みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

成人式のお祝い~写真付き

2010年01月11日 07時32分06秒 | 日記・エッセイ・コラム

成人式おめでとうございます。 Img_2800

社会人になってもう立派に働いている方も多いことでしょうが、20歳になって選挙権も獲得し、これからの政治の責任と権利を行使することができます。

今、日本は政治的に混沌としています。
私も恥ずかしながらよく把握していないものの、投票で判断するのは自己責任で、もう「みんな一緒」から「ひとりでじっくり思案する」「悩んで考え抜くこと」でもありましょう。

親から庇護される立場から、やがて親の痴呆や体力的な衰えを感じ、自分が親の面倒を思案する時期がきます。

まだまだ先のことと思っていても高齢化社会です。
これは、まだ自分で思案するより重要課題です。
親の背中を見て、小さくなったなと思った時、いつまでも親に甘えていられません。
親に愚痴を言わず、親の喜ぶことをしてあげられるようになって、やっと一人前かも知れません。

しかし、親にとって子どもはいつまでも子どもです。Img_2823
しかし、親に孝行をしようと、親を優しい目でみてあげてください。

これは、一生親は子を心配するに違いないのですが、親に笑顔を送ってあげてください。
社会のご老人に優しくしましょう。
そして先輩達から多くを学びましょう。
孝は忠に通じると昔の人は述べていました。誰かのために死ぬことではなく、国家の前途を思案することに通じます。

私たちを育ててくれた風土や地域社会に感謝しましょう。子は親に育てられ、やがて世間さまにお世話になるのではないでしょうか。
住み易い国に、安全な国のため、ひとつひとつ身の周りを大事にしていきましょう。

まだまだ惑うことが多い私の自戒もこめた、20歳の方への言葉と致します。
心からおめでとうございます。

写真は、赤坂迎賓館と、天皇御即位20周年D30_9849 記念の皇居にての儀装馬車です。
いつか貴方が社会の檜舞台に立ちますように、祈っております。

大人は、孤独と辛抱の連続かも知れません。

しかし、世間にもまれて気づくのです。自分一人では生きていけないことが・・・。

だから、周りの人を大切にしようと思う心が生まれます。

精神年齢の低い私が言うのもなんですが、人生は人に多くを語らないだけで苦難や葛藤の連続で一生平穏無事とは行かず、失敗も多くあるかと思います。

しかし、そこであきらめてしまっては自暴自棄になります。

人生は挫折と立ち上がりの連続です。P1020159_2

それを世間の人が寛容に見てくれくているなら、感謝しなくてはなりません。そのご恩返しは、社会に貢献することなのです。

大きな目標ではなく、小さな目標からこなして行けば、道はやがて開かれることもあるでしょう。

失敗を恐れていては前に進めません。勇気を少し持っていくことを自分にも言い聞かせています。

みなさまにご多幸がありますように。


謹賀新年

2009年01月01日 00時00分00秒 | 日記・エッセイ・コラム

謹賀新年

Img_0805_3  旧年中はお世話になりました。

本年もどうぞよろしく御願い申し上げます。

写真は、「ピカソ」という名前のカラーのお花です。

花言葉は、素敵な意味を持っています。

珍しいので、撮影しました。

みなさまのご健康とご多幸をお祈りいたします。

わたし自身も含めて、社会もあなた様もご家族も、来年は良い年に「変化」「転換」して行くといいなあと願っています。

HAPPY NEW YEAR  

            2009(平成21)年元旦

                                          みなりん


昨今の殺傷事件に想起したこと

2008年08月10日 04時27分17秒 | 日記・エッセイ・コラム

○「孤独の中で畏敬の念を棄てないこと」

わたしは、モンテーニュの言おうとするところを簡単に書いておこうと思う。

"自分がどんなに孤独でも、常に自分より徳のある人を思い浮かべ、畏敬の念を抱いて、羞恥心と自分自身を大事にする心を持ち、己を律する心を喪失しなければ、誰一人自分を理解せずとも自問自答する習慣を身につけ、「分別」を身につけることだろう。
誰かにこうしてほしいとか、誰かの言葉を待たなくても、得られた教養の中に自分で大事にしたいと思うものを持っているので、自分で自分に満足できる。
しかし、仕事につくのであれば、退屈な仕事ではなく、やり甲斐のある仕事につくことが幸福感につながる。"

秋葉原事件で、加害者本人が特殊な例でないとしたら、それは雇用と仕事の質の問題でもあるかも知れない。
ただ、やはり彼の「分別」と「教養」がどの程度だったか、それはその個人の問題であり、解明が待たれる。自分を愛せなかったことは事実のようである。

おとといの朝、リサイクルゴミの回収にきびきびと働く若い青年の姿を見かけた。
ゴミ出ししていた人が彼に丁寧にお辞儀していた。
わたしも重い荷物を軽々と両手に持ち、使命感で溌剌とした生気のある、穏やかで凛とした彼の顔つきに引き込まれ、道すがら笑顔で会釈した。
すがすがしい感じだった。

仕事の質だけで人間性が全部決まるとは限らない。
自分の仕事がどういう仕事でも、責務を負っているという自覚とその心映えで、いかに違うか彼を拝見して頭が下がった。
それは、政治家、官僚、大手企業のサラリーマンより遙かに素敵な青年に見えた。
彼の仕事も、ありがたいとさえ思った。
彼の人徳だろう。

教養とは、こ難しい読み物が読める、読むだけのことではない。
彼には、しっかりした「己」というものを持ち、仕事に使命感を確かに感じている人にある、やり甲斐のある顔つきだったのである。
彼のような人がどういうものに関心を持ち、どう人生を歩んでいるか、それは学歴などよりずっと興味を持った。
ただただ、わたしは彼のその顔つきに強い好感を得たのである。
そういう日常の人々の生活を蔭で支えてくれている方々への興味に人々の関心が集まらず、無差別殺人者の分析や報道だけでは、今度の事件の原因究明はできないだろうと思った。

○「愛と幸福を巡って 」串田孫一
わたしは、自分を卑下しすぎる人は、非常に高慢な人と同じく嫌いである。
神経が過敏にトゲトゲしている気がして、怖い人だなと思う。
「どうでもいい」という言葉も嫌いである。
「何でもいい」と言われるのも嫌いである。
投げやりになるのは、一番危険で不幸であると思う。

