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ごつごつざじょう

2017-04-09 | 新語・社会現象語
兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。――兀兀と動かざること、巌のように不動のかたちで坐し、箇の不思量底を思量せよ。道元禅師 普勧坐禅儀  http://www.geocities.jp/sybrma/235.5hukanzazengi.yaku2.html 兀字は、たかい、山などが高くつきでているさま、また、高くて上が平らなさま。あるいは、木がないさま、はげたさま、動かないさま、である。そして、一心に物事にうちこむさま、というのと、あしきる、足斬りの刑罰と、意味がある。
kanji.jitenon.jp/kanjig/3147.html 漢字辞典オンラインより。

さて、座禅のしかたである。

>ふかん ざぜんぎ  
尋常(よのつね)坐處(ざしょ)には厚く坐物(ざもつ)を敷き、上に蒲団(ふとん)を用う。或は結跏趺坐(けっかふざ)或は半跏趺坐(はんかふざ)。謂(いわ)く結跏趺坐は先ず右の足を以て左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿(もも)の上に安ず。 半跏趺坐は但だ左の足を以て右の腿(もも)を圧(お)すなり。
寛(ゆる)く衣帯(えたい)を繋(か)けて斉整(せいせい)なら令(し)むべし。次に右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌の上に安(あん)じ両(りょう)の大拇指(だいぼし)面(むか)いて相(あい)?(さそ)う。 乃(すなわち)ち正身(しょうしん)端坐(たんざ)して左に側(そばだ)ち右に傾き前に躬(くぐま)り後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌上の顎(あぎと)に掛けて唇歯(しんし)相著(あいつ)け、目は須らく常に開くべし。
鼻息(びそく)微(かすか)かに通じ、身相(しんそう)既に調えて欠気(かんき)一息(いっそく)し、左右揺振(ようしん)して兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底(ふしりょうてい)を思量せよ。不思量底如何(いかん)が思量せん。 非思量(ひしりょう)。此れ乃ち坐禅の要術なり。 
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-504.htm


http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%85%80

漢字として

Unicode
U+5140
JIS X 0213
1-49-26
部首
儿部
画数
3画
意味・字形
〔説文解字〕には「高して上平らかなるなり。人の上に一在るに從ふ」とあり、儿の上に一を置く指事で、地形のことをいうとしている。白川静は、髪の毛を剃り落とした頭の側面の象形だとする。髟に兀を組み合わせた髠という字は髪の毛を剃り落とす刑罰という意味である。また正面から見た象形が而であるという。
刖(ゲツ、足切りの刑)と音が通じて足切りの意味も持つ。
音訓
音読みはコツ、ゴツ、訓読みは、はげる。
規格・区分
常用漢字ではない。JIS X 0213第二水準。
声符
兀を声符とする漢字には、㐳、扤、阢、杌、髠、などがある。虺は一見、兀を含むが別の字であるらしい。
語彙
兀首・兀然・兀秃・兀楞楞


http://www.geocities.jp/sybrma/index.html
小さな資料室
http://www.geocities.jp/sybrma/235.5hukanzazengi.yaku2.html

道元禅師    普 勧 坐 禅 儀 (訓読と現代語訳) 
  序分(序論)

