仕事の合間に、去年は岩手県の花巻に家族と旅行しました。
わずか二日間の短い旅でしたが、非常に良い体験ができました。
私の恩師は桜の花が咲くと太平洋戦争に散った同期の仲間を思い出したそうで、小学生の時にその先生の存在はいたく心に印象を留めました。教師が子供たちを前に泣いていたのです。
私は戦時中のことを胸に子供のために骨を折って教育の現場に立っていた先生を思わずにはいられなかったのですが、先生はおそらく現実を批判するのではなくて、逃げ出さずに未来へ向けて子供と本音で向き合ったのでしょう。
その先生は宮沢賢治の作品をよく読ませました。私も教科書だけではなく、自ら読書を広げて作品を読みました。
擬態語、擬声語が多く用いられて、作品の発想も斬新で、それでいてファンタジックでもあり、表現力豊かでした。
宮座賢治記念館に行きたいという思いで伺いました。
東北新幹線は、よく乗った東海道新幹線と比べて停車した駅が簡素で、何かのローカル線の間違いではないかとおもったほど違いました。私は東北へ行くのはかなり久しぶりだったのです。
宮沢賢治記念館では休息場所にモニターが置いてあって、そこにはその記念館の職員の方が作品をもとに描いた動画が流れていて、その美しい絵や、個性的な猫たちの描き分けに見入りました。
そして、その近くの窓からは、今やたいへん人気のあるメジャーリーガーの大谷翔平選手の出身である花巻東高校がよく見えて、立地条件が良いのです。
受付の先に合ったロビーの窓からはきれいに赤く紅葉した葉が見事に一枚の錦絵となって眺められます。
宮沢賢治が鉱物に興味を持っていたこと、自然科学に強い関心があったこと、様々な情報を得られます。賢治の使用した楽器も陳列されていて、なんだか国立自然博物館に言ったような気分になります。
現代的な新しい施設で、詳細な展示なので、時間を気にしながら見ていました。
文学作品については書物で読めばいいのですが、宮沢賢治について知りたいなら、ここはやはり良かったと思います。しかし、わたしの記憶力がそれほど優れていないので、ここですべてお話しすることはできません。
やがて、宮沢賢治が手掛けた庭園のあるお屋敷に伺ってお昼をいただきました。
庭園の存在は、園芸を自分も好むので非常にうれしくなりました。
色とりどりの花がこぢんまりと咲いていました。
文化財のような建物の中でハンバーグをいただきましたが、中の造りも座敷が広く立派でした。
その後、近くの神社のそばを通り、この地で重要文化財に指定された大門を見学しました。
いかにも古そうな感じでした。
このあたりに城跡があります。
そこから、日本とアメリカとの懸け橋になりたいと国連でもご活躍した新渡戸稲造記念館へ行きました。ここは10年前から行きたいと思っていました。
途中、車道でなぜかクジャクが美しい羽を広げて佇んでいて、珍しいなあと眺めて、歓迎されたようで楽しく感じました。
記念館の前に植えてあったモミジが真っ赤に燃えるように色づいて綺麗でした。
そこは新渡戸家のご先祖についての展示が主にあって、この地に関わりが深くありました。
毘沙門天をたいへん尊崇なさっていたそうです。
稲造さんはここから他家にご養子になっていったのです。
ハンセン病治療の医師だった神谷美恵子さんが「稲造のおじさまは優しい方だ」とおっしゃっていました。内村鑑三さんは謹厳な方だったようで、美恵子さんは新渡戸稲造さんに親近感を抱いていたようです。
夕方が迫ってきたので、今は大ブームで盛り上がっていた大谷選手の母校に立ち寄りました。花巻東高校です。メジャーリーグの碑があるというので見学して旅館へ向かいました。
