いました。

現在の教科書にはないものです。

私は感動して、大人になったらいつか大津皇子のお墓に行こうと思いました。

なぜ有間皇子ではなく大津皇子なのか、当時は折口信夫の名も知らず、理由は自分でもわからない

のですが、姉の詠んだ歌に非常に心惹かれたのです。

今回の旅のメインは、葛城の道を歩くことと、この大津皇子への哀悼の意を表する旅でした。

私は行く前に本を探して読んで、ここがほんとうの大津皇子の墓だと知りました。

 

      

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政治の表舞台から去っても、時をはるかに経て人の心を打つのは歌であると思います。

千年経ても、私には古代の人の息遣いが感じられるのです。

古代人が生きた証が歌なのです。

誰がいけないとか、いいとかではなく、歌の力でここまで来ました。

私は歴史の資料が失われても、文学は永遠に生き続けると信じています。

姉の弟を想う歌にひかれて、とうとう来たのです。

どうか、今は安らかにお眠りくださいとお祈りしました。

私は忘れたことはありませんでした。

若い頃の思いは遂げました。

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2019年5月頃の奈良記№1~当麻寺(二上山)

2020年05月20日 11時27分35秒 | 旅行

私は2019年4月末に奈良の二上山の麓にある当麻寺へ伺いました。

ここは、国学者折口信夫ゆかりの土地で、ここにしばらく投宿していました。

そして、曼荼羅を自ら織ったという中将姫伝説で有名です。

折口信夫は、二上山に謀反の疑いで葬られた大津皇子と、この話をもとに、古代の幻想小説『死者の書』を書きました。

 

 

浄土信仰のこの御寺には、すばらしい仏像があります。

これから、坂を上って、上にある極楽浄土を表した奥の院の庭園に行きました。

 

二上山は、二つの山のはざまに夕日が落ちていくので、ここが西方浄土があると言われて、

中将姫は生きたまま浄土へ迎えられたという伝説が残っています。

 

ここの三重塔は、創建時から残る非常に古いものです。

私はここから、中将姫が曼荼羅に使ったという糸を染めたという石光寺へ参りました。

続く

 

 

 

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