主体性を持つ、自主性がある、いずれも日本人にない、見られないことが多々あるというようなことを議論することが行われる。日本語の打消し、ない という語は、あるという状態を前提にする。したがって、主体性また自主性がないという議論には、もともと日本人は主体性を持つ、日本人は自主性があるという議論から出発している。その語法だけで、あるか、ないか、つねに日本人の本性としては、その議論を取り込むことを可能にしてきた。が、主体性と自主性と、それはまた視点の捉え方によってわかることがらである。主体とは何であったか、それが日本人の志向に常にあるものであったが、それを対象とする、あるいは議論の前提におこうとする主体と客体に、その双方に視点が置かれることのない絶対存在を考える捉え方の議論と、その主体の議論は日本人には会わない。そこにあるのは誰もが主体であり、客体であるという、そもそもの視点の移動である。したがってまた、自主性はそれをいずれにも置いてみるので、個が主となっていても、客である個がまた主体でもあるから、日本人はそれぞれの個に主体性が現れ、そこに自主性が生まれるのである。
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