串田孫一の言葉
「愛は利己的なものであってはいけない。その愛が立派にみのる時、自分もまた幸福になれるような、そういう愛でなければ本当ではない。
うっかり口から出てしまう「私はどうでもいいのです」という言葉の中に、私は単純に自己否定や犠牲を見ることは出来ない。
それは、すねているか、からかっている言葉である。
愛する人のために自分を否定して、どうして愛の力が生まれるであろうか。愛する人の歓喜を、すなおに自分も悦べる用意がなければ、その歓喜も、愛の完成もなく、生命の触れ合う幸福も望めない。
「私どもは愛する人々の幸福をねがうのは当然である」と言った後で、バートランド・ラッセルは次のように続ける。
「だが自分たちの幸福を棄ててまでこれをねがうべきではない」

*1915年、東京生まれ。哲学者、詩人、登山家。東京帝国大学文学科哲学科卒業。
上智大学、國學院大學、東京外国語大学教授を歴任した。
父は串田万蔵。(三菱銀行初代会長)

○愛の漢字の意味
漢字の意味・・・胸に満ちる愛情の意。
        行き悩む意。愛でる。
①いとしい。
②大切にする。
③情け
④かわいがる。
⑤慈しみ
⑥慕う。
⑦惜しむ。

仏教の煩悩という意味を抜かせば、要するに、自分や人を慈しみ、人を慕うことや、情けがあるかどうか、ということ。

自分を愛してほしいという気持ちより、誰かを愛したいという気持ちではないか。
愛するがゆえに葛藤する気持ちでもある。

○「漱石のモチーフ~沈黙」

マスコミの秋葉事件の解説を読んだり、聴いて、自分なりにこのところ思案している。
犯罪と、人々の取り上げ方についても思考してみた。

江藤淳氏の著書を読み返して、なるほどと思った。
わたしも自分の内面世界で感じたいろいろなことを自己表現する際に、絵や音楽・文学など様々興味を示すけれど、こういうことに通じていたんだなと思う。
以下、江藤氏の言葉を簡易に説明する。

  夏目漱石の小説活動のモチーフは、小説を「ただの話で済ませるものか」という決意 であった。
漱石の中には「人生は筋書ではない。」「人生は一篇の筋書きには帰省できない」という考えが頑としてあった。

あらゆる人間は、どんなに世間に知らずにひっそり人生を送っている人でも、社会面や週刊誌の記事に載る時は、この人はこういう人だったという陳腐な筋書きで説明されてしまう。しかし、その人にもやはり「沈黙」があって、犯罪者であろうが、売国奴であろうが、娼婦であろうが、泥棒であろうが、みんなそれぞれの沈黙を持っている。
これは容易に言語化できないものだ。
それらをすべて言語化すれば小説が書ける、文学作品が出来るという思いこみがあれば、とんでもないことだ。
しかし、ロゴスの世界に生きている人々にとって、宗教的な直感を得るための手段としての沈黙はあってもいいけれど、知性の発達の発言はすべて言葉で説明できなければいけないという前提にたっている。

漱石が異文化と激突し、そこで受けた深い傷は何だったかというと、自問自答し始めて、
「そんなはずはない」「沈黙こそが人間の本来の姿だ」ということではなかったか。
「沈黙」とは空虚ではなく、ひたひたと何ものかを堪えた沈黙である。
その沈黙と辛うじて釣り合うような言語世界が出来れば、それがただ一つありうべき筋書きになるかも知れないが、ただの言語の集積だけかも知れない。そんなことを、あれこれ試行錯誤したのだろう。

だから、漱石は、小説以外の形式を自己表現にも模索した。
絵を描いたり、書を書いたり、漢詩を作ったり、なんとかして沈黙に釣り合う言語の世界を構築しようとした。
絵だって、絵画的言語という一種の言語だ。
漱石はそのように表現形式を多様化することで、初めて十全な自己表現をできると考えていたのではないか。

・・・・という文章を読み、うまい言葉が見つからないが、自己と向き合い、自分のやり場のない気持ちを発露し、あるいはほかの人からのメッセージを汲み取ることができる感受性があれば、あらゆる場所で発信されている、「人は共通・連帯する同じ孤独や意識を持って堪えている」ことに気が付くのではないか。
そこから、自分を大事にし、他人も大事にしたい「慈しむ」心が全くなくならない限り、人はそうそう人間らしい優しさを捨てないと思えるのだが、どうも下手な解説しかできない。

いきなり、漱石を持ち出すところ、とっぴかも知れないが、以前この日記で書いた「人間の良心は沈黙にある」に賛同した答えにはなっているだろうか。はて。さて・・・・。

○貧しさと絶望と歌

マザー・テレサの言葉

貧しさにはいろいろあります。経済的にはうまくいっているように思われる国にさえも、奥深いところに隠された貧しさがあるのです。それは見捨てられた人々や苦しんでいる人々が抱えている極めて強烈な淋しさです。

わたしが思うのに、この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、誰からも必要とされず、愛されていない人々の苦しみです。
また、温かい真の人間同士のつながりとはどういうものかも忘れてしまって、家族や友人を持たないが故に愛されることの意味さえ忘れてしまった人の苦しみであって、これはこの世で最大の苦しみと言えるでしょう。

キエルケゴール
「死に至る病」・・・・絶望

これらの言葉は真実だ。経験がある。

わたしは、誰にも理解されないと思う時、自暴自棄になってもいけない。
歌があって、孤独から抜け出せる。

親が、恋人が、世間が、すべて自分の不幸を他人のせいにしては、自分も周りも全く変わらない。

B’z 「love me, I love you」

♪なんかあいつに期待過剰なんじゃないの
人の心はどうしても何か足りないけれど
そこんとこで得るべきなのは
恋人じゃない親でもない
ねえ、そうでしょう ・・・・・・

Iove me, けちってなにで僕はもっと愛をだせる・・・・

♪都合良いものだけ引っぱり出して
自分の運の悪いところを
そいつにべっとりなすりつける癖
ないかい・・・・

♪けなしてないでたまにゃ海も山も人もほめろよ・・・・

B’zの新しいアルバムの発売。20周年おめでとう!!
そして、歌謡曲からでも、大事なことをしっかり受けとめたい。
自分だけが苦しいのか、そう思いこんでいけない。
みんな、誰もが悩みを持っている。黙っている。

