みなりんの紀行文

写真とともに綴る、旅の思い出を中心としたエッセイ。
主に日本国内を旅して、自分なりに発見したことを書いています。

奈良紀行女ひとり旅パート1 

2008年01月03日 14時11分14秒 | 旅行記

 「奈良紀行記女ひとり旅パート1 」

 

「1 平城京」

わたしが、奈良駅に降り立ったのは何年ぶりだろう。
東京では、スターバックスでモンゴメリーの「赤毛のアン」に登場するギルバートのような鳶色の瞳をしたアメリカ人青年と珈琲を片手に話していて、「京都の駅にはがっかりした」というその青年が、奈良駅周辺は東大寺の庭という感じでローカルな部分がいいと褒めていた。

まあ、京都駅もマンモス駅だから、便利でJRの案内も確かで、利用してみると快適であったので、外見も実際見ると清潔感があって新幹線の乗り場もわかりやすくて機能的であり、とことん利用するビジネスでは問題ないだろう。

 さて、東大寺には鹿がのどかに歩いている。鹿は神道の神様のお遣いであり、神無月になり紅葉の時期には妻を恋い鳴くと言う。花札を想起するといい。昔は、花札なんて博打を打つようなものと思っていたが、あの絵柄はなかなかよく構成されている。

 人を襲うことのないように、鹿は角が半分折られているのはなんだか昔拝見して痛々しかったが、その頃はまだ大学二年生で、二月東大寺のお水取りを拝見することができた。

 横浜から来たという中学生とユースホステルで合流し、三人山辺の道を散策した。
彼らは男子高の生徒で、
「お姉さん」
と今とは違ってお世辞ではなく、まさに
ぴったりの呼称で呼ばれていた。
 男子校ではほとんど女性とは話すことができなかったらしい。

 寺の案内をしながらも、今になって思うと、ガイドが必要と言うより、女性として見てくれたんだろうと思う。
 今思うと、自分には色気がなかったけれど、若さが漲っていた。

「七、一、零、つまり七と十、奈良なんと美しい平城京と言うの」
と言うのは微笑みを誘った。
 平城京は夜列車から見るとライトアップされて平城門の朱塗りが
妖しく煌めいていた。
 平城京は、明らかに平安京とは違う王朝・文化だったとある方は言う。
「続日本紀」を読むと少しつつ解明される、古代日本史。
平城京跡には奈良国立文化財研究所がある。

 今は様々なハイテクノロジーを駆使して壁画も検証されるが、なかなか保存をよくすることができず、一時新聞で飛鳥時代の高松塚古墳の壁画の損傷を嘆く記事も見受けられた。
 わたしは、図書館の学生をして先生方からいやと言うほど聴いた言葉は、「人類にとって大事な知の遺産を後世に残すために図書館はある」ということであった。

 わたしはもういい加減いい年をしている。だが、今は亡き宇野千代さんのエッセイの言葉を思い出したり、瀬戸内寂聴さんの源氏物語を読むと、年齢と仕事の善し悪しはそう反比例するわけでもないらしい。
 人間の脳のほんどは眠ったままらしい。動いている部分はわずかしないのだ。
わたしの脳もぼんやりしている。稀にアルツハイマー病かなって不安になる。
イギリス人の教育熱心な先生が、「わたしはたまに心配になるの」といたづらっぽく笑って話していらしたことを思いだし、言葉の壁を越えて人間の機能について自然科学的なことに関する発想は同じだとおかしかった。

 最近はテレビを通じて大勢の日本語の達者な方々が出演するので、驚くには当たらない。

 最初にわたしが奈良で訪問したかったのは、堀辰雄さんの「大和路・信濃路」に描かれていた秋篠寺だった。

「奈良紀行2 秋篠寺」

駅からとぼとぼ歩いて、途中でカメラのフィルムを購入し、割と開けた町並みを行く。
歩いていて、田舎町までは言えない感じで道路は舗装され、確かに時代は平成だと思う。
バスの時間帯がわからないので、西大寺から歩くこと二十分くらいだろう。

 大きな道路、東京で見かけるのと変わらない家並み。ここが古都かなと思うほどである。
途中平城京跡の傍を通る。

 狭い道をいくと、町並みが一軒家の並ぶ狭い道になり、すーっと秋篠寺に導かれていくような感覚になった。

 秋篠寺は、苔寺ではないのだろうが、苔のむしたIzumo002_2 緑の絨毯のような庭に木々がきりっと間隔を正確に計って植樹されたよう
に整然と立っていた。精霊が木一本一本に宿り、秋篠寺を見守っているような雰囲気だった。

