(*ずっと下の語彙に訂正箇所あり
) わたしは、それから名茶室「独楽庵」見たさに、もう必死の思いで夕暮れ時に近くなって来たのに出雲文化伝承館に向かいました。
バス以外、タクシーを駆使したかも知れません。なぜか電車の本数が少なくて、開館時間に間に合わないと思ったからです。ほんとうに出雲は電車の本数も路線バスも少ないです。
走っているのはマイカーばかりです。観光バスの女性ガイドさんが、これだけ凄い道路を造りながらも車は実際そう使用していない道路があり、誰だったか地位のある方が阻止なさっていたのだということらしいのですが、県民の立場で政治・行政を行ってほしいと叫んでいました。
田圃が延々と続き、低い山々が見えて、ああ、平地で豊かな感じがすると思っていましたが、農家の方々の新しい家には畳のない建て売りが多く、ガレージに畳を置く家があるそうで、年輩のお年寄りの方々には洋室設計の家は酷な話だということまでなさっていました。
わたしは東京の人で、そう言われても困ってしまいましたが、しっかりした政治家が県民のほんとうの心を掴むことが大事で、行政に声が届くといいなあと思いました。
出雲文化伝承館は、出雲地方の大庄屋、江角氏の
家を移築再生した郷土博物館です。豪壮な主屋、築地松を西と北に巡らした枯山水の回遊式庭園、茶室などがあります。
閉館間際に駆け込んで、そそくさ見て廻り、残念ながら寄屋建築の松籟亭にはもう入室できませんでした。お庭には、綺麗に桜が咲いていました。
椿の木も植樹されていました。桜と椿が一緒にあるような不思議な光景でした。ちょっとわかりにくいかも知れませんが、
左の写真がその映像です。立て看板に大事なことが記載されてあったのですが、申し訳ないものの、わたしの記憶が飛んでしまって、何が記載されてあったかもうわかりません。
ただ、桜に関連してではないでしょうが、主屋に行きますと、なんと意外なことに、大正天皇の御遺品が陳列されていました。
主屋は、土間部分の大国柱と重厚で豪快な梁組があり、わたしは昔の祖父の家で眺めた木造建築の大黒柱を思いだして懐かしくなりました。
昔は一家の主を「大国柱」と呼ぶ風習が日本にはありました。もうキャリアウーマンのいる時代に、「お父さんは一家の大国柱だからね」と言っても子どもが納得するかわかりませんが、祖母がそう言っていたのを思い出しました。懐かしくて、思わず、手で触ってみたくなりました。
そして、更に土間に漆の食器セットがあり、昔は漆を使用したから、今のように洗剤を使って水に浸からせて、水でごしごし洗ったりせず、綺麗にお湯を使用して食器をふき取っていき、箸も最後は布で拭き取って、毎回使用していた話などを思い出しました。
わたしの世代で、もう教科書には記載されていないかも知れないのですが、昔の国語の教科書には柳田国男の話などが記載されていたり、こういう類の話は本でまれに聞きかじった経験があります。
埼玉県立歴史博物館で知ったことですが、なんと、漆は縄文時代からもう使用されていたらしいです。なぜ?どうやって?と思いましたが、よくわかりませんでした。
左の写真を拝見なさると、(訂正)「懸盤」(箱形の小さなお膳のような台)に並んだ食器類が見えますね。
ああ、昔はやっぱりこうだったんだと確認し、そう言えば、自分がすごく小さい頃、祖父の家で、こういうもの(江戸時代の庶民くらいは箱膳と言いました。)を使用していたのを眺めた記憶があります。
ここでは、書院造り客座敷もあり、非常に華麗にでした。描かれた絵も相当な人が描いたの![Optio430_02032830_070_2 Optio430_02032830_070_2](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/c9/fc35ed26561b29d46d5aedcf282e0cc9.jpg)
でしょう。時間がそうなくて、ゆっくり観察できず、残念でなりません。
さらにその奥へ足を延ばすと、あれ!大正天皇の御遺品の数々が陳列されていて、度肝を抜かれました。
銀製のボンボニエールの箱のようなもの、香呂でしょうか、ともかく数々の品があります。
右の奥に立派な椅子があるのが、大正天皇の御召机です。