わたしは感受性が壊れた時に、人は凶行に走っているのではないかと危惧する。

○「妬み~兄弟争いの教訓より」
昨今の無差別殺人の被告の「みんなが妬ましい」という感情について、思案してみました。

以前、書いたことがある内容ですが、わたしの幼少時はけして豊かなものではなく、みなさんが不二家でケーキを気軽にお買いになっていた時、子どもの頃、母に買ってもらえなくて、みんなが羨ましいと述べたところ、
「人の家は、中に入ってみないとわからないわよ。」
と母が申しました。そう述べて話した内容に、兄弟争いの民話がありました。

あるところに、目の見えない兄と、健康体の弟がいました。
兄は、弟がいつも自分に芋しか食べさせないので、きっと自分だけいいものを食べているに違いないと妬み、ある日、とうとう弟を殺してしまったのです。
それを見ていた神様が弟を気の毒に思って、目の見えない兄に、弟の腹を割いて、一時目を見えるようにしたところ、弟の身体の胃からは、芋の皮・葉や蔓しか出て来なかったのです。
兄は、自分のしたことを強く恥じて、また泣きすぎたため、目が見えなくなってしまいました。
確か、最後は血を吐くまで泣き続けるホトトギスになったと思いますが・・・。
・・・たぶん、こういうような内容だったと記憶しています。

わたしは、今は幼少時より豊かですが、子どもの頃のように純粋に生きる喜びに欠けてしまったようで、自分を戒めているところです。

わたしは物質的にお困りでない方でもこう述べているので、胸をつかれました。

皇后陛下の講話の中に、新美南吉の「でんでん虫の悲しみ」があり、誰かに次々と自分の悲しみを相談しても、みんなが自分にも大きな悲しみがあると言われて、自分だけが悲しいのではなく、嘆くのをやめようと思ったというのです。

この「みんなの悲しみ」をきちんと理解できないと、誰でもいいから殺してやろうとなるのではないかと思ってしまいます。

あと、ロシアのソログーブの「身体検査」という話がありました。
母親は盗みの容疑をかけられて無罪になった子どもにこう言います。
「何も言えないんだからね。大きくなったら、こんなことどころじゃない。この世にはいろいろな事があるからね」と嘆く言葉があるそうです。

わたしの母も、わたしが嘆くと、「生きてこうして趣味を楽しめるだけいいじゃない」と述べました。そうです。この世には、生まれた時から戦争しか知らない子どもがいます。
今も虐殺されている人がいます。

「馬鹿とはさみは使いよう」という諺があります。
はさみも、使いようによってはいいのです。
馬鹿と言われる人も、ほんとうは違う分野で素晴らしい素質があるかも知れません。

異色の芸術家では、山下清さんなど、絵には天才だったというではないですか。
しかし、実のところは、馬鹿というのは、「馬」と「鹿」を勘違いしても「鹿をさして馬となす」と、頑固に自分は間違っていないと言い放ったまま、謝罪も訂正もできない、忠告した人を恨む自己本位の人を差します。
本来、知的発達障害者はそうではなく、自己中心的な身勝手な人のことを「馬鹿」と言います。「言っても言ってもわからない馬鹿」です。

皇后陛下のお話に戻すと、さきほどの兄弟争いもそうですが、自分のことばかり考えこんではいけないのだと言うことではないでしょうか。

自分だけで生きてきた、そう思うことを転換しないといけません。
多くの人に支えられている、そう感じて生きていく心が大切で、わたしも時々忘れることがあります。
気をつけたいものです。
たとえ、悲しく辛い時期でも、「でんでん虫の悲しみ」「兄弟争いの教訓」を思い出してみたいものです。

○  「人の苦悩」

生きている限り、苦悩と葛藤からは抜け出せない、そういう自覚は大切です。あとは、自立心、難しいかも知れないけれど「克己心」というものが重要視されるのかも知れません。
ただし、社会的な貧困の問題は現代切実であり、多くの富を得る人がいる一方で、無惨で人間の尊厳も奪われる人もいることを、政府および国家は認め、憲法にある「必要最低限の生活の保障」は必ず確保しなくてはなりません。

でも、世の中に、「傷つかない人はいない」「みんな少しづつ意地悪」「人は自分が相手を傷つけたことはすぐ忘れるが、自分がされたことは忘れない」ものです。
はっきり言って、善人だけの人も悪人だけの人もそういない。しかし、時々、みんな自己本位になるのです。それに挫けていたら、生きていけません。

TULIPの歌

「心を開いて」
作詞:財津和夫

「人の口はいつもうるさいもの
とぼけた顔して生きてゆくのさ
いくら悩んでもむだなことさ
だって死ぬまで一人にゃ 
なれないものだから

人生はいつも 見せかけと違う生き物の様に君にのしかかる」

夏目漱石の小説「草枕」の冒頭の文章の内容に似ている。

人でなしの国にいくわけにもいかない。
だが、苦手な人はいつの時代にもいる。
みんなの欠点を数えていては友人はいなくなる。

「私の小さな人生」
作詞:財津和夫

「歩いても歩いてもいつも一人だった
人はおかしな男と言うけれど
私の小さな人生はこれからどんなに変わるのか

花の開く音も 人の歌う声も
私には淋しく聞こえてくる
できることなら死んで行くその日まで
歌を歌って生きて行きたい」

あんなに有名なトップ・スターの財津さんも、B'zの稲葉さんも、心に大きな悲しみや苦悩があって葛藤してきたのだろうと思うと、自分だけが不幸とは思ってはならないと思えてくる。

みんな孤独だけれど、どこかつながっていて思いやりも持てると思いたい。
意地悪の連鎖に加わらない、でも優しさの連鎖には共感を持てるほど、強く生きるしかない。

これは、わたし自身への戒めでもあり、愛は自分から愛さなくて得られず、優しさも自分が優しくなければ得られない。傍にいる人の善い面を見て、「人間」は「間」を大事に人と接することができなくてはならないのだろうと思う。
人を憎む人は、自分も醜くなり、険が顔に出る。
嫉妬ほどいやな感情はない。
それを抑えるのが、人間の人生修行なのかも知れない。

わたしは、人からよく「あいつは駄目だ。あいつは馬鹿だな」という目で見られがちの方であるので(そういうのは感じるものだ)、人の小馬鹿にした態度は理解できるが、自分は人をそう思ってはならない、見下してはならない、そう自戒したい。
上司で部下を怒鳴りつけたり、解雇をちらつけせたり、罵詈雑言したりする人を見てきた。
怒りを抑える、そういうことは実は難しいが、心がけるしかない。