(訓読)
原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通(どうもとえんづう)、いかでか修証(しゅしょう)を仮(か)らん。宗乗自在(しゅうじょうじざい)、なんぞ功夫(くふう)を費(ついや)さん。いわんや、全体はるかに塵埃(じんない)を出(い)づ、たれか払拭(ほっしき)の手段を信ぜん。おおよそ当処(とうじょ)を離れず、あに修行の脚頭(きゃくとう)を用うるものならんや。然(しか)れども、毫釐(ごうり)も差(しゃ)あれば、天地はるかに隔(へだた)り、違順わずかに起れば、紛然(ふんぜん)として心を(しんの)失す。たとい、会(え)に誇り、悟(ご)に豐かにして、瞥地(べっち)の智通(ちづう)を獲(え)、道(どう)を得(え)、心を(しんの)明らめて、衝天(しょうてん)の志気(しいき)を挙(こ)し、入頭(にゅっとう)の辺量に逍遥(しょうよう)すといえども、ほとんど、出身の活路(かつろ)を虧闕(きけつ)す。いわんや、かの祇園(ぎおん)の生知(しょうち)たる、端坐(たんざ)六年の蹤跡(しょうせき)見つべし。少林の心印を伝うる、面壁九歳(めんぺきくさい)の声名(しょうみょう)なお聞こゆ。古聖(こしょう)すでに然(しか)り、今人(こんじん)なんぞ弁ぜざる。ゆえに、須(すべから)く言(こと)を尋ね、語(ご)を逐(お)うの解行(げぎょう)を休すべし。須(すべから)く、回光返照(えこうへんしょう)の退歩(たいほ)を学すべし。身心(しんじん)自然(じねん)に脱落(だつらく)して、本来の面目(めんもく)現前(げんぜん)せん。恁麼(いんも)の事(じ)を得んと欲(ほっ)せば、急(きゅう)に恁麼(いんも)の事(じ)を務(つと)めよ。

(現代語訳)
 たずねみるに、仏道とは、まっすぐ只管打坐する、ただそのままの仏のいのち現成であり、本来あらゆるところにまどかに通達していて妙用自在の絶対の真実である。修行ということで、さとりをことさら求める必要がどうしてあろうか。
 まさしく嗣法せられた坐禅、まさしく相承せられた宗旨、まさしく嗣続せられた宗乗であって、何の支障(さわり)もなく心覆い滞ることなく、自在に功夫は重ねられる。
 いわんやこの真実の全体は、無常現成のいのち存在なるゆえ、坐禅が絶対の真実そのもので在り得ている。まさにこの尽十方界真実人体は、はるかに迷いの世界を超出している。一体、妄想・迷情を払拭する手段(てだて)などを誰が信じよう。
 而今(にこん)、まさにいま結跏趺坐する坐蒲上の当処は、眼のあたり現前の仏のいのち現成なるゆえに、この事実を離れて、どうして修行の行脚を用いる者があろうか。
 そうではありながら、毫釐(ごくわずか)も違いがあると、理に叶った端坐依行が天地の隔たりほどとなり、心に違順がわずかに起これば、たちまちに紛然として明心を失ってしまう。たとい道を会得して誇り、悟りの豊かさによってわずかばかり仏法に通達し、道を得て仏心を明らかにしたと天をも衝かんばかりに志気を挙げ、たといそれが真実悟境の辺(あた)りの逍遥であったとしても、その境をも解脱し自由自在、身心脱落の生き生きとした無上のいのちはたらきの全現成には、それこそほとんど欠けるところなのである。
 ましてや彼(か)の、生まれながらに生を明らめ、死を明らめられたる聖者、釈尊が難行苦行せられ、さらに菩提樹下に端坐六年、只管に行じられたあとかたをこそ、明らめるべきであろう。また、正しい禅の仏法を中国に伝えられた第一の祖師、達磨尊者が、少林寺にあって九年面壁、坐禅しつづけられた。この尊い伝えは、今になお声名が聞こえるではないか。
 このように、古(いにしえ)の聖者でさえ、すでにそのように修行せられた。正(まさ)しく法を継ぐべき今人が参禅弁道せずということが、どうしてあってよかろうか。それゆえに、ことばでもって探し索(もと)め解するのを、まず休(や)めねばならぬ。なすべきは、対象に向かう心を返して、自己の本来のところに返照(てら)される只管(ただ)打坐である。
 身心は自然(じねん)に脱落し、もとより真実そなわれる本来の面目は、たちまち現前するであろう。
 恁麼(このよう)な真実、身心脱落なることあらんとするなら、一刻の猶予なく恁麼(このよう)な真実修行の打坐につとめよ。

 
  正宗分(本論)

