気まぐれフォトダイアリー

富士山、風景、身近な花の写真ブログです。読んだ本の感想も載せています。
最近は回想ブログが多くなりました。

子どものころの思い出~とても好きだったおばあさん

2024年08月31日 18時39分52秒 | 子供の頃の思い出
私が子供のころ、まだ4~6歳くらいだったと思う。

時々親戚のおばあさんが家に遊びに来た。


子どもだったので、どういう関係かよくわからなかったけれど、

そのおばあさんがとても好きだった。

今で言うと、70歳前後だろうと思う。


親戚というのはわかっていたが、おばあさんは私の家より、少し離れたもう一軒の家に泊まりに行った。

その家には私より少し年上の女の子が2人いた。


私はおばあさんを家に泊めたかったけれど、おばあさんは私の家にはいこごちが悪いようだった。

あまり私が「おばあさん、おばあさん」と引き留めるので、仕方なくいるような感じだった。



当時母親には「おばあさんはKの家のおばあさんで、咲のおばあさんではない」

と言われた。


当時5~6歳だった私は、ものすごく悲しくなった。


だいぶ後で分かったことだけれど、

私のすきだったおばあさんは私の曾祖母だった。


おばあさんの行っていたKの家はおばあさんの娘の嫁ぎ先だった。

確かにKの家の2人の子どもはおばあさんからは孫にあたる。


でもわたしはひ孫だし、おばあさんと血のつながりがない訳ではない。

当時私を育てた母と、おばあさんの家で複雑な事情があり、来づらかっただけの話だ。


母親からは面白くないので、丁寧に説明したくなかったのだろう。


すごく昔の話だが、すごくすきだったおばあさん。

別に特に優しかったわけでもない。

なぜだろう?