社会がいたるところで発信している、自分だけが不幸ではないんだ、悲しいわけじゃないんだ、そういう感性を育むことが、とても大事なことだと思う。
そして、どんな人間にもプライドはあり、それを人は否定してはならないのだろう。


源氏物語を考察する~光源氏のモデル論ほか

2008年07月15日 05時08分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

「源氏物語を考察する~光源氏のモデルなど」

1 「源氏物語 光源氏 」

わたしは、この先日、京都へ行って参りました。
詳しくは、後日エッセイにしたいと思います。

現在のJRの広告や有力説として、光源氏は実在の人物ではないものの、モデルに源融(とおる)ではないか、というので、清涼寺や大覚寺では祀っていて解説にもありますが、わたしは学生時代に折口信夫の貴種流離譚と捉えていたので、源融がモデルと言い切ってしまうことに少し躊躇いました。

わたしは更衣を母とする、源高明(たかあきら)が有力かなと思っていましたが、在原業平の「伊勢物語」のように、モデルとする人物が複数存在し、物語を紡ぎだしている気がしてなりません。

そういう論文がもうあるかも知れませんね。ただ、断定して源融にしてしまうのはいいものか疑問でした。
しかし、清涼寺や、源融という人の魅力はあったでしょうし、光源氏に似ていたかも知れません。ただし、高明という人もなかなか魅力的な貴族でした。

いつか語る機会があればいいなあと思いますし、大覚寺は見応えがあり、清涼寺に行き、王朝絵巻のような大覚寺に行くと、源氏物語へのイメージが膨らみました。

2「源氏物語 光源氏のモデル推察 1」

わたしは日本文学の平安朝文学専攻ではないので、素人に近い。「源氏物語」もところどころ知っている程度でお粗末であるが、光源氏のモデルは誰か、ちょっと気になった。

清涼寺や大覚寺で、源融(とおる)がモデルであると、はっきり書いてあったので、わたしがそうかなあと疑問に思ったことを記述したい。

まず、源融がなぜモデルかというと、源融は六条院のわたりに広大な邸宅を営み、邸宅は「六条河原院」と言われたのだ。六条の御息所の邸宅の跡に、鎮魂の意味で光源氏が設けた六条の邸宅があったのと同様であり、巨万の富で河原院や山荘棲霞観などを営んだことから、有力モデルと書かれた看板があった。

嵯峨天皇皇子で、嵯峨一世源氏。仁明天皇の養子になり、源朝臣を賜り、臣籍降下。左大臣から正一位追贈される。
しかし、「大鏡」に陽成天皇の譲位に際し、皇位を望んだと言われる。
後、河原院は宇多上皇の領地になった。

河原院には、融の霊や鬼が出没したことで有名で、どうも光源氏と全部重ならない。

『江談抄』巻四には、宇多院と京極御息所が宿泊なさると、融の霊が出現して御息所をいただきたいと願い、叱責した院の腰を抱き、御息所が失神し、加持祈祷で蘇生したと言う話がある。

宇多院は、融の霊の苦しみから逃れるため、読経のようなことをさせたり、融の子どもによって、河原院が寺とされ、のちの祇陀林寺に移したと伝記される。
現在、本覚寺と錦天満宮に塩竃社があり、融を祀る。

藤原良房、基経の執政下で政治力はそう及ばなかった。

だが、陸奥の塩竃を模したと言われる景観の六条河原院と言い、棲霞観も嵯峨の風物をいかんなく取り入れた、素晴らしいものであっただろう。

曾孫に親王が生まれ、なかなか素敵な方だったらしく、血筋のつながる源融も魅力的でそれなりの深い教養があり、ひとりの光源氏のモデルとして挙げられるのはそうかも知れないが、実在の人物というのは言い過ぎているような気がした。

実は、昨日金田元彦先生の本を借りて来て、ぱらぱら拝見したところであるが、わたしは「源氏物語」は実際にあった話をあれこれつなぎ合わせ、「女源氏物語」として書かれたものだという認識でいたので、詳細はここでは省くが、多くの公卿の説話や実話を紡ぎ合わせているらしいというのは、金田先生も、わたしは存じ上げない折口信夫先生もお話になっていて、学生時代の講義にそのお話が耳に残っていた。
勉学浅く、こういう程度しか今は述べられないのを恥じながらも、少しづつ書いていきたい。

まだまだ光源氏にはモデルと言われる人物がいる。
次回は、源高明(たかあきら)について書きたいと思う。

3「源氏物語 光源氏のモデル推察 2」

わたしは、単純に源高明やそのほかの源氏の方々の物語をつなぎ合わせたのだろうと、最初思っていた。いや、紫式部に紙を与え続けていた藤原道長の、栄華へ通じる話だとも思っていた。
しかし、金田元彦先生がいらしたら、「勉強が足りなくて恥ずかしくないの?」とお叱りを受けるところである。

①嵯峨天皇、仁明天皇の時代は?
②宇多天皇はどういう方?
③源氏にはどういう流れがあるか
④光源氏の邸宅は?
などなどを知っておく必要があった。

浅学な身には、これはまた「無知の告白」になるが、致し方ない。
気軽にみなさんが読めるように、そうおかしくない程度に簡単に書いていこう。

今回、複雑になるので、女源氏については極力話題を避けたいと思う。(ほんとうは不十分だが・・・)

(以下、参考:折口信夫氏と金田元彦氏)

まず、源融説であるが、先帝(せんだい)という物語の言葉に注意する。
ある天皇と系統の違う天皇のことであり、今では天子の系統から遠ざかっている前の人ということで、つまり、直系ではなく、傍系の筋の前の天子を言う。

わたしはしばらく本を眺めて思案した。利口でないので、思考回路が躊躇っていた。

結論から言うと、「源氏物語」は「王氏」つまり王家の氏のお話の謎が隠されていたというのである。
宇多天皇の父方は、嵯峨天皇・仁明天皇・光孝天皇と続く血統であり、母は桓武天皇の王孫の斑子女王で、父母ともに王氏の出身であった。
宇多天皇は、桐壺の巻に実名で登場し、さらに「前朱雀院」の名称で再登場するからである。

源融と宇多天皇との確執が霊になってあらわれるほどであるなら、それは源氏物語の若菜の巻の裏側にある、朱雀院と光源氏の家督相続の争いが理由であった。
そういう意味で、源融は光源氏のモデルと言えるのだろうか。

なぜ、源融の六条河原院が宇多天皇に献上されたかは不明なものの、王家へ財産が譲られていく。宇多源氏へ継承される点を思案しなければならない。
宇多天皇から血筋は、醍醐天皇へと続く。