(訓読)
 夫(そ)れ、参禅は、静室(じょうしつ)宜(よろ)しく、飲食(おんじき)節(せつ)あり。諸縁を放捨(ほうしゃ)し、万事(ばんじ)を休息して、善悪(ぜんなく)を思わず、是非を管(かん)することなかれ。心意識(しんいしき)の運転(うんでん)を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(さぶっと)図(はか)ることなかれ。あに坐臥(ざが)に拘(かか)わらんや。
 尋常(よのつね)、坐処(ざしょ)には厚く坐物を(ざもっと)敷き、上に蒲団(ふとん)を用う。あるいは結跏趺坐(けっかふざ)、あるいは半跏趺坐(はんかふざ)。いわく、結跏趺坐は、まず、右の足をもって左の腿(もも)※の上に安(あん)じ、左の足を、右の腿(もも)の上に安ず。半跏趺坐は、ただ、左の足をもって、右の腿(もも)を圧(お)すなり。寛(ゆる)く衣帯(いたい)を繋(か)けて、斉整(せいせい)ならしむべし。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌(たなごころ)を右の掌(たなごころ)の上に安ず。両(りょう)の大拇指(だいぼし)、面(むか)ひて相拄(あいさそ)う。
 乃(すなわ)ち正身端坐(しょうしんたんざ)して、左に側(そばだ)ち、右に傾(かたむ)き、前に躬(くぐま)り、後(しりえ)に仰ぐことを得ざれ。耳と肩と対し、鼻と臍(ほぞ)と対せしめんことを要す。舌、上の顎(あぎと)に掛けて、唇齒(しんし)相著(あいつ)け、目は、須(すべから)く常に開くべし。鼻息(びそく)微(かすか)に通じ、身相(しんそう)既(すで)に調(ととの)えて、欠気一息(かんきいっそく)し、左右搖振(さゆうようしん)して、兀兀(ごつごつ)として坐定(ざじょう)して、箇(こ)の不思量底を思量せよ。不思量底、如何(いかん)が思量せん。非思量。これ乃(すなわ)ち坐禅の要術なり。
 いわゆる坐禅は、習禅にはあらず。ただこれ安楽の法門なり。菩提を究尽(ぐうじん)するの修証(しゅしょう)なり。公案現成(こうあんげんじょう)、羅籠(らろう)いまだ到らず。もし、この意を得ば、龍の水を得(う)るがごとく、虎の山に靠(よ)るに似たり。当(まさ)に知るべし、正法(しょうぼう)自(おのずか)ら現前(げんぜん)し、昏散(こんさん)まず撲落(ぼくらく)することを。もし、坐より立たば、徐徐(じょじょ)として身を動かし、安祥(あんしょう)として起つべし。卒暴(そつぼう)なるべからず。

※ 左の腿(もも)・右の腿(もも)……この「腿」の漢字は、原文は
          「月+(「比」の下に「土」)」の字で、音ヒ、もも
          (腿・股)の意。

(現代語訳)
 さて、坐禅するには、静かなところがよろしい。飲食の量は節度が大切である。種々の縁(とらわれ)を放って、心ゆるやかにして静かならしめ、万事のいとなみを休息(とりや)め、善悪是非の分別にかかずらわない。心がはたらき動くのを停(や)め、一切思量をめぐらすことなく、また仏に成ろうと図ってはならない。
 作仏は、迷妄の日常生活の上の坐臥に拘わるものでなく、「坐臥を脱落すべし」である。
 通常、不断に坐禅する処には、厚く敷物を敷き、その上に坐蒲(ざふ)を置いて坐る。
 坐法は結跏趺坐、あるいは半跏趺坐がある。結跏趺坐は、まず右の足を左の腿(もも)の上に安じ、左の足を右の腿の上に安(お)く。半跏趺坐は、ただ左の足を右の腿の上に圧(お)く。袈裟のひもはゆるめにし、衣服のかたちはきちんと整えるようにせよ。次に、右の手を左の足の上に安じ、左の掌を右の掌の上に安じ、両手の大拇指(おやゆび)の先をそっとつけ合わせて円い相(すがた)(定印)を作る。そのまま正身端坐する。
 左にかしいだり、右に傾いたり、前屈(かが)みになったり後にそりかえったりしてはならない。かならず両耳と両肩とが対し、鼻と臍とが向かい合うようにせよ。舌は上あごにつけ、唇も歯もきちんと合わせる。目はかならず常に開くようにせよ。
 出息入息は、鼻でごく自然に寂(しず)かにせよ。からだのかたちを整えたら、口を開き息を長く大きく吐き、体を左右にゆっくり揺り動かす。兀兀と動かざること、巌のように不動のかたちで坐し、箇の不思量底を思量せよ。不思量底で、どう思量なのであろう。思量はない。超出しきっている。ありとあらゆるものは非思量。人間界の是非、善悪等の思量分別を脱落し、ただ打坐のみである。
 不思量に止(とど)まり居る処のみを任運に、そのまま不思量底であるところ、本来の相としての非思量に在る。これが、まさに坐禅の要術である。
 坐禅は、禅定に習熟することではない。ただ本来おちつくべきところにおちつく、この上ない安楽の法門(おしえ)である。究めつくしている仏のいのちはたらきそのまま、すなわち、修行即実証(さとり)の相(かたち)である。
 現にあるあらゆるものが、普遍的なはたらきの事実になりきっている。いのちとしてかけがえのない絶対の真実そのものの現成である。この打坐即ちいのち現成にあって、身や心の安らぎ・自由をさえぎるもの(煩悩・妄想)は到ることがない。もしこの意を得てそのまま打坐となれば、龍が水を得たように、虎が山に依るように、まさに本来の有りっ丈(たけ)の在(あ)り相(すがた)であろう。当(まさ)に知るべきである、仏のいのちあらわれ、おのずからに現成し、昏沈(くらくしずみ)散乱する心は、先より脱落(もぬけ)していて、尽十方界真実の現前であることを。
 もし坐を解いて立とうとするには、ゆるやかに上体を動かし、安らかによく気をつけて起(た)ち、荒々しいふるまいをしてはならない。