 気品という言葉が頭浮かんだ。
 境内はたいへん静かだった。
整然と美しく存在する典雅な寺という感じで、足を踏み入れるのに心の中が洗われるというのは、こういう場所であったのか、と目を見張った。
 こういう雰囲気は今までかつて見たことのない、清楚という言葉で表現仕切れる寺であった。
 歩くのにもばたばたと音を立ててはこの場の空気を乱す、そう思ってそろりそろりと歩んで行く。
 開かれた空間に、緊張感という大仰な言葉とは異質の、凛とした空気が漲っていた。

秋篠の御寺に入りてしのばれぬ精霊宿り雅やかなり

 200210_001_3 寺は、白壁に木の格子が几帳面な建築家が線をすーっと硬質のペンで長く引いたかのように緻密な感じで組み込まれていて、大きな屋根もその建築物に荘厳さを与えているようで、軒先がきゅっとカーブしているところがおすましさんの顔のようにちょっと小憎らしくもある
ような高雅さである。

 見惚れてばかりもいても、時間がどんどん過ぎて行く。
招かれた客のようにためらいなく、御寺の中へ入って行く。
薄暗い。
いや、暗いと言ったほうがいいだろう。
Izumo012 闇にひときわ輝いているのは何だろう、もちろん薬師三尊と、あの、あまりに有名な伎芸天立像であった。

 恋をした男がどうしても女が忘れら無くて、邸に忍び込むという話が今昔物語に出て来るが、恋いこがれると東海道新幹線に急に飛び乗って、あっという間に京都に行ってしまうことはあり得る。
現にわたしがそうであった。

 奈良のこの伎芸天を眺めて、思わず何も思案しなまま、ふくよかなお顔にまず見入って、両手が合わさっていく。
 気持ち左にお顔をちょっと傾げておいでかなあって思って自分も小首を傾げて、じっと見入る。

 お顔だけが天平時代、お身体は鎌倉時代。
そう解説されれば、なるほどお顔の乾漆像が柔らかな笑みを含んでいて、これから人から何か尋ねられて言わなければならないのだろうと何かお口から言葉をふっとお漏らしになる瞬間、そう唇がふっと言葉を言うその直前の少し開らき加減のご様子に似ている。
朱色の唇が艶っぽい。

 眉は、大きな丸いカーブを見せ、穏やかでたおやかである。
お身体はしなやかに腰をちょっと引き気味で、大きくうなりを見せて曲線美を見せている。

 暗闇の中で蝋燭の明かりで佇まれている様子が神秘的である。
音楽など芸能の神様である。
琵琶の音色が奏でられるかも知れない。いや、あれは弁財天だ。
わたしはいろいろ心の中でつぶやく。

 ご本尊にも手を合わせ、近くに椅子があって、黙って座った。
暗い御堂に関西の地元の方風な高齢の女性がふたりおいでになった。
関西弁でのどかな会話がゆるやかに流れて耳に入ってくる。

 何を話題にしているかもう忘れたが、何か音楽を聴いているように、その場の雰囲気に近くてのどかさを増す会話であり、方言の魅力であった。

 邪鬼を脚で踏みつけている帝釈天であっただろうか、堀辰雄さんが仲間と「踏みつけられているほうが何年もたいへんだろうね」と言うような発想をして、会話を楽しんでいらしたようだけれど、なるほど踏まれているほうもなかなかの役目、ふふふと思った。

 秋篠寺はおおらかな雰囲気を仏像がお持ちになっている、そう思って感心した。
 「あえやか」というと誰かが言っていたが、なるほど、ゆったり豊満な派手さのない中に艶っぽさ、そういう日本語もあったなと思い返した。

唇のかすかに動く息づかい朱がなまめかきしき技芸天なり

 仏像を拝見して表に出ると、秋の爽やかな柔らかな日差しに当たる。
けして、境内にいて先ほどの雰囲気は遜色しない。
この凛とした空間がずっと持続する、それがこの寺の品格というものなのだろうと思った。

庭に東洋美術家で歌人の会津八一の和歌が石碑に詠われていた。
「あきしの の みてら を いでて かえりみる 
  いこま が たけ に ひ は おちむ と す」

読み終えて、ふっと顔を上げると、そこに碑をやはり拝見していた老紳士が佇んでいた。

「会津八一ですね」
そう言って言葉を思わずかけた。
なんだか嬉しかったからである。
老紳士ははっとして
「ええ」
と答えて顔を振り向かせた。年齢は60以上の方であろう、しかし、しばらくしてその方は石碑と境内を去りがたく思って佇んでいた、わたしにそっと声をかけて来た。