テレビを見ると、軍隊の兵士や隊員は制服組と言われるように顔に個性を感じないが、野球選手は同じユニフォームなのに顔が輝いて笑顔も見せるから個性的で明るい。軍隊は指揮下にいて命令は絶対であるが、野球選手にチームワークは必要だが、個人プレーも楽しむものなので個性的で表情が豊かであると感じました。自由と個性的であるということは通じるものがあります。
さて、旅館で泉質のすばらしさを堪能して、休みましたが、旅先で興奮したせいか、なかなか寝付かれませんでした。家族が言うのは、草津も良かったが、ここはいいお湯だと感心していました。
翌日は銭形平次で有名な野村胡堂記念館へ行きました。家族と10年前から行くよと宣言していましたが、車がないと行きにくいので二の足を踏んでいました。
私は大川橋蔵が好きで、よくテレビの前にいて見ていました。
また、野村さんはクラシックの評論もお書きになっていて、記念館には古い蓄音機が多く陳列されていました。「あらえびす」というペンネームで。彼のクラシックの愛蔵版を紹介した本を昔読んでいたような気がします。気がするだけで確証はありませんが、父が若い時に日比谷公会堂で聞いたというヴァイオリニストのコンサートの感想はあらえびすの評と同じで、印象が深く残りました。
レコードの収集も多くて、給料のほとんどを趣味に投じていて、なんだか私の家族の趣味の走り方に似ていましたので苦笑し、それでもこの方の程度が並外れていたので、こっちのほうが上手で、家族の理解の深さに感心しました。
神谷美恵子さんと胡堂さんの息子さんとの交流は有名な話で、美恵子さんが胡堂さんを稲造さん以上かな、優しい方だと思っていたらしいので、周囲の方々に優れた方が多かったのだろうと感じました。
銭形平次には胡堂さんが言いたいセリフを好きに言わせていたと展示があったそうで、家族が指摘してくれました。わたしはうっかり見落としたので、感心しました。
その後、熊野神社にある昔は国宝だった毘沙門天像を見学に行きました。坂上田村麻呂の化身のようで、文化によって東北に影響を感動を与えたのだと解説をいただき、足元に邪鬼を従えさせ、足元を高く持ち上げられていて、邪鬼を踏んではいないところが特徴です。
昔は日本の軍神とまで言われていたらしく、それしても立派で見事でした。私は軍隊が苦手ですが、この像は威厳があるのに恐ろしさはなく、現在の大谷翔平のようなイメージです。
まあ、翔平さんほど親しみやすさはないが、強いのでしょう。
大谷さんが日本の毘沙門天みたいです。そんな感じを受けました。
その後、美術館を見学してから、帰りの途につきましたが、花巻の駅には大谷翔平さんゆかりの品があったようで、疲れていた私は後で家族から聞きました。
私はちょっと変わっているかもしれないが、よほどのことがないと夢中にならないで終わってしまいます。見た目ほど単純ではないかもしれません。
こだわると徹底しますが、そういつもそうだと自分が疲れるからかもしれません。
岩手にはほかにも行きたい場所がありますが、時間の関係でそれほど見られませんでした。賢治が名を付けたイギリス海岸を見学したのが、この地で最後に見た場所ですが、妙に印象に残りました。
そういえば、宮座賢治記念館の中に印刷所のことを展示したコーナーがあり、昔、図書館学を学んでいて、「出版は紳士の職業」という言葉を思い出しました。売れるから出すというだけではない信条のような決意を想起します。金、というのは魔力だが、それだけで人は動かないということです。賢治が小説家として残っているのも出版社に負うところがあったということです。当初、賢治の本はそれほど売れなかったのです。良書が必ずしも売れるとは限らず、読者がそれなりの素質を持つのも大事なことでした。
私がここで何か書くと、また誰かが知ったかぶりをするとか、ひけらかすとか言われそうですが、岩手にはプラチナ豚と呼ばれるおしい食べものもあって、その魅力を味わいに多くの方に知っていただきたいと思いました。
では、今夜はこれで。