  流通分(結論)

(訓読)
 嘗(かつ)て観(み)る、超凡越聖(ちょうぼんおっしょう)、坐脱立亡(ざだつりゅうぼう)も、この力(ちから)に一任することを。いわんや、また、指竿針鎚(しかんしんつい)を拈(ねん)ずるの転機(てんき)、仏拳棒喝を(ほっけんぼうかっと)挙(こ)するの証契(しょうかい)も、未(いま)だこれ思量分別(しりょうふんべつ)の能く解(げ)するところにあらず。
 あに、神通修証(じんづうしゅしょう)の能く知るところとせんや。声色(しょうしき)の外(ほか)の威儀(いいぎ)たるべし。なんぞ知見(ちけん)の前(さき)の軌則(きそく)にあらざるものならんや。
 然(しか)れば則(すなわ)ち、上智下愚(じょうちかぐ)を論ぜず、利人鈍者(りじんどんしゃ)を簡(えら)ぶことなかれ。専一(せんいつ)に功夫(くふう)せば、正(まさ)にこれ弁道(べんどう)なり。修証(しゅしょう)自(おのずか)ら染汙(ぜんな)せず、趣向(しゅこう)更にこれ平常(びょうじょう)なるものなり。凡(およ)そ夫(そ)れ、自界他方(じかいたほう)、西天東地(さいてんとうち)、等(ひと)しく仏印(ぶっちん)を持(じ)し、もっぱら宗風(しゅうふう)を擅(ほしいまま)にす。ただ打坐(たざ)を務(つと)めて、兀地(ごっち)に礙(さ)えらる。万別千差(ばんべつせんしゃ)というといえども、祗管(しかん)に参禅弁道すべし。
 なんぞ自家(じけ)の坐牀(ざしょう)を抛却(ほうきゃく)して、みだりに他国の塵境(じんきょう)に去来(きょらい)せん。もし一歩を錯(あやま)れば、当面(とうめん)に蹉過(しゃか)す。既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり、虚(むな)しく光陰を度(わた)ることなかれ。仏道の要機(ようき)を保任(ほにん)す、誰(たれ)かみだりに石火(せっか)を楽(たのし)まん。しかのみならず、形質は(ぎょうしった)草露(そうろ)のごとく、運命は電光に似たり。倐忽(しゅくこつ)として便(すなわ)ち空(くう)じ、須臾(しゅゆ)に即ち失(しっ)す。冀(こいねがわ)くは、其れ参学の高流(こうる)、久しく摸象(もぞう)に習って、真龍(しんりゅう)を怪(あやし)むことなかれ。直指端的(じきしたんてき)の道(どう)に精進(しょうじん)し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そんき)し、仏仏の菩提(ぼだい)に合沓(がっとう)し、祖祖の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久しく恁麼(いんも)なることを為(な)さば、須(すべから)くこれ恁麼(いんも)なるべし。
 宝蔵自(おのずか)ら開(ひら)けて、受用(じよう)如意(にょい)ならん。