大正天皇はお身体が弱いほうでいらっしゃたため、心配なされた昭憲皇太后が出雲大社に祈願をなさったらしいようですが、遠いので埼玉県の大宮の氷川神社へはよくお出ましになったようです。
どうして、ここに大正天皇の御遺品が飾ってあるのか、わたしにはわかりませんが、大正天皇は気さくなお人柄で全国を廻り、その時に巡回なさった場所に染井吉野の桜の木が沿道などにどんどん植樹されたらしいことは本を読んで知りました。
こちらの出雲大社にも縁が深いので、こうしてあったのでしょう。
山県有朋が亡くなり、後見人がいなくなって、ご苦労なさったのだとか、いろいろ説がありますが、大正天皇は夭折なさいます。
出雲文化伝承館の郷土館のほうで、いろいろな品を足早に拝見したのですが、ちょうど愛子様がお生まれになった頃か、雅子様のお写真も飾ってあったりして、ふと、私個人は今、高円宮殿下がご存命だったら、皇太子ご夫妻もいろいろな相談事ができる方がいたのではないかなあと、勝手に想像してしまいました。ごめんなさい。
わたしは、ある意味で神聖で顔を拝見したら死んでしまうと言われた明治天皇より、庶民にも語りかけたという人間らしい方でいらした大正天皇の御生涯をお気の毒に思い、大正浪漫という時代があったなあと淋しくなりました。
わたしのようなものが皇室を語るのも不届きかもかも知れないので、これくらいにしましょう。
郷土館には、昔の貴族の食卓が並べてあり、海の幸にあふれてあわびなどもあり、蘇というチーズのようなものもあり、栄養や味わいが深くて、自分よりずっっといい物を食べていたんだなあと思いました。
以前、家族が出雲へ行き、眺めていて、平地で海と山の幸に恵まれていて、狭い所ながら豊かな土地だったんじゃないかと述べていました。ほかの土地に行かずとも、古代は暮らしやすかっただろうなあと呟いていました。
さて、お目当ての独楽庵です。わたしはお茶に疎いのに、なぜかその頃、非常な関心を持っていました。工芸品が好きなせいかも知れません。
大名茶人として知られる松江藩主松平治郷(不昧公)
によって大切に伝えられて来ました。茶の湯の大成者の千利休が長柄の橋杭を得て建てた歴史的ある茶室で、これは復元されたものです。
露地庭には三関三露と称される導入部を配したもので、不昧公の茶の湯に対する美意識が反映されているそうです。
大名好みの茶苑としては全国希有のものと言われています。
わたしがうまく説明できないので、拝見していただくことしかできないのですが、素人でも鑑賞してふーんと思うような工夫が施されていて、素晴らしいものなのでしょう。
大名というと、牡丹が好きで豪快で、立派な物、華麗なものが好きで、こういう侘びた感じのもので、割と簡素(でも手の込んだ、実は計算されている)ものをお好みとは普通感じないかも知れません。
しかし、茶室は静かな佇まいを見せていました。
お庭には南天の木があり、赤い実が可愛らしく小糠雨に揺れていました。
もし、夢で悪い夢を見るようなことがあったら、南天の木にそのことを話すと、正夢ではなくなると、ハーン(小泉八雲)は本で述べていて、おもしろいなあと思いました。迷信かも知れないけれど、安心できそうです。
わたしは、松平不昧公は、政治的な辣腕を振るい、
藩の経済を立て直したものの、当時の庶民には評判が悪かったようで、経済が潤って、茶器などを求めるようになり、後に藩も繁栄して初めて高く評価されたようです。
痛みをあまり伴う改革は困りますが、日本経済が混乱している今、こういう辣腕家の政治家が出てこないと困るかも知れませんね。わたしには難しいお話ですが・・・・。
さてはて、ここまで見学して、時間切れになり、実はこの日、伝承館の館長さんが退官なさる日で、みなさんがお花を持って、お見送りなさっていました。
「わたしもいいものを拝見させていただきました。」
そう心で述べながら・・・・・。
そして、松江のほうへ戻ろうとすると、職員の方が交通が不便でお出でになるお客さんも少なくなり困っています、わざわざ来てくださってありがとうございます、とお述べになって、ご自分のマイカーで、駅まで送ってくださいました。
今後も多くの方々がお見えになるといいなあと思い、その方のご厚意をありがたく受けました。
続く