「わたしは、唐招提寺と秋篠寺が好きでして、よくこの辺りを散策しています」
「そうですか、わたしは東京から参りました。どうしてもこちらに伺いたかったからです。」
 赤い色柄の派手ではないシャツはこぎれいな雰囲気で、その人の人柄は穏やか感じであった。

 話していて、その方はもう退職して毎日こうして散策するのがお好きなようで、関東で長年勤務していたらしいことがわかった。
一緒に境内を出て、平城京の方面へ歩き出した。

一句

秋篠の天平の美を仰ぎ見て奈良の秋こそ豊かなりけれ

 わたしが不退寺や法華寺に行きたいと話していたら、ちょっとその方はまじめな顔になって静かに口を開いた。
「もし、わたしでよろしければ、時間がありますので、用事が終わったら、奈良は交通が不便ですから、車で法華寺までご案内します」
そういう提案をなさった。

 わたしは幾ら若くないとは言え、車ということでちょっと警戒したが、法華寺までならお言葉に甘えよう、まあ大丈夫だと思って、お礼を述べて便乗することにした。

 途中、わたしは東大寺に匹敵すると言われた西大寺に行ってみようか思った。紳士は、是非見たほうがいいと言った。
 奈良の東大寺はあまりに有名だが、西大寺は真言律宗の総本山で765年称徳天皇により造営された。

 今は礎石などから往事を忍べないが、ひっそりとしているので、わたしは無知なまま誘われて行った。                                                             Izumo001_2

 「奈良紀行3 西大寺」

西大寺への道は秋篠寺からすぐだった。
歩いて数分で到着する。

 老紳士と軽く身の上話などをしているうちに到着した。
紳士の奥さんは、とある資料館でパートをしているらしい。
趣味で歴史の本をよく読むというそうである。
 わたしは女性の一人旅ということもあって、自分のことをしゃべるのは気が引けた。できるだけ聞き役に廻った。

わたしの容貌は、街でよく見かける平凡な女性で、見苦しくないというのが取り柄であるよう、心がけていた。
紳士にはどう見えるかわからなかったが、紳士もこぎれいな方と言う印象であったので、ほどほど好感を互いに持ったということであろう。

 わたしは父親ほど年齢の離れた紳士に男に対する警戒感を持たない代わりに、不思議な縁を感じた。
老紳士に接するわたしは、不思議な仙人にあった旅の途中の「不思議な国のアリス」のように、古の都に時間を超えて迷い込んだまさIzumo011 に一旅人であった。

西大寺の東塔の礎石は、何も言わずどっしりと広い空間を占めていて、五色の錦垂れ下がった本殿の中に釈迦如来と菩薩が安置されている。
寺の境内はほとんど人がいない。
紳士は時間がないなあと焦るわたしに、
「大茶盛りで有名ですよ。」
と言う。

わたしは知識がないので、ここで叡尊が茶を献じて参拝者に配ったことから始まった行事についてとんとわからなかったが、勧められるまま、本堂に上がって、仏像をぐるっと見渡して、大茶盛りの絵はがきを購入した。

 京に詳しい方が見たら、卒倒するだろうと思えるほど時間を気にして、そそくさ退散したのは、あとで思うと冷や汗ものである。
古都はのんびりと行かなければならない。
大事なものを見落としそうである。

 紳士は黙って外でひっそりと佇んでいらした。
これが相手に対する配慮であろう。
急ぐわけでもなく、静かな面持ちである。
ちょっと淋しそうな目つきを稀になさる。
 実は西大寺に見てほしい重要な仏像があったのだろう。

葉書を拝見すると、直径30センチ以上もある大茶碗で参詣者が薄茶をいただくらしい。きらびやかな着物を豪華に来た年若い女性が楽しそう
に大きな茶椀を回し飲みしている光景がほほえましい。

 豪快なスケールであり、こさっぱりした僧侶の姿の写真と対照的であった。
鐘楼があり、ここの木の板に孝謙天皇のことがささっとしたためられていた。はじめは称徳天皇を申し上げた。

母は、光明皇后である。夫、聖武天皇の第二皇女であり、在任中に父帝の発願であった東大寺大仏を開眼させた。
いとこの藤原仲麻呂を重用したが、僧侶、道鏡を寵愛したため、仲麻呂が反乱を企てたことで淳仁天皇を退位させ、ご自分がまた皇位をお継ぎになって称徳と名乗られた。