そう考えると、先帝の系譜と考え合わせて、女三の宮と結婚することで父帝朱雀院の財産を光源氏は得て、さらに前坊の北の方である、六条の御息所と関係したことで、御息所の財産が、当然自然な形で入ることになる。

「源氏のほんとうの財産は、二条院である。(これは、後にモデルとして、藤原兼家があげられる根拠になる)」

さて、平安時代の「女御・更衣」制度は嵯峨天皇の時代に固定された。
そして、嵯峨天皇の御子の中から、源氏姓を賜り、一世源氏、あるいは一世の女源氏が成人して、宮廷で活躍した頃である。

嵯峨天皇の御子、仁明天皇の後宮は、父の嵯峨上皇、母の檀林皇太后を後見として、華やいだ。
それが、源氏物語の冒頭部の華やかな記述と一致する。
「女御・更衣あまたさぶらひ給ひける」時代。

嵯峨天皇には50人ものお子さんがいらして、嵯峨源氏として臣下に下した。
そいういう意味では、源融説は、醍醐天皇の皇子より有力になるが、明石・須磨に行く源氏の姿などを想像し、他の部分において思案すると、有力モデルのひとりということになる気がするのである。

今日は、下手な解説ながら、ここまで。次回こそ、源高明のモデル説へ行きたい。
さらに、藤原兼家に進みたいが、脱線するかも知れない。
専門家が読んだら、これでいいのか?と青ざめるかも知れないが、わたしの知識のなさと、字数の関係もあり、失礼します。

5「源氏物語 光源氏のモデル推察 3」

源融説は有力ながら、源高明をはずして思案はできない。
しかし、その前に宇多天皇という方のことをお話しなくてはならない。

平安時代の歴代の天子と違って、生母が純粋な王氏の方であったことが、宇多天皇の御名を後世の人に語り伝えさせる一因になっている。
そして、宇多天皇の人生自体が古代物語の主人公にふさわしいのである。

①お生まれになった時が一世の定省王
②源氏姓を賜って、源定省と名乗る
③定省親王になる
④陽成天皇の御代には侍従職になる。
⑤皇太子となって帝位につく
(陽成天皇は不快だったらしいことが「大鏡」に見受けられる。)
⑥上皇になられてから、出家なさって仁和寺に籠もられる。
(朱雀院が女三の宮の降嫁を決定して西山の御寺に籠もられるのと似ている)
⑦女三の宮と過ちを犯した柏木が大切に持っていた横笛は、なんと陽成天皇御所蔵のものであった!(宿命的な暗示)

なお、鷹司の上、藤原倫子は宇多源氏であり、兄の左大臣藤原雅信の系統で、押しもおされぬ権力者、藤原道長の第一夫人(正室)である。
そのため、宇多源氏の流れを組む方々の説話が、源氏物語に数多く投影されている。

紫式部にとっては倫子は又従姉妹であり、お仕えしていた彰子の母である。
従って、宇多源氏の男性の方々で、源氏物語のもとになるお話も多いのである。
今回は、細かいモデル分析は時間がないのと、金田先生のお考えである故、ここでは避けたいと思う。

さて、大事なお話は、源氏物語に山ほどあるが、ここではいわゆる一般的なモデルを思案してみたいと思う。

辞典には、源高明を古くから光源氏のモデルと言われ続けられ、書かれている。最近は変わったようだが・・・。

「源高明」、平安中期の公卿。西宮左大臣と称される。
醍醐天皇の皇子。母は、更衣の源周子。
源氏姓を賜り、元服の翌年に従四位上で出身。参議となり、累進して冷泉天皇の左大臣に昇ったが、翌年安和の変で失脚。太宰権帥として配流された。

右京四条の広大な西宮第は配流後炎上するが、この邸のことは「池亭記」にも記されている。

琵琶の名手で、和歌にも秀で、朝儀、故実に精通し、一世源氏の尊貴さもあって、朝廷に重きをなし、恒例、臨時の儀式、政務を記した「西宮記」は以後の貴族政治における重要な典拠の一つとされ、現在も王朝政治・文化研究の貴重な史料である。

九条流の故実の祖、右大臣藤原師輔に信頼され、その三女を室とし、その娘が亡くなると、五女を室としたが、師輔が早く亡くなると、後援者を失ってしまったのである。

高明の娘は、村上天皇の皇子にに嫁いだが、藤原氏に忌まれて、皇位から疎外される。

高明は帰京し、封戸も賜ったが、政界へ復帰しなかった。

晩年、娘の明子が藤原道長の室になり、数子をもうけた。
その息子たちは政界で活躍する。

源高明の三男は、関白藤原道隆の信任を得て蔵人頭になり、藤原道長の傍で累進し、権大納言に至る。政界で活躍したが、最後は出家した。

儀式、政務に明るく、詩文の才能もあり、藤原公任らとともに、四大納言と称された。

異母妹の明子は道長の室であり、彼も光源氏に似て、道長から見て、その父の源高明は憎い存在ではなく、親近感があったのではないかと推察する。

かなり一般論になったが、次回は藤原兼家の紹介に行ければと思う。

6  「源氏物語 光源氏のモデル4」

源氏物語の設定から、「花鳥余情」*1では、おおかた、藤原兼家の二条院を念頭に置きながら、書いたのではないかと推定されている。

*1 一条兼良(1402~1481)による中世の『源氏物語』の注釈書。応仁の乱を避けての奈良滞在中に書かれ、文明四年(1472)成立した。
 龍門文庫本は、その六年後の文明10年(1478)に、後土御門天皇の勅命に応えて書写されたもので、第一冊(巻1・2)は、兼良の自筆である。
 貞治4年(1365)奥書のある『紫明抄』5冊と共に同じ木箱に収納されている。

紫式部は、光源氏の本邸を二条院として、物語を始め、光源氏はここで生まれ、桐壺更衣はここで亡くなる。

そして、光源氏が六条院を完成した後、空蝉と末摘花は二条院に迎えられ、女三の宮の御降嫁の後、数年後、紫の上は発病し、再び二条院にもどってから亡くなる。なぜか、二条院には「もののけ」が登場し、ここで亡くなる方の死は尋常ではない。

