文法、句法と並べるのは、日本語でその名のとおりの法則があるからである。加えて、文章法というのがある。なかでわかりよいが、実際には捉えにくくなってしまったのは句法である。学習の機会がなくなってきたので、すぐにも答えられないようになってきている漢文の句法がある。漢文句形とも。それで、辞書義に、詩歌、俳句、文章において、句や文を組み立てる際の言葉の決まり と見えるところに、漢文の重要句法というふうに用いた漢語漢文の説明がない。
青空文庫用例>
・・・〔『日本』明治三十二年三月三十日〕 曙覧が客観的景象を詠ずるは、新材料を入れたることにおいて、新趣味を捉えしことにおいて、『万葉』より一歩を進めたるとともに、新言語新句法を用いしことにおいて、一般歌人よりは自在に言いこなすことを・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・この間に立ちて形式の簡単なる俳句はかえって和歌よりも複雑なる意匠を現わさんとして漢語を借り来たり佶屈なる直訳的句法をさえ用いたりしも、そは一時の現象たるにとどまり、古池の句はついに俳句の本尊として崇拝せらるるに至れり。古池の句は足引の山鳥の・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・格堂の句は旨い事は実に旨いものであるが、その句法が一本筋であるだけにいくらか変化に乏しい処がある。 このほか鳴雪、四方太、紅緑、等諸氏の句については近来見る処が少ないのでわざと評を省いて置く。〔『ホトトギス』第五巻第八号 明治3・・・ 正岡子規 「病牀苦語」
「句法」と呼んだときの「句」というのは、橋本文法における「文節」概念とかなり近いように感じます。
(「おまいはそんなにラーメンと餃子が好きなのか?」と言われそうですが)「〔ラーメンと餃子〕を」という表現があったときに、「句」として「〔ラーメンと餃子〕」を立てたくなるのが …… なんでしょうね。松下文法だったらそういう区分は立てないだろうし、山田文法とはちょっと違うと思うんですが、橋本文法的な立場からすると、「〔ラーメンと餃子〕を」で一文節だし、それが「句」だという解釈だと思います。
「書いてしまった」だと「書いて」「しまった」で二文節というふうになりそうですが(いや、橋本進吉先生がそう思っていたという話ではなくて、いわゆる「学校文法」だとそうなってしまいそうです)、「書いちゃった」を中学生が「書いちゃ」「った」で二文節、とは分けなさそうな気がするんですよ。「ネ・サ・ヨ」でいうと「書いちゃった」で一文節です。そこにツッコミを入れると松下文法の「原辞(形態素)」の話になるし、大槻文法だと「書いちゃう」を一つの語として立てることもままならない。
それを思うと、「句法」と呼ぶときの「句」以外に、なにかしら「もっと粒度の小さい、『句』にあたるもの」について命名するか、「句法」と呼んだ時の「句」に、なにかしら別の名称を与えるというのが良いのではないかと思います。
とはいえ、それが国語教科書に反映されるころには私は生きていないだろうなぁ、とは思いますが。
文節について、例文は次のようですね。
>おまいは|そんなに||ラーメンと|餃子が||好きなのか |文節| ||連文節||
連文節は、好きなの(=こと)、この形式体言の語にかかりますが、そんなに を受けてもいます。
||そんなに||ラーメンと餃子が||好きなのか||
この全体に、おまいは がかかります。
[おまいは|||そんなに||ラーメンと餃子が||好きなのか|||]
文節は文のなかで働く単位です。
ラーメンと餃子 となると、連文節であっても、文から取り出せば、語の扱いですね。
連文節も文節ですから、文に働きます。
松下学説は、連詞という分析をしています。
句というのは、英文の影響で、phraseというとらえかたに、成句、慣用句と、現代語でイメージしますね。そこで、または漢文重要句法という句法が何かを想い合わせます。