道鏡は、権威を持ち、政治に力を振い、皇位につかんとしたため、これに反対する貴族たちは和気清麻呂に宇佐八幡宮の神託を受けさせて道鏡の野望を妨害し失敗させたと言われる。

 歴史は勝ったものが英雄視される。Izumo003_3 史実はどちらを味方にするかわからないものの、そこに「道鏡を守る会」という組織もあり、道鏡は朽ちて損害の多かった傾落の見られた国分寺に積極的に保護政策をとり、悪人だったという見方以外の視点をもたらす。

 「道鏡を守る会」の石碑には、「この里は 継ぎて霜や置く 夏の野にわが見し草は もみじなりけり」とあった。
 国家鎮護を思案し、各国ごとに国分寺を造営するという具体案は、道鏡なきあとはまったく陰を潜めた。
歴史を見るということは難しい。

ある友人に話したところ、孝謙天皇は藤原家の権力から皇室の権威を守ろうとしたのだという説もあると言う見方も教えてくれた。
どちらであろう。

200210_004_2 わたしは、西大寺の池を老紳士と見やって、のどかなこの秋の昼間、池のほとりの掲示板に観世流謡曲にも歌われた「百萬古柳」がここにあると、ぼんやり眺めていた。
太陽の日の光を受けて池面が白い鑑のようになっている。
たまに吹く風に寄って、池面がさざ波立つ。

一句

西大寺茶の発祥の大茶盛藤棚近き池に佇む

女帝と言うと、薄幸なイメージがぬぐえないが、孝謙天皇はその時代を精一杯パワフルに生きた女性であるかも知れない。
 思いはどうしても少ない日程で予算を気にして廻るわたしには、過酷に砂時計のように刻々と過ぎて行く。
もう二度とない、この時間が。

孝謙(称徳)天皇に女性として胸に痛みを伴ってこみ上げる何かがあったが、さて次に行こうと紳士に声をかけた 。        200210_002_3

 駐車場へ向かうわたしたちは足早だったが、その道の途中、「大茶盛り一口めして皆なごむ」という歌が奈良らしいのどかさを醸し出していた。

「奈良紀行記4 不退寺」

田舎とはもう言えないほど、奈良の西大周辺の道は広く綺麗に舗装されて、車が大道を通る。老紳士の好意で車に乗り込んだ。
紳士は軽やかにハンドルを切って、すぐ法華寺に到着した。

紳士は、わたしがこれから不退寺に行って、その後コスモスが美しいと言われる般若寺を見たい、そして、時間があれば浄瑠璃寺に行って見たいのだが、今日は全部は無理でしょうね、と話すと、感情はさほど込めていないものの、じっと耳をすましてお聴きになり、よろしかったらこれから用事を済ませて、わたしで良ければご案内しましょう、というお言葉がかえって来た。

「山の中にあって、バスもほとんど来ないので、車でないと難儀でしょう。」
そう言う言葉にわたしは驚いたが、嬉しいような半面、この車で山奥まで行くというのは瞬間、ちょっと素直に述べると怖かった。
わたしが当惑したような顔つきをしたせいか、紳士は急に顔を硬直させて、慌ててポケットに手を入れると財布を抜き出し、中から運転免許証を取りだした。

「わたしは退職するまで東京におりました。従って、標準語を話しますが、実はこちらの出身です。
 妻もこちらの人間で今は図書館の職員を手伝っています。
 歴史が好きでよくふたりで寺参りをしますが、今は妻は職場にいます。わたしが送り迎えをしているのです。
 今日は唐招提寺にいつもの日課のようにお参りをしようと思っていたら、あなたに会いました。わざわざ東京からいらして寺をご覧になりたいと言うので、これも何かの御縁かと思います。
 わたしはここに住んでおります。
どうか安心なさってください。まあ、女性のひとり旅ですから、警戒なさるのもわかります。ここに住んでおります。」

と、運転免許証を真剣な顔つきで差し出している。

わたしはまだ警戒心が解けないままも、瞬間迷ったまま、まあ、なんというかここで紳士を疑い続けるのも申し訳ないと、ひやりとしたものを感じながらも頷いていた。

車から再会を約して降りて、歩んでいき、道順から不退寺に行こうと思った。
  途中、昼食を取らなくてはと、周りを見渡したが、入りやすい店がなく、大きな交差点でぽつりと佇んでしまった。