なぜだろうか。それは、藤原兼家の説話が、源氏物語に投影された必然性を思案してみよう。
「がけろう日記」の著者は、兼家の妻であるが、なぜか、兼家は著者55歳で亡くなる間、すくなくても15年間は夫の生活の一部始終を見聞していたのに、ある期間、日記にはしたためておらず、夫の死後20年生き続けながらも日記を公開せず、異腹の長男関白道隆が積善寺供養をした翌年、著者は亡くなる。

書かれなかった15年間の間、二つの大きな事件が起きている。
花山天皇の御退位の事件であり、もうひとつは女三の宮との結婚である。

兼家は、年来の妻時姫と死別し、やもめ暮らしに近かった。
そして、村上先帝の御女(むすめ)三の宮には、末摘花、女三の宮とはなんと共通する大事なことがある。
おふたりとも、琴(きん)の名手であった。

七弦琴の名手は、紫式部の執筆時期には、中国から伝来した古楽器であり、ほとんど演奏者のないまま伝えられていた。この楽器を演奏できるのは、光源氏、末摘花のほかに、光源氏が直接教えた、女三の宮しかいないのである。(源氏物語で)

ところが、現実は、村上天皇の皇女、女三の宮も琴(きん)の琴の名手であった。
女三の宮は、父君の村上天皇が姫19歳の時に亡くなり、祖父の左大臣も姫22歳で亡くなり、母御息所の消息も行方不明で、末摘花のような廃墟にお住まいだった。

藤原兼家は、その姫と、宮37,8歳の時に結婚し(たいへんな晩婚)、宮は一年間の結婚生活で亡くなった。御年39歳である。

話を二条院に戻すと、「大鏡」によると、女三の宮のもののけが交じっていたと言う。
女三の宮は結婚一年足らずで尼になり他界した。
女三の宮は兼家を恨み、死後、もののけとなって、兼家を狂わせたと言う。

兼家は、44歳以降、権大納言になった時以来、時々気持ちが落ち着かなくなったと「かげろう日記」にも見受けられ、それは晩年まで続く。

藤原氏が、もっとも恐れていたのは、さまざまな形で不孝な一生を遂げた女性の怨念ではなかっただろうかと、金田元彦氏は述べている。
紫式部の叔父の仁海は、名僧で「もののけ」の退散呪法に長じていたと言う。

「河海抄」*2によると、村上天皇の皇女、選子内親王(女三の宮の異母妹)の命を受けて、上福門院(彰子)が紫式部に源氏物語を書かせたとされている。
不幸な女性への鎮魂をこめていたのかも知れない。
女三の宮に関心が深いことがおわかりになることだろう。

*2 「河海抄」は、源氏物語のいわゆる古注のなかで最高の水準にあるものとされる
著者:四辻 善成(よつつじ よしなり)、南北朝時代から室町時代中期にかけての公家・学者・歌人。号は松岩寺左大臣。父は尊雅王。祖父は四辻宮善統親王。順徳天皇は曽祖父にあたる。

*2  順徳天皇の末裔で代々「四辻宮」を号した。妹に石清水社祀官・紀通清妻、智泉聖通がおり、その女良子が足利義満・満詮の生母となる。1356年(延文元年)源姓(順徳源氏)を賜り臣籍に下る。関白二条良基の猶子となり、その庇護を受けた。

*2  将軍足利義満・管領斯波義将の後援があり、1395年(応永2年)に左大臣となり、まもなく出家した。

*2  歌人・古典学者としても知られ、若いころに河内流の源氏学者で二条派歌人の丹波忠守の薫陶を受けた。大臣や将軍をはじめ、地方国人にも古典を講じて人望があり、「正六位上物語博士源惟良」の筆名で、貞治年間、「源氏物語」の注釈書である「河海抄」を将軍足利義詮に献じている。

 
 折口信夫は源氏物語のもとの形は、「女源氏の物語」ではなかったかと推定されているが、源氏物語の本質は、女性の宿命の悲しさを描きながら、不幸な一生を送って亡くなった、さまざまな女源氏の物語と思案するのが不自然ではなく、折口先生は見事に卓見なさっていると金田先生は述べられる。
わたしがこのHPで省略してしまった、女源氏の物語、ご興味があれば、金田元彦氏の本でお読み下さい。たいへん詳しく書かれてある。

なお、六条院の方も、JRや京都観光協会に嫌われそうだが、宇多天皇亡き後、寺になるまで荒れ果てて、やはりもののけが出て、実は身よりのない藤原氏の女性たちを収容した
場所であった。女が大勢集まり、どう過ごしたか。

光源氏はただのプレイボーイではなく、多くの女性を愛しながらも、けして最後まで見捨てることはない、頼りがいのある男性であったことを考慮されたい。
 当時、夫に見捨てられたら、生活にこと困った姫君たちにとって、複数の奥さんを持つのが当たり前の時代でありながら、だれに対しても行く末に心配った光源氏は、救いの存在で理想の男性に見えたことであろう。

多くの女性が晩年出家するのは、実に現代から見ると、光源氏の罪のようだが、当時は30歳で「床離れ」が常識であった。
仏の道で晩年心穏やかに過ごし、自殺した女性がひとりもおらず、天命を全うしたことは、けして当時は不幸なことではなかったと思案すべきであろう。

ざっと駆け足で、書いてきたが、大事なことは、この「源氏物語」は、さまざまな伝承説話をもとに構築されていて、「光源氏」という実在の人物はひとりいたわけではないが、全くの絵空事ではなく、荒唐無稽な話でもなく、多くの大事な王朝の実話が秘められているということである。

そして、紫式部は、「かな」で嵯峨天皇から、藤原道真の時代までの日本紀を書いてみたかったのかも知れないが、史実がリアルだと支障があるので、いろいろ脚色をしながら、書いたものであるのだろう。

おおざっぱで申し訳ないのですが、以上、源融から始まって、モデルの重要な部分だけ取り出してみました。

7「「源氏物語の美学の本質を推察する」

「源氏物語」の美学の本質として、金田元彦先生は、こう述べられている。
「源氏物語」は季節と人生との関わりが実にうまく描けている文学であり、その美学は宇多・醍醐朝の美学を理想としている。

宇多・醍醐朝の美学とはなんだろう。一言で言えば、「古今和歌集」の美学である。
醍醐朝に完成した「古今集」の美意識と季節感が「源氏物語」の骨格を作っている。

紫式部は、娘時代、曽祖父の造った邸宅に住んでいた。4,5千坪あった邸の東側に数千本の桜が植えられていて、紫式部の少女時代、毎年美しい花を咲かせ、式部の詩情ををはぐくんだと思われる。