(現代語訳)
 凡夫は生死に流転し、聖者は生死を解脱するが、昔をよく観ると、この凡聖二つながら超越し、あるいは坐禅の相(かたち)のまま、あるいは立った姿のまま、寂然と涅槃に入るといった生死のあり方をみるのである。
 これは、すべて坐禅の力に一任されたからであった。そればかりでなく、指頭や竿頭を用い、あるいは鍼(はり)を把(と)り鎚(つち)を拈じて、知解分別を超え真実を悟らせる機微のはたらきとなし、さらに払子(ほっす)や拳頭(こぶし)をふるい、棒で打ち一喝(いっかつ)をあびせ、ピタリ真実にかなえさせたというはたらきは、すべて坐禅の力であった。決して思量や分別でうかがい知れるのではない。神通の修行やさとりでもって、よくわかろうはずのものでない。それは、感覚的な現実生活の外(ほか)の、正しい身の行住坐臥、その威儀というべきものである。知識とか認識とか言う以前の、理にかなった法則というべきものである。こういうことだから、賢いとか愚かとかは問題でなく、利人(りこう)か鈍感かは一切関わりがない。専一に力をつくす、ただ打坐のみの世界が修証一如であり、ここ自(おのずか)らにまったく染汚されることがない。自(おのずか)らに本来の面目、趣くところはどこまでもあたりまえの本来のあり方、平常心の行持になりきっていくばかりである。
 おおよそ、仏の現われとなるこの世界でも、別のあらゆる世界でも、また西はインド、東は中国・日本に至るすべての国土でも、等しく仏祖の印証を護持し、各々みな非思量なるこの打坐の、仏のいのち現成を、宗風として自在自由にほしいままに実証・体達している。ただ打坐をつとめ、兀兀と坐定して兀地だけに礙(さ)えぎられ、そのほかに一切なく、そのまま少しも離れない。まさに自受用三昧に安坐している。この自(おのずか)らの修証において、あるいは接化(みちびき)において千差万別さまざまであっても、ひたすらに坐禅し真実の道につとめるべきなのである。仏性の、自家としての自受用三昧・端坐弁道の坐位(僧堂の単)をなげうって、みだりに他国の塵境に迷い、離れようはずのない仏性の自己を見失ってしまうことが、どうしてあってよかろうか。
 もしこの初一歩をあやまると、目前の大道を踏みちがえてしまう。
 人はすでに受けがたき人身の、機(はたらき)の肝要(かなめ)が具わっている。
 人は、むなしく光陰をわたることがあってはならない。人は仏道のかなめの機(はたらき)を用い保ち、それこそ全うする器だからである。
 誰が一体、いたずらに生滅無常のこの日月をもって、あたら空しく楽しみをこととするであろう。そればかりではない。この肉体は草露のごとく、時運命数(めぐりゆくいのち)は稲光のごとく滅し去る。たちまちにして空に帰し、またたくまにして失し、畢(おわ)ってしまう。こいねがわくは、ひとえに貴い志をもて発心修証し、参禅学道におもむく方々よ、久しく彫龍を愛するところから、すすんで真龍を愛せよとの故事(※)のように、文字、知識の一端をもって真実仏祖正伝の全道を見紛(みまご)うてはならない。ことばや文字にわたらず、端的に指し示す兀坐それ自体に精進し、自受用三昧、安住の仏法に徹せられた方を尊貴し、諸仏の菩提(さとり)にぴたり合致するとともに、諸祖の坐禅三昧の正統を嫡嗣せよ。
 久しく恁麼(このとおりに)為すならば、必ず恁麼(そう)なるはずである。まさに宝蔵おのずからに開け、この上ない仏のいのちはたらきの全現成を自受用し他受用し、意のまま限りもないであろう。

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