 よく見える看板と言えば、牛丼の吉野屋であった。今まで一度も入ったことがない。
奈良に来て牛丼かなと迷ったが、選んでいる選択肢がなかった。

 店員の女性がきびきびして、男性ばかりの中をひとりどう注文していいかもわからず、迷いながら生まれて初めて有名な割に入らなかった店に入って牛丼を食べた。ついでにゴボウサラダも頼んだが、通な人が言うことには、ゴボウサラダの注文は邪道らしかった。後悔先に立たず。もう過去になった。

 在原業平ゆかりの寺、不退寺の山門をくぐる。
本堂では阿保親王の像を眺める。平城天皇の皇子で、父君である。
うーんと眺めていた。霊感は沸かなかった。

 平城天皇が茅葺きの仮り住まいをなさって、「茅の御所」と言われた。
なんだか、大きな屋根の御堂は、思ったより重厚である。
建築は寄棟造りらしい。

 中で拝観していると、ここの方が、
「藤原定家は、有名なわりに字が下手でしてね」
とおっしゃる。あとは、詳しいことは忘れたけれど、寺にあった格子模様の青い模様をじっと眺めていた。
 ここで発掘された石棺があったので、拝見した。200210_007_2 大きな石のエジプトにあるミイラの石棺のように長くて大きく、江戸時代の小さなサムライの着物を見たことがあるが、全く異質な人種の人が入っているような気がする。
古代の石棺だから、まあ当然だろう。
 
 この寺は業平が聖観音像を刻んで本尊としたのが始まりらしい。
「不退転法輪寺」と称される。名前が良い。
わたしはどうしてもここに来たかった。来てみてどうかと問われても困るのだが。

 ただ、『伊勢物語』を高校時代に原文で読み、業平のプレーボーイと言うだけで和泉式部と並んでおもしろおかしく語られるのではなく、不遇だった皇子方に思いを寄せるのである。
 
 水瀬によく鷹狩りになった惟喬の親王が政治の世界から遠のき、出家なさった。
庵を組まれて比叡山の麓に庵を組まれてお住まいになり、そこを業平が雪を踏み分けて訪れるのである。

空が黄昏に染まる夕暮れ時、今はと思って泣く泣く業平は帰宅の途につくとき、

「忘れては夢かとぞ思ふ思いひきや雪踏み分けて君を見んとは」

(つらい現実が事実であるということをふと忘れては、これは夢ではないかと思うのです。こうして山深い場所であなたさまにお目にかかるとは)

業平は美男だが政治に疎くて和歌だけ優れていたと語り継がれる。
ほんとうにそうであろうか。          200210_009

「おおかたは月をもめでじこれぞこの積もれば人の老いとなるもの」

(わたしは月を鑑賞しまい。この月が積もり積もって老いてしまうから)

当時の宮廷で孤立した親王を敢然と見舞い、二条の后など高貴な当時の権力者の奥方に恋をして、光源氏のモデルと言われるように次々恋の遍歴を重ねたと語り継がれる。
 すべてが業平ではないということから、「ある男が・・・・・」と『伊勢物語』は語られている。

 兄たちである、時の権力者藤原氏を驚愕させた。
 白露を何か、玉かと業平に尋ねるほどの世間しらずの姫君を籠絡したと言ってもよい。
 二条后との恋は、業平の能面の苦悩滲む顔が刻まれている。

 恋路に藤原兄弟から邪魔をされながらも、「不退転法輪寺」の名の通り、政治に背を向けた、男の執念のような物を感じる。

ただ、その恋は本物であったし、自分の存在を生きて示したような不届きさであり、姫君や后を高雅なまま包み込む歌の品位が漂う。

 政争抗争に負けて政治の表舞台からはずれた男の社会の裏における男の意地の通し方が、「不退寺」の名の由来である気がした。

一句

業平の執念見たり不退寺の名のごとくして生きたる男

ちょうど寺を出たところ、「写真を撮ってください」とわたしより二回りほど歳の離れた地味な女性が声をかけていらした。     Izumo004_2
はいと言って、シャッターを切り、わたしも頼む。
そのとき、ふっと気がついたのは、この南の門は鎌倉時代の本瓦拭き四脚門で重要文化財の珍しい建築であった。