血が引いていたからかもしれない。



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父親と蛍の思い出

2023年07月25日 22時02分37秒 | 子供の頃の思い出
テレビでドラマを見ていた。

蛍がたくさん舞っている画面に変わった。

蛍の舞っているのを見て、

子どものころを思い出した。



私が5歳か、6歳のころだったと思う。

夜、父親が蛍をとりに行こうと、田んぼに連れていかれた。


家から歩いて20分くらいある、山際の田んぼだった。

田舎なので、暗かった。


私は暗いので嫌だったけれど、

田んぼには蛍が舞っていた。

そんなたくさんはいなっかったと思う。


父親が蛍をとりに行っているあいだ、私は暗い田んぼのあぜ道で待っていた。


どのくらい待ったか覚えていないが、父親が蛍を虫かごに入れて持ってきた。

虫かごの中で蛍が光をだして舞っていた。



今思うと、懐かしい。


父親は物心つく頃から、どこに行くのにも私を連れて行った。

とてもかわいがってくれた。


当時は当たり前に思っていたけれど、

今思うと、えらい人だったなあと思う。


私も大人になって子供ができたけれど、

とても父親のような真似はできなかった。


以前も書いたと思うが父親は実の父親ではない。

欠点もいろいろあったけれど、

私をとてもかわいがってくれたことは感謝している。



父親が亡くなって、もう44年になった・・・


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大好きだったひいおばあさんの思い出

2021年12月08日 23時13分49秒 | 子供の頃の思い出
私がまだ4歳~5歳くらいのことだ。

たま~に家に来てくれる、親戚のおばあさんがいた。

年は、今で言えば70歳近かったかったかもしれない。

昔の事なので、当時の70歳くらいの人は、すごく年寄りに思えた。


私はそのおばあさんが大好きだった。

親戚のおばあさんだったけれど、どういう親戚かは当然わからなかった。


おばあさんは私がとても懐くので、時々は寄ってくれたが、本当はあまり寄りたい家ではなかったのだと後で思った。

おばあさんの目的は、我が家のちょっと先にある、おばあさんの娘の嫁ぎ先に行くことだった。

そこにはおばあさんの孫が3人いた。


後でわかったのだけれど、

私の家との関係は、おばあさんの孫が嫁いできたけれど、私を産んで離婚し、実家に帰っていたからだ。


人間関係を話すと、ややこしくなる。

私の育ての親には、子供がいなくて、一番下の弟に育ての母親の姪を連れて来て結婚させた。

姪と叔母だからうまくいくと思ったようだが、

私の育ての母親がわがまますぎて、姪は離婚し出て行った。

生まれた私は兄夫婦の養子になったのだそうだ。



私が大好きだったおばあさんは、ひいばあさんだった。

理由はなく、好きだった。

これは血のつながりなのかもしれない。


ひいおばあさんからすれば、孫が離婚した家には来たくないはずだろう。

けれど、私がいつもおばあさん、おばあさんと懐くので、寄ってくれたのだと思う。


実際のおばあさんより、好きだった。

理由なく心が惹かれた。

今考えても不思議だなと思う。



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「お釣りはいりません」~子どもの頃の思い出

2021年11月04日 15時05分24秒 | 子供の頃の思い出
私がまだ小学校4~5年生の頃だと思う。


時代は1960年くらいだったと思う。

(不確かなので・・・)


何かの帰り、最寄駅からバスで家に帰るときのことだった。

夜だからバスに乗ったのであり、昼間は当然バスには乗らないで歩いていた。


当時のバスはまだ若い女の人の所掌さんが乗っていた。


家の近くのバス停で降りるとき、

近所のお兄さんもいつも一緒に降りた。

年は私より10歳以上、上だったと思う。

顔は知っていたけれど、話はしたことはなかった。


当時、私の住んでいた郡内地方は織物業が盛んだった。

我が家は農家だけだったけれど、

機や(はたや)さんの家が多くて、

機(はた)を織る機械の音がガシャ、ゴショ、ガシャ、ゴショととてもうるさかった。


近所のそのお兄さんの家は、大きなはたやさんの家で、

女工さんを何人も使っている大店(おおだな)だった。



・・・前置きはそのくらいで・・・


バスを降りるとき、

そのお兄さんはバスに乗車賃を入れるとき、

いつも「釣りはいらない」と言って降りていた。


私はその人の後でバスを降りるのだが、

お釣りはももらってはいけないのだろうか?

と、思ってしまった。


私は当然お釣りはもらいたい!


次の日にまたバスで一緒になった。

近所のお兄さんの後で降りたとき、

「お釣りはいりません」と私も言ってしまった。


一瞬車掌さんはびっくりした顔をして私を見た。

子どもなのにと思ったに違いない。

けれどそのまま何も言わなかった。


後になって考えてみると、

私もバカをしたよなと思った。


お釣りはいらないどころか、

お釣りは当然ほしい。

当時、我が家はそれほど豊かな生活をしていなかった。



あの近所のお兄さんは、大店の息子さんで、きっと女性の車掌さんの手前、恰好をつけていたのだろう。


思い出すと、今でも笑ってしまう。

子どもだったからわからなかった、バカな思い出です。


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子供の頃の話(回想)

2021年04月23日 12時28分49秒 | 子供の頃の思い出
もう何十年も前の、私が小学校2年生の時のことだった。


その頃、体が弱かったからかも知れないが、時々気持ちが悪くなる事があった。

運悪く、授業中にとても気持ちが悪くなってしまった。


どこが痛いと言うわけではない。

ただ気分が悪くていられなくなったのだ。


そこで、まだ若い担任の女の教師にそのことを言った。

「気持ちが悪い」と言うと、その教師は、「どこが痛いのだ?」とばかり、しつこく聞いた。

私はどこかが痛いのではなく、気持ちが悪いのだけれど、その事がうまく言えなかった。


その教師は、しつこいように何度も、「お腹が痛いのか?」、「頭が痛いのか?」、そんな事ばかり聞いてきた。


あまりにも困ったので、多分適当に「お腹が痛い」といったと思う。


それで顔色も悪かったらしく、家に連れて帰ってくれた。


家で、母に「気持ちが悪い」と話すと、その教師は怒った顔で、「お腹が痛いと言ったじゃないの」と言った。


あの教師は「気持ちが悪い」のと、「痛い」のと、意味が分らなかったのだろうか?