花の季節には、それにふさわしい装束を着るのが、平安時代の貴族のならわしである。
それを「襲ねの色目」と言う。(醍醐朝の歌合わせの記録に、この華麗な色目の記述が眼に付く)

早春なら「紅梅襲ね」、桜の頃は「桜襲ね」、次は「山吹襲ね」、「藤襲ね」・・・。
折々の花を装束に移してたしなむのが、平安時代の美学である。

この風習は、「古今集」ができあがる前後から平安貴族ではやった「歌合わせ」のためで、年々盛んになり、歌合戦がファッション化して服装がだんだん洗練され、季節の花を歌に詠むばかりではなく、服装のデザインの上にも季節の花を取り入れるようになったのである。

当時は、「歌合戦」というと、青組と赤組であった。(白と赤というのは源平合戦以後の対抗色である)

 桜が大好きだった紫式部は、自分の好きな女主人公の登場する場面には、必ず、美しい桜の花をびらを散らした。
それは、平安朝の「桜の園」にはぐくまれた紫式部の心のよりどころが、「源氏物語」にも美しく投影されているせいかと思うと、金田元彦氏は述べていらしゃる。

 また、嵯峨天皇を語らずにはおけない。嵯峨天皇の唯美主義的なところは、似ている部分がたくさんある。金田先生は、万事に心配りが行き届き、先の見通しもよい、嵯峨天皇と光源氏が同一人物かと思うほど似ていると言う。
「文華秀麗集」が撰進され、文学の美そのものを求めようとする唯美主義的文学観が打ち出された。類題として、新しく、「艶情」を部として設けているのも新しい試みであった。

ほかに、嵯峨天皇は、天子の常の服を「黄櫨染の御袍」と定められた。この規則は千年以上も生き続け、今日でも古式にのとった儀式には必ず、天子はこれをお召しになる。
さらに、嵯峨天皇は「花の宴」の創設者であった。
現在もなお、「観桜会」という形で残っている。
また、嵯峨天皇は舞楽をお好みになり、男子の朝服の裾は唐風の短めから、平安朝には膝を越えるほど非常に長くなったらしい。

これらは、金田元彦氏の晩年の本の抜粋でもあるが、たいへん参考になる。

良き先生の良さを十分理解し、己をわきまえるには時間が必要だった。
あまりに長い歳月と辛苦が・・・。

この説明に、わたしの説明不足が多く見られるので、ご注意願いたい。

そして、小林秀雄氏の話で言うと、「源氏物語」は「もののあはれ」ですよ、と折口信夫先生が述べられたそうである。
これを説明するのはここで至難の業であるので、勿論省略する。

源氏物語は、ストーリーだけではなく、その背後にある歴史的なことを考慮になさると、ただの遊び人文学ではない、非常に美学的、教養的な文学であることなど、さまざま理解できる。
わたしは須磨帰りしてしまうような学生だったから、源氏の講義をできるような身分ではないが、そんなところに着目して、是非専門書もご覧下さい。

8「女源氏と、歌舞伎・鳴神上人(雷神不動北山櫻)」

今日は、「源氏物語」のふだんの視点と全く違う方面から、歌舞伎の世界にも登場する女源氏である姫君を紹介しましょう。

*参考:金田元彦氏の本

「源氏物語」には、「女源氏」と呼ばれる方々が登場する。
「女三の宮」「藤壺の女御」などの貴種の女性方である。
折口信夫氏は、「源氏と同様に、女の皇族であって、臣下に下った人」という意味で、「女源氏」と称されるのだと説明なさっている。

「女源氏」の一番最初の方々が、嵯峨天皇の皇女、貞姫、潔姫、善姫などである。
藤原良房(藤原冬継の二番目の子)がまだ11歳の時に、嵯峨天皇は皇女潔姫を嫁がせた。
まだ4,5歳であった。
やがて、父冬継は、右大臣になり、良房は、後に太政大臣になり、潔姫の娘の明子は文徳天皇の妃になると同時に、惟仁親王が帝位につく。(兄、惟喬親王は出家する)
これは、皇位継承問題を思案して画期的な事件であった。
潔姫をめぐる方々は栄華を極めてゆく。

潔姫には「琵琶」の才能があり、名人であったそうである。仁明朝には、藤原貞敏のような優れた琵琶の名手が宮仕えしていて、直伝をうけたか定かではないが、唐から伝来した秘曲の数々を聴く機会には恵まれたようである。

珍しい説としては、折口信夫氏が、古く、「源氏物語」は琵琶の伴奏で語られていたのではないかと述べていた。

さて、潔姫の家系を見てみよう。
潔姫の母は、当麻氏の娘である。
妹は、全姫と言い、清和朝の尚侍になっている。
潔姫と同時代人として、嵯峨・淳和・仁明・文徳の四朝に影のようにお仕えした女性に、当麻広虫がいるのを記憶にとどめておこう。

彼女は、嵯峨朝の後宮に「とものすけ」として入内、仁明朝に典侍になり、文徳朝に尚侍になった。一生80歳まで独身。古式ゆかしい、宮廷の高級巫女だった。

当麻氏の根拠地は、大和の国・葛城の郡の西、二上山の麓にある、小さい村である。
中将姫伝説始め、鳴神上人(今年一月の海老蔵主演の新橋演舞場の歌舞伎の破戒僧)に恋をいどむ、雲絶間姫も、「当麻」のあて字ではないかと折口信夫氏は述べている、新旧の伝説に包まれた、ものさびた美しい村だそうである。

当麻の家の女性が宮廷に入内したのは、古くは用明天皇の時代からで、「日本書記」を編纂した舎人親王の妃、淳和天皇の生母も、当麻家の女である。

さらに、当麻家の人が、文武元年から61年の国史編纂に携わったと言う。

当麻家の人々は身分は低くても、女性は宮廷へ古くから入内、男は国史の修撰に参加するなど、天皇一代の伝記、また宮廷の叙事詩に、最も深い職掌にあった。

つまり、宮廷の学問が進んで、宮廷の神聖な叙事詩が口頭文章語から文字に記録される時、当麻家の人々の力を借りざるをえなかったと考える。(金田元彦氏)