あとで気がつき、その女性に感謝した。地元の方は聡くて、旅人にものをそっと教えてくれる。

「奈良紀行5 法華寺」

さて、その後は法華寺に赴く。法華寺は清潔感ある風情であった。
ちょうど光明皇后にゆかりのから風呂が修復工事されていた。

 今、日本が地震。台風に見舞われて日本国土が荒れているが、被災者の方々のお気の毒な場合と同じく、当時人心は荒れ、天災に見舞われて、夫の聖武天皇は平城京から四回都を遷都して平安京へ移る。従って、仏教の力で国家安泰を祈願した。

 わたしは、華塚という碑がどんと立っている中、200210_028_3 菊など秋の花々が咲き乱れていて、手のあまり入っていない花々のある花壇をぐるりと歩いていた。

 から風呂の修復に熱心な方々は、この花塚も綺麗に手入れしてくれるか、なんだか気がかりだった。
 花塚というのは、日本人らしく、優しい心遣いを感じて嬉しかった。
コスモスや様々な名も知らぬ可憐な花々を目に入れて、誰もいない、お庭を見ていた。

 「から風呂」は、光明皇后が病に苦しむ民衆のため、千人の垢を流す願をたて、千人目に現われた病人Izumo005_2 の膿を吸ったと言われる。
 学生当時は、高校の日本史の教科書を読んで、思わず唇が腫れでもなさらなかったか、だいぶ気になってしかたなかった。

 怖気立つような度胸で、はっと胸をつき、そこまでなさらなくてもいいのにと、自分にはできないことだと、死に行く病人を次々と自ら励ましさすられたというマザー・テレサを想起した。

 よく読めば、壮絶な行為である。現在2002年の教科書にはその記述はもうない。

 娘を次々と后にして、外祖父として藤原氏は権力を振るうようになったことが後の人の歴史研究で見る目が変り、これらの逸話がおおげさな話ということになったからかも知れない。しかし、とりあえず、から風呂のことは修築される程だから、一応この寺では有名な話なのだろう。

 お寺へ行くと、守り犬なる陶器の販売をしていて奉納を勧めているが、かわいらしいという感じで眺めて、傍にいた女性が愛子様に贈られた話などを述べて購入するのを黙って見ていた。

 中に入って、手を合わせ、拝見すると、こちらの十一面観音は、光明天皇をモデルにしたと言われるが、豊満な肉体であるにも関わらず、けして見るものに幻惑した淫らな発想をするものなら視線を跳ね返し、憤怒で炎に燃やされてしまうかのような内なる気性の激しい、威圧感を感じた。

 片足が今にも歩きだそうだと白洲正子さんが述べておいでだったが、親指が実物のようにリアルにそうっとそらして歩まれる瞬間、何もおっしゃらないが行動で意志を伝えましょうという雰囲気で周りのものを圧倒させる。

 なんだか仏様にしては生々しい感じだった。

一句

白檀の観音さまのおみ足の親指眺め我笑み洩れぬ

 悲田院、施薬院という貧者と病苦者のため奮闘なさったらしい。
史実の発願のきっかけはわかなくなくても、国家に身を投じて活動され、何か成し遂げようと活動する女性のたくましさを全身に像がにじませていた。

 ほうっと思って尼寺を抜ける。

秋晴れが爽やかで、透明な青い空の日差しは肌に優しかった。

続く

 



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4 コメント

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最初、2から読んで、面白さに惹かれて、ついつい... (悠山人)
2007-11-19 21:35:31
最初、2から読んで、面白さに惹かれて、ついついと1へ来ました。
「作品」(上梓)となるまでに、大変だったでしょうね。
ところで、「技芸天」は違うと思うのですが。・。・。
返信する
ご指摘ありがとうございます。訂正しました。 (みなりん)
2007-11-23 00:09:40
ご指摘ありがとうございます。訂正しました。
返信する
1)奈良紀行4がないのは削除されたのでしょうか? (hide-san)
2014-09-27 11:23:19
1)奈良紀行4がないのは削除されたのでしょうか?
2)奈良紀行6の「から風呂」はどんな風呂でしょうか?
・水かお湯は入っていたのか?
・大きさはどの位(例、四畳半くらいの板張りとか)でしょうか?
3)ここの(専任の垢を流す)⇒(千人の垢を流す)でしょうか?

良くできた興味ある紀行文ですのに、脱字が気になります。

返信する
コメントありがとうございます (みなりん)
2020-08-30 06:18:49
ひでさんへ
 気が付くのが遅くてすみません。
奈良紀行4は、まだありますよ。
それから、奈良紀行6のから風呂は修理中で見られませんでした。
千人の垢を落とすが正しいです。

ご指摘ありがとうございました。
脱字があったり、誤植があったりで、申し訳ありません。
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