私が子供でなければ、人間には痛いだけではなく、気持ちが悪くて具合が悪くなるということもありうるのだと、よく教えてあげたかった。


今でも忘れられない出来事である。


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子どものころ出会ったおばあさんの一言

2019年12月22日 16時10分16秒 | 子供の頃の思い出
私がまだ子供のころ、多分小学校高学年だったと思うけれど、
50年以上前の話です。



私はどこかに行く途中で、道端で腰かけて休んでいた、ある一人のおばあさんに出会いました。

家は近くではなかったけれど、田舎なので、どこのおばあさんか知っていました。

そこの家には私の同級生もいました。


はっきり言って、はたから見ても決して裕福な家ではなかったと思います。


そのおばあさんの年は、そうだよね、70代半ばにはなっていたと思う。

家は集落の上の方だったので、坂道を下から歩いていくのには休まなければ歩けなかったのだと思います。


おばあさんは、近くにいたおばさんと話をしていました。


その聞こえて来た話が今でも印象に残っています。


「わしゃ~ね、毎朝起きると東に向かい、お天道様に手を合わせて、無事に生きていられて幸せだとお礼を言うだよ」

「生きていてありがたいことだなぁと思うよ」



けれど、まだ子供だった私はその意味が理解できなかった。

とても幸せそうな環境には思えなかったから・・・



おばあさんの家ははっきり言って貧しい家だったと思います。

それにお嫁さんは病気ですでに亡くなっていた。

お嫁さんというのは私の同級生のお母さんのことだ。

何歳くらいで亡くなったのかな?