潔姫の娘、藤原明子は、後に、「伊勢物語」に業平との恋物語めいた余情を描かれているが、さらに、その娘は、賀茂斎院として禁忌の世界へこもられる。

女源氏を思案すると、わたしは折口先生のようにすべて古代信仰に結びつける思考にはなれないが(勉強不足か)、伝承や歴史的な重要な人物して、注目されていい気がする。
やはり、「源氏物語」は女性が紡ぎだした、宮廷女房文学なのだ、と認識し、女性が宮廷で大いに活躍した時代であることに新鮮さを覚えた。

         
9「学習院創設と、光源氏の教育論」

5月の「文藝春秋」の記事を読んで、不安を覚えました。いわゆる、説明不足と誤解を世間に与えるからです。

① まず、学習院の創設者は、「伊藤博文」というだけの記述は誤りです。
最初は、孝明天皇です。

○以下、学習院の創設と名称について、学習院小史より・・・・・

弘化4(1847)年3月、京都に公家の教育機関として開講し、当初は学習所とも称したが、嘉永2(1849)年4月、孝明天皇より「学習院」の勅額が下賜されて正式名称となった。

この名称が論語冒頭の「学而時習之、不亦説乎」(学びて時にこれを習う、またよろこばしからずや)に基づくことは疑いないとされている。

明治元(1868)年3月、講義を閉じたのち改称や改編を経て明治3(1870)年7月、京都の旧学習院は終わりを告げた。

明治10(1877)年10月、神田錦町において華族学校開業式が行なわれ、明治天皇より校名を「学習院」と賜わり、次いで「学習院」の勅額が再び下賜された。ここに現在の学習院が創立された。(この時、宮内卿は伊藤博文)

② 瀬戸内寂聴さんは、出家してからは功績があり、そういう見方もあるだろうが、わたしは異論があります。

光源氏より、頭中将のほうが男らしいに異議あり・・・

○光源氏の息子への教育は非常に大事な意味を持つ。(厳格すぎて良くないというのは、どうか。)

○頭中将の娘に、夫が浮気したらすぐ家に帰っておいでというのは、頼もしい男というのはほんとうか。いや、違う。娘の将来、尼になるか、将来、父君を亡くして孤独になる姫、落ちぶれてしまう姫を想像できない父親であってはならないから、そう簡単に言えるはずのものではない。

○頭中将は、夕顔を正室の嫉妬のせいで追い出させた。光源氏は妻にそういうことをさせなかった。頭中将は妻に頭が上がらなかった。それって、男らしいか。

わたしは、光源氏の教育論は、現代にも通じる素晴らしいものだと思っています。

「いいの、勉強なんて出来なくても生きていける。」というマスメディアのよくいう言葉、これって間違っている。人は、みんなに勉強させず、蔭で、こつこつ実は勉強しているものだ。

○光源氏のことば・・・・

「賢い子どもでも愚かな親に勝るためしは、めったにない」

「まして次の次の子孫になると隔たりが大きくなり、遠い行く末を案じる」

「高い家柄の子息として、官爵も思いのままになり、栄華を誇る癖がつくと、学問などで苦労するのは廻りくどくことになるでしょう」

「遊戯にふけり、官位を登れば、権勢に従う者が、腹の底ではせせら笑いながら、世辞を言ったり、機嫌を取ったりするから、ひとかどの人物らしく思えて偉そうに見えるけれど、親に死なれたりして落ち目になって来ると、人に侮られ軽んぜられて、身の置き所がなくなる」

「やはり学問を本として大和魂(応用力の才能)もいっそう重く世に用いられる」

「将来、天下の下支えの器になる修養を積ませれば、親(光源氏が)いなくなってからも安心である」

「親が面倒を見ている間は、まさか大学の貧書生と嘲り笑う者もいないでしょう」

光源氏の時代、つまり、実際の朝廷も、源姓の源氏、それに藤原姓の家臣の中に、素晴らしく才能があった方々がいて、活躍した時代でした。
光源氏の慧眼には感服します。

男の好みは女性それぞれですから、お好きなようでいいですが、光源氏の教育論は、現代にも通じる、素晴らしい見識ではないでしょうか。

源氏物語は、恋愛以外の部分に実は大事なお話が散りばめられています。
そこが、昔から人々に愛され、大事にされた理由ではないでしょうか。

大切に読み継がれたことを、ここに考察してみました。


「死ぬのが惜しくなる風景~日本は美の文明」

2008年06月07日 07時05分48秒 | 日記・エッセイ・コラム

*お詫び:訂正あり・・・久米邦武(岩倉使節団の一行)

またまた川勝平太氏の素晴らしい論文を少し紹介したい。
近年、自殺者が激増していると言う。
わたしも鬱にさいなまれ、生き恥をさらすくらいなら死にたいと思うことはある。
しかし、また旅行に行きたいなと思うと、まだ死ねない。
死ぬほど思い詰めていたら、いっそ気楽に思い切って旅に出ませんか?

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明治の頃、トーマス・クックが日本を旅行し、わずか1ドルで瀬戸内海を旅できるといい、その美しさを呆然として、
「なぜこんなに美しい物をこんなわずかなお金で見ることができるのですか」
と書いているらしい。

トーマス・クックは宣教師で、鉄道を利用した旅行案内を始め、旅行会社の草分けとなるイギリス人に旅行の習慣をつけると節酒に役立つと考えたからだと言う。

また、欧米の風景の美に触れた(訂正)久米邦武ら一行が欧米を視察し、帰国して一行の船が瀬戸内海に入った明治6年9月8日の朝早く、一行は船長に起こされた。
「世界一の風景を今過ぎている」
船客を皆呼び起こし、
「皆、見なさい。芸備の海峡です。」
と、
「その絶景を激賞し、これを絵に写して終日やまず」
というところで、欧米記は終わっていると川勝氏は述べている。

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その風景は、わたしが今から十何年前に行った頃のものだが、素晴らしい。
これら、素晴らしい風景を見ずして、あなたは死にたいですか?
死ぬほど、思い詰めたら、列車に乗りましょう。国内でいいのです。
あなたは、死ぬのがもったいないと思うかも知れません。

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「日本人がヨーロッパやアメリカの富国強兵を基にした「力の文明」に出くわしていた時に、ヨーロッパの人たちは日本において、それと対照で言うならば「美の文明」に出会っていた。それを踏まえて、今、日本は瀬戸内海をはじめ美しい島々が数多く浮かんでいるこの地域の文明を破壊するのではなく、「惹きつける文明」「美の文明」の中心となること、すなわち西太平洋をガーデンアイランドにするという新しい展望を見いだせるのではないか。」(川勝平太氏)

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撮影 尾道より瀬戸内海の海峡を望む