昔のことで老けて見えていたけれど、まだ40代くらいだったかもしれない。


お嫁さんも亡くなって、おばあさんは決して楽ではなかったはずだ。


けれど、毎朝太陽に向かって手を合わせて、無事に生きていることを感謝している。





今思うと、あのおばあさんは人間のできたすごい人だったんだなと思う。




50年以上経った今でも、その時のおばあさんの話している横顔が思い出されます。


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山の神様がくれた飴

2015年05月27日 10時03分38秒 | 子供の頃の思い出
私が子供の頃の思い出です。

もう60年近く前の話です。


私がまだ4歳か5歳くらいだったと思います。

普通の父親より高齢だった私の父親は、私をとてもかわいがってくれました。

どこへ行くのにも私を一緒に連れて行ってくれました。



我が家は当時農家でした。

父親は毎日畑に出ていました。

農繁期には、時々知り合いのおじさんに畑仕事を手伝ってもらっていました。




我が家の庭の隅には山の神様が祀られていました。

当時は今とは違って、まだ食料が裕福ではありませんでした。


山の神様には毎日のように飴が置かれていました。

小さな私は神様のところに置かれていた飴をもらってくるのが楽しみでした。



父親は「山の神様が咲が良い子だから飴をくれたんだよ」

と、いつも言っていました。

私はその言葉をそのまま信じていました。



ある日、野良仕事を終えた父親と、手伝ってくれていた知り合いのおじさんが休憩のお茶を軒先で飲んでいました。


私は山の神様のところに、今日も飴があるだろうかと見に行きました。

山の神様に近づくと、祠の後ろから小さな男の人が飴を担いでくるところでした。

飴をいつもの場所に置いて祠の後ろに戻ろうとしたので、私がお礼のお辞儀をしました。

すると、その小さな男の人は(背の高さは6~7センチくらいだったと思います)戻って来て、私にお辞儀をしてくれました。

私は、この男の人が「山の神様」だったんだと思いました。



祠の前に置かれた飴を持って、お茶をのんでいた父親とおじさんに神様が飴を持ってきてくれた事を話しました。

私の話を聞くと、二人はなぜか笑い出しました。

なぜ笑うのだろうと、私はその時不思議に思ったものです。




今でも山の神様が飴を肩に担いで来た様子を、はっきりと思い出すことが出来ます。

背丈は6~7センチくらいの小さな男性で、今思うと30代くらいに見えました。

とても優しい感じの人でした。



・・・・私は子供の頃、山の神様に逢いました。・・・・


夢ではありません。

本当に山の神様を見たのです。




今でも祠は庭の隅に祀られています。

祠を見るたびに、その時のことを思い出します。




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子供の頃の話

2009年01月03日 22時24分45秒 | 子供の頃の思い出
もう何十年も前の、私が小学校2年生の時のことだった。

その頃、体が弱かったからかも知れないが、時々気持ちが悪くなる事があった。

運悪く、授業中にとても気持ちが悪くなってしまった。

どこが痛いと言うわけではない。
ただ気分が悪くていられなくなったのだ。

そこで、まだ若い担任の女の教師にそのことを言った。
「気持ちが悪い」と言うと、その教師は、「どこが痛いのだ?」とばかり、しつこく聞いた。
私はどこかが痛いのではなく、気持ちが悪いのだけれど、その事がうまく言えなかった。

その教師は、しつこいように何度も、「お腹が痛いのか?」、「頭が痛いのか?」、そんな事ばかり聞いてきた。

あまりにも困ったので、多分適当に「お腹が痛い」といったと思う。

それで顔色も悪かったらしく、家に連れて帰ってくれた。
家で、母に「気持ちが悪い」と話すと、その教師は怒った顔で、「お腹が痛いと言ったじゃないの」と言った。

あの教師は「気持ちが悪い」のと、「痛い」のと、意味が分らなかったのだろうか

私が子供でなければ、人間には痛いだけではなく、気持ちが悪くて具合が悪くなるということもありうるのだと、よく教えてあげたかった。

今でも忘れられない出来事である。


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まり(猫)のひげ

2008年06月20日 22時57分58秒 | 子供の頃の思い出
子供の頃、まりのひげを切ってしまったことがある。

まりのひげを見ていたら、無性に切りたい衝動にかられて、つい鋏で根元から切ってしまった。

どっちの親だったか忘れたが、随分と怒られた。

それは当然だよね・・・

後で、ものが分かるようになってから知った事だけれど、猫のひげには大事な役割があったそうだから。

確かひげの長さで、穴をくぐれるかどうか判断するのだと聞いた。

あの時、ひげを切られたまりは困っただろうなあ・・・

子供だったとはいえ、随分ひどい事をしてしまったと思う。

それでも、しばらくしてから、ひげは元に伸びてきた。

よかった~

それにしても、ひげの無いまりは面白い顔だった・・・

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猫のマリの思い出

2008年06月13日 15時40分41秒 | 子供の頃の思い出
私が子供の頃、家ではマリという名前のメスの三毛猫を飼っていた。

今から50年以上前の話である。

私が多分4~5歳くらいの時に、お祖父さんが近くの知り合いから子猫をもらって来た事を覚えている。

当時は農家だったので、ねずみが出ないように飼ったのだと思う。

私には兄弟がいなかったので、マリが友達だった。

今思うと、マリは頭の良い猫だった。

良くねずみも取った。

昔の事だったので、当然避妊手術はしてなかったから、年に何度か子猫を産んだ。

お腹が大きくなってお産の頃になると、必ず私にお産する場所を教えてくれた。

生まれた子猫はかわいかった。

けれど、私が知らないうちに、いつの間にかいなくなっていた。

私の親が猫を欲しい人にあげたり、後は捨てていたのだと思う。

子供だからそこまでは分からなかった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ある時マリのお腹が大きくなっていたのに、私はいつものように、マリを抱いたり負ぶったりして、遊んでいた。

何日か経って、マリは物置で死んでいた。

母親がマリが死んだと教えてくれた時、マリはもうすでに冷たくて固くなっていた。

私が大きいお腹のマリを乱暴に扱い過ぎて死なせてしまったのだと思う。

後になって、物の判断が出来るようになってから分かった・・・

かわいそうなことをしてしまったと思う。

私の大事な友達のマリ、「本当にごめんね」としか言えない・・・

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